リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

具体的次元論と大審問官(先週の続き)

2021-04-10 14:48:31 | 行為
 こんにちは。東京地方、毎日快晴の予報が当日は毎日曇り。まあ寒くないので我慢はしますが。
 とはいえ、若緑の中で、もうツツジも相当咲き出しましたよ。ツツジは一気に咲くそうで、行こうとするツツジの名所があれば要注意ですね。なんでも館林のつつじ祭りは実施するそうです。
 わたし? は自動車がない(無免許)ので行きません。
 
 さて、ニュース。当家のホーロー両手鍋の取っ手が壊れてしまいました。取っ手全部がプラスチックなので、熱で折れてしまって。もう40年以上もった sanko ware。優秀です。
 最近の製品を画像一覧で見ると取っ手までホーローのものばかり。
 若人の皆様、なんの鍋でもそうですが、取っ手も金属のやつは熱くてやけどしますぜ。いちいちミトンは面倒なので片手鍋はポケットのハンカチを使うのですが、両手鍋じゃあ面倒でやってられない。
 sanko ware って良心的なのでずいぶん前につぶれたようで、売れ残りがネットに出てますが、プラスチック取っ手でも本体とのつなぎ部分は金属のよう。新品よりこんな仕様の未使用古品を買ったほうが賢いのかなあ。古いのは国産だろうし。
 
 次。
 コロナは変異型の比率が上がっている、とのこと。
 ということは、第1に、畑は同じ、ということだよね。
 雑草と一緒で、生えられる場所は決まっている場合に、強い雑草が初めて「勝つ」かのように見える、わけだ。そうでなきゃ旧型の新型コロナも他で繁殖すればいいわけで。
 「畑が同じ」ということは、相手は人間だから、「どうせ罹るやつは一緒(同様に家族もいるけど)」、ということで、これはそのうちみんな免疫ができるという明るいニュースですね。
 第2に、畑が同じに加えて、「同じ性質を持ってないと駆逐できない」ともいえる。別の性質だったら別の病気だからね、そうなら並行して罹るわけだ。
 ということは、旧型の新型コロナ用のワクチンも変異型に、大丈夫、効く、というわけです。明るいニュースですね。
 ま、頭の体操。
 
 さて本題。カテゴリー違いの「先週の続き」。
 今週も読んだ本を5冊挙げてお茶を濁そうかな、と思ったのですが、しかし先週の記載が読者の方々の役に立ったとは思えない。役に立たない記事は無駄なので、それはいさぎよくやめました。
 
 で、中でも感心したのが高尾一彦「近世の庶民文化」。といって、積極的な論旨の打ち出しよりも高尾という人の澄明さ。すっきりした聡明さというか。なかなか気持ちがよい。
 で、中身としては彼が言うには、たとえば西鶴とかが表現したものは、江戸期資本家の「問屋制家内工業や、さらにはマニュファクチュアの資本の倫理」なのだ、というわけです。この倫理ってなに? というと、「被雇用者への親方的同情」と言っておけばわかりやすいでしょうか。ただ今日は批判でも紹介の場でもなく。
 ここで取り上げることは、この聡明な論者にとって、資本家の経営者行動が「倫理」に見える、ということです。
 当たり前でそれしかない行為が、他人から見れば倫理を守る人間の形式をとる。 
 それにより権力者の賞賛と優越はクリアされる。
 それは同時に社会の規範をクリアするということであり、これで本人にとっても行為共同性を同じくする周囲者にとっても、人間的道徳がクリアされる。  
 さらにそれは同時に社会の人間行為的合理性をクリアするから、それをトータルで読もうとする具体的次元論の社会科学者(この場合は歴史学者)も納得する。
 かくのごときプロセスです。 
 
 このように、具体的人間の次元でしゃべるとどうしても、人間に行動を強いている規定性ではなく、具体的人間の思いにプロットがいってしまう。この文脈で規定性を説いても、それはただの説明でしかない。まことに次元の違う論の並列です。具体的人間のレベルでは「関係」は解明されないのです。
 
 さてそこで、しかし、倫理は語れる。それは或る一人の個人的人間の問題ですから。
 というわけで、先週の続きに入ります。
 そもそも倫理学とはなんでしょうか。
 その歴史的状況において、世間の人間から「当然だ」「しょうがない」といわれる行動をとれた人間は、それで自己の人間内責務が果たされるのでしょうか?
 
 もちろんそうではないから社会科学が存在するのです。
 
 人間は関係の存在です。倫理とはもちろん、関係の中での人間の行為の理路です。他者を放置して倫理はありません。
 他者の「なんとか助けてくれ」あるいは「助けてやってくれ」という願いの下に、大審問官は苦悩する。悪魔に身を売っても他者を救う。これはありうる倫理です。
 もっとも悪魔は居るかどうか分からない。ここに社会科学は存在するのです。社会科学は万能の神です。それは実践倫理学なのです。
 将来の民のために現在の民を犠牲にできるか。あるいは千人のために1人を犠牲にできるか。
 それはそもそも存在してはならない問いなのです。人間が人と結ぶ行為は、この次元にはない。人間は具体的自己と具体的他者との間で行為をする。人間は「スターリン」になってはならない、あるいは人間スターリンは理念としての「スターリン」にはなれない。具体的人間たる彼に人民を救う権利はない。人は目の前の人間を助けられないのならそこで歯を食いしばるしかない。そこに言い訳などは落ちていない。
 しかし一方、「それとは別に」人間は将来の人間が助かる算段をすることができる。その算段のソロバンが社会科学です。
 さらに他方、倫理はいちいちの行動ですが、人間はトータルです。「やるだけやった」。地下水道。
 人はトータルとして自己を肯定することができる。 
 大審問官の問いに、しかし答えず、神の答えだけを人間に提示することで人間を救うものが、社会科学なのです。

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