リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

相反し対立しない理論

2012-05-27 18:13:13 | 歴史への視角
 こんにちは。ようやく来た休みの土曜は、朝から夜までディズニー・シーでなんも休みではなく。
 しかも嬢ちゃんばかりはいいとしてもみんな若すぎて、あこりゃ年取っちゃったのかな、ってそりゃ疑いもないことではありますが。みんな自分の娘より下じゃ、位置付け不明な人々に、明るくない感慨を覚えたものであります。なんて、長々いたくせに。

 それにしても納得できないのが、テディーベアブーム。ディズニー・プロがミッキーのなんとかかんとかのベアとかっていわれを作って売り出したそうですが、商売お上手ね。しかしあんなもんどこが可愛いのかね。熊のぬいぐるみは好きだけど、テディーベアだよ。それを嬢ちゃんたちがみんな手にしたり腕にしたりバッグにしたりしてるってわけだ。わけわかんね。
 せめて「クマのマック」とかならわかるんだが。
   http://members2.jcom.home.ne.jp/smastani/seateddy/mack/index.html
 ま、そういうわけで本日も疲れきって。
 以下、ちょびっとですが。

 異動で、いきつけの図書館が変わりまして、前は古いまあまあな本があったのですが、今度は新しい本しかない小さな図書館で。もっぱら暇つぶしの趣味本を借りるしかないところ。
 で、借りたのがドングリの本。
 
 ドングリったっていろいろで、食べるところ(いわゆる実の膨らんでるところ)は「実」だったり皮だったり種だったりするんだそうで。 どうだ、不思議だろう、ってわけですが、なんだかねえ(注:ほんとは木の実一般の話。私がドングリに収約しただけ)。
 
 そういうのって、ドングリにとっても、人間にとっても、「同じ実」なんじゃないのかねえ。「いや皮だ」、とか言う奴のほうがおかしいんじゃないか。ドングリの方だって、要するに芽の養分貯蔵庫になりゃそれでいいんだから。人間だって、指の先で人の顔が識別できれば、それは指の先にある「目」だろうが。
 
 というわけで、本日は「理論」というものの性格です。
 
 「理論」というのは、基本的に主体的(=主観的)実用に供するために作り上げるものなので、人間は以下のように実用化していくものです。

 まず、時間を固定して
 第1に、考える行為主体にとっての現象状態について正しく当てはまる、機能論=現象論。
 第2に、考える主体が、自分の周りの現象から抜け出ようとするとき=変革するときにのみ正しく当てはまる、本質論。

 また、ちょっと次元を変えて、時間を問題にして
 Aとして、行為主体が環境を話題にしてそれを説明しようとするときに使う、歴史主義。
 Bとして、行為主体が、環境に刃向かおうときに、その根拠となってくれる、人間主義。
 
 世の中の「正しい理論」というのは、決して一つあれば済むものではなく、この4通りのそれぞれが、行為者の状況に応じて、正しく世界にフィットすることになるんです。

 なんていってもわかるかなあ、と思ったら、前書いたような気もしてきたけど、どうかな。
 
 現象論ていうのは、年越し派遣村の湯浅誠さんが政府役員したら「政府もがんばってる」なんていいだすようになった視点のことですね。「お前だってよくいう」、って、ま、そういうことでさあ。
 それは事実だ、と。
 しかし、事実をいってたら何も変わらない。 「しかし、それはそうではない」、といわなくちゃね。
 それを何を根拠に言うか。手順は、目に見える現象の前提を崩すことにある。
 「それはそうではないんだ、それは資本家に取り込まれているだけだ。そうやってみんなが一生懸命体制を守ろうとすることになるのが、資本主義の本質なんだ」という次元で展開するのが、本質論。
 ドングリなら、「種を太らせると芽が1つしかできない。私は芽の数の多さで勝負したいのだが、どうにかなるか、、、そうだ、実を太らせて分化させれば、種はいくらでも作れるんじゃないか」、と考える。ま、考えやしないだろうけど、分化の部位はあちこちで可能である、という本質があれば、そういう道を選ぶことができる。
 
 また同様に、「この現実は歴史的に作られているから、これは変えることはできない。仮定の話をしてもしょうがないんだ、これが現実だ」、といってしまえば、それはそうだ。この現実は歴史的に作られた。 つまり歴史主義である。
 
 しかし、「何を言うか。この歴史を作ってきたのはわれわれであり、これからの歴史を作るのはわれわれだ。」といえば、それもそうだ。 つまり人間主義である。
 
 それぞれの視点は、行為者がいったい何を分かろうとしているのか、そのそれぞれのために取られる。
 人間ていうのは、これらの両方を知って初めて、世の中、というものがわかるんだよ。
 
 
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

一部の人への読書案内

2012-05-21 21:04:11 | 断片
 こんばんは。
 かなりの例によって、「断片」の次は少しリカバリーを。
 私の人より優れている点は(自慢)、このリカバリーの有無なんですよね。
 しくじりが問題ではなく、それをどう尻拭いするかで、凡人的大衆の仕事って決まると思うんですが。

 てなわけで、昨日の翌日。
 
 その1、昨日の補足、nevermore。 エドガー・アラン・ポー作詞の「大鴉」にでてくるrefrainです。
 作詞、って詩ね。
 でも歌なのね。よい歌。
 死んだ(かのごとき)幼な妻を悼む、というより傷む作者が、大鴉に無駄な独白を続ける歌。
 独白に鴉が繰り返す答えは、nevermore。
 そしてその「ネバーモー」を、作者は自分の意志の如何を問わず、そのまま抱え込んでいかなければならない、という、すでに悲痛ではなく、運命というでもなく、それを迎え入れざるを得ないという、恐怖というでもない不条理を歌うわけですな。
 
 それが情けなければ闘うしかない、しかし一方、てやんでえ、俺は闘えないし闘いたくもねえや、という人間の位置を美しく現している詩であります。
 
 で、も、いっかな。私は評論家じゃないんで、無用な過剰な解説はしたくないし。
 ま、それがわかんないやつはほっときますし。
 わたしへの陰口は、「傲慢」。いや、おっしゃるとおりの確信犯。

(注)上記「死んだかのごとき」っていうのは中也の詩みたいにね、「かのごとき」現実っていうのがあるんですよ。


 その2 ついでこっちが本体で、やはり、ブログの性格上、その1とはぜんぜん関係ないけど、「その方面で」新しいためになること、読書案内。
 68年闘争の読書案内です。
 
 若人が、中高年が話す68年について何か知りたいと思ったとき、読む本は、
 うそで固めた小熊英二「1968」ではなく、思い込みばかりの、すが秀実「1968年」でもなく、荒岱介「新左翼とは何だったのか」にしてくださいませね。
 なによりこれから50年も経ったら小熊の本が「厚み勝ち」して「社会学的記録」に残ってしまうだろうのが口惜しい。厚きゃいいのかって、慶應の教授がうそつきだなんて、社会学者しか知らないしね。そう思うと犯罪的な本だぜ。
 とはいえ、じゃあ、どんな本がいい、って、それぞれの党派では出しているけどそれも出自からして疑われるところ、「改心」したセクト指導者が大衆本出版局から出している(この)本となれば、量で勝つかもしれない、てなわけで。
 わたしゃ荒なんざ嫌いだけれど、事実だけはよく書かれてますので、こちらを見るくらいで我慢されてくださいませ。他は若人にはなにも奨められません。
 
   という、大した「ため」ではありませんが、少し昨日のブログの「厚み」を増しておきませんと、来週(の内容)がプレッシャーなもので。
 
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ネバーモー

2012-05-20 21:26:37 | 断片
 こんばんは。今週は休みなしで。
 面白いこともないので、ウイスキーを高いものに換えて飲むばかりです。

 高いといってもディスカウントのオールド、43℃レーベル。
   オールド、まず(不味)。

 15年前よりももっとまずくなってしまっていた。
 独身貴族の私の好きだった40年前のあの味はいずこ。

 あ、いや、きょうはためになることのない、「断片」ぶろぐ。
    では、また、来週。

 で、残った方には、なんなんでしょうねサントリー。
 わかんない若いやつが、高きゃいいだろうって、ロイヤル(これは5年前はよくなっていた)の味に手を入れて、年寄りが伝統の角を、っていうんでてこ入れしてるんでしょうかね。
 間にはいったオールドと角がいい面の皮。
 わたしは角よりホワイトが好きだったんですが、(ホワイトを)飲まずに5年も経った今、幻滅するよりもう買わないほうがいいかもしれませんね。

 食べ物は、作る人で変わるんで厭ですね。

 30年前、池袋東口、現、寿し和近辺にあった鶏だしのラーメン屋さん覚えてる人はいませんかね。義理の弟さんの店ですが。ほんとおいしかったですよ。それと比べたら、二郎ってなに? 馬の餌か、みたいなもんですね。
 そんな完璧な店も、病気になって他人を雇ったらレベル2減してまった。
 いや、このぶろぐは弟さんの知らない場所だし。もう再開発でつぶれてしまったし。
 昔の味なんて、ネバーモー。

 忙しいといいながら(いってないか)だらだら書いてあほですね。ネバーモー。

 さて、おまけのブログ、文芸批評。大鴉、ネバーモーと闘うのは、人間の意志だけなんですぜ。それを反面教師で顕せたポーは、ホンモノの詩人ですぜ。

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

資本主義的同心楕円

2012-05-13 21:21:38 | 歴史への視角
 こんばんは。みなさんお元気だといいですね。私は元気です。

 今日は、他の社員とかなり同時に退社したところ、玄関を出ると自転車通勤の同僚(女)の自転車のカゴに「お荷物」が置いてあったと相当な騒ぎ。
 さて、「お荷物」ってなんでしょうか。
 答え、ニャンコの赤ちゃん、三匹のはいったかん袋。
 
 ばかやろう。
 捨てるに事欠いて。
 しょうがない同僚は交番にいっておまわりさんに引き渡してきたところですが、おまわりさんが言うには、本署にパトカーでニャンコを連れて行ったあと、規定の期間を過ぎると、保健所へ引き渡すことになるそうで。まあ、おまわりさんも大変ですが、このばかやろうは、せめて自分で殺せよと思います。
 「どっかいい人にめぐりあったら」 なんて気持ちなんざ、逃げ以外の何者でもないですね。負い目は自分で一引き受けてなんぼ、というものです。もちろん世の中、引き受けない奴が95%ですけどね。
 
 という憤りはちょとおいて。
 
 ありがとうございます。昨日で本ブログ訪問件数10万件を越えました。
 
 「変だろうが、つい1,2ヶ月前5万人だっていったじゃないか」 と、おっしゃられても、この前は人数、今回は件数。どう違うかといいますと、人数はきた人で、件数はおんなじ人が同じ時にページをめくると、その分回数が増える、という感じで。よくホームページのカウンターでカチャカチャ動いてる数字のもよう。
 ま、ともかくもありがとうございました。
 
 さて本日は、もう2題も書いてしまいましたが、いつもの訪問客の方には息抜きで。
 たまに来た人にちょっとためになることを探して書いておきますと。
 
 今日のNHK、「ダーウィンが来た」、北海道で漁師が捨てた大量の売れない小魚を、大鷲が大量にきてむさぼり食ってる話。
 「なんだ、なさけねえオオワシだな」と私。
 「ワシもうちも産業革命時下層労働者と一緒だね。50円のチンゲンサイ買ってきたり、、、」と家人。
 
 『50円のチンゲンサイ』の意味が分からない人は、こんなブログに来ないで、一生懸命高校受験や大学受験の勉強をしてくださいませ。世間の勉強は10年早い。
 
 ま、そういうことで、たしかに当家は、イギリス下層階級が荷馬車の中層商人から投げられたキャベツの皮(キャベツの葉に陽が当たって硬くなって売り物にならないところを、中層といっても貧乏を知っている商人が同情して投げるそれ)を買うのと一緒なのですが、それは先進国内での話で。
 それが同心楕円を描いて世界を席巻している。
 われわれはチンゲンサイをたべることができ、同心円の最端では、あいかわらずキャベツの硬い皮にも当たらぬトウモロコシの芯を口にすることもできない。
 同心円というのは周辺の位置の違いを 「同じだ」 といってはいけないものなんですね。
 
 で、たまのお客様には、
 「グローバル資本主義なんて、世界の中の資本主義国家で同心円を描いているんだよ」、というお知らせ。同心円は渦を巻いて中心化、一体化へ向かいます。それは、われわれ先進国には資本家の優越性を「あきらめる」、後進国には資本論的労働者でも「いつか夜明けが来る」 そんな関係になっているんですよ。
 
 てなことで。
 
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

生きることで落ちていくもの

2012-05-05 21:55:07 | コーヒーブレイク
 こんばんは。いつのまにかベランダから見る景色は若葉一色(一色といってもいろんな黄緑色があるといえばありますが)。遠くの町のビルも木の葉に隠れて、目に見える人工物といえば金網と遠くの高圧線くらいになってしまいました。
 って、どこに住んどるんじゃい。


 本日は連休のためコーヒーブレイク。といえば、マイフェイボリットシング。
 今日は歌の話。
 
 名曲の定義はいろいろあるでしょうが、歌えない歌っていうのもあるんじゃないですかね。
   歌えない歌。涙で。

 ……「療養所(サナトリウム)」
    「第三病棟」
    「僕にまかせてください」
    「フレディもしくは三教街−ロシア租界にて−」……
 
 さだまさしばっかりですね。(ネット「さだまさし全曲歌詞集」から引いてきたんですからあたりまえですが)
 ばっかりではありますが、逆は真ならず。
 今日の朝日新聞土曜版は、「さだまさし・精霊流し」特集でしたが、「精霊流し」はなんということもない、誰でも歌える愛唱歌。 歌というのは自分で歌うものだから、どんなひとでも理解できる歌でないと、流行はしないのね。
 
 ま、いずれにしてもさだまさし。弱いものの立場に立てた人間でした。 
 と、過去形。
 彼氏、借金だらけの中で、自分の道を切り開こうとしたとき、日本の青春がいっぺんに終わってしまった。ま、いつか終わるものだからそれでいいのだけれど。あとは強いものの歌ばかり。
 人間、弱いもののことを歌っても、それは弱いものの歌じゃないのね。
 強い人間がそれをしても、弱いものを見ている強いものの歌でしかない。
 強いものには弱いものの心はわからない。弱いものの心を表現できるはずもない。
 
 人間て、いつか、自分一人でいろんなことができると知ってしまう。若いときって、典型的に自分が何もできないって思い込んでる時代だと思うんですけどね。その一方で、でもやればできるかもしれない、とも思っている。そこからみんな何かをしだすんだよね。そうするとできることがあることがわかる。その過程で、もしかするとなんでもできるんじゃないかと思う人もいる。
 そうしてそのうち、みんな、それぞれに何かしら自分だけでできることを覚えて、大人になってしまう。 
 こうして、人間は青春の歌を歌えなくなる。
 
 ときどきここで、「なんで詩は若いときしか書けないんだろう?」、と書いてきましたが、考えた結果、答えはそんなところではないか、と結論しました。
 
 「だからなんだ」 って、ぼくは自分が強くなってしまったから、弱い人が好きだな。
 
     歌は歌わなくてもいい。歌えなくてもいい。
     ただ自分の中で、世の中にそれが存在することを誇り見守る歌がある。それでいい。



 それはそれとして、さだの歌をyoutubeに載せると(著作権だかと)文句をつけるような奴は人民の敵だな。

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

「思想のまともさ」を測る指標

2012-04-29 16:57:07 | 行為
 こんにちは。皆様はそろそろ連休? わたしはもうちょっと。
 4月から職業仕事も自分の仕事もなかなかペースがつかめませんが、昨日は新しい職場関係者にインフォーマルに褒めてもらいました。わたしは仕事より人間のほうが大事。執筆は進みませんが、それはそれでよしとしよう。

 さて、昨日朝日新聞の夕刊特集記事、「武田清子」だって。 へ!? てなもんで。(福田宏樹記。 この人はべつにふつうの記者だけど。ま、ふつうといえるだけましな人かも)
 いや、私も心が広いところもあって、どんな人でも1回くらい取り上げてあげてもかまわないんだけど、2回目なんだよね、朝日。先週も別の箇所で載ってて。どっちもべたぼめ。
 わたしゃさすがにそこまで広い心はないの。

 武田清子というのは国際基督教大学名誉教授ね。思想史学者ということになっています。
 私は、昔、図書館で氏の分厚い本を立ち読みしたことはあるのでいえば、べつにふつうの思想史学者なだけだけど、他方、国際基督教大学闘争の弾圧者として知られている人ね。
 なんつって、根拠は田川建三の本だから偏向しているけど、話題のホットな40年前にも反論は出なかったから本当だと認識しております。知っている人は知っている ”ICUのチャペルの庭は学生の血を吸っている”問題ね。

 というわけで、本日のテーマ
 【「人の思想のまともさ」というものを測る指標】

 誰かが人を思想家として褒めたときは、下の指標に当てはめてみるのがよいです。
 どれだけその話が眉唾かが分かる。

 まず座標を作りますね。
 最初に、具体的な人間を扱っているか、観念的な人間を扱っているか、という軸が一つ
 次に、具体的な社会を扱っているか、誰かがどっからか持ってきた社会の分析なしのイメージを前提としているか、という軸。
 この2つの軸を交じらせると、4象限ができます。

 象限てなんじゃ?
 はい、数学の座標の十文字で区切ったスペースのことで。
 たとえばwikipediaで「直交座標系」を引いてもらうといいのですが。
で、
 x軸、プラスが具体的人間、マイナスが観念的人間
 y軸、プラスが具体的社会、マイナスが観念的社会
にとります。

 そうすると、自然に
  第1象限(=具体的人間が動く社会分析)が、まともな社会科学(行為論的社会学、実証的社会学)
  第2象限(=アタマで作り上げた人間が動く社会分析)が、くずな社会科学(経済学、社会運動思想)
  第3象限(=勝手に作った人間像がイメージで認識?した社会で動く代物)が、意味のない随筆(政治思想理論、宗教)
  第4象限(=具体的人間が生きるが、社会の分析のない評論)が、まともな倫理学(倫理学、宗教批判)
 ということになります。

 というわけで、知ってる人には、武田清子というのは第3象限で、田川建三が第4象限に位置することになるのはお分かりだと思われます。
 
 役に立つブログ、今回はちょっと片寄った見方ではありますが。
 
     いや、こんな正しい認識を「片寄っている」だなんて、私も奥ゆかしくなったものだ。


コメント (0) |  トラックバック (0) | 

為した仕事とは

2012-04-22 21:25:39 | 断片
 こんばんは。異動後の忙しさでなかなか精神的にうまいセットのできない今日この頃

 本日はさらにもう1回、しつこくシリアスなテーマにしようと思ってましたが、ちょっと疲れたんで軽くお茶を濁そう、と思ったところでも、面白い話題がでてこない、ばかりか、目の悪さも昂じて、キーボードもまともに打てない。pmpぢbp0、の類い。
 ま、に音源(人間)、他人にみえてなくとも疲れることが多々あるものです。

 で、なんにしよ。
 軽くといって、軽いはずの題材ストックがみんな重くって。
 いやまあ、人間、軽いのも重いのも相対的。なんだかなあ、、、こんな疲れてたってことかもね。

 私の中で他人にも軽いといえば料理だな。そういえば私の好きな昼食屋は、って、みんな潰れちゃったんだよな。
 初オリジナリティ論文を作った洋食の青山とか、応援の2畳ラーメン屋○○(忘れた)のお兄さんとか、つい最近のランチタイム安らぎのしる幸とか(味はたいしたことない、が、それがなんだというんだ)、、、 コンビニ以外の昼食屋で残ってるのって、、、皆無。どこもかしこも潰れ。昔話だな。今回気に入ったラーメン錦、だいじょぶだろか。
 
 暗い。
    ま、わたし、隙いてる店(お客の少ない店)しかいかないもんで。
 
 さて、無理やり本日のためになるブログ。
 作ったお店が潰れたからって嘆かないよう。それがなんだっていうのさ、今が食べていかれる限り。
 食べた人間は覚えているのさ、あそこはいい店だったな、って。
 自分の誇りが持てるお店は、やはり誇りを分かってくれるお客がいるものです。借金はあるかもしれませんが、クズみたいな真似をしていない限り人はわかっているものです。胸を張っていきましょう。
 
 と、これは私のブログのことね。弱小ブログだけどね。
 タイプを打ち損ねるようなブログでも、上記6行、ためになるでしょ。
 
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

国家と操作可能性

2012-04-15 21:25:20 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。関東以西の皆様には、ひととおりお花見はされましたか? 当家は庭(もどき)の桜も葉が出てきて、ああ、そろそろ5月だな、という風情。と思ってカレンダーをみたら、まだ15日で。へええ。 北の方の皆様ももうすぐですね。

 さて本日は勤務があまり面白くなく。
 禍福があざなっちゃうのは常ですが、禍のほうが主観的価値が高いもので。ああ面白くね。
 それにしても若人はいいですね。新規採用の社員の記憶力のよいことといったら。ああ、私も20年前はそうだった、 んじゃないかな、と。
 
 さて本日は、ウサ晴らしで、マルクス的国家概念のあほさ加減について。(「レーニン的」ではありません。)
 
 マルクスの国家概念といえば、順序的に、「ドイツ・イデオロギー」でいいでしょう。
 これは本の名前で、昔からあちこちで出版されてます、が最近の本だと広松渉編集の岩波文庫、これがまあ噴飯本。
 だいたい岩波なんてもんは、40年前から「思想」を放棄して、結局、権力のお先棒をかつぐメディアに過ぎなかったことを露呈しているのですが、(というような岩波書店への反感がわかるのはもう65歳以上だろうね)、それにしても広松ドイデは無残。
 立ち読みしていただければ分かりますが、こんなもん、誰にも読めない。
 主観的には左翼がいるはずの岩波ですが、なぜこんなものが人民の書であるはずの岩波文庫にのるんでしょうか。(とは岩波の良心的平社員用の物言い。ほんとは昔っからダメダメ出版社)
 いや、なぜの理由は分かっているので、広松が東大教授だったというだけですが。
 そんなことはないって? うそつけ。早い話、吉本が岩波から本出すか?
 ま、おかげさんで立ち読みの結果、下記行論の関連部分はエンゲルスではなくマルクスといっていいと分かりましたが、どっちだって同じだね。
 
 さて、同じ箇所のその手前で問題なのをいっておくと、その1 「分業」。
 マルクスの言う分業は、アダム・スミスの描く分業ではありません。ましてやモダンタイムスのような機械的な分業ではありません。
 彼は生活者が漁師と猟師とに分かれる体制を「分業」と名づけ、それが人間を抑圧すると断します。
 わけわかんね。海辺で育てば人は海産物を取るしかないでしょ。
 もちろんそれでは炭水化物不足になるから、山育ちの人間と生産物を交換する。
 人間、おたがいさまだがね。
 それがなんで悪いんだね。
 漁師は「漁師」と呼ばれるのは不本意かもしれないが、魚や貝や海草を取って、今日の仕事を満足に終える。明日は奥さんが山の民から堅パンを交換してきてくれるよ。
 そのこと自体のどこが抑圧だね。

 人間にとっての問題は、そういうことじゃない。

 そんな社会は、魚が取れなければ、あるいは高地でデンプンが取れなければ、そこで崩壊する。
 それが問題なのであって、行為対象が(海と山で)分かれていることなど問題であるはずがない。
 で、彼はこの事態をもって「特殊利益と共同利害との分裂の実例」と称する。理解不能。
 いやほんとは理解はできてるのさ。後進国ドイツ臣民の若きマルクス、国家のおかげで特権を享受していられるマルクスにとって、共同体は神なのだ。
 
 で、マルクスの論の深刻な問題点は、その2。いわく、
 しかして、エゴイスティックな個別利害を追うことしかできない個別個人にとって、共同体の利益の実現は、幻想的な何か別個の存在であり、それゆえに個人に対立する。個人はこれをもって「国家」と呼ぶ。
 って、なに。反動右翼そのものの言ではないか。 国家はそんなに利己主義者の個人が平伏してたてまつらなければならないもんなのか?  
 あほんだらが。同じ左翼として恥ずかしい限り。穴があったら入りたい。
 なにが「若きマルクスの理論的苦闘」だ。そんな時代には既にアナーキストは、「国家は支配者として個人に対立する」と広めきっていたのであり、それにマルクスがようやく耳を貸すには、その後自分が支配階級に痛めつけられ続けた30年が必要になる(ゴータ綱領批判)。(ちなみに、3年後の自称「共産主義者」の綱領のはずの共産党宣言、国家の悪口への言及は1行のみ。それも、「未熟な社会主義者(アナーキストたち)がこんなことをいっている」、という項目にしかない)(さらに人によっては「フランスの内乱」(という本)内のカタコトの修飾語をもってマルクスのアナーキストへの早い反省時期としてあげるやつもいる(ってだれもアナーキストを顧みているわけではないが)。ったく、そこまでしてマルクスを弁護したいんだろうか。隻言半句を探し出してマルクスを弁護する、その奴隷根性こそ憐れみたいものだ。)

 ま、そういうわけで、マルクスの国家概念など笑止なものなのですが、ここで、そうはいってもドイツ・イデオロギーで使われた、国家は『幻想の共同体』論の社会科学の歴史上の結果としての成果の豊富さは否定できないことです。まことに、マルクスは修辞の甜菜ですな。

 というわけで、国家とは、観念的には何かを語っておいたほうがよろしいようです。
 (観念的に言っても社会学的には無益なので、隈の「行為の集成」では、レーニンの概念を褒めておきました)
 
 で、国家とは、観念上は、指令者による操作可能性の観念(的幻想)を抱ける地域上の範囲です。
 この観念を指令者が持ったとき、被指令者は指令者の表現を通じて指令者の可能性について事実認知されます。
 それと同時に、指令者が支配者として被指令者の内部に観念され、その指令者の意図に沿って観念された規範が内面化されます。これが国家的権力の承認の現実化です。
 と同時に、他「国家」に対する操作可能性観念が浮上します。
 この原理に沿って動く歴史の中で、資本主義社会では、商品経済による操作意志の放棄と、自動操作(放任)ー官僚による操作が生じます。

 といったふうに書いておけば、幻想だの、共同性だのという融通無碍な=ただの漫談のネタでしかない規定性(何も規定してませんが)から脱皮することができるのではないかと愚考するところで。
 たとえば、蜃気楼とは幻だ、というよりも、それは密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象だ (wiki)。といったほうが、物事が限定される、少なくとも蜃気楼を神のお達しだと解釈する奴はいない、というわけです。
 ましてや「共同性」など、広松にかかっちゃ「相互関係」、すなわち無規定、無意味の極致ですから。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

民主政治

2012-04-08 22:01:54 | 歴史への視角
 こんばんは。いよいよお花見の季節で。 
 今日は手製のお弁当を持って、一升瓶から空きペットボトルにお酒を移して、向かいの山へお花見に出かけました。八分咲きの下から見れば青空に桜は満開でまことに良いお日より。こういうのを流行りの言葉で「幸せ」っていうんですかね。
 
 私らの子供のときはそんなこともできないで、幸せってなんだろな、って思ってましたが、今思えばやはりその頃は不幸せだったようです。
 昔はみんな貧乏でしたが、うちはお酒を買えないほどでもないし(その頃は500円のハイニッカを買っていました。今で言うと5千円くらいかも。もっとも食べ物の他には買うものも少なかったから、3千円くらいの重みかな) 花見くらいできたのですが、悪の根源は爺さんでね。
 一度くらい書いたかしら。熊本の家父長制下の人間で、権力主義者のどうしようもない男。
 こいつのおかげで私の今があるのでしょうから、まあ、人生、禍福あざなえる縄、で。
 とはいえ、爺さんも別に悪辣非道なわけではなく、単に権力で家族を牛耳っていただけで。もちろん本人のせいではありますが、熊本県と時代のせいでもある。
 
 で、本日の焦点は、クズの橋本で。
 といってどれにするかな、「市長の悪口をいった市職員はクビだ」にするか、いや、今日は、橋本が部下に、教員が君が代を歌うかどうか口元を見させて、こいつ歌ってないと思った奴は懲戒処分にするって。多少違う? いや本質はそういうことなのですよ。

 いったい、こういう奴がファシストじゃなくてなにがファシストなのかな? 右翼の諸君、教えてよ。
 「君が代」ってなあ、1番だけだって「天皇のために世の中が続けよ」、って歌だぜ。お前らそのために死ねよ、ってわけだ。現行憲法下では、世の中って、俺らのためや、せいぜい「国民のため」に続くんじゃないのかね。まあ、最悪、「国家のため」くらいならありうるかな。
 しかし、そうじゃない。天皇だぜ、天皇。そんな歌がこの世に存在していること自体が狂気なのに、国歌制定は小泉以前だから小泉のせいじゃないぜ。
 
 で、これを言い換えると「お前、このまえ居酒屋で社長の悪口言ってたな。隣の社員がボイスレコーダーで取ってあるぞ。よくも当社の評判を貶めてくれたな。クビだ。」ってわけでさあ。
 クビになったら、他の会社でも勤められないんだぞ。「リーンリン、ああ、A社さん? あいつがおたくに就職したいって? ダメダメ。あいつは社長の悪口をいったからクビにしたのよ。今度警察に通報しとくね。どこにも就職できないように」って、ファシズムってそういうことなの。ま、教員さんかわいそうにね。
 で、ポイントは、問題は跳ね上がりをクビにする自体ことよりも、クビを脅しに、モノをいえない生活の場を作った、ということです。
 サラリーマンの方々、思ってもみてください、社長の悪口をいったらクビと思いながら、毎日生活するわけですよ。しかもそれが「社長」だけでなく「上司」の悪口に進展するのにそう長い時間がかかるわけじゃない。あーた、毎日ビクビクして周りの人間を気にして、酒でウサも晴らせない、そんな生活をファシズム真っ盛りと言いますね。そうでしょう、右翼諸君。なに、不満ならマルキスト諸君といってもいいが。
  なんていっても、ここにくるのはまともな人ばかりで悪口を続けてウサを晴らせないのが残念。
 
 まあ、ここに来る人たちはみんな橋本がファシストだと思ってらっしゃるのでしょうが、本日のテーマはそうではなくて。
 悪いのは大阪府民だ、といっています。
 
 シンプルにいって、キチガイは精神病院にたくさんいますし、クズだって少なくとも暴力団員の数だけいます。
 だからって、彼らはファシストか? いやそうじゃない。ただのどちらかといえば可哀想な境遇の人たちです。
 じゃあなんで橋本ばかり悪口をいわれなければならないんだ?
 それは橋本が大阪府知事、大阪市長という権力者だからです。
 じゃあ、橋本はどうやって権力者になったんだ?
 大阪の選挙民が選んだからです。
 俺は投票してないというのは充分わかりますし、東京も石原がいやがるんでエバレるもんではありませんが (ただ石原は少なくともファシストではありませんぜ)。
 
 いずれにしても、悪いのは庶民だ、ということです。
 しかも生活がかかった人間が利害関係で党を選ぶならまだしも(たとえば自民党に投票する)、橋本の場合はそうじゃありませんぜ。きっぱり大阪の過半数の人間が悪い。
 ファシストを育て、大きくし、日本を全体主義国家の国難に追いやる非国民そのものですな。
 
 まあ、世の中というのはそういうものです。
 実は人民がやったことなのに、都合の悪いことには目をつぶる、口をつぐむ。
 ぼかあ知らない、あたしは関係ない。橋本に投票しただけだ。そうよ、悪いことやったのは橋本よ。
 面白い間は囃(はや)しておいて、都合が悪くなるとお神輿のせいにする。
 天皇・日本、ヒトラー・ドイツ、スターリン・ソ連。
 
 自分の行動の責任というものに知らないフリをする奴は、クズの橋本以下だ、と思うのですが、ここでいってもしようがないのが残念。


コメント (0) |  トラックバック (0) | 

知識の進展能力

2012-04-01 21:39:30 | その他
 こんばんは。

 4月1日。また異動です。どうも遊撃要員化しているな。わたしは異動は好きですが、年齢によりだんだんめんどくさくなってきました。
 そんなこんなで昨日が最後の勤務、今日は日曜休みの端境日、行き先が決まっていない朝はあまり気持ちよくないだろうな、と思うこの頃です。

 で、異動前最後の仕事のキメ。これがなかなか難題で。昔だったら3割の力でやったよなあ、今じゃフル活動というのも淋しい。ま、でもできるだけましか、みたいな感慨を覚えて。

 私の場合、問題の多くは記憶力と体力ですが、それはおきまして、本日は知識活動の一般論を。 
 だいたい、行動原理では欧米人間もライオンも同じ、というのが私の発想ですが、日本人と欧米人間はそうは違わないでしょうから、日本人もライオンも同じ、と仮定します。
 そうすると、脳の力なんてもんは
 認知→アナロジー→アナロジ−の個人的整理の適用→行為への適用
 しかないものですよ。
 まあ、その間に「記憶」というものが介在しますんで、中高年以上だとこれが大変。大変だけど、それだけのこと。
 「アナロジー」というのはライオンと一緒ですから大した能力ではない。これを十全に活用すると社会学でいうと東大名誉教授T永氏みたいなものができて。というのは馬鹿にしているのではなく、社会学者の7割は彼を尊敬しているのだろうから例に出したまでで。
 大変なのが「アナロジ−の個人的整理の適用」。社会学者でいうとY田東大名誉教授、って京大名誉教授の間違いじゃないのかねえ、どうでもいいけど。しかも元日本社会学会会長かよ、いならぶ社会学者、バカじゃねえの。なんて話ではなくて、それなりでも成果を出したことは大変なのですよ、一歩間違えるとバカだからねえ、って、間違えてるし。詳細はどこかに書いた覚えがありますので私の気持ちでは失礼ではありません。
 
 で、上記のように、私はY田氏のことを大変褒めているわけですが、ここでの話題は、どうすれば間違えてバカといわれようと、まずその第一歩として、アナロジーの個人的整理ができるのか、ということです。
 
3 不断の思考実験による現実適用
 これがないとただのバカです。
 一方、これがあるとどこが悪いのか誰にも発見されませんので、少なくとも、プレスチージュのある地位(=東大教授等)につけばすこやかな一生を終えられます。
 
1 その手前で、まず、アナロジーを活用する習慣が必要です。
 もちろん、番号ゼロで、「アナロジーの作成」というのがありえますが、まず98%の人間は神のお導きでその能力を持っているので、それは書きません。
 ただ、ほんとうに自分の力でそれを整理していくというのは、いわゆる優等生=人の指導をもらい続ける人間にできるものではない、ということです。自分で整理を続ける習慣が備わる環境があれば(たとえば自分の力でなんとか稲を実らし続けなければならないという環境があれば)、間違えなければ、平教授連からでなく神からも尊敬される。
 
2 でこれが本体。しかし人類の知識を本当に進展させていくものは、知識を行為に接続させる意志、これです。
 知識を行為に接続しようと思えば優秀なY田氏の頭脳は、ぐうたらな隈のケチ付けを受けることもなく、20世紀後半世界社会学のチャンピオンとなれたことでしょう。
 ライオンは、前に小鹿がいるのを見て(認知し)、過去の狩の成功事例を頭に描き(アナロジー)、中には特殊に自分なりの迷いを思ったりします(雷はならないかしら? 雷が鳴ってるときは小鹿は驚くから、驚くということ自体、こういう行動をとるはずなのよね、なぜかって? あたいがそうだからよ(どうも狩といえば雌ライオンのようで))(=アナロジーの個人的整理)
 さて、次。ライオンが人間に感心されるために必要なものは、ここで雷を落としてみる意志です。
 「いいわ、雷なんてすぐには鳴らないから、どうせじっと待ってりゃいつものようにあたいの目の前を通るし。」
 別にそれで悪くはありませんが、私の場合、それでは生きてきた甲斐がない。それだけのことですが。
 
 でも若い皆様にはシンプルに理解されたほうがよいです。
 人類にとって東大名誉教授に欠けているものは、『知識を行為に接続させる意志』です。


コメント (0) |  トラックバック (0) |