鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

米アカデミー作品賞受賞の「オッペンハイマー」を見て、主人公オッペンハイマーの平和を思う心が伝わってきた

2024-04-03 | Weblog

  2日は東京・二子玉川の109シネマズで米アカデミーで作品賞など7部門受賞の映画「オッペンハイマー」を観賞した。第2次世界大戦末期に米国がロシアに先駆けて原子爆弾を製造した一大プロジェクトである「マンハッタン計画}のリーダーとして活躍したオッペンハイマーを取り上げた傑作で、3時間にわたってその苦悩と活躍を描き切った。米国にとっては世紀の英雄でもあるが、その生涯は波乱ともいえるもので、学者の世界から政治、そしてグローバルな視野の下で平和と人々への貢献を求める自らの信念を守り抜いた傑出した人生でもあったことを強く印象づけてくれた。

 映画の前半は第2次世界大戦のさなかに物理学者としてアインシュタインはじめシュバイツアーなど世界の頭脳学者と交流を深めていくなかで、なぜか米軍のトップから米国がロシアに対抗して新たな核爆発兵器の開発に乗り出す「マンハッタン」プロジェクトのリーダーをやってくれないか、と打診され、配下のメンバーを集めたうえで、ロスアラモスに開発拠点を築くこととなる。ロシアはもちろん、ドイツも新たな核爆発兵器の開発に乗り出しており、ここからは第2次世界大戦末期にかけて戦争の行方を決めかねないものとなってきていた。

 そしてヒットラーが自決をして、残る相手は日本だけとなった1945年になって、原子爆弾はほぼ完成し、米国内でその実験を行うこととなり、チームあげて取り組み、なんとか実験に成功し、オッペンハイマーは開発チーム全員から「オッピー」との歓声の下に祝賀会の下に引っ張り出され、完成を喜び合う。そのことは直ちに連合国首脳が集まって協議しているポッダムに伝えられ、今度は日本のどこに落とされるか、が決められ、広島、長崎に投下され、日本にとって悲惨な結果を生むこととなる。

 こうした成果に基づき、米タイム誌はオッペンハイマーを「原爆の父」として表紙に大々的に取り上げ、オッペンハイマーの名声は全米に一挙に高まった。トルーマン米大統領もオッペンハイマーをホワイトハウスに招き、歓迎する。話の中で大統領から「ロスアラモスの跡地をどうしたらいいか」と聞かれたオッペンハイマーは「現地民に返したらいい」と言うと、大統領は不満そうな表情を見せ、さらにオッペンハイマーが「世界は広島に原爆が投下された日を忘れない」と後悔をこめて言うと、「原爆の投下を決めたのはこの私だ」と切り捨てて、会談を打ち切り、秘書に「彼とは二度と会いたくない」と伝える。

 この頃からオッペンハイマーに対する米国内の見方は変わってきていて、米議会ではオッペンハイマーに対する諮問委員会が開かれるようになってきて、映画の後半はその査問委員会にロスアラモス時代の同僚や、研究仲間が次から次へと召喚され、オッペンハイマーの言動や、考えを聴取していく場面が繰り広げられる。なかにはオッペンハイマーはロシアのスパイであるとか、共産党の一員であったとを証言する人まで現れてくる。オッペンハイマーはその後ろで証言を聞き、証言が終わった段階で、改めてその事実について質問される、といった場面が繰り広げられる。最後にはオッペンハイマーの妻まで証言台に立たされることとなり、これが原爆の父ともてはやされた同じ人物なのか、との思いを抱かされる。

 もちろん、最後にはそうした非難はほぼ打ち消され、同僚の思い込みや、妬みが生んだ一時的な非難であったことが印象付けられる。映画の最後はオッペンハイマーがかつてアインシュタインと話したことが一体なんだったのか、が明かされて映画は終わるが、学者の世界でオッペンハイマーが感じ得たものは世界の平和を願う心であり、物事の真理を追究するのはそのためのものである、ということに尽きるのではないか、と思った。

 一日本人として原爆がどうして広島、長崎に投下されなくてはならなかったのか、釈然としないものは残るが、学者としてオッペンハイマーが世界の平和を祈念してのうえでの努力をしたのだ、との思いは認めざるを得ない、との思いが強くした。

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