179『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、箕作阮甫)
幕末、学問の分野でも大きな進展が見られた。この時期に活躍した美作に縁のある人物として、箕作阮甫(みつくりげんぼ 、1799~1863)と宇田川玄随(うだがわげんずい)、宇田川玄真(うだがわげんしん)、宇田川榕菴(うだがわようあん)などがいる。
その阮甫の家の家業は、津山藩の医師にして蘭学者で知られる。箕作貞固の二男に生まれ、1810年(文化7年)長兄の死により家督をつぐ。家業では、父の時代の天明年間(1781~1781)に津山藩医に出世していた。1816~19年に京都の医師竹中文輔のもとで医学を学び津山に帰る。1822年(文政5年に)津山藩医となる。ついで、1823年(文政3年)に藩主の参勤交代のお供で江戸に出ると、江戸に在った同藩の医師宇田川玄真に弟子入りし、さらに医学と蘭学を学ぶ。江戸に出て儒学とオランダ医学を学んだ。
1839年(天保10年)には、幕府天文方に就任する。「蕃書和解方」の職名で、つまり外国文書の翻訳を務める。主な役目としては、ロシア・アメリカの外交使節と応接した。具体的には、1853年(嘉永6年)のアメリカ・ペリー提督来航時には、同国の国書を江戸城に上って翻訳する仕事に従事、また同年来航したプチャーチンとの応接のために長崎へ下向する。
翌年の伊豆下田でのプチャーチン一行との交渉に参加するなど、活躍する。1856年(安政3年)には蕃書調所(ばんしょしらべしょ、東京大学の前身)首席教授となる。著書・訳書に、我が国最初の医学雑誌「泰世名医彙講」(たいせいめいいいこう)、「和蘭分典」、「改正増補蛮語箋」(かいせいぞうほばんごせん)、西洋地誌としての「八紘通誌」(はっこうつうし)や「地球説略」などがある。1862年(文久2年)には幕臣に列せられた。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆