□179『岡山の今昔』岡山人(19世紀、箕作阮甫)

2019-02-18 21:42:21 | Weblog

179『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、箕作阮甫)

 幕末、学問の分野でも大きな進展が見られた。この時期に活躍した美作に縁のある人物として、箕作阮甫(みつくりげんぼ 、1799~1863)と宇田川玄随(うだがわげんずい)、宇田川玄真(うだがわげんしん)、宇田川榕菴(うだがわようあん)などがいる。

 その阮甫の家の家業は、津山藩の医師にして蘭学者で知られる。箕作貞固の二男に生まれ、1810年(文化7年)長兄の死により家督をつぐ。家業では、父の時代の天明年間(1781~1781)に津山藩医に出世していた。1816~19年に京都の医師竹中文輔のもとで医学を学び津山に帰る。1822年(文政5年に)津山藩医となる。ついで、1823年(文政3年)に藩主の参勤交代のお供で江戸に出ると、江戸に在った同藩の医師宇田川玄真に弟子入りし、さらに医学と蘭学を学ぶ。江戸に出て儒学とオランダ医学を学んだ。
 1839年(天保10年)には、幕府天文方に就任する。「蕃書和解方」の職名で、つまり外国文書の翻訳を務める。主な役目としては、ロシア・アメリカの外交使節と応接した。具体的には、1853年(嘉永6年)のアメリカ・ペリー提督来航時には、同国の国書を江戸城に上って翻訳する仕事に従事、また同年来航したプチャーチンとの応接のために長崎へ下向する。

 翌年の伊豆下田でのプチャーチン一行との交渉に参加するなど、活躍する。1856年(安政3年)には蕃書調所(ばんしょしらべしょ、東京大学の前身)首席教授となる。著書・訳書に、我が国最初の医学雑誌「泰世名医彙講」(たいせいめいいいこう)、「和蘭分典」、「改正増補蛮語箋」(かいせいぞうほばんごせん)、西洋地誌としての「八紘通誌」(はっこうつうし)や「地球説略」などがある。1862年(文久2年)には幕臣に列せられた。

(続く)

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□121『岡山の今昔』製塩業(岡山、玉野、児島)

2019-02-18 21:21:18 | Weblog

□121『岡山の今昔』製塩業(岡山、玉野、児島)

 現在の倉敷市のJR児島駅の周辺は、江戸時代の頃は海に面していて、「野崎浜」と呼ばれていた。味野と赤崎という二つの地域に挟まれた地帯ということで、この名前がついたという。江戸時代も中ごろ以降になって、この地域で大々的に製塩業を行う資本家がでた。その苗字が「野崎」といって、土地からとったものらしい。

 野崎家がここに設けた塩田は、入浜式のもので、まずは、波の静かな入り江を選び、堤防を築く。塩田は、溝によって短冊形に仕切られている。その塩田に、干満の差を利用して海水を引き入れる。柵の中には砂があるわけで、太陽熱で海水が温まり、熱くなり、ついには水分が蒸発すると、その水田の砂に塩分がつく。それをかき集めて海水をかけることで濃厚な塩水をつくる。それから、これを大きな釜で煮詰めると塩の結晶が析出するというもの。この製塩法は、近世初期に始まり、改良を重ねてきたものの、1950年代に流下式塩田にとって代わられる。

 岡山の塩田王として名高い野崎武左衛門(1789~1864)は、父が事業に失敗し、貧苦の中で育ったという。そのかれが1809年の21歳で一発奮起、家財を売り払い、それで得たカネで足袋製造販売を始める。売掛金回収に苦労したりで、叔父の中島富次郎の助言で、製塩に興味を抱く。

 そして迎えた1829年(文政12年)には、製塩業に打って出る。江戸時代の初めから小規模な製塩業がより集まって育っていたこの地に、大規模な塩田を開発する。前述の野崎浜を皮切りに、日比亀浜、東野崎浜(南浜、北浜、以上は現在の玉野市)、久々井浜(くぐいはま、現在の岡山市)を開発していく。それらの塩田の総面積は、「48町歩余」にもなっていたというから、驚きだ。

(続く)

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