◻️204の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、釈日研)

2020-01-31 22:38:36 | Weblog
204の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、釈日研)

 釈日研(しゃくにっけん、1858? ~1927)は、日蓮宗の僧侶だ。備前の妹尾町(現在の岡山市南区)の生まれ。当初には、野山の妙本寺の住職をしていた。しかし、日露戦争の後、身寄りのない貧困児童が多くなったのを見て、このままでは社会の不安は拭えないのを感じる。そこで、同寺を弟子に譲って、総社で院母の妙蓮尼(みょうれんに)と共に「釈尊修養院」という名前の孤児院を開院する。
 1915年(大正4年)頃までに、同院では百数十人の児童を育てており、1915年当時も数十人の児童が規則正しく暮らしていたというから、驚きだ。
 この施設の運営には、どう節約しても、それなりのカネがかかる。財源確保のため置き薬「備中売薬」を誕生させるなどして、なんとか事業を続けていたようだ。そして迎えた1936年(昭和11年)、施設からの出火で子どもの救出に向かうも、その当人である妙善尼(73)が亡くなり、この施設はやむなく閉鎖となる。
 現在は総社消防署から東へ歩いて2分ほどの田園の中に寄付者個人の名前が刻まれた石塔と石碑が残っている、という。珍しいところでは、岡山県賀陽町(吉備中央町)の妙仙寺の住職、藤井学舜は、修養院出身で釈日研の弟子になった人物だという。

(続く)

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♦️10の4『自然と人間の歴史・世界篇』太陽風と地球磁気圏、そしてオーロラ

2020-01-31 21:33:20 | Weblog
10の4『自然と人間の歴史・世界篇』太陽風と地球磁気圏、そしてオーロラ

 いつの頃からだろうか、太陽からは、光や熱だけでなく、太陽風も地球に降り注がれている。太陽風は、太陽の表面の爆発によって放出される、プラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている、いわば「流れ」だ。太陽風はプラズマといって、電子を手放した原子(プラスの電荷)と自由になった電子(マイナスの電荷)の集まりだ。
 この太陽風の源が、摂氏100万~1000万度もの高温のコロナ、それは太陽の外縁大気である。金環日食の時、直近の日本では、2015年年5月21日に起こったおりには、地球からゆらゆら揺れて見えるそのコロナから噴き出されている。この風だが、地球の辺りには、その間ほぼ遮られることなく到達するという。
 ところが、太陽風は、地球には直接ぶつからない。それというのも、この太陽風は、地球の磁場を横切ることができないという特性を持っている。だから、側面からは入ってこれない。一方、地球の北極や南極地方辺りには、光の粒となったプラズマが入っていくことができるという。
 あわせて、地球の磁場の影響を受けて、地球の裏側(夜側)に回り込む。すると、そこには、それまでに回りこんだプラズマがたまり続けている場所(プラズマだまり)があり、磁場が急激に変化する。そこのところについては、学者による論争があるようで、例えば、一般向けにこう説明されている。
 「筆者は、磁気圏はある量のエネルギーが貯えられると不安定になり、そのエネルギーを放出して安定になろうとすることがわかった。せれはゴムひもを引っ張るには限界があることに相当する(逆平行の磁場が消滅する必要はない)。磁場圏がそのエネルギーを放出することは、ゴムひもが元に跳ね返ることに相当する。」(赤祖父俊一「オーロラの新理論」、「天文ガイド」2013年8月号)
 
 
 この現象が起きると、爆発的にエネルギーを得たプラズマが地球に流れ込む。その場合、プラズマは磁場の方向(方位磁針が指し示す方向)にそって運動するので、地球の磁極(N極とS極)の周辺に流れ込む。このプラズマが地球の大気にぶつかると、大気中の窒素分子や酸素が刺激されて光を放つ、これがオーロラだ。
 なので、このプラズマを引き寄せる磁気の強い場所のうち、その時々の天候が安定しているカナダや北欧などでは、一年を通じてオーロラが観察できる場所が幾つかあるという。
 
 それというのも、「24時間オーロラが出続ける不思議な場所が世界で2所ある。北極のノルウェー領スバールパル諸島と南極点だ。この2カ所では、地磁気の軸と地球の自転軸とが微妙にずれていることでオーロラが見え続ける」(朝日新聞、2018年6月14日付け、BSプレミアム「コズミックフロント、NEXT」)との放映があったところだ。

 さて、太陽風に乗って地球にやってきた高エネルギーの電子が、この空気分子の電子と衝突し、空気分子の電子にエネルギーを与えることによって、空気分子に含まれる電子は、これまでの軌道より外側をまわるようになる、これを、「励起状態」という。とはいえ、この状態は空気分子にとって不安定なので、時間がたつと自然に元の軌道に戻る。このとき、2つの軌道のエネルギーの差の分だけ、光を放つ。
 では、オーロラはどうしていろいろな色で見えるのだろうか。もう一度いうと、電子の励起状態と戻った状態の2つの軌道のエネルギー差の分だけ、光が出る、このエネルギー差は出てくる光の強さではなく色に対応していて、エネルギー差が大きいと青色、中くらいだと緑色、エネルギー差が小さいと赤色に偏る。
 量子力学によると、電子がとることができる軌道のエネルギーは「飛び飛び」の値に決まっていて、どのエネルギーでもとりうる訳ではない。そういうことであるから、オーロラは、数多くの決まった色(輝線という)の組み合わせで光っている、それを観察者は眺めていることになる。 
 そんな私たちの好奇心を駆り立てるオーロラなのだが、人類を含めこの地球上の生命にとっては、それ以上の意味があるという。それをわかり易くいうには、例えば、地球の約半分の直径の火星の岩石は、地球のに比べて軽く、地場は元々弱かったことなどから、磁気圏が弱まっており、太陽風に晒され、大気を繋ぎ留めることができず、現在のような荒涼たる環境となってしまったとされる。


(続く)


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◻️211の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田鶴雲と高木聖鶴)

2020-01-31 08:52:20 | Weblog

211の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田鶴雲と高木聖鶴)

 内田鶴雲(うちだかくうん、1898~1978)は、勝田郡勝北町新野(現在の津山市新野山形)の生まれ。本名は、裕之という。いつの頃からだろうか、書道に傾倒したらしい。大原桂南、丹羽海鶴、伊原雲涯らに書道を学ぶ。

 1948年(昭和23年)には、日展に書が加わる。これにより、かなの書に大いなる変化が起こる。従来の巻子や帖を主体とする机上の芸術から、壁面にかけて多くの鑑賞者にいかに見せるかに作者の関心向かう。「見映え」のする形での作品が求められていく。
 かな作家たちは、それぞれ自慢の「大字かな」への模索していく。関西の書家がその先駆けをなす中で、内田鶴雲も、平安朝の古筆に学び、かなについてはたおやかで優美な線を追求していく。代表作としては、「水の変態」があるという。2008年度には、鶴雲生誕110年を記念し、遺墨53点と愛用の文具などが津山市に寄贈されたという。

 

 高木聖鶴(たかぎせいかく、1923~2017)は、岡山生まれ。本名郁太。1947年(昭和22年)には、内田鶴雲に学ぶ。中国や日本の古典を学び、元永本古今集の書風を身につけるが、、高度成長期になってからは、大字かな運動に参加する。
 中でも、大字にしての、かなと漢字の調和に努めるうち、みずからの書風を作っていく。
 日展参事、日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問、朝陽書道会会長、聖雲書道会主宰などを務める。書家にして文化勲章受章者となり、この国にて一派をつくったことになろうか。


(続く)


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◻️211の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原躬弦)

2020-01-31 08:48:22 | Weblog

211の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原躬弦)

 久原躬弦(くはらみのる、1855~1919)は、化学の研究者にして、教育家だ。久原洪哉の長男として津山で生まれる。幼少から蘭学の手ほどきを受け、14歳で箕作麟祥の神戸洋学校に入学する。やがて、東京に出て、箕作秋坪の三叉学舎に入る。
 翌1880年(明治3年)年には、津山藩の貢進生として大学南校に入学する。その在学中に、大学南校は開成学校、東京大学と称されることにより、躬弦は東京大学化学科を第1期生として卒業する。
 それからは、学究生活に入り、1879年(明治12年)には、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に留学する。帰国後は、東大教授、京都帝大教授、京都帝大総長を次々に歴任する。日本の理論有機化学の草分け的存在として、広く知られる。

(続く)

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◻️211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良と清田寂担) 

2020-01-31 08:45:52 | Weblog

211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

 久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。

 やがて、苫田郡(とまたぐん)の医師会の初代会長に就任する。そればかりか、1919年(大正8年)には、津山町西寺町大円寺境内に、診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれる。なお、彼の他に、津山市内で開業していた宮尾守治と宮城守治郎も参加してのことである。

 これの由来だが、1918年(大正7年)、津山町の天台宗大圓寺住職の清田寂担(きよたじゃくたん)が、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施するも1918年(大正7年)、津山町大圓寺住職清田寂担、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施。その悲惨な状況に驚嘆した結果、彼らの病を救うべく、無料診察事業の創設を発願。1919年(大正8年)大圓寺元三大師堂に「津山施療院」を設立。、彼らの病を救うことの大切に気づき、診察事業の創設を発願する。1919年(大正8年)には、同寺の元三大師堂に「津山施療院」を設立する。当面の資金には、伝教大師最澄千百年の遠忌にあたり募金で集まった浄財の1割を充てることにしたという。
 1922年(大正11年)になると、新たに児童健康相談部及び助産部を設ける。1923年(大正12年)になると、さらに施薬救療部、児童健康相談部、産院部、窮民救済部を開設する。1925年(大正14年)からは、岡山県より補助金を受ける。その精神と事業の幾らかは、戦後に社会福祉法人広済会に引き継がれていると聞く。

 これにあるように、この施設では、人民に奉仕する医療を目的する。貧しい人からは治療費をもらわないなど、地域の医療の発展に貢献していくのであるから、久原医師らの現場関係者の苦労は並大抵ではなかったのであろう。

(続く)

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◻️211の13『岡山の今昔』岡山人(20世紀、久原濤子)

2020-01-31 08:41:35 | Weblog

211の13『岡山の今昔』岡山人(20世紀、久原濤子)

 久原濤子(くはらなみこ、1906~1994)は、医師、久原茂良の4女として津山の二階町に生まれる。久原家は、初代甫雲から九代宗甫まで代々蘭方外科医として津山藩に仕える。1924年(大正13年)、津山高等女学校を卒業する。1929年(昭和4年)、東京へ行き、彫刻家の北村西望に学ぶ。

 1931年(昭和6年)には、帝国美術院展覧会に出品した「男の首」が女性として初入選を果たす。現在、この彫刻(頭身部分のみでできている)は、津山市郷土博物館(旧津山市役所、津山市山下にある)の玄関前の露天に設置されていて、間近で拝見すると、なかなかに鋭い表情をしている。以後、あれやこれやの対象を眺めては、精力的に創作を行う。
 1955年(昭和30年)には、師匠の北村西望の「長崎平和祈念像」製作に助手として参加する。1970年代半ばには、津山に帰郷。二階町の自宅で創作活動を続ける。

 そんな彼女の代表作と目されるのは、何であろうか。例えば、渋みのある面持ちをさらけ出している「箕作阮甫先生」胸像であろうか、それとも「わんていか」像(1975、津山市の児童公園)や「星座」像(1983、同市中央公園)、羽ばたき(1976、平塚市立花水小学校)といった子供たちの連帯感の溢れる作品群、もしくは様々なポーズで落ち着いた感じのする裸婦像を挙げるべきなのだろうか。


(続く)

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◻️211の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大村清一)

2020-01-31 08:37:34 | Weblog

211の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大村清一)

 大村清一(おおむらせいいち、1892~1968)は、保守派の政治家だ。
それに、日本国憲法の公布文に名前が残る一人としても知られる。
 1917年(大正6年)には、京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。内務省に入り、長野、神奈川県知事となる。長野県知事は、2度つとめる。地方、警保局長を経て、1939年(昭和14年)の阿部内閣の文部次官を務める。第19代東京市長の岸本綾夫の任期中(1942~1943にかけての一時期)には、その市長を支える助役にもなっていた。
 戦後は、1946年(昭和21年)の第1次吉田内閣にて、内務大臣を務める。内相となっては、新憲法下の参議院の構成、地方自治制度の創設などで連合軍司令部との交渉に当たる。
 憲法草案要綱には、「地方公共団体の長」につき、「当該地方公共団体の住民に於て直接之を選挙すべきこと」とあり、内務省は地方長官を県議会で選出する間接選挙の方法を採択する余地がないか総司令部と折衝を重ねるも、連合軍総司令部の受け入れるところとはならない。
 5月25日には、首長公選制を含む「府県制の一部を改正する法律案要綱」が閣議決定される。

 そして迎えた6月14日の地方長官会議の席上、内務大臣の大村は、「地方住民に直接参政の権利を与えて都長官、道長官、府県知事又は市町村長を直接選挙する」方針をいう。これを踏まえての府県制の一部を改正する法律案は、帝国憲法改正案と同じく第90回帝国議会において審議される。
 その議会においては、知事は公選とするがその身分は官吏(国家公務員)とするという原案に、憲法施行を機会に知事の身分を公吏(地方公務員)とする修正が行われる。かくて、府県制の一部を改正する法律は9月27日に公布される。

 この理由を、大村は、続く10月30日の地方長官会議において「地方行政改革が現行憲法(大日本帝国憲法)の下に於けるものであることと当時の社会情勢とに鑑み、公選知事の身分を官吏とすることを適当と考へたのでありますが、議会の審議中に、治安、食料等の情勢に緩和の徴が現われ、又一般の輿論が徹底せる地方分権を希望し」たためと説明し、理解を求めた模様だ。

 第1次吉田内閣の閣僚として、貴族院勅選議員に勅任されていた大村だが、1947年(昭和22年)の総選挙に、岡山から出馬して当選する。1954年(昭和29年)には、鳩山一郎らとともに民主党の結成に参加する。第1次鳩山内閣の防衛庁長官となり、初の「防衛力整備長期計画」を作成する。平和憲法の解釈では、憲法は自衛のための戦争を禁じていないとの答弁を繰り返す。他にも、日本林業協会長、相模女子大学長などもつとめる。

(続く)

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◻️138の3『岡山の今昔』蒜山高原(地形と地質)

2020-01-28 21:19:39 | Weblog
138の3『岡山の今昔』蒜山高原(地形と地質)

 蒜山(ひるぜん)といえば、西から東に向かって上蒜山、中蒜山、下蒜山と並んで「三座」を形成し、かつ、標高が少しずつ低くなる。これらの山々は、大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属している。
 そして、この蒜山三座の裾野に広がるのが、蒜山高原である。何人かの画家の筆によらずとも、万物への深い愛情が、この地に立つ人に万感に迫ってくるかのような、そんな不思議にして際立っての風景がここにあるのではないか。
 ところで、今から約数十万年前、蒜山高原の辺りは湖であったと考えられている。これを「古蒜山原湖(こひるぜんばらこ)」と呼ぶ。
 では、なぜそうなったのかというと、一説には、それまで日本海に流れていた水が、大山の噴火による火砕流(かさいりゅう)で堰(せき)とめられたことによるのだという。
 その湖の中には、当時珪藻(けいそう)という藻が棲息し、その死骸がだんだんに湖底に積もっていく、これがだんだんに堆積し珪藻土となっていく。
 かかる湖のその後については、これまた想像力を働かせなければならず、何らかの契機にて旭川水系の上流への浸食が蒜山まで達していったのではないか。その影響で、今度は瀬戸内海へと水が抜けはじめ、今の盆地になっていったのではないかと考えられている。

(続く) 

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◻️211の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、芦田高子)

2020-01-27 22:08:07 | Weblog

211の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、芦田高子)

 芦田高子(あしだたかこ、1907~1979)は、勝田郡勝北町(現在の津山市勝北)の生まれ。梅花女子専門学校を卒業する。

 1947年(昭和22年)には、歌誌「新歌人」を主宰する。晩年は金沢に住む。
 作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘(うちなだ)」が代表作だといえようか。他にも、歌集に「兼六園」「白き魔」など。


 これらのうち「内灘」というのは、1953年(昭和28年)、石川県金沢の内灘砂丘を接収し、米軍砲弾試射場にした政府、その計画に怒った村人や労働者・市民が反対の行動に立ち上がる。
 そんな中、6月に射撃訓練が始まると、これに抗して村民約700人が着弾地の権現森(ごんげんもり)に座り込む。昼夜分かたずの時もあったと伝わる、その後約4年にわたり「基地撤去闘争」が続く。

 その時、座り込みの中心になったのが「おかか様」と呼ばれる漁師の妻たち。これをニュースで知った芦田は、わざわざその現場に出かける。彼女たちと寝起きをともにしながら、抗議の座り込みにも加わりながらなのであろうか、歌を詠む。
 「午前九時試射始まれど射程延長させじと主婦ら座してゆるがず」、「砲弾に射たれ死なんといへる老婆の言終わらぬにみな声あげて泣く」
 津山を詠んだ歌としては、丹後山に歌碑があり、1980年11月の設置にして、「ふるさとをよぶこえにあふれいる時も晴れて静かなり春の大那岐」とある。

(続く)

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◻️211の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、川村 清一、川村多実二、川村邦三の「川村三兄弟」)

2020-01-27 21:48:26 | Weblog

211の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、川村 清一、川村多実二、川村邦三の「川村三兄弟」)

 まず、川村清一(かわむらせいいち、1881~1946)は、植物学者だ。東南条郡上之町(現在の津山市上之町)の生まれ。津山中学校から第三高等学校を経て、東京帝国大学理科大学に入学というコースというから、絵にかいたような順調さてあったことだろう。
 幼い頃から、植物に親しんでいたらしく、大学では植物学を専攻する。1906年(明治39年)に大学を卒業すると、その流れで菌類の研究に従事する。特にキノコや毒菌に興味をそそられたのであろうか、やがて、「キノコ博士」と呼ばれる。
 翌1907年(明治40年)には、岡山県北部に自生するトラフダケの成因を突き止める。その頃から、植物全般での希少種の保護を志す。社会にその機運をつくろうと、内務省に白井光太郎や松村任三、伊藤篤太郎といった植物学者と連名で「稀種保護の建白書」を提出する。天然記念物保存法の制定を志す、そのひたむきな眼差しは、自分の周りの人に対する優しさをも宿していたという。
 それゆえに、いわゆる「学者の気難しさ」とは、無縁であったらしい。のち千葉高等園芸学校教授を長く務め、日本菌類学の草分けの一人に数えられる。著書に「原色日本菌類図鑑」などがある。もう少し長生きをしていれば、本人ならではの「一筋の道」にちなんで、某かの楽しげな随筆なりを残してくれたのではあるまいか。

 次の川村多実二(かわむらたみじ、1883~1964)は、動物学者だ。こちらもまた秀才の誉れあり、東京帝国大学を卒業する。それからは、帝大付属大津臨湖実験所の創設につくす。

 1921年(大正10年)には、西に移って京都帝国大学教授となる。のち京都市立美大(現在の京都市立芸大)学長になる。
 この間、動物生態学の講義と実習を日本ではじめて開設する。この国での陸水生物学の基礎をきずく。著作に「日本淡水生物学」「動物生態学」など。

 3人目となる福田邦三(ふくだくにぞう、1896~1988年)は、生理学者にして、看護学の大家だ。旧名は、川村邦三にして、こちらも順調な青年時代を送ったようだ。 
 東京帝国大学医学部を卒業してからは、学究生活に入ったようだ。1932年(昭和7年)に医学博士になった時の学位論文の題は、「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」であり、なんとも珍しいテーマではないか。
 名古屋帝国大学教授を務める。戦後になっては、東京大学医学部教授、やがての定年退官とともに名誉教授、のち山梨大学教授を務める。

 その彼の名前を不朽ならしめた最大のものは、1953年(昭和28年)に東京大学に設置された衛生看護学科の関係であろうか。
 初代の衛生看護学科主任を務めた生理学講座の福田は、英国に留学して医学を学んだ時、かの国の看護学に感銘を受けたらしい。ナイチンゲールの精神にはキリスト教に根差した、人間に対する平等な愛がある、とのことであり、帰国後、これを基(もとい)に、日本の看護学の確立に向けて奔走する。
 その講座の専門課程に入る諸君を前にした福田の言葉には、こうある。
 「日本の臨床看護に新しい息吹を吹き込むには、大学の教養を身につけた、「看護はかくあるべし」ということの根拠を明示し得る優れたリーダーを必要とする。」(「衛生看護学科の専門課程」から)


(続く)

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◻️141の7『岡山の今昔』人形峠

2020-01-26 21:27:51 | Weblog

141の7『岡山の今昔』人形峠

 人形峠(にんぎょうとうげ)は、高度成長期からの、国の原子力行政で有名なところだ。岡山県苫田郡鏡野町上齋原(住所でもある)と鳥取県東伯郡三朝町木地山との間にある。両県の県境を成す峠だ。峠付近に設置されている四等三角点「人形峠」の標高は740.2メートルある。
 交通の便利は、なかなか大変なのではないか。岡山方面よりは、津山市内より国道179号線を倉吉方面へ北上する。中国自動車道を院庄ICで降りて、国道179号線を倉吉方面へ向かうのもあろう。そのうち、岡山県と鳥取県の県境にある人形峠トンネルにとりかかる。その手前を左折(「科学の森プラザ」看板が目印)したら直ぐらしい。
 鳥取方面よりやってくることでは、どうだろう。この場合は、倉吉市内より国道179号線を岡山方面へ南下するという。さらに、鳥取市内より国道53号線を岡山方向へ南下。用瀬地区から国道482号線を経て、国道179号線を右折、人形峠トンネル手前で左折するルートもあるらしい。
 とにもかくにも、かかるトンネルを通ることで、かつてのウラン鉱石の採掘場に行けることになっているようだ。ちなみに、実際に訪れた人によると、山道を進むうちに視界が開け、駐車場が現れるとのことであり、そこには日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センターがある。この施設は、今ではウラン鉱物の採掘をしておらず、坑道やかつて使用した機器なども管理しているという。

 このように山間僻地にある峠なのだが、そもそもは、1950年代、日本でのウラン鉱の主要産地として、知られるようになった。人形石(Ningyoite)や燐灰ウラン石などからなるというのだが、今から約700万年前頃(後期中新世)に堆積した人形峠層の砂岩礫岩中にウラン鉱は形成されている。それを発見したのは、当時の通産省地質調査所のメンバーだという。
 しかして、ある識者による解説には、こうある。
 「津山から山陰の上井(あげい)へと、バスが開通したのは1955年(昭和30年)の8月だった。そのときの土木工事が、日本一の埋蔵量といわれるウラン鉱発見のきっかけとなった。といっても道路工夫がそれを見つけたというのではない。

 そのころ、鳥取県倉吉の小鴨鉱山の廃坑からウラン鉱が発見されたため、通産省の地質調査所から調査団がやって来た。ひと月がかりの調査も終わった最終日のことだった。車が人形峠にさしかかると、突然ガイガー計数管が鳴りだした。2万カウント。道路工事のため、岩石を削ったさい、そこにウラン鉱が露出していたのだった。つまり、偶然が幸いした所産だった。

 その峠は、それまで名前がついていなかった。バス停も「県境」とあった。ウラン鉱発見のニュースに押しかけた報道陣は困った。(中略)結局西の方にあった人形峠という標高1004メートルの山の名を借用した。」(宮崎修二朗「吉備路」岡山文庫、保育社、1972)

 さて、この周辺には花崗岩が分布、風化し、水に溶出した微量なウラン(酸化環境)が、地下水に混じって砂岩礫岩層の隙間を流れた際(還元環境)鉱物として固定されたものであるという。
 参考までに、ネットで拝見するウラン鉱石には、たとえば燐灰ウラン石 (Autunite)などが標本写真として登録されていて、これは代表的なウランの二次鉱物で、黄色い板状結晶が特徴にして、ウラン雲母とも呼ばれる。その重量に対し、約 40% のウランを含むとのことで、紫外光照射により、発光を示す。

 筆者としては、筑波にある地質標本館に陳列されているウラン石標本を、度々眺めたことがある。その仕掛けとしては、スイッチを入れると、ガラス越しの奥に鎮座する鉱石のそこそこの部分が輝かしい黄緑色に変じる、それが面白いが、眺め続けないようにしてくれとの注意書きが施してあった。
 1979年(昭和49年)9月には、人形峠ウラン濃縮プラントが運転を開始する。しかし、安全面などで、かなりの無理があったのではないだろうか。結局、コストもかさんでのウラン鉱採掘は中止ぜざるをえず、外国からの輸入にたよるうち、この峠の施設で濃縮処理などを手掛けたのであるが、この国策は惨めな失敗をしてしまう。自然をあちこち掘り返したりもしていることから、雨などで土砂が流出したら大変なことになるからだ、

 

(続く)

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◻️125の6『岡山の今昔』宇野線沿線、旧下津井電鉄線の経緯

2020-01-24 22:44:36 | Weblog
125の6『岡山の今昔』宇野線沿線、旧下津井電鉄線の経緯

 宇野線というのは、岡山を出発して、まずは大元、備前西市、妹尾(せのお)へと行く。岡山を出ると山陽本線オーバークロス、高架で岡山市街を進む。駅間はそんなに長くないし、途中茶屋町まで走行する宇野線が一部単線とある。沿線は住宅のみならず工場も目につく。これから、だんだんと工業地としての瀬戸内海に近づいていく予感が漂う。

 妹尾からは、備中箕島(びっちゅうみのしま)、早島へと行く。早島は、外に出てきて田園も広がる。「ござ」の早島の看板が目に留まるのだという。

 そんな早島からは、久々原、さらに茶屋町とやってくる。高架になり、街になって茶屋町に停車する。宇野線は、この茶屋町が分岐点だ。すなわち、岡山から茶屋町までは宇野線、そこから本四備讃線に入って瀬戸大橋を渡り、四国に入って坂出で予讃線に入る訳だ。

 ちなみに、早島駅から西へ向かうこと少しの処には、瀬戸中央自動車道の早島インターチェンジがあり、概ね田園地帯の南北をつなぐ。
 もう一つ、この茶屋町は、1972年(昭和47年)までは、下津井電鉄の線路の起点であった。児島半島の西南端に位置し、讃岐に近い下津井港は、かねてからの名港であり、1910年(明治43年)に、当時の国鉄が宇野線を開通させると、これに対抗してか、1914年(大正3年)に敷設された。
 さても、往時の下津井電鉄は、茶屋町から下津井までの21キロメートルの路程にて、軌間は762ミリメートル、動力としては直流600ボルトの電化であった。それが、茶屋町から児島までの14.5キロメートルが、1972年(昭和47年)に廃止される。残る児島から下津井までの路線、6.5キロメートル分も、1990(平成2)年末限りで廃止され、ついに全線が廃止となる。およそこうなったのには、色々あろうが、この間の、モータリゼーションの普及に押されたのが大きいと聞く。

 話を戻して、茶屋町からほどなくして本四備讃線(この線路上での次の駅は植松)と別れて東へ向かう。それからは、彦崎、備前片岡、迫川、常山、八浜、備前田井へと行き、列車はさらに進んで終着駅の宇野へと滑り込む。
 
 ところで、「JR宇野みなと線アートプロジェクト」というのがあって、それは、宇野線全8駅のうち宇野駅寄りの4駅の常山駅、八浜駅、備前田井駅、宇野駅の間で展開される。それぞれの駅によりテーマなりデザインが異なり、なかでも、常山駅周辺の「田んぼ」に期間限定で登場する「田んぼアート」は、外国の作家が指揮して描くらしい。
 ちなみに、宇野の駅舎は、「瀬戸内国際芸術祭2016」の作品とのこと。さらに、宇野駅から宇野港にかけての極めつけは、何といっても漂流物によるオブジェ「宇野のチヌ」(淀川テクニック作)なのであろう。続いての、舟のいかりやスクリューに不要になった鉄材などを組み合わせての「舟底の記憶」なども、精一杯の自己主張に余念がないようだ。したがって、観賞の方法も、車中からも、サイクリングからも、はたまたテクテク歩きながら、それらの野外アート作品を自由自在に楽しんだら宜しいのではないか。

(続く)

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◻️144の4『岡山の今昔』水島臨海鉄道

2020-01-23 23:00:39 | Weblog
144の4『岡山の今昔』水島臨海鉄道

 さても、水島臨海鉄道は、1943年(昭和18年) に開業する。その建設の目的としては、水島に建設された、軍事用航空機の工場への専用鉄道としてであった。
 敗戦後は、1948年(昭和23年) に地方鉄道法に基づく鉄道として再出発する。それとともに、旅客営業が開始される。1952年(昭和27年) には、倉敷市営になり変わる。1970年(昭和45年)からは、水島臨海鉄道が運営を担い、現在にいたる。同社は第三セクターで、岡山県や倉敷市も出資する。
 まずは、「水島本線」でいうと、倉敷市から三菱自工前間で旅客営業を行う。通勤客などで、朝夕はかなりごった返すようだ。また、倉敷貨物ターミナル駅及び東水島駅を拠点として、水島港東地区・西埠頭地区に貨物線が敷設されている。こちらの役割としては、工業製品を中心に、貨物をJR倉敷駅を経由して全国に輸送する。
 その路線としては、倉敷市から球場前、西富井それから福井へ。それからは、浦田、弥生(やよい)、栄(さかえ)と下る。弥生と栄には、水島商店街の西の部分がさしかかる区割りとなっている。
 現在、駅舎が高架下にある弥生駅は、2面2線の交換可能となっているとのこと。そもそもは、地上駅時代の列車交換は次の栄駅で行っていた。その栄駅は現在1面1線の無人駅だが、エレベーターが備えられているという。
 さらに、常磐(ときわ)、水島へとやってくる。この近くには、例えば、旭化成(株) 水島製造所が、広大な敷地をもつ。造成地の区分でいうと、BとCの両方の地区を合わせた総面積140万平方メートルの敷地内に、9つのプラントが、まるで生き物のようになって、全体が成り立っている。
 その水島からは、旅客線の方は三菱自工へと行き、そこが終点となる。と、
ここまでが、倉敷市駅から水島駅を通って倉敷貨物ターミナル駅に向かう11.2キロメートルの区間の前段としてある。
 次いで、貨物線に移ろう。先ほどの水島駅で水島本線から分かれて、貨物駅である東水島駅に向かう港東線(3.6キロメートル)があり、その軌間は「JRと同じ1067ミリメートルにして単線、非電化区間」なのだという。

 だからこそであろうか、おりしも、地元紙に、つぎのようなイベントが紹介され、地元住民との交流の計画を伝えているところだ。
 「水島臨海鉄道(倉敷市水島東栄町)は27日、「鉄道の日」(14日)にちなんだイベントを開く。普段は立ち入りを制限している同鉄道の東水島駅(同市潮通)を初めて一般公開する。
 東水島駅は、水島コンビナートで製造された化学工業品などを貨物列車に積み込む貨物駅。当日は水島駅から専用車両を走らせ、車内から東水島駅構内を見学する。水島駅の出発時間は午前10時半と同11時半。
 主会場の倉敷貨物ターミナル駅(同市水島西通)では、2017年に引退した旧国鉄車両キハ205を特別展示。車内では記念撮影や飲食ができ、会場で同鉄道をイメージした「ピーポー弁当」(限定50食)やラーメン、カレーを販売する。」(山陽新聞デジタル、2019年10月25日付け)

(続く)

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◻️204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

2020-01-22 09:58:32 | Weblog
204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

 藤井静一(ふじいせいいち、1871~1952)は、社会福祉事業家だ。
津高郡面室村(現在の岡山市北区三和)の地主の家の生まれ。二男だが、1891年(明治24年)に学業を終えて、故郷に帰り、農業を営む。
 そのうち農村の疲弊を憂い、農村救済事業に着手する。折しも、経済変動の激しい時期であった。思想的には、日蓮宗と二宮尊徳の報徳主義を信奉する。
 そのやり方は、小作料取立てや松茸の売買で得た手数料を貧しい小作人の名義で貯蓄、それを基に田畑や山林を購入して貧農に貸し与える。また、自己所有の松茸山を解放し、その収益を一部を同様に積み立て、彼らの田畑や山林を買い戻したりして、生活を支援した。
 1902年(明治35年)には、相互扶助の精神に基づく御津郡(現在の岡山市御津)に安部倉懺悔会(あべくらざんげかい)を発足させる。貧困救済を目的とした融通講を始める。わかり安く言い換えると、「農作物の収益を積み立てた基金を設け、貧困家庭に無利子て貸し付けていた」(山陽新聞、2019年4月12日付け)という。
 それのみならず、農村の精神修養や風紀矯正にも携わり、41年には安部倉矯風会(あべくらきょうふうかい)を結成する。
 その後は、岡山県知事の笠井信一の要請に応えて、初代の済世顧問になったり、馬屋上村共同済世社社長などを歴任し、引き続き貧困者救済に尽力。救済事業のために私財を使い果たし、晩年は安部倉山に済世庵を設け、質素に暮らす。

(続く)

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◻️204の5『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山本徳一)

2020-01-22 09:24:50 | Weblog

204の5『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山本徳一)

 山本徳一 (やまもととくいち、1878~1976)は、医師にして社会福祉運動家だ。当時の赤坂郡由津里村(現在の赤磐市由津里)の生まれ。
 家は、ある程度経済的に余裕があったのだろうか、あるいはその逆であったのだろうか。1898年(明治31年)には、大阪に出る、病院の薬局で働きながら、大阪慈恵病院医学校に通う。その5年後には、東京に行き、済生学舎に入る。
 やがて、そこを卒業する。あわせて、1905年(明治38年)の医学開業試験に合格する。

 1915年(大正4年)には、郷里に近い赤磐郡(あかいわぐん)鳥取上村(とっとりかみそん)に帰り、石相尋常高等小学校に、協力者とともに母の会を設立する。東京にいた時、文部省の学校衛生講習会を受講したのが、その発起に至る契機になったのかもしれない。
 1921年(大正9年)には、同村の小児保護協会へと発展させる。妊婦、乳幼児の保護事業に取り組む。さらに、農村を中心にした保健衛生の向上に心血を注ぐ。

 特に、母の会を「小児保護協会」と改め、出産環境の衛生的な改善をはじめ、教育や生活に関わる幅広い事業を手掛けていく。具体的には、例えば、こう評される。
 「地区ごとに任命された看護委員が妊婦を訪ね、出産に不安があれば助産婦を依頼した。「農村標準の家」、寄生虫予防のため菜園向けの衛生的な肥料も開発している。山本は村ぐるみの組織的な取り組みを重視し、総合的な対策が進んだ。
 乳児死亡大きく減る。
 事業の効果はてきめんに現れ、1918年に30を超えていた村の乳児死亡率は30年には8まで下がり、県平均を大きくリードした。

 同様の活動は邑久郡邑久村、真庭郡河内村など県内各地へ波及していった。」(「シンポ「慈愛と福祉の先駆者たち」第4回」、2019年4月12日付け山陽新聞)


(続く)

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