新24『美作の野は晴れて』第一部、修学旅行など2

2015-06-27 21:38:14 | Weblog
24・八五『美作の野は晴れて』第一部、修学旅行など2

 四国に来て、最初に行ったのは高松の栗林公園であった。高松は城下町である。一番驚いたのは、公園の見事さであった。だが、その次にびっくりしたのは沢山ある松の姿が一風変わっていた。というのは、松が縦ではなく、横とかにぐにゃぐにゃに曲がって伸びているではないか。自分でそういう具合に伸びていったのでは、はっきり言って、そんなことはあり得ないことは子供の目にもわかる。
「頭をこうやっておさえつけたりして、無理矢理にされて、ああいう姿になっているんだな」
 それなら、伸びるというより、伸ばされていたことになる。津山の鶴山ではあんな松は生えていない。
「おかしいんじゃないの、なんだかかわいそう・・・・・」
 当時の頭の中では、何であんなくねくねした松がいいのかが、そのときは正直いってわからない。松がああいう姿になっているのは、その後、出張先や都内で散策したおり、浜離宮公園でもそんな松の姿を見た。そういうときは、「おてんとうさま」(太陽)のいる上に、想うさま育つことがゆるされない松たちがかわいそうだという一層の思いと、それでも植栽の何たるかの意味が込められているのだろうとの二層の思いとが、せめぎ合う。 あれから数十年、住宅街を散歩しているうち、ふと庭の植栽に目が止まり眺めていると、幹の様子といい、枝振りといい「あっぱれ」、「お見事」、「いい仕事してますね」と言ってしまいそうなものも見かける。そんなおり、松などの植栽をを観賞しているときの心持ちも、少年の頃のように目にみえる輪郭から五感が受けた感覚そのままに反応することからは、変わってきたようである。というのも、「サライ」という雑誌の1967年5月号「日本の庭園」に収められている栗林公園の松の紹介によると、こんな話がある。いわく、「仕立松は手入れを怠れば、形が崩れる。皐月亭」(さつきてい)の脇にある箱松は、枝を下に伸ばし箱状に整え啼けれ゛はならない、北湖の汀(みぎわ)に整然と列をなす松の一群は、樹枝を低く抑えなければならない。管理者はひとつひとつの松の役割をゅうぶんに理解した上で、季節の移り変わりに合わせて、枝を払い、葉をむしる。」
 これを読ませていただいて、なるほどそうであったのかと合点がいく反面、それでも私は松が可愛そうという心も根っこに残っている案配にて、今更ながら一人で苦笑してみるのを禁じ得ない。
 さて、その日は高松市内の旅館で泊まって、翌日の朝早く、みんなで起きた。天候は、改正であったように思われる。座敷に内揃っての食事てば、ご飯のお代わりもさせていただいたのではないだろうか。それから、二台のバスを連ねて讃岐平野を西へと向い、金比羅宮(現在の香川県仲多度郡琴平町)に向かうのであった。そのバス道はおそらく、高松を出て予讃線に沿って進み、坂出付近で左手の田圃が続く中に讃岐富士を臨み、さらに丸亀からは通称こんぴら街道を南下して目的地を目指したのではないか。目的地に近づくにつれ、学校の音楽の時間に習った『金比羅ふねふね』の歌が脳裏に浮かんだに違いない。
「金比羅(こんぴら) 船船
追風(おって)に帆かけて
シュラシュシュシュ
まわれば 四国は
讃洲 那珂(なか)の郡(ごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金比羅大台権現(こんぴらだいごんげん)
一度まわれば」(香川県民謡)
 金比羅宮への参拝の途中、ガイドのお姉さんの白い手が振られる。
「あれが讃岐富士です」
 その手の向こうには小高い山が見える。それまで讃岐平野の田圃がひろがっていた。こちらではどんな風に農業をやっているんだろうか。そんなことを考えた。観光バスに乗っていると、自分が住んでいるところとは全然違う景色が流れていく。初めて岡山に出たときも驚いたが、そのときも驚いた。
「岡山も広いが、四国の讃岐平野も広いな」
 世の中には、自分の知らないところが一杯あるということが、実感できた。
 金比羅宮に着くと、若にも修学旅行らしい他校がチャーターしたバスが何台も並んでいた。バスを降りて、整列し、先生から注意事項が言い渡される。一人での別行動はしないで、本宮までを行列を作って、進んでいった。
 ところで、ここに「金比羅山」さんとは、日本に本来あった名前ではなく、王舎城の守護神に由来しているらしい。そのことを桜井俊彦氏はこう伝えておられる。
 「霊鷲山の東北には第一峰がそびえ、アショーカ王の仏塔建立第一号の遺跡が頂上にある。王舎城の守護神クンピーラ神(金比羅神。ガンジス河に住むといわれる神話的な鰐(わに)をまつったところという。この神は釈尊を亡きものにしようとするデーヴァダッタ(提婆達多(だいばだった))の計略を阻止し、釈尊の伝道を助けたことが知られている。645年に、この地から中国と朝鮮半島の百済(くだら)を経て日本に到着した法道(ほうとう)仙人が、出身地のこの金比羅神のことを伝えてできたのが「金比羅さん」で有名な香川県琴平町にある金比羅宮の起源だという。だから金比羅宮のそばに象頭山があるのだとう」」(桜井俊彦「インド仏教ガイド」法蔵館、2014)と。
 ここで王舎城というのは、ラージギール(ラージャグリハともいう)の中国名である。ここは釈尊が布教の拠点の一つにしたところで、ウダヤ山、ソーナ山、ヴァイバーラ山、ヴィプラ山、ラトナ山の「王舎五山」が聳えている、とのことだ。その王舎城の近くにあるのが、霊鷲山(りょうじゅせん)と呼ばれるところであって、そこは山というよりは、なだらかな丘陵地の一角であるらしい。ここは、現在のインドのビハール州のほぼ中央に位置するところであって、彼の地では「チャタ山」と呼ばれていると聞く。この地が仏教史跡として有名になっているのは、釈尊とその弟子がここに集まって、釈尊が弟子達にかれの発見した教えを説いたことで知られる、それらの説法は、今日無量寿経、法華経などとして、大乗仏教の経典の中にも入れられている。インドのアショカ王の時代、この王舎城の辺り一帯には「精舎」と呼ばれる僧院が沢山営まれていて、そこを生活の拠点にして大勢の僧が日夜ぶっとおしで修行していたのであった。
 さても、琴平参りと言えば、ある石段が有名である。視界には入らないが、琴平は海が近いので「海辺の石段」といったところか。石段の数は、本宮(厳魂神社)まで785段、奥社までの合計では1368段ある。この本宮は、「金比羅大権現」(こんぴらだいごんげん)を祭神としており、「海の神様」だと言われる。神社の祭神は大抵自分とは違った神であるのに、金比羅さんについては自分の名前をした神を祀っていることになっているようだ。人の命は儚い、だからそういうことになっているのか。それに「海の神」というのも、なかなか趣があって興味がそそられる。
 そういえば、日本は海に囲まれた島国なので、海の神にはいろいろある。私の住んでいた横浜の金沢八景には瀬戸神社があって、そこは漁師さんの信仰が篤く、彼らは海の安全を祈願していた。沖縄おおぎみ村は海女さんで有名である。そこに伝わる「ウンガメ」祭りは、海の神に豊かな海の恵みを祈願する。愛知県西尾市に伝わる提灯祭りも、海の怒りを鎮めるために大きな提灯でなだめるのだとか。海に四方を囲まれているこの国の海洋信仰の懐はとにかく深い。もっとも、時代が変われば、宗旨も変化していくのは世の常。金比羅さんも江戸中期からは子づくりとか、厄除け魔除けにも御利益があるようになった上、境内では猿回しやお囃子、相撲興行なんかで旅人希望に応えるようになったとか。
 また、「奥社(おくやしろ)」というのは、いわば「奥の院」のことであり、仏教になぞらえると「顕教」に対する「密教」の加持祈祷、護摩を焚くなどの秘技をなんとはなしに予感させる。階段をつぎからつぎへと上っている間には、行列も乱れてくる。上から降りてくる人も相当数いるので、両側を店とかで挟まれた参道はごった返したようになっていた。宮参りに来たような案配の親子に出会ったり、お年寄りの集団にも出会ったような気がしている。
 当時の一般の人はお詣りするのに苦労したであろうが、「こんな坂があるとはしらなかった」と驚いた人もあったろう。参道は、階段だけではなく、途中で平坦になるところもある。参道から奥社までの石段沿いには幾つもの門があったりして、それらをくぐり抜けたりしながら進んでいく。本宮(厳魂神社)まで行く頃には、私たちの行列もばらけて、その体を成さないようになっていたのかもしれない。其の時の私も、始めは元気で、足取りも軽やかであったものの、しまいには足がだるくなってきていた。自分では健脚だと思っていたのに、どうやらそうでもないらしい。
 江戸期のみまさかの庶民は、「お伊勢参り」や「四国88カ所霊場巡り」、「小豆島霊場巡り」や「金比羅参り」などで、長い旅もしていた。金比羅宮へは、津山からは川船を使い吉井川を下り、岡山もしくは児島湾に出てからも、途中由加山神社(ゆがさんじんじや、現在の倉敷市由加)に参詣に立ち寄るなどして、田ノ浦港(現在の倉敷市児島唐琴町)か下津井港(現在の倉敷市下津井)からはるばる讃岐へと船旅をして目的地に行った。その頃の記録によると、津山から琴平宮まで往復するのに10日位かけていたらしい。これだけの日数があれば、途中、金比羅宮だけの「片参り」ではなく、児島半島の中央部、霊場として知られる由加山、そこには海神を祭っている由加山神社と、これに隣合わせの蓮台寺に参詣できたのであろう。美作の村々の中では、お金の工面や、庄屋へ行先や旅に要する期間を届けて、通行手形をもらう手続き面で困難もあった。そのため、講を組むなどしてみんなでお金を溜め、農作業の少ない時期を見計らって順番に金比羅参りに送り出していた。
 岡山市の沖の犬島には、こんな話も伝わっている。
「皆が集まってするいうたらお講ですなあ。お聖天講に琴平講、観音講、お大師講やこうですなぁ。お聖天講いうたら五剣山の八栗さんにお祀りしてある歓喜天さんを寄って拝むんです。琴平講いうたら船の神様。一月に一回船を持っとっての家に晩に寄ってお祀りして、後でご馳走するんですけど今はもう船も少なくなりましたからなぁ。お伊勢講は次の年の順番をくじで決めて、おだい神宮をお祀りして一か月に一遍位あったんでしょう。特に一月十五日にはお日待ちいうて、宵から集まって当番の家に泊まるんです。大きな鍋で五目飯を食べたり、一晩中飲んで食べて碁や将棋をしたりするんです。それと送り膳ですな。講に入っていない隣、近所へもご馳走を配って歩くんです。いまはだんだんすたれていってますけれど・・・・・」(次田香「石で栄えた犬島ー今は過疎に」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市、1990)とある。
 この犬島だけでなく、近隣にある、古代からの天然の良港で知られる牛窓(邑久郡)や、黒島、前島、黄島、青島といった島々の人々も、琴平講などに盛んに出掛けていたのではないか。ちなみに、江戸期の備前藩は1694年(元禄7年)、この牛窓の地に一文字波止場を設けるとともに、灯籠台、遠見番所、そして茶亭を建てたことが知られている。
 「牛窓の波の潮さい島とよみよそりし君に会はずかもあらむ」(柿本人麿『万葉集』「万葉歌人」として知られる彼は、当時の下級官吏であった)
 金比羅山の本宮は大きな建物でどっしりとしており、風格があった。その建物の前には、縄が横に長くぶら下がっている。これを「注連縄」(しめなわ)と呼ぶ。みまさかの新野の神社や神域では、そんなに大きなものはも多ことがなかった。初めて見る偉容だった。その縄を張る意味は、ここから先は、あるいはこの辺りは不浄なものの進入を禁じているということで張られているのだという。その横に張られた縄のところどころには、紙垂(しで)と呼ばれる紙が垂れ下げられてあったのかもしれない。
 これは、縄だけでは、そこが「結界」(けっかい)、その中は「神域」(しんいき)であるということが、わかりにくい。そこで、見えやすくするために、この「ひらひら」を、向かって左から七、五、三番目の位置のところに垂らしている。他にも、「七五三」というのは注連縄のところどころに入れるシメの藁を七本、五本、三本と垂らすことにもなっている。注連縄や「紙垂」(しで)を設ける風習は、古代の中国に遡るらしい。春秋戦国時代、道教や「陰陽五行説」の影響があって「注連縄」を施したり、死者を出した家の前(入口)にこれを掲げる風習が実在した。
 他にも、例えば「孫子の兵法」で知られる孫氏(正確には「そんびん)」の生涯を描いた中国のドラマ『孫氏』には、黄河の急流の前にこの結界を張って、それを前に「老子」が座っている光景が設定されていた。おそらく、そのような中国の風習が古代の日本に伝わり、日本独自の進化を遂げてきたのではないだろうか。   
 つごう2泊3日にわたる修学旅行を経験してみて、初めて海を渡ったのがどんな感想かというよりも、ただもう驚いて観察していたというのが本当のところであった。帰りのことはほとんど記憶に残っていない。おそらく、初めての集団の長旅で疲れていたのだろう。今度行くときは、自分の周りを観察する余裕が出来るのである。

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◆出典2『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

2015-06-26 22:13:02 | Weblog
◆出典2『自然と人間の歴史・日本篇』、『自然と人間の歴史。日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』に参考にさせて頂いている本など2


1.小澤嘉崇・中村勝男「極楽山清眼寺」極楽山清眼寺、1999
2.室井ひろし「主食と野菜を美味しく食べる」鳩の森文庫、1979
3.山本博文監修「意外と知らない埼玉県の歴史を読み解く!、埼玉「地理・地名・地図」の謎」じっぴコンパクト新書、2014
4.陳舜臣「元号の還暦、三燈随筆(一)」中公文庫、1992
5.高野小学校編著「むかし高野」津山市立高野小学校、津山市立高野小学校PTA、1998
6.田村稲美「昔の遊びと歌」加茂郷土史研究会、1979
7.宮澤靖彦編著「津山市広野の歴史散歩ー文化財と解説ー」宮澤靖彦、2006
8.大森久雄「概説・渋染一揆」岡山部落問題研究所、1992
9.戦争を語りつぐ岡山婦人の会「8.15前後ー戦争と私たちー」1979
10.パンフレット「美作改政一揆、義民物語」
11.上福岡市教育委員会「水害資料集成ー明治四三年大水害を中心にー」1995
12.津山市教育委員会「図録、津山の史跡」1978
13.芝生瑞和編「図説フランス革命」河出書房新社、1989
14.岡山作文の会編「岡山の子ら」百合出版、1980
15.岡山部落問題研究所「部落問題ー調査と研究ー」1997年10月号、No.130
16.田村芳朗「日蓮ー殉教の如来使ー」吉川抗弘文館、2015
17.岡山県立津山高等学校百年史編さん委員会「津山高校百年史」岡山県立津山高等学校同窓会(上下巻)、1995
18.加地伸行「儒教とは何か」中公新書、1990
19.NHK地球大進化プロジェクト「NHKスペシャル、地球大進化・人類への旅」全5巻、NHK出版、2004
20.土居洋文「老化ーDNAのたくらみ」岩波書店、1991
21.鎮目恭夫(しずめやすお)「人間にとって自分とは何か」みすず書房、1999
22.監修/柴田敏隆、写真・文/鈴木茂也「バードウォッチング」、講談社カルチャーブックス、1994
23.荒俣宏・の責任編集「このすばらしき生きものたちーカンブリア大爆発から人工生命の世紀へ」角川書店、1993
24.藤沢周平の小説「義民が駆ける」講談社文庫、1998
25.山折哲雄「日本人の心情-その根底を探る」NHKブックス、1982
26.白尾元理「地球全史の歩き方」岩波書店、2013
27.夏緑「これだけ!進化」秀和システム、2015
28.青木正博「鉱物・岩石入門」誠文堂新光社、2011
29.白尾元理・写真、清川唱一・解説「地球全史」岩波書店、2013
30.白尾元理・写真、小疇尚・斎藤靖二・解説「日本列島の20億年」岩波書店、2013
31.高橋健司「四季の教書-二四節節からのおくりもの-」教育出版、2003
32.化石研究会編「化石から生命の謎を解くー化石から分子までー」朝日新聞出版、2011
33.都河明子「医学・医療系のための生物学の基礎知識」丸善、1998
34.武村政春「目からウロコの生命化学入門」ミネルヴァ書房、2013
35.笹生衛「神と死者の考古学ー古代の祭りと信仰」吉川弘文館、2016
36.ルース・ドフリース著・小川敏子訳「食糧と人類」日本経済新聞社、2016
37.左巻健男編著、小林則彦著「面白くて眠れなくなる地学」PHP研究所、2012
38.小塩隆士「18歳からの社会保障読本ー不安の中の幸せをさがして」ミネルヴァ書房、2015
39.田家康(たんげやすし)「気候で読み解く日本の歴史ー異常気象との攻防1400年」日本経済新聞社、2013
40.竹内薫「科学予測は8割はずれる」東京書籍、2112
41.塩澤実信一著・北島新平絵「新しい大地よー探検と冒険の時代」理論社、1987
42.村上斉(ひとし)「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」集英社インターナショナル、2012
43.京極一樹著・加藤恒彦監修「こんなにわかってきた宇宙の姿ーMitakaで旅する太陽系と銀河」技術評論社、2009
44.多田隆治「気候変動を理学するー古気候学が変える地球環境観」みすず書房、2013
45.佐藤晃子「この絵、どこがすごいの?ー明がのひみつと観賞のルール」新人物往来社、2012
46.吉田邦久「好きになる生物学ー12か月の楽しいエピソード、第2版」講談社サイエンティフィク、2012
47.高梨直紘(たかはしなおひろ)「これだけ!宇宙論」秀和システム、2015
48.赤祖父俊一「正しく知る地球温暖化ー誤った地球温暖化論に惑わされないために」誠文堂新光社、2008
49.左巻健男監修(四「読んでなっとく、地球の疑問」技術評論社、2010
50.上田政昭「」中公新書

51.菅沼貞三「日本美術史1(ローマ数字)」1972、慶応義塾大学通信教育教材
52.林英夫編「古文書の語る日本史、7江戸後期」筑摩書房、1989
53.所理喜夫編「古文書の語る日本史、7江戸前期」筑摩書房、1989

54.澤田洋太郎「教科書が教えない日韓関係2000年」彩流社、2002
55.小沢健志監修・岩下哲典編著「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」山川出版社、2011
56.木戸雅寿「新人物往来社」新人物往来社、2004
57.吉田小五郎「キリシタン史)」1950、慶応義塾大学通信教育教材
58.「『臨済録』を読む」
59.「日本社会の歴史(上、中、下)」
60.「前方後円墳の世界」岩波新書
61.「日本の絶滅古生物図鑑」
62.「日本の石ころ標本箱」
63.「現代に息づく陰陽五行」
64.馬淵和夫・国東文麿・稲垣泰一編「今昔物語1」小学館・新編日本古典文学全集
65.「小川町の歴史・通史編上巻」
66.井上光貞・大野晋・岸俊男・斎藤・直木・西嶋定生「シンポジウム:鉄剣の謎と古代日本」新潮社、1978
67.小川良祐・狩野久・吉村武彦編「ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳」山川出版社、2003
68.寺沢薫「王権誕生」、2000
69.柳沢桂子「意識の進化とDNA」集英社文庫、1991
70.小熊英二「生きて帰った男ーある日本兵の戦争と戦後」岩波新書、2015
71.柳川弘志「遺伝情報は人類に何をもたらすかー「ゲノム」が描き出す津世代の設計図」ウェッジ選書、1999
72.丸岡照幸「96%の大絶滅ー地球史におきた環境大変動」技術出版社、2010
73.福岡伸一「世界は分けてもわからない」講談社現代新書、2009
74.河合信和「ヒトの進化七00万年史」ちくま新書、2010
75.河合信和「ネアンデルタール人と現代人ーヒトの500万年史」文芸春秋、1999
76.斎藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005
77.ブレッヒャー・ファイダグ編・花野秀男訳「古代人の宇宙ー考古天文学への招待」白揚社、1984
78.山本義隆「原詩・原子核・原子力ーわたしが講義で伝えたかったこと」岩波書店、2015
79.

80.

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(続く)
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新50『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩2(多様な食べ物)

2015-06-19 21:16:03 | Weblog
50『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩2(多様な食べ物)

 秋には、多様な食べ物がある。私たちの部落では必ずしも常食とはしていなかったが、ひろく美作他方を見渡すと、人々は、かねてから、あの茶色(ダーク・ブラウン)いゼリー状の「牛の煮こごり」を食べていたようだ。これに、「スジ」と「テール」と「アキレス」が三つ入っている。作り方は、醤油を調味料のベースに、これら3つの種類の牛の肉を鍋に入れて煮込むのであるが、順番があるらしい。2015年6月11日放送のテレビ(日本放送の番組「秘密の県民SHOW、岡山衝撃煮こごり&○○」)で、その「牛の煮こごり」が紹介されていた。その作り方は、なかなか手が込んでいて、これだけの手間暇をかけて作るものだから、昔も今も家庭で作るのは簡単ではなかろう。そこで、料理屋さんの説明では「スジとテールでうまみを引き出し、アキレスの方でコラーゲンとか固める役割をします」(津山市内の精肉店の人)とのことであった。
 具体的には、「まずはずんどうにアキレス、そしてスジ肉を大量に入れます。弱火で10時間じっくりと煮詰め、圧力鍋で(12時間もかけて)くたくたに煮込んだテールをドッキングし、それに醤油、鷹の爪で味付けすれば、おいしそうな牛肉エキスたっぷりの濃厚スープの完成。そして型に入れ、一晩冷蔵庫で寝かせる。お肉のゼラチン質がしっかりと固まったところで、型から取り出せば、プルプルの業肉の煮こごりがお出まし」(ナレーター)とのこと。
 津山の美作大学栄養学科の桑守教授によると、そもそも「津山市には牛肉を食べる習慣が昔からあった」といわれる。705年には、津山で牛の市が立っていたとのことであって、その頃から、牛を解体した後の「牛の肉をよく食べていましたので、主要な肉以外のホルモンなどが大量に余りました。内臓は津山名物のホルモンうどんに、動脈は塩こしょうなどで食べるメナカセという食材として使いました。残ったスジの部分なのですが、煮込むことでゼラチン質が多く出ることから、煮こごりとし食すようになったと考えられます」とのことだ。食べ方としては、これも暖かいご飯の上に載せて食べるが常道だとか、いやはや、私は実家で魚の煮こごりを食べていたときの食べ方と、おいしくいただく時の食べ方はさほど変わっていないので、この放送に接して、合点がいった。

(続く)
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◆戦前のような暗黒政治の再来を憂う(2015年6月15日付け小生からの訴え)

2015-06-15 22:10:17 | Weblog
戦前のような暗黒政治の再来を憂う(2015年6月15日付け小生からの訴え)

 このブログを訪問いただいている皆様へ
 本日、友人からの問いに対し、小生の考えを書き留めて送ったメールから、(若干の修正の上)紹介させていただきます。
 ところで、昨今の日本の政治についてですが、「右傾化」の背景として、やはり国民生活の展望のなさがあると思います。それが怒りとなって政府に向いていないのが、西洋などにはない、この国に特徴的なところです、
 若者のかなりの部分は、投票に行きません。政治向きの発言をすることも稀だと感じています。若い皆さんの多くは政治的におとなしいこともあるでしょうが、毎日の生活に力を消耗しているのではないだろうかと心配です。中高年は、私も含めて、これからどうなるのだろうと、不安だらけの、落ち着かない日々なのではないでしょうか。
 妻君が先日、わたしにこう問いかけてきました。
「おとうさん、どんどん世の中が重苦しくなっていっているような気がする?」
 どう答えてよいものか、私も同感ですが、さしあたり、「この安保法案にはちゃんと反対だという声を出していかないと」と、自分にも傍観はゆるされぬと言い聞かせたところです。
 なにぶん、いま政権の人達は、大体が戦後生まれですから、実際は、戦争の恐ろしさがわかっていない人が大半なので、今回の立案者も、ろくろく論究していない論理や、官僚があれやこれやして造ったその場しのぎの見解をおうむ返しに答弁しているに過ぎません。そのいい例が、1959年の砂川判決をして、あれは集団的自衛権を否定していないと言い張っている高村氏とかですね。そこで集団的自衛権を名指しで否定しないからといって、そこで問題になっているのは「個別的自衛権」だから、あえて触れないのは当然のことではありませんか。ちなみに、同判決は「わが国が、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べているところです。ついては、ここであえて、自分たちだけにしか通用しない論理を振り回すのは、いかがなものでしょうか。
 彼とか、安部氏とかは、自分が戦場で「敵」と命をかけて向かい合うことは決してないから、べらべらと口が軽いのではないですか。この点は、自民党の古株の人達の方が全体としてまだましな見解を表明しておられます。与党の一翼を担っておられる公明党も、随分と変質していっているように感じられます。自民党の有権者も、どうも今回の破天荒な法案の話を聞いてはいるのだが、ちんぷんかんぷんのようですね。
 原発もそうですが、先の事の責任は持て無いけど、ともかく先に進めさせてくれ、と言い張っているように感じられます。それと、サムエルソンいう経済学者が、昔、昨今は「寝た子をおこすな」みたいになっているのだと、呟いていたようでしたが、今回の事も、政府は、国民に事の本質を考える余裕を与えることなく、法案を通したいのが本音ではありませんか。こんな風に、「立憲主義」(憲法を頂点とする法律による行政の原則)に挑戦するところの、ファッショ的法案でも国会で通してしまえば、国民相手に無力感を与えることができます。そうしたら、憲法改正の発議も時の政権の政治的思惑を以てしてよい環境が生まれるかもと。このような安倍政権の姿勢は、私たち国民を見下すものであって、かつての日本が軍靴に踏みにじられた記憶が沸々と蘇ってくるのを禁じ得ません。
 全体的に、今の日本は、このままではだめになっていくと感じています。考えなくなっているからです。意見というものは、まずは個の中で形成され、それから民主的な手続きを経ながら全体に広めていくべきものであって、その逆ではありません。全体として、日本は先の大戦の総括がきちっとできていません。それだから、近隣諸国と未だに真の和解ができないでいるのです。
 私としては、私も含めて、みんなが政治家にだまされないだけの、ちゃんとした政治、経済、社会の知識を持つことから始めることが大事だと思っています。そのために、さしあたって、自分の微力を尽くすしかないので、それを自分なりに取り組んでいるところです。特に、ネットで閲覧してもらえるようにしておけば、有用な情報なら、心ある方々に何か参考にしてもらえそうな気がしています。もちろん、自分は世論の大海の一滴に過ぎません。その立場にて、これからも切磋琢磨、日本を少しでもよくするために、学んでいくつもりでおります。
 みなさんとともに、この国の主権者の一人であることを誇りに思っています。
 以上です。

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