◆出典5『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

2016-06-30 19:26:08 | Weblog
◆出典5『美作の野は晴れて』、『138億年の日本史』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

1.稲葉秀明「空気のはなし」技報堂出版、2016
2.竹内誠監修「日本の街道ハンドフックー「旅ゆけば心たのしき」街道小辞典」三省堂、2006
3.瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」ちくま新書、2016
4.村井康彦「出雲と大和ー古代国家の原像をたずねて」岩波新書、2013
5.天野幸広「発掘、日本之原像ー強石器から弥生時代まで」朝日新書、2001
6.歴史教育者協議会「世界史から見た日本の歴史38話」文英堂、2000
7.藤井学・狩野久・竹林榮一・倉地克直・前だ昌義「岡山県の歴史」山川出版社、2000
8.黒田日出男責任編集「中世を旅する人々ー『一遍聖絵』とともに」朝日新聞社、1993
9.谷口澄夫ほか「日本之街道6ー夢誘う山陽山陰」集英社、1981
10.宮原武夫・山田邦明・深谷克己「日本社会の歴史」大月書店、2012
11.瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972
12.「日本歴史ー第1巻ー原始・古代1」:岩波講座「日本歴史」岩波書店、2013
13.「日本歴史ー第2巻ー古代2」:岩波講座「日本歴史」岩波書店、2013
14.江上剛「天あり、命ありー百年先が見えた経営者、大原総一郎伝、PHP研究所、2016
15.千田稔「人をあるく、聖徳太子と斑鳩三寺」吉川弘文館、2016
16.臼井勝美「日中戦争ー和平か戦線拡大か」中公新書、1967
17.伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶応技術大学通信教育用教材、1976
18.大澤真幸編著「憲法9条とわれらが日本」筑摩書房、2016
19.豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本」岩波書店、2015
20.協和発酵バイオ(株)編「トコトンやさしい発酵の本」日刊工業新聞社、2008
21.高橋慎一朗編「鎌倉の世界」:「史跡で読む日本の歴史」第6巻、吉川弘文館、
2010
22.下重清「身売りの日本史」吉川弘文館、2012
23.大隅和雄ほか「知っておきたい日本史の名場面事典」吉川弘文館、2008
24.野口悠紀雄「経済危機のルーツ」東洋経済新報社、2010
25.野口悠紀雄「未曾有の経済危機ー克服の諸条件」ダイヤモンド社、2009
26.野口悠紀雄「日本を破滅から救うための経済学ー再活性化に向けて、いまなすべきこと」ダイヤモンド、2010
27.吉川洋「転換期の日本経済」岩波書店、1999
28.金子勝「日本再生論ー市場対政府を超えて」NHKブックス、2000
29.日本科学者会議編「現代の世界経済と日本経済・上」大月書店、1980
30.置塩信雄「マルクス経済学Ⅱ」筑摩書房、1987
31.岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中公新書、2008
32.小林登志子「シュメルー人類最古の文明」中公新書、2005
33.伊東光晴「ガルブレイスーアメリカ資本主義との格闘」岩波新書、2016
34.佐藤晃子「常識として知っておきたい、日本の国宝50」KAWADE夢新書、2007
35.松戸清裕「ソ連史」ちくま新書、2011
36.井出英策「日本財政、転換の指針」岩波新書、2013
37.飛田茂雄「アメリカ合衆国憲法を英文で読むー国民の権利はどう守られてきたか」中公新書、1998
38.松本健・NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト編著「四大文明・メソポタミア」NHK出版、2000
39.横山三四郎「ペルシャ湾」新潮選書、2003
40.湯原公浩編集「平山邦夫ー歩き続けて、描き続けて」平凡社、別冊太陽・日本のこころ184、2011
41.木村俊昭「地域創成成功の方程式ーできる化・見える化・しくみ化」ぎょうせい、2016
42.内野熊一郎・西村文夫・鈴木総一「孔子」清水書院、1969
43.海野弘他「レンズが撮らえた19世紀英国」山川出版社、2016
44.井上勲「藍類30億年の自然史ー藻類から見る生物進化・地球・環境」第二版、東海大学出版会、2006
45.鈴木孝監修「視覚でとらえるフォトサイエンスー生物図録」数研出版、2007
46.「視覚でとらえるフォトサイエンスー化学図録」数研出版、2006
47.倉橋透・小林正宏「サブプライム問題の正しい考え方」中公新書、2008
48.金子勝「長期停滞」ちくま新書、2002
49.斉藤誠「原発危機の経済学ー社会科学者として考えたこと」日本評論社、2011
50.網野善彦「「日本」とは何か」講談社、2000
51.夏井睦「炭水化物が人類を滅ぼすー糖質制限からみた生命の科学」光文社新書、2013
52.ひろさちや「生活の中の神道ー神さまとの正しい付き合い方」春秋社、2016
53.ウィリアム・ルーベ著・堤理華「「食」の図鑑・パンの歴史」2013
54.河原温・堀越宏一「図説・中世ヨーロッパの暮らし」河出書房新社、2015
55.ジョゼフ・E・スティグリッツ著・鈴木主従訳「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」徳間書店、2002
56.井上勲「藻類30億年の自然史ー藻類から見る生物進化・地球・環境」第2版、東海大学出版会、2006
58.河野元昭監修「日本美術史入門」別冊太陽、2014
59.栗田功「愛しき仏像ーガンダーラ美術の名品」二玄社、2008
60.日本古典文学全集「続日本記・二」岩波書店、1990
61.池澤夏樹=個人編集「日本文学全集・大岡昇平集」、河出書房新社、2016
62.村井康彦編「江戸時代図誌」筑摩書房、1976


(続く)

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(30)『自然と人間の歴史・日本篇』吉備国と出雲国の併呑(出雲国)

2016-06-27 21:24:33 | Weblog
(30)『自然と人間の歴史・日本篇』吉備国と出雲国の併呑(出雲国)

 現時点までの文物をみる限りでは、5世紀までに吉備の国が出雲・ヤマトの勢力に対抗する力を失い、そのことで出雲・ヤマト勢力による支配に組み入れられた(支配下に入った)かどうかは、判明していない。このような学問の進捗状況では、出雲や吉備がヤマトの勢力に組み込まれたのが6世紀半ば以降になってからという説の方が、より自然だという考えも出て来る。これらを合わせ考えると、卑弥呼の邪馬台国後から5世紀までの倭国内においては、「大王(おおきみ)」と各地の大首長との関係で多くの出来事が展開していた。大王としては、自らの地位を確立して大首長を隷属させ、当時の「全倭国」に対する集権的な支配権を樹立したい。
 その一つは、自立的な地域支配者としての地位を確保して大王に対立する道であり、他は、大王に協力して隷属を強めつつ、それによって政治的地位の安泰をはかる道である。先年発見された埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にみられるヲワケ一族は、後者を選んで「世世杖刀人首」として大王に忠誠を誓っている。吉備氏は前者の道を選んで反乱への道を進んだのである」(吉田晶「吉備からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)と。
 ここに出雲に由来する神話も考え合わせ、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国を出雲であるとする説(倉西裕子「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)がある。同氏によれば、「当時有力であったのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であった(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国といったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同著、61ページ)、とされる。
 その当時の倭の中で、最も強い力をもっていた勢力とは、出雲とヤマト、北九州、そして吉備などであったのではないか。3世紀前半の出雲国(いづものくに)がどのように組み込まれていったかは、まだほとんどがわかっていない。おそらくは、別の強い勢力によってわしづかみで権力基盤を奪われた、つまり滅亡に追い込まれたのではなかったろう。とはいえ、このあたりの戦後の遺跡発掘により、九州にも似た独自の文化圏が、大和の統一政権の前に成立していたことが、明らかになりつつあるのではないか。その出雲の国の成立は未だに厚いヴェールに包まれている。後の8世紀になってから、朝廷が編纂したではない、門脇禎二氏によると、『出雲風土記』において神々の世界がどう語られているかを、こう伝えている。
 「このように古墳の存在だけでなく、独自の支配体制をつくりだしていた痕跡が東部に認められるが、さらに独自のイデオロギー形成も考えられる。
 古墳時代の終わりまで、出雲の有力な地域神としては、四大神があった。西からいえば、キツキの神、それからノギの神、それから北部のサタの神、そしてオウの神である。ところがこの四大神に、それぞれの地域の振興が集約的に代表されながらも、それらの神々と東部が決定的に違うのは、東部にはオミズヌ神の社(意宇の社)をもっていたことである。オミズヌ神というのは、『出雲風土記』にだけ残る国引き神話の国づくりの神話である。海の彼方から余った岬や島を引き寄せて、出雲の「初国」をつくったという有名な神話であるが、この仕事を一夜で完了したといっている。ー中略ーそして何よりも注目したいのは、このオミズヌ神はヤマトの貴族の神話では、さまざまな名前でよばれ、中には「国作神」=地方神とさえされるが、出雲を中心とした西日本地域では、天下づくりの神として長く伝承され続け、広く信仰された神である。この天下づくりの神と国づくりのオミズヌ神、両者を対極に置いた独自の神話体系が生まれていたと思われる。
 オウの首長と出雲王国。以上、出雲東部の首長は、独自にトモの組織や独特の玉生産を集中したような支配体制、さらに独自の建国神話、こういうものをととのえ上げ、六世紀
半ばに至る以前にほぼ出雲全域にわたる支配体制を形成していたとみられる。それは、キビがヤマト国家との対立・抗争を強めたことからその影響力を弱めた五世紀後半いらいのことと思われるが、この体制は王国(地域国家)の条件をほぼととのえており、オウの首長はその王にほかならなかった」(門脇禎二「出雲からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)とされている。
 それから吉備の国については、出雲・ヤマトの勢力、後のヤマ朝廷になる彼らは、互いに攻めたり攻められたりの戦いを繰り広げていたのではないか。後代に編集された『古事記』の大部分は、伝承による口述からのものである。したがって、神話の占める割合が多い。その第八巻「孝霊天皇」の下りでは、朝廷が播磨を通り過ぎて、吉備を攻めたことになっている。これをもって、吉備の国を平定したということではないだろう。

(続く)

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(73)『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立

2016-06-25 19:08:03 | Weblog
(73)『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立

 こうして平家を滅ぼした源頼朝は、同じ1185年(文治元年)、全国各地に守護と地頭を置く。幕府の立場で書かれた『吾妻鏡』には、後に「文治元年十一月、廿八日丁未(ていみ)、諸国平均に守護、地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米段別五升、を宛て課すべきの由」との内容が述べられる。「段別五升」というのは、私は農家出身なので、その相場観を目に浮かべると、かなり多くの取り分だと言えるのではないだろうか。この策を頼朝に進言したのは、因幡前司(いなばのぜんじ)であった大江広元(おおえひろもと)である。この年の旧暦11月、彼は主君に対し「此の次を以て、諸国に御沙汰を交え、国衙(こくが)、荘園毎に、守護、地頭を補せられば、強(あなが)ち怖る々所有るべからず。早く申し請はしめ給うふべし」(『吾妻鏡』)云々を述べ、国毎に守護を、荘園・公領毎に地頭を、武家政治の礎とすることを提案し、これが頼朝の採用するところとなったのである。
 この年にはまた、鴨長明(かものちょうめい)が「また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る」と述懐した、かの「元暦の大地震」が起きたことでも知られる。ちなみに、この時の地震の規模は、今日の地震学で「マグニチュード7.4」(小出裕章「原発のない世界へ」筑摩書房、2011)であったと推定されているようだ。
 そして迎えた1190年(建久元年)旧暦十一月、今度は力をつけた源頼朝が従う御家人たちとともに上洛した際、朝廷・後白河院は源氏に武力をもって「海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事」を命じたことになっている。
 「京畿、諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事。
 仰す、海陸の盗賊、○里(むらざと)放火、法律罪を設け、格殺悪を懲す。しかるにこのごろかん○濫なお繁く、厳禁に拘わらず。(中略)自今己後、たしかに前右近衛大将(うこのえたいしょう)源朝臣ならびに京畿、諸国の所部の官司らに仰せて、くだんの輩を搦めせしめよ。そもそも度々使庁に仰せらるるといえども、有司怠慢して糾弾に心なし。もしなお懈緩(けかん)せば、処するに科責をもってせよ。もしまた殊功あらば、状に随って抽賞せよ。」(『三代制府』)
 なお、ここに「前右近衛大将」とあるのは、頼朝は直ぐに右大将を返上したことから、その後は「前右近衛大将」の呼び名がなされる。また、「そもそも度々使庁に仰せらるるといえども」とあって、当時の朝廷は「検非違使庁」(けびいしちょう)は頼りにならぬと見ていたことがわかる。 この新制は、頼朝を全国の軍事部門の長として認める意味をも込めてある。

(続く)

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(48)『自然と人間の歴史・日本篇』土地私有の解禁

2016-06-24 22:43:53 | Weblog
(48)『自然と人間の歴史・日本篇』土地私有の解禁

 こうした初期の律令体制に対しては、地方の豪族たちがうまみがないとの不満があとを絶たず、彼らは制度の修正を朝廷に働きかけた。当時の朝廷政治の首班は、右大臣の長屋王(ながやおう)であった。これに答えるため、723年(養老7年・神亀元年)に制定されたのが、三世一身の法(さんぜいっしんのほう)であった。前年の百万町開墾計画とともに、年貢増徴を計るための苦肉の策として打ち出された。この法律では、本人一代に限り、既存の灌漑施設を利用して農地を開墾した場合、その土地を開墾者本人の一代に限って自分の所有することを認めた。『続日本記』に、こう紹介される。
 「(養老七年四月)辛亥(しんがい)、太政官奏すらく、「此者(このごろ)、百姓漸(ひゃくせいようや)く多くして、田池狭窄(でんちさくきょう)なり。望み請(こ)ふらくは、天下に勧め課(おお)せして、田疇(でんちゅう)を開○(ひら)かしめん。其の新たに溝池を営む者有らば、多少を限らず、給ひて三世に伝へしめん。若し旧き溝池(こうち)を遂(お)はば、其の一身に給せん」と。奏可す。」(『続日本記』)
 これにあるように、灌漑施設を新設して新田を設けた場合は三世(本人・子・孫の三代とする説と、子・孫・曾孫の三代とする説がある)の後に、旧来の灌漑施設を利用して新田を開墾した場合は本人一身のうちに、それぞれ国家に返せばよい。つまり、広げた農地は負って国家に取り上げ公地に編入するというのであるから、土地私有制を導入したことにはなっていない。案の定、多くの農民は一身での所有に満足せず、その所有を世襲で引き継いでいけるよう制度改正を求めるようになっていく。この要求に対し、朝廷も土地統制を緩めることを考えざるをえない。ついに743年(天平15年)、当時恭仁京(くにきょう)に在った聖武天皇の「勅」により、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発布される。
 原文:「勅。如聞。墾田拠養老七年格。限満之後、依例収穫。由是農夫怠倦、開地復荒。自今以後、任為私財無論三世一身。悉咸永年莫取。其国司在任之日。墾田一依前格。但人為開田占地者。先就国有司申請。然後開之。不得回並申請百姓有妨之地。若受地之後至于三年。本主不開者、聴他人開墾。天平十五年五月廿七日・・・・・」(『類聚三代格』、平安時代に書かれた法令集)
 書き下し文:「聞くならく、墾田は養老七年の格(きゃく)によるに、限り満るの後、例によりて収受す。これによりて農夫怠倦(たいけん)して、開ける地また荒ると、今より以後は、任(まま)に私財と為(な)し、三世一身を論ずことなく、咸悉(みなことごと)くに永年取ること莫(なか)れ。(中略)ただし人、田を開かんがために地を占めなば、先ず国に就きて申請し、然る後にこれを開け。(中略)もし地を受くるの後、三年に至るも本主(ほんしゅ)開かざれば他人の開墾を聴(ゆる)せ。それ親王の一品(いっぽん)及び一位には五百町、二品(にほん)及び二位には四百町、(中略)初位已下(そいいげ)庶人に至るまでは十町、ただし郡司(ぐんじ)には大領少領に三十町、主政主帳(しゅせいしゅちょう)に十町、もし先に給える地、この限りより過多なるもの有らば、すなわち公に還せ。・・・・・」(黛弘道編「古文書の語る日本史ー飛鳥・奈良」筑摩書房、1990による) 
 これは、開墾した土地の永大所有を認めるもので、公地とは別の枠で把握されるに至る。その限りでは、三世一身の法での国家による、ゆくゆくに渡る墾田収公の原則は破棄されている。従前の班田と、これからはみ出して増えつつある墾田とを統一的に再編成せざるを得なくなったわけである。また、以後の墾田開発は位階による開墾制限によって運営される。この引用にあるように、一位・一品(いっぽん)は500町、初位・庶民による開墾は10町までと決まった。つまり、位階が高い者ほど、墾田制限額が大きくとられることになるので、昇進に上白(うえしろ)のある地方豪族にとっては、一挙両得ということで有利になるだろう。これが制定されると、王臣家やその他の豪族から寺院、富裕家に至るまで、ここぞとばかりに人をかり出し、動員して自らが墾田を開拓していく。これを「自墾地系荘園」と呼ぶ。当初の荘園は、こうして生まれていった。こうしてできた新たな土地は、朝廷から与えられた口分田だけでは足りない公民にも貸借され、荘園の所有者は収穫の際の一部を引換に得ることができる形であった。その後の土地の開墾、拡大につれて、だんだんと流民を労働力として受け入れるようになっていくのであった。そうして、だんだんに公地公民制度がくずれて荘園制が広まっていく元になった。
 さらに、この頃には朝鮮から多くの渡来人の流入があり、かれらの中には農と工の技術集団あり、学者あり、楽人もいたろう。大陸からもたらされたのはそれだけではない。それとともに、日本語も外部の言語が相当の年月の間に折り重なり、この時期までに影響を及ぼし合ってしだいに骨格が形成されていったのではないか。このうちアイヌ語を巡っては、797年、征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行うまでは、東北地方及び北海道はヤマト朝廷の支配下に入っておらず、こんにちの意味の日本領土にはほど遠い状況であった。1669年(寛文9年)、江戸期の松前藩(北海道渡島半島の西端、2014年現在の松前市)で蝦夷(えぞ)の反乱があった頃には、アイヌ語を話すアイヌ民族が広範囲の地域で暮らしていた。しかし、それらの人々はその後の日本民族との同化過程をくぐり抜けるうち、今ではアイヌ民族としての伝統を受け継ぐ者は限られつつあるようだ。
 765年(天平神護(てんぴょうじんご)元年)旧暦3月、道鏡政権により、加墾禁止令が出されるに至る。それには、こんな文句が連なっていた。
 「丙申(へいしん)、勅(ちょく)すらく、「今聞く、墾田は天平十五年の格(きゃく)に縁るに、今より以後は、任(まま)に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉(みなことごと)くに永年取る莫れ、と。是に由りて、天下の諸人競いて墾田を為し、勢力の家は百姓を駆役し、貧窮の百姓は自存するに隙無し。今より以後は、一切禁断して加墾せしむること○(なか)れ。但し寺は、先来の定地開墾の次は禁ずるに在らず。」(『続日本記』)
 文中、「天平十五年の格(きゃく)」とあるのは墾田永代私財法のことで、以来墾田をなした者には三世一身を適用することなく土地の永久使用を認めてきた。しかし、開墾を競い合って諸々の弊害が出ているため、今後は加墾を禁止することにするというもの。最後のところで寺を令の適用から外しているのは、当時称徳天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師・法王と出世を極めつつあった道鏡の意向を反映している。

(続く)

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『(64)』『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓)

2016-06-22 21:10:35 | Weblog
『(64)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓)

 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
 また、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)というように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。
 津田はこのほか、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)を、1692年(元禄5年)に沖新田(上道郡)の干拓工事も手掛けたことが知られている。この河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生(ひなせ)である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。
 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

(続く)

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(89)『自然と人間の歴史・日本篇』室町幕府による初期政治

2016-06-22 17:30:11 | Weblog
(89)『自然と人間の歴史・日本篇』室町幕府による初期政治

 こうして足利幕府が発足した。論功表彰では、例えば武功著しかった赤松則村は播磨の守護に任じられた。それらもつかの間、直義派と幕府執事(軍事と財政を担う)に就任した高師直(こうもろなお)との間で、政治路線の違いが鮮明になっていく。直義派は、足利一門による守護勢力の利益を代表しており、穏健な政策をとろうとする。もう一方の師直は、畿内やその近国の小領主や在地の武士といった、台頭しつつある新興勢力を代弁しており、政治的には旧荘園体制を終わらせようと画策する。両者の力関係は、政治面では尊氏から政治を一任された足利直義の側が有利であって、高師直は執事を解任されてしまう。反撃に出た師直は、軍勢を集めて直義を追い、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲することまでやっている。この抗争は尊氏の仲介で直義が引退・出家することで決着がつけられる。ところが、師直が反乱を起こした直義の養子足利直冬の討伐に向かうのであるが、直義はこの機会に挙兵して南朝に降伏、そして援軍を得ると遠征途上の尊氏の軍に襲いかかる。
 1351年(正平6年)には、南朝方の北畠、楠木、和田の軍勢が京を襲い、都を防御する足利勢をけちらして、光明天皇の後を継いだ崇光天皇に加え、光厳、光明の天皇経験者についても捕らえて、吉野へ護送するという珍事が起こる。慌てた足利幕府は、崇光の弟の弥仁を擁立して、新しい帝位に就かせる。
 1352年(観応3年、南朝正平7年)、足利尊氏は南朝の後村上天皇から「直義追討」の綸旨を受る。ほとんど同時(その年の旧暦7月24日の通達として)に、「半済制度」を導入して直義派の一掃を図る。この令の文言は、こうなっている。
 「一 寺社本所領の事、観応三年七月廿四日の御沙汰
 諸国擾乱に依り、寺社の荒廃、本所の□篭、近年倍増せり。而してたまたま静謐の国々も、武士の濫吹未だ休まずと云云。仍って守護人に仰せ、国の遠近に依り日限を差し、施行すべし。
 承引せざる輩に於ては、所領の三分一を分ち召す可し。所帯無くば、流刑に処すべし。若し遵行の後立帰り、違乱致さば、上裁を経ず国中の地頭御家人を相催し、不日に在所に馳せ向ひ、治罰を加へ、元の如く沙汰し雑掌を下地に居え、子細を注申す可し。将又守護人緩怠の儀有らば、其の職を改易す可し。
 次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所として、当年一作、軍勢に預け置く可きの由、守護人等に相触れおはんぬ。半分に於ては、宜しく本所に分渡すべし。 若し預人事を左右に寄せ、去渡さざれば、一円本所に返付す可す。」(『建武以来追加』)
 要するにこれは、尊氏側の軍事費を調達するために国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を獲得したことの、いわば宣言に他ならない。そのために兵粮米徴収に指定された所領において、半済みの権限を与えられた守護の喜びようはさぞかし、と言うべきか。それから「次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所として、当年一作、軍勢に預け置く可きの由」とあるのも、「奇々怪々」とでも評するべきだろうか。いずれにせよ、これらが一因となって、彼らは守護大名化してゆくことになる。
 このような周到な準備を整えた尊氏側の軍勢は、弟の直義を倒すべく鎌倉へ攻め込む。尊氏は鎌倉の攻略に成功し、直義方はあえなく降伏するのだが、その後直義は鎌倉で尊氏によって毒殺されたとする説が有力である。この1350(観応元年)から1352年(観応3年、南朝正平7年)にかけての幕府内部の対立を、当時の年号をとって「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ぶ。「太平記」はこの時期をして、「天下三分」と表現している。その頃の日本は、関東・北陸・中国・九州を直義派がおさえ、近畿・東海は尊氏派が支配し、大和国の南部に南朝の勢力がある、という複雑さであった。
 さて、尊氏の息子ながら、父親の尊氏から疎外されていた足利直冬(あしかがなおふゆ)は、養父として自分を慈しんでくれた足利直義(あしかがなおよし)の仇打ちのためにも上洛を考える。中国地方でも周防(すぼう)と長門(ながと)の国に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと、直冬に申し出てくる。そしてこの頃の中国地方での直冬党には、美作の多くの武士が加勢に駆けつけている。1352年の秋、山名時氏が直冬党に属して、幕府に反旗を掲げる。彼は、前年の初めに直義の方についていて、幕府から丹波、若狭の守護職を没収されていたので、その回復を図る行動を含む。山名氏の根拠地は山陰にもあり、1352年の冬から翌1353年の春にかけて、山陰から中国山地を越え、美作そして備前に攻め込む。これを抑えるため、幕府からは、美作守護に任じられた赤松貞範などが応戦する。この段階で、赤松ら幕府勢は、美作東部を幕府方の支配下に組み入れることに成功したのに対し、山名を主力とする中国地方の直冬党は、加茂川以西を勢力下に置いて、相手側とにらみ合う構図となっている。
 幕府と直冬党の国を二分しての戦いは、その後も続いていく。今度の直冬は、降着状態の戦況打開のため、大博打を打つことにする。南朝に降伏して、足利尊氏討伐の綸旨を得たのだ。こうしておいてから、彼の直冬の軍勢は、1354年(文和3年)、山陽と山陰からの大軍を加えて京都へ向かう。これには、直義派の桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応して立ち上がる。幕府方も、これらを迎え撃つべく出撃する。1355年(文和4年)、二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、直冬側についていた桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入してくる。留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出していく。一方、義詮が率いる幕府軍主力は播磨に孤立していて動けない。直冬の軍勢は、そんな義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って意気揚々と京都に入る。ところが、正月早早の桃井軍入京から一月もしないうちに、摂津神南の合戦で直冬軍は義詮に大敗を喫す。近江の尊氏軍も京都六条に進出し、直冬軍とほぼ2か月にわたり激しい市街戦を演じるうち、さしもの直冬軍も衆寡敵せず、散り散りになって命からがら京の都を脱出するのである。
 そして1358年(正平13年、延文3年)に尊氏が死ぬと、それからは、南朝勢力は幕府の度重なる攻勢の前にしだいにジリ貧になっていく。1360年(延文5年)、中国地方での幕府と直冬党の代理戦争の戦いが、山名らと赤松らによって繰り広げられていく。
両軍、攻めたり攻められたり、失地を奪還したり又失ったりで双方入り乱れて戦ったようである。その結果、1362年(康安2年)夏には、山名が幕府勢に競り勝って美作の中心地である院庄に入り、そこからは備前と備中へも兵を進めるに至る。ここに山名氏は、従前からの伯耆、因幡に加え、美作、出雲そして隠岐を完全に掌握するとともに、石見、備中、備前、そして但馬(たじま)にも支配権を確立するに至ってゆく。美作が北朝の勢力下に入ったことを覗わせる仏門夫婦の供養塔が「新野保」(新野郷変じて、現在の津山市新野東)にあり、それには「康永2年」と北朝方の元号が刻まれている(勝北町編集「勝北町誌」)ことも吹きしておきたい。
 この流れで、1363年(貞治2年)秋に入ると、大内弘世、山名時氏らが幕府に降り、直冬党は瓦解したも同然の状態になっていく。山名氏の場合は、なかなかに策謀が長けていたことで知られる。というのも、山名としては元々直冬と運命を共にする考えはなく、天下の形勢が幕府側に傾いたのを認知してからは、それまでに得た強大な領国支配をねたに幕府側に基準したことになっている。幕府の方もさるもので、時氏から講和の申し出をすんなり受け入れるとともに、山名一族に対しほぼ所領を安堵したのであった。1352年までの観応の擾乱より始まった、尊氏派・直義派(直冬派)による室町幕府内紛劇は、ここに終幕を迎える。直冬といえば、1366年(正平21年、貞治6年)の書状を最後に消息が不明となるのであった。

(続く)

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(34)『自然と人間・日本篇』「聖徳太子の摂政時代」を巡って(政治と宗教)

2016-06-18 09:21:54 | Weblog
(34)『自然と人間の歴史・日本篇』「聖徳太子の摂政時代」を巡って(政治と宗教)

 592年(崇峻大王5年)、欽明大王と堅塩媛(きたしひめ)の娘である炊屋媛(かしきやひめ)が、明日香の豊浦宮(現在の明日香村豊浦地区)において女性の大王として即位する。そして迎えた593年(推古大王元年)、欽明大王の一代前の用明大王の息子にして彼女の甥であるとされる厩戸皇子(うまやのおうじ)が、推古大王の摂政に就任したという。これが謎多き「聖徳太子」の誕生の物語に他ならない。彼は、当時勢威を張っていた蘇我馬子(そがのうまこ)と共同して国政に当たったのだとされる。もっとも、この太子が実在の人物ではなかったとの説も出されていて、本当はどうであったのかはまだ学説の上での決着はついていない。ここでは学問上の議論にこれ以上立ち入らず、太子がひとまず実在していたとの説を排除することなくして話を進めてみたい。
 あらたな指導者の出現によって、仏教による国造りが目指された。そのことを民衆が下から求めたのではなく、政治権力を握る側が自己の立場を補強するために仏教を受容したものだといえよう。奈良盆地の明日香(あすか)には、「飛鳥寺」が現在に伝わっている。その創建は596年(推古大王4年)、日本(当時の外国からは、「倭」と呼ばれていた)最古の本格的に建てられた寺院と伝わる。この寺の本尊とされるのが「飛鳥大仏」で、609年(推古大王17年)の造立として、現存する日本最古の仏像と伝わる。奈良の大仏よりずっと小さいが、数ある法印の中から、右手で人々の悩みや苦しみを受け、右手で安らぎを与える法印を選んで結んでいる。そのことでは、東大寺の大仏と同じである。すっきりした顔の表情からして、もしかしたら遠くギリシア文化の影響も受けて造立されたのかもしれない。
 聖徳太子が推古大王の摂政になったとされる年の10年後の603年(推古大王11年)、ヤマト朝廷は「冠位12階」を制定した。官僚などの身分制を細かに色分けにすることでの改革を行ったものだ。これについては、後代の720年(養老4年)になった編纂される国史『日本書紀』の「推古十一年十二月条」に、こう記される。ちなみにこの年は、推古大王が小墾田宮(おはりだのみや、推定地ははっきりしていない)への遷都を挙行している。
 「十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。髻花、此云于孺。」
 604年(推古大王12年)になると、同大王による国固めが一つの劃期を迎える。「17条の憲法」が制定されるのである。第一条中に「然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成」とある。これを太子自身の意思で定めたのなら、当時の施政者としては温厚な人柄が溢れて感じられる。冠位の方は、これでもかと言うくらい、細かく色分けられていた。
 上位から紫(徳)、青(仁)、赤(礼)、黄(信)、白(義)、黒(智)の六色であり、これが徳なら大徳・小徳の二つに別れていた。大徳の紫が小徳の紫より濃い色を使い、これにより濃淡の違いで大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼の六つに当てはめられてると、十二階位に区別できる。当時の最高の位階を表す紫とされたのは、『万葉集』にある「紫草」(むらさき)でつくった「古代紫」の色合いであろうか、それにしても、最高位の聖徳太子自身は何色の冠を被っていたのか。おそらくは、倭の大王自らは白、その皇太子は黄丹(橙色)という色があてがわれており、十二階にはめ込まれた臣官は使えないことになっていたとされる。
 さらに606年(推古大王14年)には、聖徳太子が勝まん教と法華経(妙法蓮華経の通称)とを講じたことになっている。彼の生まれた年を574年とすると、33歳の時のことになる。その講義が本当に行われたかどうかは確かでない。ここに法華経というのは大乗仏典の一つで、日本に輸入された経の中では、釈尊が最晩年に近い時期の説法の記録であるとの理由から、最高位に祭り上げられているようだ。その中で特徴的なのは、釈尊が、「釈迦牟尼如来」という永遠の命を持つ「生き仏」に祭り上げられている。その彼が、数千人もの如来や如来の手前まで修行を積んでいる人々の前で、手を替え品を替えて説法しているのに他ならない。なお如来とは、すでに悟りを開いた仏のことで、通常は極楽浄土に住み、大乗仏教密教系の大日如来を除いては装身具を付けていない、とされる。
 それらの如来たちは悟りを得、みな神格化の所産にほかならない。彼らこそは、人として世の中に出ていた釈迦牟尼如来をモデルにして空想化したものだともいえる。内容的にも、この経は、歴代の在家衆から、仏法を生き生きと体系化しているとの評判を勝ち得てきた。中でも、「十九、法師功徳品」の最後には、「法華経をいちずに信じさえすれば、その人は、希有な境地に安住して、生きとし生けるものがすべてから歓喜をもって迎え入れられるのです。そして、千にも万にもおよぶ巧みな言葉や表現を駆使して、思うがままに説法できるのです。これもまた、法華経をいちずに信じつづける功徳にほかなりません」(正木晃「現代日本語訳・法華経」春秋社、2015、239ページ)と諭す場面が収録されている。
 インド西北部でこの法華経が成立したのが、紀元1~2世紀頃とみられている。その頃はまだ、主流派としての、釈尊の教えに忠実な「小乗仏教」の勢力の方が圧倒的に強く、「大乗仏教」の側はごく小さな影響力しか持たなかった。法華経の説法の場設定は、北インドのガンジス川下流域(現在のインドのビハール州)にあったマガタ国、その首都だった王舎城(ラージャグリハ)の郊外、霊鷲山(グリドラクータ山)となっている。その弟子達とのやりとりの模様が抑揚のついた言葉、つまり経に写された。初めは、「口伝」による教典となって受け継がれていた。まず長老が「師はこう述べられた」とその一節を述べ、次に会する一同が声を合わせて反芻するのだ。こうして次へ次へと口授がなされていったのだと推察される。
 その教典の文句がサンスクリット語、印度系中国人の鳩摩羅什(くまらじゅう)により、これを『妙法蓮華経』7巻として、他の『坐禅三昧経』3巻、『阿弥陀経』1巻、『大品般若経』24巻、『維摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻などとともに翻訳したのは、鳩摩羅什 (くまらじゅう、350年頃~409年の中国南北朝初期に生きた、「羅什」とも略称される)であった。彼は、インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生れた。7歳のとき母とともに出家したと言われる。彼が翻訳する時には、すでにサンスクリット語の原典からの写本であったのだろうか。
 この翻訳版が日本に輸入されたのが、606年(推古大王14年)までということなら、かの玄奘三蔵がインドから唐へ多くの教典を持ち帰った年代から、さらに遡る。それにしても、現在、「鳩摩羅什が翻訳した時期のヴァージョンすら、のこっていません」(正木晃「現代日本語訳・法華経」春秋社、2015)と言われる。だとすると、彼が翻訳に当たって腐心したであろう、詳しい環境条件は今となっては確かめるすべがあるまい。
 さて、聖徳太子らによるとされる国造りは、仏教の理念に基づいていたと考えられている。それは、この時代の代表的な仏教建築である法隆寺に色濃く出ている。この寺の造営は、607年(推古大王15年)と伝わる。この寺が造営されたのは、一代前の用明大王の病気治癒を祈ってのものだと伝わる。その広い境内にあるところの五重塔は、下から宇宙をつくる五大要素と伝わる地水火風空の屋根が重なる。そして最後の塔から突き出た金属部分である相輪(そうりん)には、元々は仏舎利(釈迦)を納めるものとも説明される。ここから、法隆寺管長の大野玄妙さんの説明によると、五重塔自身は、即ち「お釈迦様」なのだとも解釈できるというから、驚きだ(2016年1月16日TBSで放映の「ママと私の奈良物語」などから教わった)。なお、この寺は創建から64年後の670年に火災に遭い、かなりの伽藍が失われたことになっている。672年(天武元年)から689年には、崩れかけ始めていた王朝の再建が始まる。
 その太子は、622年(推古大王30年)に「世間虚仮、唯仏是真」の言葉とともに政治の表舞台を退いたことになっている。この日本稀代の才能の持ち主は、その年のうちに死んで、彼の仏教国家建設の夢半ばで潰えた形だ。こうした太子像の微妙さの由来については、色々と解釈される、例えば、澤田洋太郎氏は次のように述べておられる。
 「もう一つ、倭国に仏教を広めた第一人者は聖徳太子であるとされているが、「十七条の憲法」には中国の文献など彼の死後の制度や思想が含められているし、彼の著書とされる『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の内容が西域僧の研究と酷似していることなど、「聖徳太子不実在説」の証拠が次々と挙げられるようになってきた。ここでは、一種の国民的信仰の対象である聖徳太子像は「法隆寺をめぐる太子信仰集団が創りあげた虚像である」とする考えが有力となりつつあることだけを付記しておく。」(澤田洋太郎『教科書が教えない日韓関係2000年、地域史としての日本と朝鮮』」彩流社、2002)
 なお、ここに『三経義疏(さんきょうぎしょ)』というのは、単独の著作ではなく、『 法華義疏』 (全4巻) 、『維摩経義疏 (ゆいまぎょうぎしょ) 』 (全3巻)、『勝鬘経義疏 (しょうまんぎょうぎしょ) 』 (1巻) の総称である。義疏とは、経文に込められる趣意を解説した注釈書のことである。

(続く)

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(113)『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化の妙

2016-06-13 14:38:24 | Weblog
(113)『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化の妙

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539年(天文8年)~1610年(慶長15年))といえば、狩野永徳(かのうえいとく、1543年~1590年)と並んで安土桃山時代を風靡した画家にほかならない。両者はまた、画壇の覇を求めて互いに競い合ったことでも知られる。永徳の画風は、代表作だとされる屏風図にある。その一つ、「檜図屏風」(ひのきずびょうぶ)には、檜なのに根元から太い幹が激しくのたうち回っているように曲がり、枝もぐにゃぐにゃと尋常でない複雑さを見せている。8枚折りの屏風に仕立てられているこの絵は、パトロンの豊臣秀吉が八条宮智仁(としひと)親王のために建てた、御殿の襖(ふすま)を飾っていたとの伝承がある。
 二つ目の「花鳥図」(かちょうず)は京都大徳寺(臨済宗大徳寺派の総本山)聚光院の襖絵であって、座敷の三方を囲んで向かって右から左へと、水の流れに従って春、秋、冬の季節を巡る。夏が描かれていないのは、不思議だ。目にのたうつように写る松は若々しい、花と木の下には清流が流れる。水面にいるおしどりは、心もちか気分が楽しげに写る。ところで、この絵は、襖のある部屋から外側にい出て臨む庭と対をなしているのだという。永徳と作品のコラボレーションをしたのは千利休であって、その彼が作庭(設計)したのだと伝わる。後年の二人は、豊臣秀吉にかわいがられた長谷川東伯との対抗関係が浮上するに及んで、不仲になってしまった。その意味においても、「花鳥図」は若き日の永徳の真骨頂が窺える作品だといえよう。
 働き過ぎが元で死んだとされる永徳亡き後に、等伯の時代が来るかに見えた。だが、父をも凌ぐ画才とも言われた長男の久蔵が早死してしまう。それからは、画風がからりと変わる。探幽に負けず劣らずの大胆な金碧障壁画から、水墨画を主体とすことへの変化があった。生活もまた、画家集団の長でもあったとはいえ、精神面では孤独に浸るような生活を送ったらしい。
 画風も、独創的であった。等伯の代表作とされるのは、『楓図』(かえでず)、『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)、そして『竹鶴図屏風(左隻)』の三つである。後の二つは水墨画であって、『松林図屏風』の方は、松がもやっとしたたたずまいをみせて立ち尽くしているといったところか、とにかく寒々、寂しい雰囲気をかもし出している。また『竹鶴図屏風(左隻)』の方は、雨上がりの霧の立ちこめる中、竹があるかなしかに背景としてあるすがら、ちょうどさしかかっているかに見える。淡い墨でつくられた奥行き感があることから彼の作であるのがわかるのだと言われる。
 これらのうち国宝の『松林図屏風』については、2000年であったか、上野の国宝展で観賞したことがある。その時は、ほとんどの客はこの大きな屏風絵の前に立ち留まることなく、早めの観賞で通り過ぎていた。うら寂しいような心地のする空間に立つ松の姿からは、寂寥感が漂っているように感じられた。その等伯が72歳の時、徳川家康から江戸に呼ばれる。後の長谷川派の命運をかけての旅路であったことだろう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまう。長男の亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行していたのだと、その彼も等伯が没した翌年に亡くなった。
 千利休(せんのりきゅう)にしろ、古田織部(ふるたおりべ)にしろ、日本の茶の湯の道を切り開いた人物で知られる。二人とも、政治との関わりがあって、しかも最期は最高権力者との抜き差しならぬ緊張した状況の中で死んだ。かれらの没後、茶の湯は特に利休の血脈において受け継がれ、現在に至っている。それは、心ある個人によって受け継がれていったというようも、宗家と呼ばれ家によって代々受け継がれてきた。つまり茶の湯という一筋の道は、ヒエラルティッシュな権威に守られつつ、ひたすら血統を維持していこうとする姿勢によって生きてきたのではないか。このようなことは、元々、創始者たちが望んだものではないとも考えられるのだが、本当のところは果たしてどうなのだろうか。
 安土桃山時代においては、陶芸文化が幾重、幾層にも華開いた。桃山時代に渡来した焼き物(陶磁器)に、萩焼と有田焼がある。この二つの焼き物については、朝鮮から渡来してきた陶工ないし工人たちがその発展に尽くした話が伝わっており、それらを発掘し、顕彰することは後代の責務といって然るべきであろう。萩焼とは、「土の性質から堅く焼き閉められていないため、使うほどに貫入(かんにゅう)といって、釉薬(ゆうやく)の表面にある細かなひび割れ)に染みが入る」のが特徴的。色は柿が熟した時に似ているし、艶がある。これは、「萩の七化け」と呼ばれている。有田焼きの真骨頂は白磁(はくじ)にあるとされる。朝鮮からやって来て諸国の焼物地を回っていた中に李参平がいた。彼を日本に連れて来たのは、佐賀の鍋島氏とも言われる。李参平は17世紀の初め、日本で初めて白磁を焼いたことで知られる。その決めてとなったのは、有田の泉山で磁器の原料となる陶石を見つけたことがある。
 平安時代に始まった備前焼は、桃山時代に入って黄金期を迎える。こちらの特徴は釉薬を用いない。多くは大小の器であるが、茶の湯で使われる水差(みずさし、水指)や花入(はないれ)その代わりということにならないのだろうか、燃料の薪や稲藁(いなわら)が燃焼の際熔(と)けて器に付着する。その時にできる模様を、「胡麻」(ごま)や「緋襷」(ひだすき)などと呼び分けて珍重した。織部(おりべやき)は、焼き物で群を抜いた面白さの典型であった。思うに、縄文の土器が非対称の妙味を出せたのは、当時の社会が後代に比べまだ秩序立っていないために本能の赴くこしらえためとすることもできるのではないか。これに対して織部焼のあのぐにゃっとした形と艶やかさは、やはり何らかの造形美を追求する心があって、それによって曲げられたり、緑色の釉薬をぶつかけられたりしているように感じられる。

(続く)

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(162)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

2016-06-10 22:26:17 | Weblog
(162)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

 文化は、文明のような組織だった人間の営みではない。だから文化とは、古今東西を問わず、人間の精神と肉体による活動のうち、もっとも美しい部分、領域なのかもしれない。江戸期には、日本の歴史上初めて、幅広い形での大衆文化というものが形成された。奈良期までに、大陸からの多くの文化が伝わってきた。平安期には貴族文化が華開いて、男女の情愛や可憐さ、切なさを中心に競い合った。仏教文化が、古代からの土着文化と結合あるいは折衷し合い、鎮護国家としての綾取りを加えた。室町期からは、もはや借り物ではない、日本の文化が花開いていく。
 けれども、それまではの文化の大半は一握りの人たちによるもの、彼らのために行い、あった。文化は、人々が欲求するものだ。双方向の交流があって初めて、前へと進んでいく。文化に類した何かを創り出そうとする者は、いいものをつくって観賞してもらったり、購入してもらったり、後世へと伝わることを望む。創られた文化を享受する側はといえば、それに感動や喜びを見出すことのできる人々は、どのくらいであったのだろうか、過ぎし世の中への興味は尽きない。
 文化のもう一つの欲求は、他人へ、他地域へ、次代へ、伝搬していくことだ。もちろん、これだとて、たった一人で創り出せるものではあるまい。創る側の人が何かを自分の生きる中から取り出してくる。前の時代から受け継いできたものもあるだろうし、自らが創り出していくものもあるだろう。これには、「最も広い用法では、芋を洗って食べたり、温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める」(『新明解国語辞典』三省堂)とあるから、要するに芸術レベルでなくとも構わないようにも考えられるのだが。
 これに紹介するのは、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔相月納涼図」(ゆうがおだなのうりょうず)と「四季耕作図」である。久隅は生年没年とも不明ながら、狩野探幽(1600~1674)の弟子であった。活躍したのは、17世紀半ばから末に及ぶ。
守景には、息子と娘がいたとのこと。息子は放蕩息子で、悪事を働いて島流しとなり、娘は狩野派絵師となりながら、同年の絵師と駆け落ちしてしまったため、守景は面目を失い、狩野派を離れたとされる。
 彼の代表作の「夕顔相月納涼図」は国宝になっている。かなり大きな(約150センチメートル×約168センチメートル)あるらしい。図鑑で観ると、黒の濃淡の墨だけで描かれているようだ。夫婦らしき男女と男の子のあわせて3人が茅葺き家の縁だろうか。棚からは夕顔が幾つもぶら下がっている。そこに、いかにものんびりしている。空高くには丸い月があって、月明かりに照らされているようだ。静かである。いわゆる「おぼろ月夜」で季節は、夏の終わり頃といったところだろうか。
 父親は両の腕で支える形で頬杖をついて、くつろいで見える。何か考えているようでもあり、無心に自分という者の心を放り出しているようであり、とにかく脱力している感がある。母親は、そんな夫にあくまで静かに寄り添い座っている。この絵の由来となっている和歌に「夕顔の咲ける軒場の下涼み、男はててれ女はふたのもの」(江戸期の大名歌人であった木下長しょう子の作)というのがあり、この中の「ててれ」とは襦袢、「ふたのもの」とは腰巻のことをいう。
 この二人の傍らに座っている子供はまだ10歳になっていないのではなかろうか、茫洋とした表情をしており、観ているにほほえましくさえある。生業は農業(百姓)であろうか。今日一日の労働が無事に終わり、ご飯も食べて、つかの間の家族水入らずの時を過ごしているような案配に見える。歌の方には子供がいないのに、絵に描かれるのは、守景のどういう趣向によるものだろうか。
 守景の「四季耕作図屏風」は、百姓心を大いに啓発してくれる作品だ。というのは、この時代、すでに私の小さいときの農家の一年に行われていたことが、大方に描いてあるのではないだろうか。春の田越しから始まって、田植え、収穫、そして出荷など、村の地理的な広がりの中に農家の営みが連なっている。田や畑の間の道は、過去からやって来て、現在につながっているようにも窺える。通りの真ん中には、若い女性を中心とした道連れだろうか、何かの一行であろうか。ともかく陽気な顔、また顔をしている。田植えが進行中の田圃では、田楽ではやし立てているグループもある。村野人から景気付けに頼まれてやっているようでもあり、とにかく田圃の泥濘(ぬかるみ)の中、商売でやっているというよりは、好きで誠に楽しそうに踊っている。
 そんなこんなで、その外にも色々な場面が描かれるのだが、時間の流れが混合している様となっている。それでも、自分の追体験がある程度可能な場面が多くある。私たち後代の者は、過去に決して戻れない。だが、この絵に没入している間かぎりでは、自分もその場にも立ち会っていたかのように感じられる。それによって尚更、楽しく拝見できているように感じられる。事実、私たちの感覚は、今よりほんのちょっと過去の時間を観たり、感じたり、考えたりしているものだ。
 画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)は、共に1716年(正徳6年)に生まれた。若冲は、超精密画で知られる。若冲はその天才を自覚していたのか、自分の絵の四つを選んで、神業を暗示させる印を押した。自分の絵が千年も生きられるようにと、壮年期からは自分の作品を寺に寄進したのだという。彼の絶筆として伝わるのは、何とも愛らしい犬たちであった。彼は京都を襲った大地震に直面して、命というもののはかなさ、尊さを実感し、その心の延長でこの絵を描いたのではないかと言われる。
 蕪村の描いた絵には、飾りというものが感じられない。人家はまばらであって、どことなく冷たく、寂しげでさえある。2009年に国宝に指定された『夜色楼台図』は、縦28センチメートル、横130センチメートルの画面に京都の冬を描いて見せた。これを観ると、しんしんと雪が降り積もっている。家々の障子からは明かりが漏れている。どこかで観たような構図でもあり、自分はこのような寂しげな光景を持たなくても何かしら心惹かれる。彼は、俳人でもあった。万を超すあまたの句のの中から一つ諳んじれば、「一面に月は東に日は西に」とあって、あのかぐわしい、何とも心地のよい、甘い匂いのする華の絨毯が広がる。その中に、東の空に月が上がり始め、西の地平には今にも太陽が沈みかけている。
 池大雅(いけのたいが、1723~1776)は京都(現在の上京区)の村の生まれ、江戸中期の文人画家にして書家でもある。7歳の幼い頃から、画才を発揮して「神童」と讃えられる。15歳で父の跡を継ぎ、菱屋嘉左衛門と名乗る。20歳で、雅号を「大雅」と決める。それからは、諸国を渡り歩いて自然を愛し、その先々で多様な人々と交わる。妻の玉らんと、「琴瑟相和す」仲むつまじさであったことでも知られる。行住坐臥、ごく自然に振る舞うことで知られ、いわゆる風流の道を色々とたしなんでもいたらしい。変わったところでは、1751年(宝暦元年)の、岡山少林寺からの帰途入京の際、用事でやった来ていた白隠慧鶴禅師(1685~1768)と会っていたり、与謝蕪村とは相作もしたか間柄であったらしい。
 その画業は風景を主にし、「岳陽楼・酔翁亭図屏風」や「山水人物図襖」などが代表作。同じく傑作の「楼閣山水図屏風」(6曲1双にして紙本金地墨画着色)を拝見すると、一見中国風の家や幾山が押し寄せてきているようで、自由奔放というか、、つらつら眺めているうちに、もこもこ力が湧いてくる気がしてくるから、不思議さはこの上ない。豪快な絵ばかりでなく、四季の移り変われを描いた「四季山水図」や、農民や釣人などが登場する「十便画帖」(1771作、国宝)には、自分もそこにいる錯覚すら覚える。多くの絵の余白に添えられている書は、陶淵明(中国唐代の仙人のような生活を送ったとされる詩人)などの詩に取材しているのであろうか、自由気儘に心情を吐露したものだろうか。
 鈴木其一(すずききいつ1796~1858)は、尾形光琳の流れを汲む日本絵画の伝統を江戸で復興した酒井抱一(さかいほういつ)の弟子である。その其一が書いた「朝顔図屏風」(あさがおずびょうぶ)は一風変わっている。おりしも、江戸では朝顔を珍重する園芸熱がひろまりつつあった。交配させて、珍しい色あいのものを作り出すのだ。其一はこれに触発されたのだろうか、根元もなければ、蔓が巻き付くための支柱も描かれていない、花があるばかりでなく、蕾や種らしきものまで描いてある。試みに画集の中央に居ると、金屏風の下地に冴え冴えと、両隻の右からと左からと葉っぱの緑(緑青)と花や蕾の青(群青)の組み合わせで、まるで「やあやあ」と近づいてくる。
 不思議だ、なんだか花に囲まれているみたいなのだ。全体として尾形光琳の「燕子花図」(かきつばたず)のような只住まいなのだが、それよりかは少し空想じみているのが、なんだか爽やかに感じられる。緻密であるし、考え抜かれた構図なのだといわれるものの、緊張感の中にも爽やかな動きが感じられるのが何より心地が良い。この絵を描いた其一もまた、黒船来航に驚き、慌てた一人であったろうに、そんなことには露ほども感じさせないだけの、事絵に関しては集中心であったのだろうか。

(続く)

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