新◻️95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2022-03-11 08:23:38 | Weblog
新年95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

 ここ高梁辺りにおいて最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。
 折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。

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○折しも、備中では、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代していくた。
 1375年(永和元年)、渋川満頼が守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)には、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下に入った模様だ。
 細川頼之は、1392年(明徳3年)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれる。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となる。
 1393年(明徳4年)には、渋川満頼は守護を罷免され、守護には細川頼元の弟満之が補任される、以後、頼元の子孫が世襲していくものの、次第に勢力を失っていく。
 そうこうするうちにも、守護やその被官としての守護代、国人衆などは、荘園・公領を押領したりで、自己の所領化していく。備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が代表的だろう。国人衆なども含めることでは、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などが有名だ。

○郷土史家の小谷善守は、美作辺りの戦国時代の幕開けまでの経緯について、こう概略を記している。

 「岩屋城跡は、標高483メートル、久米町内の西部になる。ふもとの盆地は、町内の東部地区に比べ、広くはない。津山まで約15キロ、元禄4年(1691)の「作陽誌」は「岩屋城は、中北上村にある。ふもとから頂上まで8町余(約872メートル)。周囲は険しいが、上はやや広く平坦である。嘉吉元年(1441)に山名修理大夫教清が美作の守護となり、初めてここに築いた」と記しているが、この「作陽誌」をはじめ「久米町史」、寺坂五夫著の「美作古城史」、山岡矩雄久米町史編纂委員長の話を参考に岩屋城に少し触れていく。
 嘉吉元年(1441)、美作国守護職・赤松満祐は、将軍・足利義教を討って本拠の播州(兵庫県)へ引き揚げたが、山陰の山名持豊は、この赤松満佑を討ち、その功で一門の山名教清が美作守護職となった。教清は、この年に美作の本城として岩屋城を築いた。このころ、将軍・足利義政の後について、細川勝元が義政の弟を推し、山名持豊は義政の子・義尚を推して争いとなった。応仁の乱だが、岩屋城主だった山名教清の子・政清は京都へ上り、山名持豊の軍に加わった。播磨の赤松政則は、政清の留守に乗じて岩屋城を攻略し、文明5年(1477)、美作国守護職となって、大河原治久に岩屋城を守らせた。
 永正15年(1518)になり、赤松政村の将であった浦上村宗が主家の赤松に背き、永正17年(1520)になり、岩屋城を落として部将の中村則久に守らせた。」(小谷善守「出雲街道」第3巻、「出雲街道」刊行会、2000)


○1461年(寛正2年)の新見荘では、守護被官を務める安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生する。

○1461年(延徳3年)には、守護代の庄元資が細川氏に反旗を翻す。ひとまず、これは細川氏の勝利に終わるものの、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が台頭していく。

○1470年(文明2年)頃、美作は赤松氏の支配下となる。

○1467年(応仁元年)、京都で応仁の乱が勃発する。

○1470年(応仁4年)には、応仁の乱が大方収まる。すると、山名氏が美作の奪回に動く。

○1480年(文明12年)、山名氏が美作東部を奪回する。その山名氏は、赤松氏の内紛とに乗じる形で、翌年には美作全域を勢力下におく。ただし、山名氏は守護に任じられることはなかった。

○1486年(文明18年)、赤松氏は守護代浦上伯耆守口により美作の支配拠点である院庄を回復する。翌1487年(長享元年)には、美作全域を支配下におく。

○1488年(長享2年)には、山名軍が美作から退き、赤松軍が入って領国に組み込み、支配を始める。

○1477年に応仁の乱が終わってからは、室町幕府の権威はあらかた失墜していた(その時の九代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)は足利義政の子。放蕩の末にか、1489年(延徳元年)に近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。)。
 その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。

 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)


 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。

○1518年(永正15年)頃から、赤松氏被官であった浦上氏が、美作に入ってくる。

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○浦上則宗は、政則と一時対立したものの、和解して山名勢を撃退し、政則の没後に起った領国内の紛乱も、則宗が政則の子義村を奉じて鎮圧する。 やがて、浦上氏は赤松氏から実権を奪い、勢力を拡大していく、その基盤をつくって浦上則宗は、1502年(文亀2年)備前国三石城(現在の備前市三石)で亡くなる。

○1519年(永正6年)、赤松政則の後を継いだ義村は、浦上氏の居城三石城を攻めるも、大敗を喫し、 1521年(大永元年)には、赤松義村は浦上村宗によって自害に追い込まれる。

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○1520年(永正17年)には、赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、城は数日で落城、浦上氏被官中村則久が入城する。赤松氏は、岩屋城奪回の兵を挙げ城を囲む。城将中村氏は奮戦する。浦上氏被官の宇喜多能家の援軍もあり、逆襲に転じ、赤松軍は敗走する。以後、浦上氏が美作国を支配する。

○1521年(大永元年)には、浦上氏の浦上村宗が、赤松氏の赤松義村を殺した、美作を支配する。

○1531年(享禄4年)には、浦上氏のあとを継いでいた浦上村宗は 細川氏に加勢して、摂津へ出兵し天王寺の合戦で討死する。 村宗の後は子の政宗が継いで、本拠を室山城に移す。しかし、政宗は弟の宗景と不和になり、宗景は政宗から独立する。

○1532年(天文元年)には、出雲の尼子氏が美作に侵攻し、数年の間に美作東部・中部を制圧する。

○1532年(享禄5年)に、浦上宗景は天神山に城を築く。その宗景は、播磨西部と備前で主家を圧倒する力を得て、守護代から戦国大名化していて、播磨西部と備前東部を支配するにいたる。

○1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
 備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。

 この事件について、「備前軍記」には、こうある。

「としも明け永禄九年(1566)の春になりて、重ねて三村家親作州へ働き出、備前へも打入べきよし聞えければ、宇喜多安からず思ひ、何とぞ謀を以て三村を打取べしと工夫ありて、津高郡加茂に居住せし浪人侍に遠藤又次郎・同喜三郎という兄弟の者あり。(中略)
 三村家親此度は穂村の興禅寺を本陣として其辺に皆々軍兵ども陣取ける。常に其寺の便宜案內はよく知りたれば、敵陣の間を忍び入て兄弟申合せ鉄砲にてねらひ搏殺さんとぞ謀りける。二月五日の夜の事なれば月も入り、夜廻りの者に紛れて客殿の庭へ忍び入りうかゞへば、本堂の方に家親が声聞ゆれば、椽へ上り唾にて障子の紙を湿し押破り見れば、家人を集めて家親は仏壇の前に寄添て軍評定をせしと聞ゆ。

 又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。

 又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。」(「備前軍記」より)

○1536年(天文5年)には、尼子晴久の軍が備中に侵入し、1554年(天文23年)、晴久は名目上ではあったが備中守護に任じられる。

○1543年(天文12年)、守護の赤松晴政は、備前に侵攻し、浦上氏を攻めたが、宗景はこれを撃退する。

○1545年(天文13年)、尼子晴久は岩屋城・高田城を攻め、岩屋城主中村則治は尼子方になる。1549年(天分文17年)には、 高田城も尼子方に落ち、尼子氏は美作の大半を支配する。そしての1553年(天文21年)には、その尼子氏が美作守護に任じられる。

○1540年代に美作を制圧した尼子氏は、今度は、その勢いをもって備前侵攻をはかっていく。

○1545年(天文13年)での浦上氏の被官・宇喜多直家は、かかる尼子氏への対抗関係もあってか、吉井川河口に乙子城を築き居城とする。直家の祖父興家の代に没落していたのを、直家の代に再興したものである。
 その宇喜多氏は、乙子城から新庄城、亀山城へと拠点を移し、備前南部に勢力をもつようになる。以後、備前は東備の浦上氏、 西備の松田氏、南備の宇喜多氏の勢力が鼎立(ていりつ)する図式となる。

○1552年(天文21年)には、出雲(いずも)に拠点をおく尼子晴久(あまこはるひさ)が、美作の守護となる。

○1552年(天文21年)には、中山神社(現在の津山市一の宮にある)を本拠として土一揆があり、出雲を本拠とする尼子晴久が神社に侵入して焼き払う。それから程なくの1554年(天文23年)には、尼子に対して、大隅宮で土一揆が起きる。1558年(永禄元年)には、尼子晴久が、中山神社の本殿を再建する。

○1561年(永禄4年)には、宇喜多軍に浦上氏の浦上宗景か攻められ、浦上氏は滅亡する。

○1564年(永禄7年)には、浦上政宗が赤松政秀の襲撃に遭い討ち死にし、政宗の子の浦上誠宗が継ぐも、1567年(永禄10年には宗景が誠宗を暗殺し、浦上宗家の乗っ取る形となる。
 しかし、その浦上宗景も、1577年(天正5年)に家臣の宇喜多直家に居城の天神山城を攻められ、宗景は播磨に遁走をし、備前は宇喜多直家の手中に収める。ここに、天神山城は、浦上宗景一代で廃城となった訳だ。


○1566年(永禄9年)には、毛利氏が尼子氏を攻め滅ぼす。


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○家親亡き後を継いだ子の三村元親(みむらもとちか)は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
 この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。
 この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。

○1568年、松田元輝の家臣にして津高郡徳倉城主の宇垣市郎兵衛(うがきいちろうびょうえ)の弟、宇垣与右衛門(うがきようえもん)が、宇喜多直家側に謀殺された。金川城周辺(現在の岡山市北区)で開かれた鹿狩りの際に、松田家臣宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺されたのだ。
 その時、さすがに家中から「宇喜多の手の者の仕業ではないか」という声が挙がるが、主君の元輝は、宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認してしまう。この元輝の処置に激怒した宇垣市郎兵衛は、元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃には、もはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていく。


○1569年(永禄12年)には、毛利元就(もうりもとなり)が、総社宮(現在の津山市総社)の本殿を建てる。

○1570年(元亀元年)には、宇喜多方の花房職秀(はなるさもとひで)が、荒神山に城を築く。花房は、天台宗の極楽寺(現在の津山市小桁)をうち壊す。

○1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結ぶ。。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。
 あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。

○1576年(天正4年)には、三浦氏は毛利輝元によって滅ぼされ、高田城は毛利氏、篠向城(現在の真庭市三崎)は宇喜多氏の所領となる。

○この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

○1578年(天正6年)には、宇喜多方の日蓮宗の宗徒たちが、浄土宗の誕生寺(現在の久米南町)を焼き討ちにする。

○1579年(天正7年)には、宇喜多方の美作の拠点たる、吉井川を隔てた南側の荒神山(こうじんやま)を拠点とする花房助兵衛職秀(はなふさすけのひょうえもとひで)の軍が、毛利方の神楽尾城を攻める。これについては、毛利氏配下の神楽尾城側が、この年織田方になった宇喜多氏に対し攻撃を仕掛ける計画であった。ところが、これが花房側の密偵に事前に察知されていたという。
 そこに夜襲を決行した神楽尾城側(かくらおじょうがわ、毛利方)は、待ち構えていた敵に敗北し、逆に今度は、荒神山城の伏兵からの攻撃により、神楽尾城が火を放たれてあえなく落城してしまう。

○1579年(天正7年)、宇喜多の軍が、大小寺城(現在の真庭市勝山)、篠向城(現在の真庭市久世)を攻略する。同年、宇喜多軍が、鷲山城(現在の柵原)、鷹巣城(現在の美作市)を攻略してから、後藤氏の本拠である三星城を攻め落とし、後藤勝基は自殺する。


○1579年(天正7年)には、毛利氏は織田氏と結んだ宇喜多氏と決裂する。そして、毛利が方の吉川元春が宇喜多の諸城を攻める。この時、大寺畑城、小寺畑城に籠もっていた宇喜多氏の家臣江原兵庫親次は、1580年(天正8年)には、城を明け渡して篠向城に移る。

○1580年(天正8年)には、宇喜多軍が、医王山城(現在の津山市吉見)を、また矢筈城(現在の津山市加茂)を攻めるも、両城はこれを防ぎ、宇喜多軍は撤退する。

○1580年の春頃からの医王山城(祝山城(いおうやまじょう)、現在の津山市吉見、因幡に通じる街道沿いにある)を巡る攻防では、毛利が方と宇喜多方が渡り合う。それというのも、「高田城(勝山町)が毛利の手に落ち、東の三星城が宇喜多の手に落ちると、中央部にあり山陰への道を押さえる」(津山市中学校社会科協議会・津山市学校教育研究所編「郷土津山ー中学校社会科(歴史)資料集」1981)といわれるこの城が、両陣営の最前線になっていく。
 はじめは枡形(ますがた)城主の福田盛雅(ふくだもりまさ)があずかっていたのを、毛利氏は湯原春綱(ゆはらはるつな)を送って籠城させた。それからは、双方にらみ合いの持久戦に入り、毛利の本拠からは励ましと奮戦への褒美の約束をする。かたや宇喜多側からは、味方になるよう誘われるうち、宇喜多側はやむなく攻撃をやめ、引きあげる。


○1581年(天正9年)には、毛利方の葛下城主・中村頼宗が、宇喜多方の岩谷城を夜襲し、落城させる。
 その実、彼らの後ろには、高田城(現在の真庭市勝山)を拠点にして、美作での勢力回復を狙う毛利氏がいた。
 その時の岩屋城は、宇喜多氏の一族・浜田家織が守っていたのだが、中村頼宗は、地侍の32名を連れ、夜陰に紛れて北の絶壁をよじ登り、城に火をかけたから、浜田方はたまらない。右往左往する間に、本丸へとなだれ込み、浜口家職を追いやり、岩屋城を奪取してしまう。この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主とする。


○1581年(天正9年)には、宇喜多方の篠向城も、毛利方に城を空け渡して退去する。

○1582年(天正10年)には、毛利輝元が、羽柴秀吉と和議を結び、その中で美作は宇喜多氏の領地とする。

○1583年(天正11年)には、これに美作の大方の武将が与しなかったことから、話は進まなくなる。毛利軍は、美作と備中から撤退する。

○1584年(天正12年)、宇喜多直家が、あくまで抗戦する竹山城(現在の美作市大原)の新免弥太郎を攻め、新免家を滅ぼす。これにて、美作の全域が宇喜多のもとなる。

○1584年(天正12年)には、毛利氏と羽柴氏との講和が成り、美作国は宇喜多氏の所領となると再び江原親次が城主となる。


(続く)

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🔷🔷21世紀への提言・安全保障命題に限定した「国際連合政府」(仮称)樹立へ向けて(2022.3.5、原素案、提案者は日本国在住の一世界市民、丸尾泰司)

2022-03-06 20:07:40 | Weblog
🔷21世紀への提言・安全保障命題に限定した「国際連合政府」(仮称)樹立へ向けて(2022.3.5、原素案、提案者は日本国在住の一世界市民、丸尾泰司)

【恒久平和を求める全世界の皆様へ、1世界市民からの提案は、現時点の推考段階においては、つぎのとおりです。どうかよろしくお願いいたします。】

 はじめまして、一世界市民として、皆様へ向けて訴えます。私たちの世界は、なぜこんなにも対立し、相争わなければならないのでしょうか。
 昨今の世界を総覧しますと、皆様ご存知の世界政府(かつてはアインシュタインやラッセルなどが提案)樹立を、いよいよ具体的に考える時が来ていると、確信いたします。
 では、どうしたらよいのでしょうか。さしあたり、国連を土台に、安全保障(核兵器管理、軍縮、国連軍(仮称)を含む)に限定した緩い国際連合政府(仮称)を樹立することでよいのです、この旨、是非ともご検討ください。
 そのためには、国連の改組が必要です。その中でも、この地球上に恒久平和を築くべく、安保理の常任理事国を、21世紀現在の世界に見あった形にて増やすべきだと思います。現在の構成では、もはや世界の民意を反映できないと思われるからです。
 これにつきましては、定数を減らすのではないので、現在の常任理事国におかれては、不利益は生じないと考えます。私案では、人口のとりわけ多いインド、アフリカ大陸から合議により持ち回りでよろしいのでどなたか一国、南アメリカ大陸からはブラジルが今の常任理事国メンバーに加わってくださると、上手くいくのではないかと思います。以上、主には、大陸観点と人口が多いということで、なんとか調整がつくのではないでしょうか。

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🔷(参考1)国際連合憲章の第5章安全保障理事会、第23条(構成)第1項

「安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国(現在の中華人民共和国・筆者)、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦(現在のロシア共和国・筆者)、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる。」

(注)なお、国連憲章の全文(英文及び日本語訳)は、例えば、小田滋、石本保雄編修代表「解説・条約集」第10版、三省堂、2003)に収められている。


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🔷(参考2)「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955.7.9)


“IN the tragic situation which confronts humanity, we feel that scientists should assemble in conference to appraise the perils that have arisen as a result of the development of weapons of mass destruction, and to discuss a resolution in the spirit of the appended draft.

We are speaking on this occasion, not as members of this or that nation, continent, or creed, but as human beings, members of the species Man, whose continued existence is in doubt. The world is full of conflicts; and, overshadowing all minor conflicts, the titanic struggle between Communism and anti-Communism.

Almost everybody who is politically conscious has strong feelings about one or more of these issues; but we want you, if you can, to set aside such feelings and consider yourselves only as members of a biological species which has had a remarkable history, and whose disappearance none of us can desire.

We shall try to say no single word which should appeal to one group rather than to another. All, equally, are in peril, and, if the peril is understood, there is hope that they may collectively avert it.

We have to learn to think in a new way. We have to learn to ask ourselves, not what steps can be taken to give military victory to whatever group we prefer, for there no longer are such steps; the question we have to ask ourselves is: what steps can be taken to prevent a military contest of which the issue must be disastrous to all parties?

The general public, and even many men in positions of authority, have not realized what would be involved in a war with nuclear bombs. The general public still thinks in terms of the obliteration of cities. It is understood that the new bombs are more powerful than the old, and that, while one A-bomb could obliterate Hiroshima, one H-bomb could obliterate the largest cities, such as London, New York, and Moscow.

No doubt in an H-bomb war great cities would be obliterated. But this is one of the minor disasters that would have to be faced. If everybody in London, New York, and Moscow were exterminated, the world might, in the course of a few centuries, recover from the blow. But we now know, especially since the Bikini test, that nuclear bombs can gradually spread destruction over a very much wider area than had been supposed.

It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.

Many warnings have been uttered by eminent men of science and by authorities in military strategy. None of them will say that the worst results are certain. What they do say is that these results are possible, and no one can be sure that they will not be realized. We have not yet found that the views of experts on this question depend in any degree upon their politics or prejudices. They depend only, so far as our researches have revealed, upon the extent of the particular expert's knowledge. We have found that the men who know most are the most gloomy.

Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.

The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term 'mankind' feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited.

This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.

Although an agreement to renounce nuclear weapons as part of a general reduction of armaments would not afford an ultimate solution, it would serve certain important purposes. First, any agreement between East and West is to the good in so far as it tends to diminish tension. Second, the abolition of thermo-nuclear weapons, if each side believed that the other had carried it out sincerely, would lessen the fear of a sudden attack in the style of Pearl Harbour, which at present keeps both sides in a state of nervous apprehension. We should, therefore, welcome such an agreement though only as a first step.

Most of us are not neutral in feeling, but, as human beings, we have to remember that, if the issues between East and West are to be decided in any manner that can give any possible satisfaction to anybody, whether Communist or anti-Communist, whether Asian or European or American, whether White or Black, then these issues must not be decided by war. We should wish this to be understood, both in the East and in the West.

There lies before us, if we choose, continual progress in happiness, knowledge, and wisdom. Shall we, instead, choose death, because we cannot forget our quarrels? We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death.

Resolution:

WE invite this Congress, and through it the scientists of the world and the general public, to subscribe to the following resolution:
'In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them.'
Max Born
Percy W. Bridgman
Albert Einstein
Leopold Infeld
Frederic Joliot-Curie
Herman J. Muller
Linus Pauling
Cecil F. Powell
Joseph Rotblat
Bertrand Russell
Hideki Yukawa”

 この中、中段には、当年での核爆弾を使用することでの人類及び人類を育む地球環境に及ぼす影響を述べている節が含まれており、噛み締める意味で、再度お読みいただきたい。

“It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.”

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(参考3)拙ブログより

489『世界の歴史と世界市民』『E=mc2』(イー・イコール・エム・シー・ジジョウ)

 さて、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれる一つに「質量とエネルギーの等価性」があり、式でいうと、 エネルギー(E)=質量(m)×光の速度(c)の2乗 、E=mc2(イコールm×c×c)というものだ。その発見以来、人類史上最も有名な法則名となる、
 参考までに、彼の論文(1905)中では、光速度をV、エネルギーをLとすると、当該部分「エネルギーLを放出すると、物体の質量はL/V2だけ減少する」との表現でこの式が表現されている。」(アインシュタイン「物理学と実在」)

 ちなみに、、この文章の中段部分の和訳としては、こうある。

 「物体の質量はそのエネルギー量の一つの尺度である。エネルギーがLエルグだけ変化すると,その質量はL/9×1020 グラムだけ変化することを意味する。」

 しかして、このアインシュタインの説は、1932(昭和7年)にイギリスの二人により確認された。ジョン・コッククロフトとアーネスト・ウォルトンは、実験物理学者だ。共同して、100kV(つまり、100万ボルト)の電圧まで作れる高電圧発生装置を電源として組み込み、加速器を製作したという。この装置は、彼らの名前をとって「コッククロフト・ウォルトン回路」と呼ばれる。
 なお、かかる功績により二人は、1951年(昭和26年)に、「人工的に加速した原子核粒子による原子核変換についての先駆的研究 」の名目にて、ノーベル物理学賞を受賞した。
 とはいえ、当時の技術では、粒子の加速は3Mev(=3×10^9ev(「ハット」記号を含む後半部分は10の9乗電子ボルトと読む))が限界だったらしい。
 そして彼らは、この加速器を使って、陽子の加速実験を行う。すなわち、リチウムの原子核に加速した陽子を衝突させたところ、2個のヘリウム原子核が生じたのだが、その合計質量は、元の陽子とリチウム原子核の質量の和に比べて、僅かに減少していて、その質量欠損分については、アインシュタインの式にいうところのエネルギーとして放出されていることが観測されたのだという。
 ところで、この関係式の意味するところをやや広くみるには、まずは、古典物理学の世界で、それぞれ互いに独立して論じられてきた「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」とのつながりから、紐解いてみるべきだろう。
 最初の質量保存の法則は、1774年にラボアジエが発見した。ここでは、温暖化との関係で注目される反応からひろうと、炭素と酸素から二酸化炭素が生成する場合を化学式でいうと、C   +   O2   → CO2であって、それぞれ12g、32g、44g。この反応において、炭素12gと酸素32gを反応させると、二酸化炭素が44g生成する。これにおいては、反応前は炭全体の質量は44g、反応後は二酸化炭素が44gあるので全体の質量は44gであり、反応の前後で全体の質量は変わっていない。
 二つ目の反応として、エタンと酸素から二酸化炭素と水が生成する場合をとりあげよう。こちらの化学式は2C2H6   +   7O2   → 4CO2 + 6H2Oというもので、それぞれ60g、224g、176g、108gとなろう。反応の前後で284gとなっており、これまた全体の質量は同じだ。

 二つ目には、エネルギー保存の法則だが、こちらには、様々な局面があるだろう。そんな中から一つを例えるに、地表から20メートルの高さ(h)に身をおき、ある質量(m)のボールを静かに離す、簡単化のため、そのとき空気抵抗が無視できるとしよう。すると、そのボールが地表に到達する際の様子の目安としての速度(v)は、高さ20メートルの所と地表との間でエネルギー保存の法則が働く。式でいうと、1/2m02(m0はエムゼロ、2は二乗)+mgh=1/2mv2(2は二乗)+mg0(0はゼロ)となり、これを整理するとmgh=1/2mv2となることから、v=72km/毎時となろう。

 三つ目には、仕事量との関連で、この法則を当てはめてみよう。ここにジュール(英: joule、記号:J)というのは、仕事、熱量、電力量といったエネルギーの単位であって、発見者のジェームズ・プレスコット・ジュールに因む。
 具体的にいうと、「1 ジュールは標準重力加速度(9.80665 m/s²の重力)の中で約102 グラムの物を 1メートル持ち上げる仕事」と定義される。
 したがって、1メートル持ち上げるとは重力に対して「力の向きに動いた距離」、力の大きさとは上に持ち上げるので「重力(9.80665 m/s²)と物体の重さの積」となるだろう。
 しかして、1 ジュールは標準重力加速度の下でおよそ 102.0 グラムの物体を 1 メートル持ち上げる時の仕事に相当する。
 そういうことだから、今質量を1グラムに見立てて、先のアインシュタインの式に当てはめると、 光速c = 30万km/s = 3億m/s (メートル毎秒)、質量m = 1g = 0.001kg なので、
mc^2(c^2というのは、c×cをいう) = 0.001 × 3億 × 3億 = 90兆ジュール が導かれる訳だ。

 しかして、これら三つの事柄でいうのは、質量とエネルギーとは別次元のものと考えられているのであり、あくまでも「物質からエネルギーが生まれる」類いの話であったのたが、冒頭で紹介したような関係式が成立する世界では、この式を変形してm=E/c2ということなのだから、「質量とエネルギーとは等価」にして、この拡張した範囲での関係をありていにういうならば、まさに「エネルギーから物質が生まれる」という表現こそがふさわしい。
 しかして、かかる相対性理論から導かれる式により、両者が一つの法則「エネルギー・質量保存の法則」に統合されたことになるという。

(続く)
 
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(参考4)文責・丸尾
1、21世紀の戦争では、戦闘員のみならず非戦闘員も傷つき、命を失う。互いに住民・非戦闘員を盾に使うことも戦術上あり得る。
2、21世紀の戦争は、情報戦(情報の操作・撹乱・破壊など)を伴う。互いに自陣営に都合のよい「国際世論」を作って戦われる。
3、21世紀の戦争は、国家や民族といった、固有の属性の威信、優劣をかけて戦われる。
4、21世紀の戦争は、しばしば集団的自衛権の行使となる、その分、周辺拡大が避けられない。
5、21世紀の戦争は、エネルギー源の支配を巡っても戦われる。
6、21世紀の戦争は、経済戦争でもあって、互いに経済制裁を行うことにより、戦争全体を有利に運ぼうとする。
7、21世紀の戦争は、途中で止まらぬ限り、核戦争を誘発する危険を孕む。

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🔶730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシとジョージア

2022-03-06 18:54:43 | Weblog
730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシとジョージア

 ベラルーシ共和国(通称ベラルーシ)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。
 9~10世紀、この地にはポロツク公国が栄える。10~12世紀には、キエフ・ルーシ時代。13~14世紀においては、リトアニア大公国の構成地域となる。
 1569年には、ポーランドとリトアニア大公国の連合国家が成立する。1772~1795年、3度にわたるポーランド分割により、現在ベラルーシのほぼ全域、白ロシア東部がロシア領となる。
 1914年8月にに第一次世界大戦が勃発すると、現在のベラルーシ西部がドイツの占領下に置かれる。1918年3月には、ドイツの占領下で、ベラルーシ人民共和国が成立する。そのドイツが敗北すると、ドイツ軍撤退に伴い,当地の実権がボリシェヴィキに移行する。
 1919年1月には、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立となる。そして1921年3月、ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領,西半分がポーランド領となる。
 1922年12月には、ソ連邦の結成に参加する。1939年9月には、第二次世界大戦勃発。ソ連軍がポーランドに侵攻する。独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ポーランド西半分を白ロシアに編入。
 1986年4月、隣国ウクライナでのチェルノブイリ原発事故により、この地にも放射能が降り注ぐ。そして、土地は汚染され、多大な被害を受ける。
 1991年9月には、「白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国」より「ベラルーシ共和国」へ国名を変更する。おりしも、ソ連邦は、保守派によるクーデターが失敗し、彼らによって南京状態に陥っていたゴルバチョフ大統領の権威は大いに弱まっていく。
 そして迎えた1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、これらの3国が秘密裏に会合する。集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について話合うのを持て向きに、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 この会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことをいう。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した、第二にCIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアはかやの外に置かれる。ソ連邦の憲法では、違法であっても、もはやどおってことはないと見くびられたのであろうか。ゴルバチョフにとっては、自分のあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かう。
 1994年3月、ベラルーシ共和国憲法が制定となる。1994年には、第1回大統領選挙。アレクサンドル・ルカシェンコが当選する。1996年11月、憲法改正の国民投票で大統領権限の大幅強化が承認される。1999年12月、ベラルーシ・ロシア連合国家創設条約が成る。
    2001年には、ルカシェンコ大統領が2選となる。2004年10月には、またもや憲法改正の国民投票が実施され、大統領の3選禁止規定が削除される。これを受ける形で、2006年には、ルカシェンコ大統領が3選される。2010年には、ルカシェンコ大統領が4選をはたす。2015年には、ルカシェンコ大統領が5選され、事実上の独裁体制を続けている。

🔺🔺🔺

 ジョージア(2014年までは、グルジアと呼ばれていた。グルジア語での国名は「サカルトヴェロ」ながらも、その後は多くの国連加盟国が「ジョージア」の国名を用いている)の歴史を遠く辿るとしよう。紀元前には、西部にコルキス王国、東部にはイベリア(カルトリ)王国があった。後者は、キリスト教を採り入れる。その後、ササン朝ペルシア(ゾロアスター教)やアラブ(イスラム教)に征服される。
 975年には、バグラト朝ジョージアが成立、再びキリスト教文化が花開く。13世紀初頭には、南コーカサス全体まで領土を。しかし、そこにチンギスハーンやティムール、その後も、度重なる外敵の侵略で弱体化していく。
 16世紀には、オスマントルコやサファヴィー朝ペルシアに領土の一部を侵害される。19世紀にはロシアに併合され、ソ連に引き継がれる。そのソ連の成り立ち、いわゆるロシア社会主義革命に際しては、グルジア出身のスターリンが革命運動に参加した、そしてレーニン亡き後に政権中枢に上り詰め、第二次世界大戦後の1950年代半ばまでソ連に独裁政治を敷いたことで有名だ。
 そのソ連の崩壊により、1991年4月9日に独立宣言を発するも、その後の政局は上手く運ぶには至らない。1991年5月ガムサフルディア、初代大統領に当選する。1992年1月6日には、反ガムサフルディア派が大統領官邸占拠して、ガムサフルディア大統領はジョージアから脱出する。
 1992年2月には、国家評議会創設。シェヴァルナゼ元ソ連外相が帰国し、国家評議会議長に就任する。1995年11月シェヴァルナゼ大統領が就任、その後の2000年に再選される。
 2003年11月には、野党勢力が議会を占拠、シェヴァルナゼ大統領か辞任に追い込まれる、これを「バラ革命」と呼ぶ。
 2004年1月には、サーカシヴィリ大統領が就任、しかし、2007年11月反政府デモ隊と治安当局の衝突により多数の負傷者が出る。これを受け、政権側は非常事態令発令する。2008年1月に大統領選挙を繰り上げることで事態は収拾する。
 2008年1月には、サーカシヴィリ大統領が再選される。2008年8月には、ジョージア軍と南オセチア軍の軍事衝突にロシアが介入、これを「グルジア戦争」と呼ぶ。ロシアとしては、同胞を助けるとの大義名分を掲げ、南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認する。
 2012年10月の議会選挙において、野党「ジョージアの夢」が勝利し、イヴァニシヴィリ首相率いる新政府が発足する。2013年10月には、大統領選挙が行われ、与党連合「ジョージアの夢」が立てたマルグヴェラシヴィリ候補が当選した。この後、2013年11月に首相と議会の権限を強化する憲法改正が発効したことで、実権が大統領から首相に移る、マルグヴェラシヴィリが大統領に就任する。
 2018年8月、アメリカは、「グルジア紛争」から10年目となるのを機会に、ジョージアの分離独立派を支援しているロシアに対し、ジョージアの親ロ派地域であるアブハジアと南オセチアから撤退するよう改めて要求するも、ロシア側はこれを無視。その辺り、ロシアとしては、「ルースキー・ミール」(ロシア語を話す人々が平和に暮らすこと)と標榜していることから、あのときは当然のことをしたまでだわという意思(ある種の世界観と目すいうべきか)があるものと見える。

(続く)

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🔶🔶ウクライナ報道は慎重に願う、中立・公正な姿勢を堅持されたい(2022.3.5)

2022-03-05 07:45:06 | Weblog
🔶🔶ウクライナ報道は慎重に願う、中立・公正な姿勢を堅持されたい(2022.3.5)

 私の購読している、今朝の新聞記事の第一面には、「ロシア軍、原発を砲撃」(朝日新聞)とあり、大層驚いた。というのは、昨夜の別の報道(テレビのBS・TBS、「報道1930」において、現地モスクワの同局責任者(もちろん、日本人)による説明が放映されていた。その人の取材によると、ロシア側は、こちらが、ザポリージャ原子力発電所を前から占有したものを、ウクライナ軍側から攻撃を受け、そのための「火災」なのだという。
 もしそうであるなら、この朝日のトップ記事は直ちに修正されるべきであろう。また、この関連でいうならば、昨日の別のテレビ報道中、これと同様な報道を受けて長崎の被爆者団体の責任者の一人とされる人物をも含めて、当該番組の総体として「人間のやることではない」旨とも受け取られかねない、ロシアへの非難を吐露していたようなのだが、いかがなものであろうか。
 そこで、筆者の感じ様としてあえてマスコミにもの申したいのは、報道する側は事実を伝えるべく最大限務めるとともに、その時点で不明なことはその旨断って報道して然るべきであろう。私がその立場なら、当然そう心がけるであろう。ましてや、今は情報戦争の最中にあるのであるから、無用な対立や憎しみを煽るような報道はやめてもらいたい。
 ついでながら、数日前の別の報道(複数の局など)では、「州庁舎の爆破」もロシア軍がやったことだと報じられていた。ところが、3月2日夜に放映のBS報道番組(BSフジ、プライムニュース)において、駐日ロシア大使は、本国からはウクライナ側からの砲弾が命中したのだと聞いている、との話であった。一体、私たちは、どちらの説明を信用すればよいのだろうか。
 これらでなにより気掛かりなのは、日本側の戦争報道に関し、コメンテーターや政治家などの言も含めて、今回は特に感情が先走りし過ぎているのではないだろうか(注)。

 (注)そういえば、以前にも何度かそういうことがあった。そのことを思い出させる一事としては、かのアメリカ軍によるイラク進攻が後に誤りであったとアメリカ自身が認めるに至った件につき、当時の小泉首相は、記者にマイクを向けられた際に、「そんなこと、私が知るわけない」(この発言はその時点でテレビで放映されていて、私も視聴しており、しっかりと確認した。そして、一国の首相にあるまじき軽率な発言で、日本国はアメリカにとって都合の悪いことはまるで口にしない、アメリカのいうことなら黙って地獄までついていくつもりかと、日本国民として同首相のレベルの低さに愕然としたことがある。)

 報道というのは、公器なのであるから、もう少し、いやもっともっと頭を冷やした報道なり論評なりしてほしいものだ。ましてや、相手を根拠もなしに一方的に非難するようなことでは、日本人の知能の程度は大したことはないと言われてしまう。



(続く)

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💗読者の皆様へ、「世界篇」の今後につきまして(2022.3.4、丸尾泰司)

2022-03-04 09:18:38 | Weblog
💗読者の皆様へ、「世界篇」の今後につきまして(2022.3.4、丸尾泰司)

 お元気ですか。いつも、本ブログをお読み頂いて、ありがとうございます。コロナ禍の中、なんとか続けております。
 今回は、「世界篇」の現状と今後の方向性につき、少しですが、お知らせしたいと思います(注)。

(注)なお、現時点での基本認識は、次のとおりです。すなわち、世界は今、21世紀に入り、政治・経済面を筆頭に多極化が進んでいます。そこで往々に言われているところでは、アメリカなどによる戦後(第二次世界大戦後)世界の寡頭支配(かとうしはい)は終わりを告げつつあり、この世界は今新時代に入りつつあるとのこと。
 ちなみに、ここにいる歴史学徒の一人としても、この歴史の大いなる、滔々たる流れに抗うのではなく、その論理・方向性(「歴史的・論理的」)を、現時点でのそれなりの認識として、基本的に受け入れざるを得ません。そうであるなら、世界人類はこの流れに乗りつつ新たな共存共栄のための活路を見いだしていく、その方角こそが、将来的な世界の連邦への移行という、心ある人類皆皆のかねてからの願い(その姿としては、現在の国際連合が昇格しての世界連合政府「仮称」とするのが妥当でしょう)への近道と考えるものです。

 既に項目数が1200項目に近づいていまして、今後も増えそうです。身近では、語句の訂正がまだ初歩的なのに、そんなに拡張していいのか、とアドバイスを頂戴しているところです。
 現在、ネットで閲覧できる、日本語で記された世界史関連のブログのうち、個人で相当数(数百単位~)の項目を表示しているのは、本ブログを含めて3つ位かと認識しているところです(間違えていたら、ご免なさい)。それらの中で、進捗度・完成度においてもっとも劣るのが、本ブログであると言わざるを得ません。
 本ブログの特徴としては、自然科学や文化面でもかなり項目数を伸ばしているところ、現代史を重点にしていること、各国・地域別、また個人紹介を設けていること、などです。
 今後とも、これらの方向性は基本的に保ちたいと考えていますが、前述のような読者のご不便を少しでも減らすべく、全項目について第1回目の語句修正、若干の追加などを施すことにしました。既に、その作業をとりあえず簡易的に行った結果を、🔶印(目立つようにと)を付して追加し始めているところです。それに伴い、本来なら旧作を削除しなければなりませんが、前述のとおりあまりに項目数が多いことから、当該作業はなかなか進んでいません。
 以上、細々ながら、小さな改善へ向けて少しずつ努めていくつもりですので、これからもご愛顧の程何とぞよろしくお願いいたします。(拝)

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🔶🔶アメリカと中国はウクライナ問題解決のために協調を(2022.3.2)

2022-03-02 09:03:43 | Weblog
アメリカと中国はウクライナ問題解決のために協調を(2022.3.2)

 アメリカと中国は、世界の誰もが認める超大国だとされるが、いま展開中のウクライナ問題の解決に向けて、可能なかぎり協調していくべきであろう。
 この問題は、これから1~2週間位が解決に向けての少ない機会・期間となるのではないかと感じている。これまでのところ、その動きは見えないものの、両国ともに、是非ともその平和への努力が見えるようにしてほしい。両国とも、どうか、その線で国際社会の先頭に立ってもらいたい。
 また、国連は、今こそ、かつてハマーショルド事務総長がコンゴ動乱の時見せたような平和のための行動を先導してもらいたい。そのための時間は、そう多くはないと思う。
 なぜなら、この二つの超大国は、人類史の行方に大いなる責任があろう。目下のアメリカについて気掛かりの一つは、伸長著しい中国に対抗心を隠さないことだ。しかしながら、いまや発展途上国から離陸しようとしている、その中国は、人口がより多く、技術革新もアメリカと同等以上になりつつある、と見受けられる。たしかに、世界第一の経済力ということでは、遠からず中国の方が上に来るのは自然の成り行きなのであろう。そこで、アメリカがこれまでの世界的地位を保ちたい、そうしたことには、それなりの理屈が伴うのかも知れぬが、もうそんな独占欲は捨てたらよいのではないか。中国も、その辺り大いに自重してもらいたい。
 繰り返しになるが、他ならぬ、このウクライナを舞台とした国際平和危機を克服し、人類のより良き未来を守り抜くべく、両者が協調すべきはともに行動することを強く望む。とりわけ、ロシアの今回の要求を全否定するばかりでは、そこからは解決に向けての何も産まれないと思う、このような戦争に勝者はいない。

(続く)

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🔶🔶ウクライナ問題の続き、対ロシア制裁など(2022.3.1)

2022-03-01 22:46:43 | Weblog
🔶ウクライナ問題の続き、対ロシア制裁など(2022.3.1)

 ウクライナへのロシアの進攻の経過については、この事変の勃発以来日々刻々ニュースで報じられているところだが、ようやくロシアとウクライナとが初めての交渉を行ったものの、両者ともそれまでの主張を繰り返した模様だ。これからも、行うことで散会したとのことだが、かのシリア内戦でも頻繁に交渉は行われている。現状では、話し合いの進展などはあまり期待できるものとは、なっていない。
 そこで頼みの一つは、国連だが、こちらは「いま直ぐ戦いをやめなければならない」(国連事務総長)とするものの、これまでのところ両者からの返事はないようだ。まさに、目にしたくない光景が伝わってきている。総会が開かれるらしいので、そちらに期待したい(その場では、アメリカはロシアを煽ることはするべきでない)。

 かたやロシアの姿勢については、かのアメリカの南北戦争時にリンカーンの採用した戦略構想「アナコンダ計画」(スコットによる)にも似て、首都キエフの経済封鎖が視野に入ってきているのではないか、そうであればまさに「大詰め」の展開へ向かって動いているのかと、心の憂いが深い。

 かたや西側(アメリカを含めて)のロシアに対する経済制裁は、国際送金網からロシアの特定の銀行を締め出すというのだが、ついにそこまでやったか、の感を拭えない(注)。さりながら、そのことによる経済効果は、当面は限られよう。その理由の最たるものとしては、やはりロシアは広大な領土かつ食糧、エネルギーも含めて耐久性を持った国家であるからだ。また、これまでのところ、ロシアの国論は大きくは分裂していない、と見た。

(注)なお、この制度(簡単にいうと、「SWIFT(国際銀行間通信協会)」の場をもって行うドル建て国際送金業務)からロシアを追い出し、もしくは縛りをかけたとしても(今回は後者の扱い、なぜなら、ヨーロッパはロシアからのエネルギー供給なくしては経済が立ち行かない)、アメリカとしては当面はよいとしても中・長期でみればリスクを抱えることになろう、その一つとしては、ロシアが中国の元(ユアン(続・注))で国際決済を行う路が考えられ、そうなるとロシアが大国であるだけに、ドルの国際決済通貨としての価値はそれだけ減じていくことになるかも知れない。いずれにしても、国際金融というのはアメリカにとってドル箱である訳で、第二次世界大戦後の金融覇権の継続なくしては、アメリカ経済は困る訳で、その段になれば、アメリカとしても何らかの妥協が必要になろう。

(続・注)CIPS(RMB Cross border Interbank Payment System:日本語でいうと「クロスボーダー人民元決済システム」、俗称としては、その頭文字をとって「シップス」 という。)

 したがって、このまま推移するならば、核兵器の恐怖云々も含めて、ウクライナ側はやがて交戦そして生命維持の限界期に直面することになりかねない。しかして、今夜の日本での報道・評論の中では、外部からNATOが軍を派遣して助けに行く可能性を指摘する向きもあった。しかし、そんなことをすればヨーロッパは一大大戦へ向かって歩むことなしとしない、このように多くの人々の命が直接的に関わっている時、不用意な発言は厳に慎むべきであろう。
 重ねて言いたいのは、両側とも頭を冷やして、今こそ双方が妥協して、事態を打開していくことであろう。日本では、一部に(マスコミでは、相当程度か)、この戦争を決着がつくまでやり尽くせばよいかのような雰囲気さえ感じられて、
「気は確かか」と言いたい。ついては、かつての戦争モードの日本を思い起こさせるかのような発言や行動に、私たち国民は決して振り回されてはなるまい。

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🔶1177『自然と人間の歴史・世界篇』地球温暖化問題をどうとらえるか(二酸化炭素による温暖化に疑問を呈する見解の紹介)

2022-03-01 09:12:11 | Weblog
1177『自然と人間の歴史・世界篇』地球温暖化問題をどうとらえるか(二酸化炭素による温暖化に疑問を呈する見解の紹介)

 2022年2月の只今、地球上を一見席巻しているかのように見受けられる地球温暖化論については、別の「地球事変」などの項目においても紹介した。
 そこでも慨嘆したように、この問題にはなかなかに理解が難しい論点(例えば、「次の氷河期が来る時期を分からなくさせている」)も導入されている。ついでにいうと、私のような経済学徒も、この問題をどう扱うかにつき、かなりの程度翻弄されてきた。まずは、次の赤祖父氏(地球物理学者)の提言から、引用したい。

 「ここで強調したいのは、気候学は基礎化学の地位を取り戻すべきだということである。それなくしては、この研究は関係のない団体に振り回され、正確な予測をすることができない。一方、環境団体は地球温暖化より目前に起きている環境破壊、汚染、過剰収穫、過剰森林伐採、無責任開発を監視する従来の目的のため努力すべきである。「国際環境破壊防止パネル」を設立すべきである。炭酸ガスばかりに注意が集中し、それよりはるかに重要な本来の目的への努力が薄れているのではないか。(中略)
 地球温暖化問題は贅沢者の問題であるとも言える。官僚にとって格好良い問題として、税金の無駄づかいをしてもらっては困る。世界最大の問題の一つは貧困である。裕福国と貧困国との差である。この問題を解決しない限りは世界は不安定である(テロの発生源でもある)。したがって貧困こそ世界人類にとって将来の最大問題ではないのか。なぜこの現存する重要問題より不確定な温暖化問題に集中しなければならないのか。裕福国と貧困国の差をできるだけ縮める努力こそ必要ではないか。」(赤祖父俊一(あかそふしゅんいち)「正しく知る地球温暖化ー誤った地球温暖化論に惑わされないために」誠文堂新光社、2008)

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 ここで、同著の立場を、一般に分かりやすい形で、ごく大まかに紹介すると、次のような論理になるのであろう。

(1)大気物理学者による物理学的考察と自然科学的考察との対決、前者が優位。この問題において後者の立場に立つと、「炭酸ガスの放出量が急速に増加し始めたのは、1946年頃であるので、この1800年代からの直線的気温上昇は自然変動であるという確固たる証拠の一つになる」と。
(2)コンピュータは人間からロジックを教えられ、計算しているに過ぎない。いうなれば、私たちは、IPCC(国際気候変動パネル)のコンピュータによる未来数値を見ている。
(3)「コンピュータを使う研究者に警告しておきたいことは、コンピュータにより次の4つの可能性があることである。(1)正しい仮定で観測結果が再現される。(2)誤った仮定で観測結果が再現される。(3)正しい仮定で誤った結果が得られる(コンピュータのプログラム・エラー)。(4)誤った仮定で誤った結論が得られる(当然である)。
(4)IPCCは、学術団体ではなく、運動団体である。「IPCCの考察が圧倒的に優位なのは、彼らの結論を一方的な情報によりセンセーショナルに報道するプロパガンダ・マシーンを背にしている、からである。」
(5)「自然変動を同定し、現在進行中の温暖化からそれを差し引くことによって、人間活動による炭酸ガスによる温暖化率を推定」。
(6)「自然変動に対抗しようとし、あわてて無駄金を使うのは馬鹿げている。」

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 ここで視点を変えて、赤祖父氏が人類史と気候との関わり具合について、論及した場面があり、歴史学の分野においても大いに参考にされてよいのではないだろうか、以下にそのさわりの部分を引用しておく。

 「二つの大氷河期の間の短い期間を「間氷河期」と呼び、だいたい数万年ほど続く。現在の間氷河期は約15000年前から始まり、気温は約10000年前にそのピークに達し、その後多くの変動はあったが、1400年頃~1800年頃まで気温は少しずつ低下を続けてきた。
 ここで言いたいのは、まず第一に、この間氷河期のために現在の文明が栄えているのである(シベリアから陸橋を渡って行われた原住民の北米大陸への移動も、この間氷河期の始まりに起きたということである)。大氷河期にはヨーロッパも北米の大部分も氷河に覆われていた。第二に現在の間氷河期における気温のピークは約10000年前であったことである。
 すなわち、現在より暖かい期間が数千年の間に何回もあったのである。現在気温が大体中世の温暖期の気温と同じであるとすると、現在の間氷河期中、現在の気温より激しく変化した。繰り返して強調するが、最も重要な事実は現在より暖かかった時期は何回もあったということである。すなわち、現在の気温が過去10000年の記録からは異常に高いと言うことはできない。
 IPCCは前の間氷河期を除いて現在の気温はかつてなかった異常現象としているが、それは誤りである。現在起きている温暖化によるとされる多くの現象がかつてなかった異常なものであったかどうかは、正確には知る由はない。しかし現在の気温が極めて異常であると印象づけるような表現が使われたことは遺憾である。」(前掲書)


(続く)

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