○○72『自然と人間の歴史・日本篇』東西文化の交流

2016-11-29 21:23:17 | Weblog

72『自然と人間の歴史・日本篇』東西文化の交流

 ここに「シルクロード」というのは、この道を通って中国産の絹や綿(織物を含む)などの名産が遠くインドや西アジア、さらにローマ帝国にもたらされたことによる。その逆に、ローマ、そして西アジアの方から中国などにもたらされたのに羊毛や綿(織物、絨毯を含む)などに加え、ガラスなどの工芸品もあった。特に、西に向かった絹は、パミール高原を越えて更に延々西アジアを横断したり、一旦南に下ってインドの西海岸の港を経て、地中海世界へと向かったことが知られている。 

 こうした東西世界の物資流通のそもそもの始は、西の地域は1~3世紀に現在のアフガニスタン、パキスタンの相当領域を占めていたクシャーン王朝、東は中国の漢の時代に遡り、これ以降王朝が変遷していくうちにも、莫大な利益が得られることから、東西の世界を行き交う商人達の力は引き続き発揮されていった。この道が、世界史の表舞台に登場するのは、中国に国際国家としての唐王朝が現れ、東西文化の一大交流地となってからのことであった。
 双方を東西につないでいたこの道の名の由来は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンがドイツ語で「ザイデンシュトラーセ」(Seidenstrasse、南の道)と命名したのが淵源。その後、スウェーデンの考古学者ヘディンが著作に用いてから、徐々に一般化していった。広い意味では、北方の草原ルート、そして南方のインドからの海上ルートも含めて言われるものの、通常は、中国の長安(現在の西安)を西に向かって発し、嘉谷関(かこくかん)、敦煌(とんこう、現在の甘粛省))からタリム盆地(現在の中国の新疆(しんちゃん)ウイグル自治区にあたる、パミール高原の東、天山山脈と崑崙山脈に南北を挟まれた盆地のことで、その大部分がタクラマカン砂漠という乾燥地帯))を経由するルートの方を指しており、別名で「オアシスの道」と呼ばれることもある。
 さて、こちらの主たる東西回廊には、およそ三路が通じていた。まず、敦煌の北方に位置するハミを起点に天山山脈の北側を横断して、ウルムチ、イリへと進んで西トルキスタンに至る。西トルキスタンは、パミールなどの高原地帯から砂漠を経てアラル海に祖続アム河、シル河流域を中心とする地方のことだ。この地を南下すれば天山南路に、西進すれば草原の道に合流する。
 これに続く東西交易路が、天山山脈の南側を通るコースを「天山南路」である。この道は、北と南の二手に分かれる。前者を「天山南路北道」といい、タリム盆地の中心にあるタクラマカン砂漠の北を通っていく。こちらは、敦煌西方の玉門関(ぎょくもんかん)を発ち、トルファンから天山山脈の南縁に沿って西に向かい、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルに、さらにそこからパミール高原を西に渡っていく。フェルガナからの道は二手に分かれる。一方は、アラル海やカスピ海の南側を通ってコルガン、テヘラン、バクダットへと進む。さらにシリア砂漠の中のオアシスであるパルミラを経て、レバノンまでつないで地中海、そしてヨーロッパに通じ、もう一方はサマルカンドを経由して、西域南道に合流する。
 もう一方の南を通る道は、「天山南路南道」(西域南道)と呼ばれる。この道については、玉門関から楼蘭(ろうらん)を経由し、タクラマカン砂漠の南縁に沿って、チェルチェン、ホータン、ヤルカンドを経てカシュガルに、そこからはパミール高原の麓を経由してタシュクルガンへと出ていく。さらに下ってはインドへ向かう道と、イランを経てローマに向かう道とに分かれていた(以上の詳細なルートの図解は、NHK取材班編「写真集シルクロード・西域南道」、日本放送出版協会、1981、平山郁夫「シルクロードをゆく」講談社1995所収の「シルクロード主要路」など)。
 このシルクロードを通って、およそ1~9世紀の間に東の世界に伝わった物は、種類、物量とも多い。中国へ伝わった物の中には、それから朝鮮や倭・日本に伝えられたものも含まれる。
(中略)
 次に、中国から更に東の地域への品々、より大きくは文化の流れであるが、こちらもかなり旧くに遡る。例えば、3世紀に著された『魏志倭人伝』によれば、魏の明帝の時代、倭の邪馬台国女王・卑弥呼の使節が朝貢してきたのに対し、女王には「親魏倭王」の金印を、使節には「率善郎中将」、「率善校尉」の銘の入った銀印を与えたことになっている。さらに織物も与えていて、それにはこうある。
 「制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也。」
 書き下し文:「制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜うなり。」
 現代訳:「制詔、親魏倭王卑弥呼。
 帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝に好物を下賜するのである。」
 これにある「絳(あか)地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹」と続くのは、いかにも大国からの返礼を匂わしており、品数の多さでも圧倒されたのであろうか。そのほかにも、紺地勾文錦、細班華○(おりもの)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠(朱)、鉛丹各五十匹」(同)をあげている。これと同様の「親魏大月氏王」が、当時の大月氏の国王波調に与えられていることから、こちらも少なくとも同程度の品々が授けられたであろうことは、想像に難くない。
 また、正倉院に保管されている品々の種類は、天皇や有力貴族が使っていたあれこれの生活用具、楽器、遊び道具から楽人( がくじん )や役人の服、さらにシルクロード諸国のものまであって、その数は9000点を超える、とも言われる。

(続く)

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○○182『自然人間の歴史・日本篇』外国人が見た江戸初期の日本

2016-11-17 22:34:48 | Weblog

182『自然人間の歴史・日本篇』外国人が見た江戸初期の日本

 1690年(元禄3年)、エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ東インド会社の医官として長崎に来日した。江戸にも二回行き、見聞を広げた。彼は、北ドイツのレムゴーの出身で、ドイツ国内各地の大学に遊学し様々な学問を修めた。メソポタミア文明の文字を「楔形文字」と呼びならしたのも彼だと伝わる、博物学者であったらしい。やがて、スウェーデンがペルシアに送る使節団の一員に加わり、更にその後オランダ東インド会社に医師として雇われた。アジア各地を経てケンペルが来日したのは39歳、油ののった元気な時であったろう。
 後年、故国に帰ってからは、アジアでの見聞録「廻国奇観(かいこくきかん)」を出版したほか、『日本誌ー日本の歴史と紀行ー』(上・下今井正訳、霞ヶ関出版、1973:『新版改訂・増補日本誌(6)ー日本の歴史と紀行』 (古典叢書))や、『江戸参府旅行日記』((東洋文庫303))、斉藤信訳、平凡社、1977)も手掛ける。
 当時のオランダ商館長は、年に一度江戸まで参府するのが慣わしであった。ケンペルはこの使節団に二度随行し、江戸に行くことになる。当時、オランダ商館のあった長崎・出島は、長崎港に突き出た扇形の、一周わずか560メートルの人工島であり(1864年撮影の写真が『F・ベアト幕末日本写真集』に収められている)、おそらく欣喜雀躍(きんきじゃくやく)しての旅立ちだったのではないか。当時の五代将軍綱吉にも拝謁している。ここでは『江戸参府旅行日記』から中、江戸の入口の品川にさしかかる「鈴ヶ森」(現在の東京都品川区)の記事を紹介させていただく。その時の当地は、歌川広重の『南品川鮫洲海岸』のような、潮干狩りの出来そうな遠浅の風景であったのかもしれない。
 「(四)鈴ヶ森。前の村から一里半の所にある小さな漁村で、そこでわれわれは休息のためしばらく足をとめた。神奈川から江戸までの海底は沼のようで、全く深くない。それで干潮時には水はすっかりひいてしまう所がたくさんある。特にこの村の近くでは、潮のひいた後に残った二枚貝や巻貝や海草などが食用として採れるので、この村は潮干狩りで有名である。私は海苔(のり)を作っているのを見た。
 集めてきた貝には二種類の海草が一面に生えていて、一方は緑色で細く、もう一方は少し赤味を帯びていて幅が広い。両方とも貝殻からはぎ取り、別々に分け、それを水桶に入れ、きれいな水をかけてよく洗う。それから緑の方のものは木の板にのせ、大きな包丁で、タバコを刻むように非常に細かく刻み、もう一度水洗いして二フィート四方の木製の篩(ふるい)の中に満たし、何度も上から水をかけると、海草は互いにしっかりとくっついてしまう。次にそれをアシで作った簾(すだれ)すなわち一種の櫛(くし)状をしたものの上にあけ、両手でそっと押え、最後に日にあてて乾かす。あまり多くない赤い方の海草は、細かく刻まずに同じような方法で処理し、菓子のような形に仕上げ、乾いたら包装して売りに出すのである。(170~171ページ)
 次に、江戸を初めて見た時の発句に、こうある。
 「幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総(かずさ)と安房(あわ)があり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。」(同175ページ)
 代表作に戻って、アジアでの見聞録「廻国奇観(かいこくきかん)」(1712年)を出版した中では、日本についてかなりを割いて、当時の日本の文化についても、かなり詳しく伝えるところがある。学者らしいタッチで描かれている部分に「茶」の紹介があって、茶は畑のあぜに栽培し、三期に分けて摘み、抹茶にするてん茶、釜炒(い)り茶、硬い葉で作る番茶の三通りの製茶法があるからはじまって、これらの茶を製品に仕上げていく労働の大変さに触れている。その次は喫茶法のあれこれの習慣に付いて述べ、上流階級の飲み方だけでなく、中国式の注湯法や煮出して飲む庶民のやり方も紹介している。

 当時の医学と植物学とは密接な関係にあった。そのことからであろうか、さらに茶の効用の話に移り、最後になると、毎日強い茶を飲むと生命の原動力を侵し、体温と血液のバランスを崩すとか、脂っこい料理や豚肉をたくさん食べても体調のバランスを崩すといい、これらから双方を一緒に取るとかえって生命と健康を増進することを丁寧に説明しているのは、驚く以外にない。

 またこれに関連して、同書の第5部植物編においては、彼が同行の助手らに手伝ってもらって道中に収集した植物の押し葉標本(本人のメモ付)図が収められており、この原本は今もロンドン自然史博物館に保管されているとのことだ(雑誌『サライ』第15巻第24号通巻第348号に詳述解説あり、なお同雑誌には、ケンペルの来日から85年を経て、スウェーデン人の医師兼植物学者カール・ペーター・ツュンベリーが、帰国後に発表した『日本植物誌』(1784年刊)についても、ケンペルからの影響を認める)。

(続く)

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□67『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代以前)

2016-11-16 09:29:00 | Weblog

67『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代以前)

 備前の中心地・岡山へ通じる入口としては、さしあたり東西方向と北からのルートが一般的であった。古代のこの地域の地図を広げると、間近に海が迫っている。なので、南からのルートという場合には、後々の干拓なりを考慮する必要がある。1582年(天正10年)当時の岡山平野の南部一帯は、概ね平野であって、しかも東から西へ吉井川、百間川、旭川、笹が瀬川、そして倉敷川の下流域としてあったのだ。これらの河川が上流から運んできた土砂が浅い海に堆積してできた湿地帯なのであって、その先の湾(現在の児島湾)の向こうには、児島(こじま、現在の児島半島)が見えていた筈だ。1946年(昭和21年)から、国家事業で南部の干拓と敷地整備がすすんだ。これにより、1963年(昭和38年)までに約55平方キロメートルの土地を造成して、対岸の児島はついに地続きとなった。
 現在は、どうなっているだろうか。飛行機からの航空写真を観ると、画像を東西に横切って線状の構築物が走っている。北から順に山陽自動車道、山陽新幹線、そして国道2号線となっている筈だ。ここに山陽道(さんようどう)のかなり多くの部分は、これら3つの主要幹線とは、重なるところもあれば、少しばかり異なるところを通っていたとも言えるのではないか。江戸期までの山陽道は、「五畿七道」の一つとしてあった。この国の畿内と大宰府(だざいふ)を瀬戸内海沿いに連絡する主要な街道であった。この道は、備前国と備中国を、大方は平坦な道を通過していく。船坂峠で備前国に入る。三石、伊部を経由して、吉井川を渡り、一路、森下町の総門へと向かうのであった。
 ところで、宇喜多直家(うきたなおいえ)による築城以前のこのあたりは、「岡山・石山・天満三峰そばたち、南は海にのぞみ、東西は広野也。北にわづかの里民有て出石村也朝夕の煙たつばかり也」ともいい慣わされていた。当時はまだ辺鄙な田舎であった。この直家という人物は、元はこの地の豪族であった浦上氏の家来にして、上道郡浮田の亀山城に居たのだが、東国の北条早雲がそうであったようになかなかの策士であって、その知謀をめぐらして次第に勢力を得ていく。そして1573年(天正元年)、彼は、現在の岡山城趾、西の丸あたりに居城していた金光宗高を謀殺してこれを奪い、自らの居城とした。その父の居城であった石山城の東となりの丘陵を、「岡山」と呼ばれていた。
 やがて直家が没し、その跡を継いだ子の宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、天下人に昇り上がった豊臣秀吉の旗下に入って仕えるのに怠りあらず、その信認を得ていく。やがては、備前国、美作国、播磨国西半分と備中国東半分の57万4千石を与えられる。これに自身を深めた彼は、1594年(文禄3年)、その岡山の地に新しい城の本丸を構えることにし、その後8年間にわたって城の大改修を行う。この城づくりにおいて秀家が工夫したのは、多方面にわたっている。曰わく「秀家は本丸に高石垣を積んで天守を建て、直家の城下町を拡大して二の丸・三の曲輪(くるわ)として整備した。その普請工事は慶長2年(1597)に完成した」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)とある。どうやら秀家は、なかなかに土木と建築に長けた人物であったようである。
 ところで、現在の岡山城下の地形的な特徴としては、旭川の小さな蛇行をはさんで、城と城郭、そして掘割が設けられている。その外側にある、方角でいうと西側と南側が城下町の中心部であり、21世紀に入った現在の岡山市中心部なのである。本丸の東の守りが手薄であるとして、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように付け替えたとのだとも伝わる。つまり、交通の山陽道(西国往来)を旭川の流れの南に迂回させて岡山城下に引き入れたというのであった。この通説は、1991~99年にかけての岡山城の地質調査によって覆った格好となっていて、次のように訂正されるべきだろう。
 「本丸の縁を流れる旭河は、宇喜多秀家がはるか東方を流れていた旭川を付け替えた結果とされてきた。しかし、下の段南東部で高さ一六メートルと関ヶ原合戦以前では全国屈指の高さを誇る秀家期の石垣の基底を掘ると、石垣より古い一六世紀代の河道堆積層が見つかった。秀家以前から今とほぼ同じ位置に旭川がすでに流れていたのである。秀家が行ったのは、当時あったいくつかの河道のうち一つを選んで美顔を施し旭川を固定したこととみられる。」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)
 これが事実なら、秀家は既に在った旭川の分流の中から一つを選んで土手を積み上げ、大きな流れとなるように変更したのではないかと考えられるに至っている。また一説には、旭川を城下北方で二流に分けて洪水に備えたのだ、とも言われる。
 この城普請の後は、東から来て岡山城下に入るには、備前(現在の備前市)の方から当時の山陽道をやって来る。現在の国道2号線(旧山陽道)を北東から南西に辿って歩いてくる。そのうちに旭川東岸にあった森下町にたどり着く。当時のそのあたりはまだ、城下町の外延部と言ったところか。それから古京町へ移る。森下町の土地柄は、元はといえば備前の国上道郡国富村に属していた。それが、桃山時代の天正年間に、城下町の山陽道東入口として位置づけられたのだと考えられる。そこに相生橋が架けられてからは、旅人はその橋を渡って城下に入ることもできた。旅人がこの橋を渡ったところは現在の内山下(うちさんげ)地区である。そこには既に城下が展開している。
 その頃、東の方からやって来て岡山を通り抜けようとする旅人のかなりは、むしろ森下町、古京町と旭川東岸を下って、門前屋敷町を通っていたのかもしれない。やがて旅人の視界に国清寺の大伽藍が入ってくる。その前を右折してからは直進して、旭川の長い中州に架かる京橋を西へと渡る。1847年(弘化)この橋が駆けられた時に描かれた木版画が残っている(岡山市立図書館蔵「国庫文庫の中の「京橋渡り初めの図」」として)。そうして旭川を人びとが渡った先は、京橋南町、その北は西大寺町が展開していた。かけ彼らのそれからの進路であるが、山陽道をなお西へ進んでいく。一宮を経て西辛川で備中国に入る。板倉宿を過ぎて、備中国分寺を見る。それからは高梁川を渡り、川辺宿に到る。さらに古の国分寺の立っている吉備へと歩を進め、本陣の残る矢掛(やかげ)を過ぎ、井原(いはら)を過ぎて、さらに隣国の安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)へとつながっていく。
 そこからの城造りは、関ヶ原の役で西軍に属し敗走した秀家に代わって、1601年(慶長六年)小早川秀秋が引き継ぐことになる。秀秋がつくったものに外堀がある。こちらは、西の丸及び二の丸の外周にある内堀、三の曲輪、さらに中堀、三の外曲輪とあって、それのさらに外側(西)にあった。秀秋と言う人は、城造りには長けていたらしい。というのも、彼はこの外堀を二十間でつくったと伝えられており、別名「二十日掘」とも言われてきた。その名残が、現在の市内中心部を南北に貫く柳川筋に残っている。ところが、その秀秋は岡山に入部するも、わずか二年で病没し、継嗣のない小早川家はあえなく断絶となる。
 替わって入城した池田光政の二男忠継が備前一国31万5石を江戸幕府から扶持されて入封した。その後の1632年(寛永9年)に鳥取から親戚筋の池田光政が入城すると、さらに城造りに磨きをかけていく。その最たるものが大名庭園であって、1686年(貞享3年)家臣津田永忠を奉行に任じて造らせる。それから14年後の1700年(元禄13年)に、一応の完成を見たと言われる。明治維新が来るまでは「茶屋屋敷」ないしは「後園」と呼ばれていたものが、1871年(明治4年)からは後楽園と称される。第二次大戦後にかなりの城郭が再建されてからの、特に池を経て視界に岡山城天守を取り入れた借景には、全国でも第一級の風情があるのではないか。かつての支配者達が贅(ぜい)を凝らした造りをして栄華もしくは風雅等々を愉しんだとされる岡山城そして庭園も、今では庶民の憩いの場となってその美を受け継がれている。
 
(続く)

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○○488『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の文化(文学1)

2016-11-13 21:17:52 | Weblog

488『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の文化(文学、遠藤周作)

 遠藤周作(1923~1996)の『沈黙』には、江戸時代の日本にやって来たロドリゴ司祭が中心にいて、その彼は、こう思う。
 「いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。(中略)魅力あるもの、美しいものに心ひかれるならそれは誰だってできることだった。そんなものは愛でなかった。」
 「美しい人、高潔な人、正しい人、善良な人、賢い人。そうした人に、価値を見出し、彼らとともにいようと願うのは、だれでもできることだ。でもそうではなく、醜いもの、愚かなもの、悪臭のするもの、下劣なもの、ずるいもの、私利私欲をはたらくもの、「色あせて、襤褸(らんる)のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。」
 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」
 「主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の怖ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起って今日まで二十年、この日本の黒いと血に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分に捧げられた余りにむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。」(遠藤周作『沈黙』新潮文庫、68~69ページ)
 このロドリゴ神父のモデルとなったのは、ジュゼッペ・キアラ(1603~85)であった。彼は、イタリアのシチリア島に生まれた。1623年、ナポリでイスズス会に入会する。1635年、他の9名とともに布教のため日本に向かう。翌年、ゴアからフィリピンに流されて、マニラに着く。そして日本にやってきて、行く手に立ちはだかるこの国のキリスト教禁止を前に、潜伏の途を選ぶ。

 しかし、1637~38年には島原の乱があり、その後、江戸幕府のキリスト禁教の圧力は倍加していった。1643年に捕縛され、江戸のキリシタン屋敷に幽閉される。そのまま外での行動の自由を奪われた状態で過ごすうち、1685年に病没。
 この物語の真意を巡っては、いろんな見方がありうる。その一つが、日本の布教においても、仏像を毀したり、寺を破壊したりの暴力を重ねたことをどう見るかであった。後年の遠藤の著『死について考える』によると、こうある。
 「二十年前(昭和四十一年)に『沈黙』を書いた時、この小説のキリスト教はキリスト教ではない、とこの大学(上智大学)で批判されたことが夢のように思えるほど変わりました」(『死について考える』光文社文庫、1996)とある。また、「(中略)だから私のいうキリスト教は、昔の独善的なキリスト教ではなくて、過去の誤りを修正して現代に至ったキリスト教です」(同)、さらに「私が『沈黙』という小説を書いたころともちがって、その後、特に第二公会議というのがローマで開かれてから、キリスト教は大変革を遂げています」(同)とまで言ってのける。
 要は、かつてのキリスト教と今日のキリスト教とは、異なるのであって、後者になると、「キリスト教とだけ救われて、他の宗教を信じるものはまったく救われないなどと異端視するのは過去の話です」と結論づけている。

(続く)

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