こんにちは。東京地方の2月は曇り続き。ひたすら春が待たれます。
さて本日は辛気臭く「経哲」の話。
といって分かる人は私より1歳下までのはず。
マルクス、経済学・哲学草稿、たとえば岩波文庫 城塚・田中訳のことで、わかんない言葉を使ったのはそういう昔話の類だからですが。
昔話といっても1,2年前長谷川宏(という世間では評価されている、はっきりいってこの時代でしか評価されない取るに足らない哲学者)の新訳が出てはいます。
この本を簡単に紹介すると、「疎外」という言葉を有名にしたごく若いマルクスの著作、というわけで、1960年代に日本で流行りまして、私などは高校1年の春休み、クラスで行った高校改革学習菅平旅行(ナンじゃそりゃ、みたいなもんですね。活動家の合宿のようですが、それにしてはクラスの3割が行きました)に、上田行きの急行列車内で読みふけったものです(読んだのは疎外の節ではなくて、ヘーゲル法哲学批判の章でしたが)。
で、何をいまさら、というところですが、要するにケチ付けでして。
いえ、虚心に読めば第1章、出だしからくだらないことは分かるはずですが、不思議なことに良心的に見える人ほどこの本を褒める。
まあ良心的といっても見えるだけで、ほんとうはどうだか怪しいもんですが(ほんと評論家(的学者)には騙されつづけて数十年)。
あげくは、疎外革命論といいまして、労働者は自己疎外を克服するために革命をする、という話まで出ます。つまり、資本主義社会では資本家と労働者も疎外されますが、資本家の疎外はたいしたことがなく労働者の疎外は救われないので労働者は革命を起こして社会を変えるしかない。ところで、この革命は疎外の根源である資本主義社会を変えて自由な社会主義社会にするものだから資本家を含んだ人類一般の解放の革命である。これを遂行する歴史的役割を負った者がプロレタリアートである。かくて労働者は決起せよ。という筋書きです。 これは一見論理的ですが、中身を伴っていないので、どうにでも変えられる話で。要するにこの筋立ては「マルクスの言う疎外」でなくていいんですね。資本主義社会が悪く社会主義社会が良ければ、すべての社会構成素について成り立つ論理で。たとえば「疎外」を「貧乏」という言葉に代えてもこのストーリーは成り立つ。更にいうと、私は「貧乏」という言葉に代えたストーリーのほうが好きです。「ぬくぬく暮らしやがって何が「疎外」だ」、という気がしますから。
などというと、疎外革命論者からは「疎外され切った哀れな男よ」なんていわれるでしょう。
アホかいな。
隈の読者はご存知なように、本来「疎外」とはそんな「貧乏」と取り替えられるような概念ではあってはなりません。「疎外」とは、人間行為が達成できない、という状況を表現した言葉です。したがって、資本主義がなくなったところで、行為の十全な実現が確保されるわけではない。
マルクスとマルクス主義者の労働疎外論などというものが想定しているものは、幻想の原始共産制にすぎません。
私たちの社会が原始共産制社会に戻ればいいかどうかなど、戦前生まれならいざ知らず、共同体的紐帯(=束縛的きずな)から離れたことがある私たちには問題にする必要もないことでしょう。
私たちは、自分の行為の達成のために「共同体権力さえない時代」に戻る必要がある。あるいは、それでは状況のイメージがつかめなければ言い換えて、われわれ一人一人が階級社会の最高階級まで達する必要があるのです。 それが本当の人間の「自由」であり、「解放」なのです。
でも今日は、その話が本体ではなく、小市民階級の疎外について、で。
旧社会主義モザンビークで、魚の安定供給に、一律「重さ」で価格を決めて漁師から魚を買い取ったら、漁師が苦労してうまい魚を捕るのをやめた、という話(どんな魚でも同じカネになるならわざわざ苦労はしない)を読んで。
昔から社会主義の悪口に使われますが、小生産者というのはこういうものなんですよね。
「疎外」というものは、マルクスやマルクス主義者がなんといおうが、本来、私有財産にも共有制にも関係がない。行為にはその結果が必要なのに、その結果がついてこない、ということ、これが本来の疎外状況です。
苦労した結果が同じなら、それは行為の疎外です。
小生産者というのは、分業生産者(労働者)のように自分の行為結果を組織上で得ざるをえない人々、ではない生産者(労働者)のことを指します。自分の手で行為結果を入手できる人々ですね。といっても商品経済社会ではそれをいったんカネに変えるわけですが。
もちろん、行為の結果がカネにしかならないことは、(ヘーゲルがすでに言った気がしますが、まあマルクスがいってもよく) それはそれでそれ自体疎外状況ではあります。
ただし、その状況の中では、カネを媒介として行為と行為結果とは2次的に直結(?)しているのです。つまり、労働行為の結果の売上金の多さは、妻のドレスを生み、子供の学費を生む。
どんな体制であろうと、結果と直結しない労働は、娯楽的労働以外には、行為の意義がない。
遊んで仕事ができるなら、それはそれでいいですけどね。
で、じゃあどうするんだ、って。
行為の「結果」の意義を変えるんですね。
生産物の交換が必要な社会では、生理性の側面上、生産物の量(ばかり)ではなく、質に意義を持たせるようにする。 生協の世界ですな。
あるいは、賞賛や優越の側面上、生産することにまつわる賞賛や優越に意義を持たせる。 野球、サッカー、将棋指し、ボランティアの世界ですな。
いずれも、生産力の裏づけが必要ですが。
本稿での問題は、現実にどうこうするということではなく(どうせ資本主義社会ですからあーだこーだいうのも無駄でして)、人間というのはそういうものだ、ということを認識しなければならない、ということでした。
さて本日は辛気臭く「経哲」の話。
といって分かる人は私より1歳下までのはず。
マルクス、経済学・哲学草稿、たとえば岩波文庫 城塚・田中訳のことで、わかんない言葉を使ったのはそういう昔話の類だからですが。
昔話といっても1,2年前長谷川宏(という世間では評価されている、はっきりいってこの時代でしか評価されない取るに足らない哲学者)の新訳が出てはいます。
この本を簡単に紹介すると、「疎外」という言葉を有名にしたごく若いマルクスの著作、というわけで、1960年代に日本で流行りまして、私などは高校1年の春休み、クラスで行った高校改革学習菅平旅行(ナンじゃそりゃ、みたいなもんですね。活動家の合宿のようですが、それにしてはクラスの3割が行きました)に、上田行きの急行列車内で読みふけったものです(読んだのは疎外の節ではなくて、ヘーゲル法哲学批判の章でしたが)。
で、何をいまさら、というところですが、要するにケチ付けでして。
いえ、虚心に読めば第1章、出だしからくだらないことは分かるはずですが、不思議なことに良心的に見える人ほどこの本を褒める。
まあ良心的といっても見えるだけで、ほんとうはどうだか怪しいもんですが(ほんと評論家(的学者)には騙されつづけて数十年)。
あげくは、疎外革命論といいまして、労働者は自己疎外を克服するために革命をする、という話まで出ます。つまり、資本主義社会では資本家と労働者も疎外されますが、資本家の疎外はたいしたことがなく労働者の疎外は救われないので労働者は革命を起こして社会を変えるしかない。ところで、この革命は疎外の根源である資本主義社会を変えて自由な社会主義社会にするものだから資本家を含んだ人類一般の解放の革命である。これを遂行する歴史的役割を負った者がプロレタリアートである。かくて労働者は決起せよ。という筋書きです。 これは一見論理的ですが、中身を伴っていないので、どうにでも変えられる話で。要するにこの筋立ては「マルクスの言う疎外」でなくていいんですね。資本主義社会が悪く社会主義社会が良ければ、すべての社会構成素について成り立つ論理で。たとえば「疎外」を「貧乏」という言葉に代えてもこのストーリーは成り立つ。更にいうと、私は「貧乏」という言葉に代えたストーリーのほうが好きです。「ぬくぬく暮らしやがって何が「疎外」だ」、という気がしますから。
などというと、疎外革命論者からは「疎外され切った哀れな男よ」なんていわれるでしょう。
アホかいな。
隈の読者はご存知なように、本来「疎外」とはそんな「貧乏」と取り替えられるような概念ではあってはなりません。「疎外」とは、人間行為が達成できない、という状況を表現した言葉です。したがって、資本主義がなくなったところで、行為の十全な実現が確保されるわけではない。
マルクスとマルクス主義者の労働疎外論などというものが想定しているものは、幻想の原始共産制にすぎません。
私たちの社会が原始共産制社会に戻ればいいかどうかなど、戦前生まれならいざ知らず、共同体的紐帯(=束縛的きずな)から離れたことがある私たちには問題にする必要もないことでしょう。
私たちは、自分の行為の達成のために「共同体権力さえない時代」に戻る必要がある。あるいは、それでは状況のイメージがつかめなければ言い換えて、われわれ一人一人が階級社会の最高階級まで達する必要があるのです。 それが本当の人間の「自由」であり、「解放」なのです。
でも今日は、その話が本体ではなく、小市民階級の疎外について、で。
旧社会主義モザンビークで、魚の安定供給に、一律「重さ」で価格を決めて漁師から魚を買い取ったら、漁師が苦労してうまい魚を捕るのをやめた、という話(どんな魚でも同じカネになるならわざわざ苦労はしない)を読んで。
昔から社会主義の悪口に使われますが、小生産者というのはこういうものなんですよね。
「疎外」というものは、マルクスやマルクス主義者がなんといおうが、本来、私有財産にも共有制にも関係がない。行為にはその結果が必要なのに、その結果がついてこない、ということ、これが本来の疎外状況です。
苦労した結果が同じなら、それは行為の疎外です。
小生産者というのは、分業生産者(労働者)のように自分の行為結果を組織上で得ざるをえない人々、ではない生産者(労働者)のことを指します。自分の手で行為結果を入手できる人々ですね。といっても商品経済社会ではそれをいったんカネに変えるわけですが。
もちろん、行為の結果がカネにしかならないことは、(ヘーゲルがすでに言った気がしますが、まあマルクスがいってもよく) それはそれでそれ自体疎外状況ではあります。
ただし、その状況の中では、カネを媒介として行為と行為結果とは2次的に直結(?)しているのです。つまり、労働行為の結果の売上金の多さは、妻のドレスを生み、子供の学費を生む。
どんな体制であろうと、結果と直結しない労働は、娯楽的労働以外には、行為の意義がない。
遊んで仕事ができるなら、それはそれでいいですけどね。
で、じゃあどうするんだ、って。
行為の「結果」の意義を変えるんですね。
生産物の交換が必要な社会では、生理性の側面上、生産物の量(ばかり)ではなく、質に意義を持たせるようにする。 生協の世界ですな。
あるいは、賞賛や優越の側面上、生産することにまつわる賞賛や優越に意義を持たせる。 野球、サッカー、将棋指し、ボランティアの世界ですな。
いずれも、生産力の裏づけが必要ですが。
本稿での問題は、現実にどうこうするということではなく(どうせ資本主義社会ですからあーだこーだいうのも無駄でして)、人間というのはそういうものだ、ということを認識しなければならない、ということでした。