鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

メガネなしの生活をしばし強いられて、改めて思い知った「目は口ほどに物を言う」ということ。人間生きて思いがけないことに見舞われるということだ。

2022-07-25 | Weblog

 4日前のことである。ハーヴェスト伊豆山へ行こうと小田急線の登戸駅で小田原行きの電車を待ってホームに佇んでいる時に突然、かけているメガネがずり落ちてしまった。手に取ってよく見てみると、なんとメガネの真ん中あたりの金具がポキンと折れて2つに分かれてしまっている。これじゃ、かけていても落ちてしまうわけだ。1週間くらい前から本を読んでいて、居眠りしてしまうとメガネが中心あたりから折れ曲がってしまっていて、手でまっすぐにしていたが、どうやら金具が劣化していて、遂に折れてしまったようだ。これから温泉に行くのにこんなことではやめるわけにはいかないので、ここはメガネなしでやり過ごすしかない、と思って伊豆山行きは続行することにした。

 じつはこのメガネは3年前に両目とも白内障の手術をして、持っていたメガネのすべての度が合わなくなり、医院近くのメガネ店でかけていたメガネの枠を活かしてレンズだけ新しいものにしてもらったものだった。それまでメガネはずっとイワキのメガネ店で誂えていたので、メガネ枠の修理はメガネのイワキに持っていくしかない、と思った。で、2日前にメガネのイワキ二子玉川店に持っていったところ、修理するには3週間くらいかかる、という。

 その間、ずっとメガネなしで暮らすというのも不安を感じざるを得ない。近眼になったのは小学校4年も時だったので、以来66年間ずっとメガネをかけて生活してきたことになる。つまり、メガネなしで暮らすのはここ65年来、経験したことがないことだった。これまで過去に作成したメガネが取ってあったので、なにかあった時には以前のメガネをかけて過ごせば、多少の用には役立ってくれていて、特に不便を感じたことはなかった。しかし、白内障の手術をして以降、従来のメガネは全く合わず、とてもその役に立ってくれなくなってしまった。

 すでに2,3日メガネなしで生活をしてきているが、遠くのものがはっきりとは見えなくて、外出した際にはバスの行先や掲示板の文字が読めなくてどっちへ行っていいのか、まごつくことがあったり、面と向かった相手の目がよく見えない。だから相手の顔色が分からないので、何を考えているのか、何をしようとしているのかが読めなくなる、といった不便が生じている。だから、行き交う見知らぬ人が何をしようとしているのか、さっぱり判らず、適当に察して対処するしかなくなる。何事もなくやり過ごすせればいいが、なにか事があった時には対応できないことが出てくることだろう、と思い知った。

 家にいても一人で読書しているような時は従来と変わりないが、ちょっと離れたところにいて、テレビの画面の文字を見ても見えなくて不便を感じることも多い。やはり、ある程度の視力がないと生活に不便をきたす、という面は多い。考えてみれば、メガネがなかったころの時代には近眼の人はこうした不便を感じていたのだろう、と思った。

 と考えて、今回、もうひとつ予備のメガネを持った方がいい、と考えて、新たにいまの視力に応じたメガネを作ることにした。そうしたところ、この週末には新しいメガネを手にすることができることとなった。それでも1週間強はメガネなしの生活を強いられることとなりそうだ。よく「目は口ほどにモノを言う」というが、目は大事なことを今回の事件で改めて思い知らされた。人間、生きていれば思いがけないことに見舞われる、ということである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする