◻️211の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、森田思軒)

2019-09-30 07:52:58 | Weblog
211の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、森田思軒)

 森田思軒(もりたしけん、1861~1897)は、新聞記者であるとともに翻訳家。本名は、文蔵という。備中の笠岡の生まれ。
 1873年(明治7年)には、慶応義塾の大阪分校でで英文学を学ぶ。1877年(明治10年)頃には帰郷する。井原の興譲館に入り、漢学も学ぶ。
 1882年(明治15年)になると、矢野竜渓(政治家、小説家)に見いだされる。東京に出て、矢野の紹介で、同年郵便報知新聞の記者となる。やがて、編集にも関わっていく。
 そのかたわら、英文学の翻訳にいそしむ。主に、英文学ヴィクトル・ユーゴーの「探偵ユーベル」「懐旧」、ジュール・ヴェルヌの「十五少年」など。
 原作の英訳からの翻訳が中心であるものの、漢学の素養を生かした周密文体といわれる「直訳」文章で、在来の乱雑な翻訳の文体を一新していく。より多くの読者の獲得を実現していく。あらたな文体ということでは、二葉亭四迷や森鴎外とともに、現代への橋渡しの役割をになう。
 大成するまでの時間があたえられなかったものの、近代日本の裾野を大いに広げた功績は、永く語り継がれていくだろう。

(続く)

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◻️265の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、米川文子(初代))

2019-09-29 21:16:33 | Weblog
265の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、米川文子(初代))

 米川文子(よねかわふみこ、初代、1894~1995) は、明治から昭和時代にかけての地歌・箏曲(そうきょく)家。米川琴翁(きんおう)と米川正夫の妹。現在の高梁市間之町の生まれ。
 幼い頃から、芸の道を歩んだのであろうか。山脇高等女学校を中退したのだと伝わる。1905年に、東京に出る。姉の米川暉寿(てるじゅ)や小出とい、菊原琴治らにも師事したという。
 一人立ちには、時間がかかったようだ。生田流という、伝統芸に属す。1927年(昭和3年)以来、双調会を主宰する。1937年(昭和10年)には、「地唄舞」の研究会を開く。それから、地歌の普及に邁進する。
 演目の「松竹梅」などを聴くと、その調べは、なんともゆったりしている。歌いかたも、長々している。琴の中でも、先鋭化したり、独特の気風とは無縁であるかのように感じるのだが。
 1941年(昭和16年)には、人間国宝に認定される。1953年(昭和28年)には、芸術院会員、その3年後には文化功労者。「一筋の道」を描いて、次の世代にその伝統を引き渡していく。「お見事」というしかあるまい。

(続く)

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◻️239の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井直三郎)

2019-09-29 19:11:27 | Weblog
239の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井直三郎)

 石井直三郎(いしいなおさぶろう、1890~1936)は、歌人。小田郡矢掛村(現在の小田郡矢掛町)の生まれ。
 矢掛中学校から第六高等学校を経て、1914(大正3)年、東京帝国大学国文科を卒業する。
 六高在学中には、六高短歌会に加わって尾上柴舟の指導を受ける。社会にでると、万朝報の美術記者となり、見聞をひろめることができたのではないか。やがて、東京帝室博物館嘱託さらに第八高等学校教授を勤める。
 1914(大正3)年、尾上柴舟主宰の「水甕」創刊に参加する。社を自宅に置くなどして経営にも参画する。雑事にも、尽力するのをいとわない、ひたむきな性格であったようだ。 1925(大正14)年には、雑誌「青樹」を創刊するも、後に「水甕」と合併。
 歌集としては、『青樹』を発行、147首を収める。その中には、歌人のたおやかな心情が写し出される。
「山幾重夕山いくへ鳴かぬ鳥さびしき鳥のおちて入る山」
「ほたほたと青葉の雫おつるおと霧こめし月の夜半にきこゆる」
「こまやかに張れるこずえに陽をうけて芽ぶかむとする樹々のしづけさ」

(続く)

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◻️211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

2019-09-29 11:15:14 | Weblog
211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

 馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原市)の生まれ。
 どういう気持ちであったのだろうか、13歳にて、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、鴻池家で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
 その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
 明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、当人は、何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
 播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(後の三井物産社長)の世話にて、井上馨(かおる)の設立した先収会社に入るのが、1873年(明治6年)であった。その後身の三井物産で横浜支店長(1876)、元締役、売買方専務を務める。
 と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。その後には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。
 そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)なには、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
 茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。

(続く)

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◻️192の4の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)  

2019-09-27 22:48:50 | Weblog
192の4の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)
 
 緒方研堂(おがたけんどう、1814~1871)は、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町)の生まれ。本名を大戸惟嵩という。字(あざな)は子文。通称は郁蔵という。少年の頃、漢学者であり蘭学医の山鳴大年について漢学を学ぶ。大年の勧めによって、江戸に出て、津山藩の儒学者、昌谷精渓(さかやせいけい)の塾に入る。
 その後、坪井信道の塾に入り蘭学を研究する。その塾で、足守の出身である緒方洪庵と出会う。
 1838年(天保9年)、大阪で適塾が開業したことを聞いて、洪庵の所へかけつける。そこで研堂は塾頭となり、蘭学や医学を研究する。そのうちに塾頭となり、患者の治療の手助けも行う。洪庵を兄と慕う、やがて義弟となり、緒方研堂と名乗る。
 さらに、独笑軒という塾を大阪に開き、独立を果たす。以来、世間では、洪庵の塾を北の緒方、研堂の塾を南の緒方と呼んだらしい。そのかたわらか、土佐の高知藩で洋学を教えたという。
 時代が改まっての1868年(明治2年)には、明治新政府は大阪医学校を開くことになり、研堂を少博士待遇にて招く。そこでは、洋書の翻訳、教授及び治療に従事する。

 

 その塾名からもうかがえるように、随分と気さくな人であったのかもしれない。訳書に、「内外新法」「療疫新法」などがあるというから、治療の仕事の上に、そちらの仕事も引き受け、すべからく「世のため人のために」粉骨砕身していたのであろうか。

(続く)

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◻️267『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、河野磐)

2019-09-26 20:19:07 | Weblog
267『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、河野磐)

 河野磐(こうのいわお、1920~2011)は、教育家にして画家、演劇家でもある。
1937年(昭和12年) には、津山中学校(現在の津山高等学校)を卒業する。それから京都に出て、1941年(昭和16年) には、国立京都高等工芸学校(現在京都工芸繊維学校)を卒業する。
 その翌年には、 美作高等女学校、津山女子商業高校での教職を得る。
やがて軍に召集される。「北支山西省から河北省へ。万里の長城で終戦を知る。蒙古自治政府宣北省延慶縣察哈爾省八達嶺の警備を終え、その年の暮れ津山に帰着」というのが、本人の述懐。
 1948年(昭和23年)の学制改革により、岡山県美作高等学校、岡山県美作中学校の教諭。1951年(昭和26年)には、退職し、東京移住。友人に救われ、東京チャペル・センターで働く。
 それからかなりたっての1968年(昭和43年) には、帰郷して、美作女子大学と美作短期大学の教授に就任する。
 そしての1990年に同大学を 定年退職し、画業などの創作活動に専念する。それからも、自宅には、連日のような賑わいがあったのであろう。
 それというのも、河野の偉大さというのは、画家の枠をはみ出したかのような明るさにあったに違いあるまい。中でも、演劇部活動の座長役さえも厭わず、同大学の教え子はおろか、津山高専生なども、椿高下の自宅に招き入れ、演劇を教える、まるで相手が友達であるかのような接しようであったから、皆が慕うのは不思議ではなかろう。
 その温かな人柄にも似た絵や手作りの西洋人形などには、鮮やかな色彩美がつとに感じられよう。没後2年を経て開催された個展では、「描いた風景は暖かくて心が和むものでした。また、存在感のある映画のポスターや演劇のポスターなどが並んでいる」という賛辞が寄せられる。

(続く)

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◻️232の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤清明)

2019-09-25 21:21:49 | Weblog
232の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤清明)
 
 佐藤清明(1905~1998)は、博物学者。里庄町の生まれ。
 金光中学校(現在の金光学園高校)に入る。卒業後は、はやくも植物・動物学者への道を歩んでいく。やがての1931年(昭和6年)からは、清心女学校・清心女子高校にて理科や生物を教える。植物学を中心に調査・研究に励み、牧野富太郎、南方熊楠らとも親交があった。特に、牧野からは色々教えてもらう間柄であったらしい。
 そしての戦後、佐藤は、実に1987年(昭和62年)に至るまでを同校で教え続ける。この間、同校「紀要」などに論文を相次いで発表していく。いわく、「伯耆大山の昆虫相」(1968)や「岡山に自生する固有植物」(1969)、「岡山県における固有動物」(1971)など、並々ならぬ努力であったようだ。 
 それらの仕事の傍らであったのかどうか、日本ではじめての妖怪事典「現行全国妖怪辞典」を出版する。
 
 没後の21世紀に入っては、新たな事実が判明したという。米スタンフォード大のヒューバート・スケンク博士との間に交流があった。そのことを踏まえての特別陳列が、佐藤清明資料保存会と里庄町立図書館、同博物館の共同で企画されるとのこと。備前地域の貝の標本を送ってほしいというスケンク博士からの手紙に応じた佐藤は、彼から返礼品として米西海岸の貝の標本の寄贈を受けた、それらが陳列されるとのこと。

(続く)

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◻️157『岡山の今昔』岡山人(12世紀、那須与一)

2019-09-25 10:05:00 | Weblog
157『岡山の今昔』岡山人(12世紀、那須与一)

 「平家物語」の「屋島の戦い」(1185年(元暦2年))のところでは、戦いの最中、さらに切迫したかのような主従のやりとりが、こう記されている。
 「さりながら扇あふぎをば、射させらるべうもや候さふらふらん」と申まうしければ、判官、「御方に射つべき仁じんは、誰たれかある」と問ひたまへば、「手練てだれども多おほう候ふ中に、下野しもづけの国の住人ぢうにん、那須なすの太郎たらう資隆すけたかが子に、与一宗隆むねたかこそ、小兵こひやうでは候へども、手は利いて候ふ」と申す。判官、「証拠があるか」。
 「さん候ざふらふ。翔け鳥などを争うて、三みつに二つは、必ず射落とし候ふ」と申しければ、判官、「さらば、与一呼べ」とて召されけり。与一その頃は、いまだ二十ばかんの男をのこなり。褐かちに、赤地の錦をもつて、大領おほくび端袖はたそで色へたる直垂ひたたれに、蓬威もよぎをどしの鎧着て、足白あしじろの太刀を履き、二十じふ四差いたる切斑きりふの矢負ひ、薄切斑に、鷹の羽割り合はせて、矧はひだりける、ぬた目の鏑かぶらをぞ差し添へたる。重籐しげどうの弓脇に挟み、兜をば脱いで高紐たかひもにかけ、判官の御前まへに畏まる。」

 これにある那須与一(生年は1166~1169の間か、?)なる人物は、「吾妻鏡」などの史料には見えない。その代わり、軍記物である「平家物語」や「源平盛衰記」といった伝承織り交ぜての軍記物に、英雄として華々しくも登場する。
 ついては、現在までに実在が立証できていない人には違いないものの、その類いの武士が何らかの形で武勲を立てた可能性は相当程度あるのではないだろうか。その誕生地は、一説ながら、当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測される。

 かかる伝承でいうと、彼は、治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わる。源義経に従軍しての屋島の戦いにおいて、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落としたという。そのことで、「にっちもさっちもゆかなく」なっていた戦局にどのような変化があったのかは、わからない。
 ともあれ、それらの軍功を挙げたことにより、与一は後年、源頼朝より丹波・信濃など5カ国(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)の地頭職を賜った旨。
 とはいえ、この点の真偽につき、西国での地頭の布置が大々的に行われるのは、承久の変の後、幕府側が朝廷から多くの土地を奪ってのことであった。そのことを考えると、同軍記の書きぶりにはかなりの誇張があるのかもしれない。

(続く)

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◻️266『岡山の今昔』 岡山人(20~21世紀、藤澤人牛)

2019-09-23 13:40:52 | Weblog
266『岡山の今昔』 岡山人(20~21世紀、藤澤人牛)

 藤澤人牛(ふじさわじんぎゅう、1925~2008)は、玉島黒崎出身の日本画家。本名は、樹。22歳の時に、岡山県美術展で「合同新聞社賞」を受賞する。2002年には、倉敷市文化連盟賞を受賞する。   
 後半生には、学校の美術教師を離れる。それからは、自分の画業を解き放つ試みを重ねていく。
 やがては、抽象画へ、造形、立体的なオブジェへ。さらに自然の造形を自分の頭の中で再構成して描くなど、工夫も独特のやり方であったのではないか。
 晩年になると、今度は墨を用いて、自身のその時々の心象をものにしていったみたいだ。要するに、画家ならではの気ままな生き方を追及し尽くしたの感あり。そんな自由奔放さが、また人を惹き付ける。その笑顔は、不思議な人間味を醸し出す。年来が、特別の画壇や派閥に無縁であったことも、そんな彼の生き方を支えた。

(続く)

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◻️232の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柚木久太)

2019-09-23 10:17:58 | Weblog
232の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柚木久太)

 柚木久太(ゆずきひさた、1885~1970)は、洋画家。玉島(現在の倉敷市玉島)で生れる。父は玉邨と号す南画家であり、幼い頃から、絵の手解きを受けていたのではないか。
 県立岡山中学校(現在の朝日高校)に入る。卒業すると、明治39年満谷国四郎の門に入る。翌年から太平洋画会研究所に属す。一方では、東京美術学校の聴講生となる。
 1911年(明治44年)に開催の第5回文展に出品すると、「鞆津(ともつ)の朝」が入選する。
 同年フランスに留学、アカデミイ・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。
 大正4年には、帰国する。以後、文展や帝展に出品をつづける。1927年(昭和3年)には、帝展審査員となる。戦争中の空襲により、東京・田無のアトリエが焼け、かなりの作品を失う。
 戦後の作品では、伸びやかな画風に磨きがかかる。「湖雲一帯」には、雄大な自然に流れる時間を感じさせる。その画業のかたわら、晩年は日展評議員、参与をつとめる。

(続く)

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◻️232の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進)

2019-09-23 09:13:36 | Weblog

232の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進)

 河野進(こうのすすむ、1904~1990)は、キリスト教プロテスタントの牧師。
 和歌山県の生まれ。満州教育専門学校を経て、神戸中央神学校で学ぶ。よほどの宗教心が培われたのであろう。卒業すると、玉島教会において牧師となる。
 やがて、賀川豊彦より、岡山ハンセン病療養所での慰問伝道を勧められたらしい、それ以来長きにわたりたづさわる。
 そんな河野には、おりに触れての、素直な心情を吐露したかのような詩がある。その中から、幾つか紹介しておこう。

「ぞうきん」
「困ったときに 思い出され
用がすめば
すぐ 忘れられる
ぞうきんになりたい」
 
「一日」
「不平の百日より 感謝の一日を
憎しみの百日より 愛の一日を
失望の百日より 希望の一日を
悪口の百日より ほめる一日を
戦争の百日より 平和の一日を
罪の百日より 赦された一日を
悪魔の百日より 天使の一日を」
 
「美しさ」
「川の美しさは 清い水の一滴から
海岸の美しさは 白い砂の一粒から
木の美しさは 緑の一葉から
人の美しさは やさしい一言から」


(続く)

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◻️211の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井手訶六 )

2019-09-22 21:51:10 | Weblog

211の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井手訶六 )


 井手訶六 (いでかろく、1898~1928)は、大正から昭和時代前期にかけの小説家。
 なかなかの苦労家であり、幼児期、一家離散となり養子に行く。後に井手家に戻る。しかし、肺結核で金光中学を中退を余儀なくされる。その頃に見ていたのは、何であったのだろうか。
 1910年(明治43年)に応募の「霹靂(へきれき)」で1等をとる、またそれは、「新しき生へ」と改題することて、さらなる読者を獲得する。
 つづいての1913年(大正2年)には、谷崎潤一郎の「痴人の愛」連載中止のあとをうけて、「炬を翳す人々」を連載する。1915年には、「主婦の友」に「十字路の乙女」を連載する。長編小説へと歩行を進める。ファンらの期待も、大きく、次が期待される。しかし、年来の身体に無理があったのだろうか、流行性感冒がもとで帰らぬ人となる、まだ31歳の働き盛りであった。

(続く)

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◻️232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

2019-09-22 20:59:45 | Weblog
232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

 2017年の新聞が、画家、池田遙邨の代表作をこう伝える。
 「関東大震災描く「災禍の跡」 岡山・倉敷市立美術館が所蔵、池田遙邨、転機の異色作/中国
「池田遙邨名作選」を担当する前野嘉之学芸員=岡山県倉敷市中央2の市立美術館で、小林一彦撮影
 岡山県出身の日本画家で、文化勲章を受章した池田遙邨(ようそん)(1895~1988)は、ひょうひょうとしたユーモア漂う画風で知られる。しかし、それが遙邨の創作のすべてではない。例えば、同県倉敷市中央2の市立美術館に所蔵されている「災禍の跡」(24年)。1923年9月に起きた関東大震災をテーマにした屏風(びょうぶ)作品だ。(小林一彦)」(毎日新聞、2017年3月7日付け)
 ここに紹介される遙邨は、この大震災の発生時には京都にいたという。連日のように画業に励んでいたという。その地震発生直後、何を思ったのか、被災地に行く。
 そんな中、目の当たりにした光景を、後に描く。
 「地平線が画面下方に設定されているため、被災地が果てしなく続いている状況が想像できます。こうした光景は、中央にいる子どもの目の前にも広がっていたはずです。遙邨は、400枚にのぼる被災地のスケッチをしていますが、この作品は写生から始まってイメージの中で再構成することにより、現実をそのまま写す以上に、震災の恐ろしさ、悲惨さを訴えています。」(同)
 この批評にもあるように、画家たるもの、眼と脳に刻んだ像のエッセンスを表現しようと格闘したものと見える。
 そんな彼は、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、1910年(明治43年)に大阪に出て、洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入る。

 1913年(大正2年)には、福山で水彩画による、初の個展を開く。翌年の第8回文部省美術展覧会に「みなとの曇り日」を出品する。1919年(大正8年)になると、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入る。そして、第一回帝国美術院展覧会(帝展)において、「南郷の八月」で入選を果たす。昭和に入ると「昭和東海道五十三次」のように清新な画風に変わる。
 戦後になると、さらに画風をリニューアルしていく。伝統や慣習にとらわれないのを理想にしたものと考えられる。


(続く)

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◻️192の4の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、浮田幸吉)

2019-09-22 20:26:43 | Weblog
192の4の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、浮田幸吉)

 浮田幸吉(うきたこうきち、1757~1847)は、日本で初めて、空を飛ぼうとし、かつまた、そのことを本気で試みたのでしられる。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)などの別名をもつ。
 備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男に生まれる。7歳で父を亡くし岡山の紙屋兼表具屋に奉公に出る、そこで表具を習う。
 面白いのは、日々の修行のかたわら、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究するのであった。伝承によれば、鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを「人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と考えたらしい。
 やがて表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張る。それをもって、柿渋を塗るなど強度を持たせたる工夫を施し、翼を製作する。
 しかし、なかなかにうまくできない。試作を繰り返すうちの1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がる。頼みの風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。
 おりしも、河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、岡山藩から咎めを受ける。時の藩主池田治政により岡山を所払いとされてしまう。「世間を騒がし、けしからん」というのであったろう。この出来事については、同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』などにも取り上げられる。
 その後は、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開く。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせる。さらに、自身は歯科技師「備考斎」と名乗り、晩年を、遠州見附宿(現在の静岡県磐田市)で暮らす、はしなくも「やるべきはやった」の境地であったのだろうか。

(続く)

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◻️232の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田文輔) 

2019-09-19 10:07:45 | Weblog

232の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田文輔)

 本田文輔(1910~1936)をご存知だろうか、彼は、大学生にして、共産党の活動家てあった。その後半は、日本が侵略戦争にのめり込んでいく中での、劇的な人生であった。
 生まれは、英田郡江見村が原籍なのだが、小学校教師の父親の任地との関係を考えると、断定は難しいようだ(大林秀弥「本田文輔のこと」)。
 1927年(昭和2年)には、第一岡山中学校を卒業し、第六高等学校の理科甲類に入学する。そこを1930年(昭和5年)に卒業後は、京都大学の文学部哲学科へとすすむ。と、ここまでは当時の若者の中では、相当に恵まれた境遇であったのであろう。それに、秀才ということでも地方での誉れが高かったようだ。
 そんな本田が、学生生活2学年を迎える頃には、マルクス的立場から、社会問題に大きく立ち入るまでになっていた。なお、マルクスをどれだけ読んでいたのかは、わからない。それというのも、1932年(昭和7年)9月7日には、内務省管轄の特別高等警察に検挙されたという。
 はたして、当時の世相はといえば、「きな臭さ」を増しつつあった。何らかの政治活動が理由なのであろうか、もしくは、そのような「危険」思想を抱いているか、国策に反対する政党に関係しているのではないか、などでの嫌疑がかかっては、簡単に連行される時代であった。ましてや本田は、もういっぱしの活動家(日本共産同盟京都都市委員会委員長)となっていたのだから、仲間とともにこの日一斉検挙に連座して逮捕される。
 そのまま12月には、治安維持法により起訴される。さしあたりの量刑は、「懲役六年又は七年」(大林、前掲書)であったという。それから数年だった1936年(昭和11年)5月8日(推定)には、彼の岡山刑務所内での死亡が伝えられている。そのことから、「非転向」のため、たんなる刑務所暮らしではなくて、拷問をふくむ尋問が続いていたのであろう。この点につき、刑務所の記録は、刑務所内での「自殺」とされているようなのだが、この時期での他の例と同様に信用するに足らない。

(続く)

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