リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「意味世界」と社会学(その3)

2021-02-27 13:06:51 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。神奈川北部、昨晩はひどい風で、春の嵐かと思いました、が、最近気象庁のホームページが変わって、「昨晩」という過去のデータが取れないので何が起きたかわからない。変えた当事者は、ほらこんなに詳しくなって便利になったろ、なんて思ってるんだろうねえ。実際、「デジタルな」若人はそれでよいのかも。しかし、人間、多少精度は粗くても検討データを把握して自分の頭で考える人間でないと未来はないと思うぞ、ま、どうせ世界に未来などないけど。
 
 ともかく春がやって来てそうで、目がかゆくて。
 春が来たので桜餅を食べました。桜餅は桜を見ながら食べるか否か、ネットは広告料欲しさの同じ情報ばかりあふれていてよくわからない。
 わたしゃ「花より団子」の団子はみたらし団子だと思うのだけどね。言問団子だっていいけど。あれ串がないって? そうか、ようじで切って食べたっけか? 花見用じゃないね。

 さて今日は、きほん、前回の注釈にしようと思ったのだけど、それと思ってメモしといた内容を、目がよく見えないんで、PC画面を見ないでメモ部分切り取って捨てちゃった。悲しい。資本主義的「借金」というものの存立規定を展開したのに。、、、そこまで目が悪いか、、、
 ま、どうでもいいものはどうでもいい。みなさまが無駄な時間をとられなかったことを喜ぼう。要するにこの世では借金は必ず返してくれると思うほうがおめでたい、という理屈。私も随分踏み倒されました。そんなつまんない理屈を経済学という学問にしちゃうんだから、観念論者というものはすごいものだ、、、もちろん皮肉。
 そのうちグレーバーの「負債論」なんてもんがなぜ現象論かというお話をしましょう。まだ読んでない(!)もので今はだめ。ずううっと図書館の予約が途切れなくて。しかし、負債一般なんてものは社会にはないということは、前回の通り、我々の現実の労働の裏打ちがあるかないか、ということです。資本家の借金は、全部が無から生まれるのではありません。グレーバーという人もアナーキストかなんか知らないが、解説からすると、マルクスは読んでないようで。それじゃあ学問は進歩しないよ。
 
 で、本題は、まだメモしてなかった社会学の現象学派の注釈。本を世田谷区から借りるのに手間取って。本は、シュッツの「生活世界の構造」。初見。昔はシュッツなど英語の”collected papers”くらいしかなかったから、そこまではお付き合いしかねて。しかし、ボスに言及しないで済ませるわけにもいかず、さらに解説だけで文句をいうわけにもいかないから確認して。もちろん「読んで」はいません。内容確認だけ。で、結果として2年まえの(その3)になってしまった。
 
 さて、結論から言えば、要するに、シュッツの学問というのは、自己にとって、「「この社会」として私という自己に対峙する何モノかは、いったいなんなのか」という問題なのでしょう。それが現象学の本来の存在意義なのだから。
 この種の問いは、「社会(他者という存在)」が現れるまでが哲学で、それ以上の言及は常に、心理学となります。シュッツはすでに外部社会(他者)を前提にしてますので、必然的に心理学となります。 
 訳者の那須壽氏はこの本を「プロト社会学だ」と解説していますが、那須氏のような現象学的社会学の重鎮の取るべき態度はいざ知らず、普通の解説者は、これは心理学であって社会科学とは関係がない」とはっきり述べるのが初学者への配慮でしょう。
 心理学ね、哲学でもなく。前にも言いましたが、現象学哲学で正しいのはサルトルのみ。あとはみんな自分の「哲学」と現実的評判との折衷学です。この結果は、哲学志向者は生き方者になり、社会志向者は心理学者になる。もちろん、フッサール以来の追随者を含めて。

 現象学的「社会学」の根本欠陥は、「意味世界」なる観念世界を提示することにあります。人間の行為環境にそんな世界はありません。人間には意味を持った環境が存するのみです。
 「意味」とは何か。人間が行為した際に、自己の行為の理由を考える際に自分が付与する、その理由です。もちろんそれが「嘘」だと言っているわけではありません。人間の行為にその人間や現象学論者が言う「意味」はない、といっているのです。
 人間にあるのは、確かに意味は持っているでしょうが、意味を持った「環境」です。そして、それ以上に重要な認識は、人間はその環境に向かって、自分の「変革意味を込めた」事実認知によって立ち向かう、という、本質事項です。社会は自分や他者の「意味」ではなく、環境(の構成)によってできている。そう把握して初めて、では自分が次にどう行為したらよいのか、という社会的判断と行為が生まれるのです。意味? 自分か他者が意味を変えれば世界は変わる、では、社会科学は成立しません。
 意味世界論者に言わせればこの「変革意味を込めた」事実認知路線も、ただの意味だ、というところでしょうが、そうではありません。自分という行為者が措定する「意味」は、「環境に対し矢を放つ弓」あるいは「環境の持つ意味について、これを変える意味を持った行動」という、その「いいたければ」包括的意味において、人間の行為の自己評価となるのです。 
 もっとも、「意味がない」という意味もありますけどね。別に不思議なことではなく、意味とはただの状態語で、行為者の次の行動への構えの内実を指すに過ぎないから。その状態がない、というだけのことです。

 それでは環境とは何か。行為環境は、その物理体としては行為の意味を内に秘めた対象物ですが、行為にとっては意味を構成する意味の要素です。
 同様に、環境の中で、反作用をくるくると変容させる各他者は、行為にとってはその場面場面に対して意味を既に備え終わって存する、意味の要素です。しかして、言い換えれば、行為の環境です。もちろん環境の意味は、次の瞬間には変更されることもあるでしょうが、ポイントは、ある時点で備え終わっている、と捉えなければ自分の行為が始まらない、ということが行為者が存在する現実態なのです。

 考えてもみましょう。人間が何を感じたか、思ったかなどを斟酌することで社会科学ができるでしょうか。いいえ、できません。ウェーバーやその追随者の自己満足の説明で終わるならそれでいいでしょうが、社会事象の因果連関の社会科学を志向するならば、それはできない。ところが現象学の思考材料はそれら対象主体の思考にまつわる情報だけなのです。それでは次に生ずべき社会事象は語れない。
 もちろん、因果連関を定言化したうえで、その時に人々が何をどう感じ思ったかを広げてみるならそれを止めはしません。しかし、それは順序が全く逆です。それでは心理学でもない。文学です。
 
 いやね、マンガの代わりに借りた平田勝「未完の時代」という60年代紛争(闘争)の記録的自伝、昔あった共産党の新日和見主義というものに興味があって借りたのですが、著者氏、完全に私と感性が違う。なぜなんだろうと不思議なのですが、こんな疑問に対応できそうなシュッツ学というもの、実は対応できないでしょ?
 世の中には行為者それぞれが生きた時間で違う反応様式というものがある。それはいいや。で、これを解明できる? お手上げでしょ?
 原則論を説くのはいいや、わたしゃ心理学者じゃないからその意義は問わない。しかし、行為者の個別の事情など、誰にもわかるものではない。しかもそれが「私」や「平田氏」や、という複数人対象だったとしたら、登場人物3人で論文が1編。そんなものは当事者しかわからず、当事者でさえわからない。それが正直なところでしょう。論文は書けるでしょうが、その内容は後からの推測。ウェーバーの後継者だからいいって? 結構結構。ご両者とも、そんな「社会学」だ、ということです。

 といって、私は意味世界論者が間違っていると言っているのではありません。幸か不幸か、一つのアプローチからは一連の結論しか出ないが、意味世界アプローチでは社会科学的結論は一つも出ないだろうと言っているだけです。それは間違いなのではなく実質不可能だろう、というわけです、
 隈社会学は2つのアプローチを持ち、その後にそれぞれの結論が出る。先進国社会にはほとんどそのままが結論となるが、後進国については、これを当該国の研究者がモディファイしたのちに、適正な結論が出る、社会科学方法論とはそういうものなのです。

 これは付け足し。
 那須さんは、早稲田で修士のとき佐藤慶幸ゼミに出たらオブザーバー? で出ていて、ああこんなしっかりした人がいるなら先生は佐藤さんでもよかったな、と思わせられたくらいの勉強家。もちろん私は間ゼミで正解だったのですが。
 ほんとは他にオーバーマスター(?)で大好きな佐藤ゼミ生がいたんですけどね(男で)。その頃の資料は家を出たときに母親に全部捨てられた(整理していただいた)ので、名前も不明になってしまって不義理ばかりで申し訳ない。下世話に言うとその頃の早稲田社会学は、左翼崩れは佐藤ゼミか間ゼミに所属させていただいていた、というわけです。

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視点の折衷と「社会」個人・評論「学

2021-02-20 14:00:37 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日からまた暖かい予報の東京地方、梅まつり中止の世田谷区の羽根木公園などはもう見頃の模様、去年のほうが早かったけど。ただ、梅林につまんない回廊なんか作ったからお薦めはしません(=休んで眺められる場所がなくなった)。世田谷区の人、文句言ってやって。
 ふと、最近(もなにも)他人と話していないことに気づきました。もう1年越えるよね、店員さん以外。ボランティアしない退職者はみんなそうかしら? ボランティアもねえ、、ワクチンもいつになるか怪しいもんだし。さすがに精神上よくない影響が現れるだろうと危惧されます。
 
 皆様におかれましてはコトナ禍の身辺は落ち着かれましたか? 何があっても生きてることは人生には財産、もちろん要らない財産も有りますが。他人と生きるにはとても役に立つ。
 
 さて、ニュース。こんなのは?
 「世界の主要金融機関でつくる国際金融協会(IIF)は17日、世界全体の債務残高が2020年末に過去最大の281兆5000億ドル(約2京9800兆円)に達したと発表した。19年末比で9・4%増。新型コロナウイルス感染拡大に伴う景気悪化と各国政府の財政出動が要因で、19年末に320%だった世界債務の国内総生産(GDP)比は355%に急上昇した。内訳は先進国が11%増の203兆ドル、新興国が4%増の77兆ドルだった。」(毎日新聞)

 面白くなあい? 「世界中で子どもたちの未来を食いつぶして」というのは自称経済学者の言だね。「カネは子どもたちが払うから、コロナの援助金を今出そう」とかって話です。
 ほんとかねえ。子どもたちが金持ってんのかい? 持ってないぜ。そんな幻想のカネで、スーパーで肉売ってくれると思う? いいや、売らない。変じゃない?
 変ではない。実は出回っている金は我々のカネなのだ。銀行に預けた我々のカネが国債と交換されているだけ。現実に我々が使える金だから、スーパーも肉を売ってくれる。
 じゃあ債務って何? 詐欺みたいなものさ。我々に労働をさせる言い訳。借金などいつでもチャラにできる上での言い訳。
 経済の基礎は一片の紙切れである1万円札ではなく、我々の労働なのですよ。 
 なんてことを試験答案に書いてはだめですよ、しかし、どっちが幻想かというと、なかなか難しい話ですぜ。

 次、なかなか文を切りづらくて引用が長い。
「有働由美子アナ 大坂なおみの力強い主張に感心「私たちも我慢してた。言えば良かった」」
「「オリンピック・パラリンピックを支えていく方々に女性の名前が並んだ」とコメント。一方で、「すぐ『この人とこの人が仲が悪いんじゃないか』とか、外野が言ってるじゃないですか?」と、さっそく目にしたネガティブなうわさについて指摘した。
『(後輩アナの)純ちゃんが上がってきた瞬間に、“有働お局”がいじめてる』って毎週、(記事が)載るわけ」。根拠のない記事が頻繁にかき立てられていたそうで、久保アナのジャケットのポケットに、有働アナがかみ終わったガムを入れる嫌がらせをしたとも書かれたという。
 否定したい気持ちを抑えて、「女性が社会で働く時は、そういうのを無視して感じないふりをしていくしかないと思ってきた」という生き方をしてきた有働アナ。しかし、女子テニスの大坂なおみ(23)が18日、「新しい世代は男女差別を黙認しませんよ」と発言したことに、はっとさせられたという。「何で『黙認することが大人で、社会で生きていく以上、そうしなきゃいけない』と何となく思ってしまったんだろう?」と自己反省。「新しい世代というか、若い人たちがはっきり言ってくれることで、『そうだった。私たちも我慢してたのよ。言えば良かった』と気付かされた。」(スポニチ)
 長いけど、読めれば分かりやすいしょ。
 ともかくいいチャンスの時期です、みんなこの時期を逃さず、追い打ちをかけてがんばってね。

 さてどうも人と会わないもんで、社会学系文章のオタク度が亢進しますね。
 本日は、個人視点から社会学を成り立たせようと今でも存在している試みについて。社会学の現象学派。
 個人視点の意気込みというのは前もあったんですけどね、パーソンズ系のシステム論とか。これはあきらめられたもよう。ルーマン系のは個人にさかのぼっているわけではないと理解されますので、対象外。
 さて、個人と社会のアポリアといいますが、これは必ず存在してしまうことで、次元の違う両者について、理論をどうやって整合的に保てるか、という問題。
  
 隈理論では、端的に言えば、人間が「自由」な行為をできるときに限って、個人の行為の要素を出す、という方策をとっております。支配者の自由とか反逆の自由の時ですね。この場合、束縛事由が限定されますので、因果条件を構成しうるのです、といっても程度問題ですが、それを認識するのは、似たようなしかし種々の場面でこの立言を使う行為者ですので、曖昧部分が許されるのです。これはそれしかないのです。だって社会学者は「社会が個人を束縛する」というし、それは実際正しいのだから。
  
 しかし、その社会要因を初めから個人に当てはめてはいけない。社会と個人は全く異なる次元のものです。この異なる次元を折衷しようとしても、「相互に影響を」くらいの言葉でお茶を濁すしかない。個人の行為のどこからどこまでが社会の影響なのだろうか? いや全部がそうなのか? それなら社会学はいらない。マルクス主義か、せいぜい俗流経済主義でたくさんだ。
 どうでしょうか、物事というのは、本質は簡単なことなのです。 
 「現実の社会の個人」に焦点を当てるなら、社会学をかじったことのある人には驚くべきことに、人間個人には「存在の社会的被拘束性」など「ない」のです。人間個人の現実にそんな神や評論家の言葉など存在しえない。
 そうではない。個人は個人で、「おりゃあ社会のことなど構っちゃあいねえ」というのが生活に追われた人間の態様です。とうぜん至極。あるのは抽象的規定による拘束ではなく、権力そのものの強制やその利用です。
 
 誰に言っているかというとバーガーとルックマン。「日常世界の構成」。何をいまさら古い本、と言われても、昔読んだときは単位欲しさだけの抜粋英語プリントだったから。ともかく、今読んだら、いったい何を言っているんだ、ってなもので。 
 下から見ようが上から見ようが、この2視点は決して一緒にはならないのに、一緒に見たがるバーガーとルックマン。よっぽど自分の視点が気に入ったのか、考える暇もなく業績主義に追いかけられているのか。
 もちろんそれを言っても感想にしかなりませんし、感想と評論は同じものだというのは中学生でも知っていることなので、いやしくも社会学徒のブログでは言いません。が、今でも、いや今は特に、のようだけれど、こうした心的主義がはびこっている「社会」学について、ちょっと一言を。って、長い前置き。
 なに、いいたい中身はなんでもありゃしません。現実個人を扱いたくば、きっぱり分けろ、というだけ。こんな簡単な理屈がどうしてわかんないかというと、社会学者なんか論理というものを考えてないからさ。それが学者の頭脳の元からか、社会学特有の環境なのかは感想に属するので言わない。
 もっとも訳者の山口節郎は昔風の理論家なのでさすがに気づいているけどね、しかし、だからダメと言わないところが社会学者。「社会学研究に一つの新生面をきり拓いているように思われる」そうです。
 いいえ、無理。あれからもう40数年だよ。でさ、私がこれから、隈行為理論でないもう一つの「社会という存在被拘束性のない個人世界」を見せてあげようと思うのですよ。「環境の中を選択し続ける個人世界」ね。隈の全体社会論が「現実の社会」が「行為の次元」に乗っていたのに対して、隈の下位体系論は「現実の個人」が「諸下位体系」に乗っかります。解明先が違うのね。
 
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イデオロギーの機能と価値

2021-02-13 15:16:11 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、3月4月並みの陽気だそうで。寒がりとしては、これで春では2月が戻ってきたらどうなるものか。
 こういうときは思い悩むよりは早くその恩恵にあずかったほうがよろしい。明日あたり「探梅」にでかけたいものです。探梅だってさ。いい言葉だね。朝日新聞のコラムに書いてあった。

 先週は心が潰されてこのブログもすっ飛ばしまして失礼しました。頭脳の容量オーバーのなせるワザです。
 飛ばしたといってもどうせ大したメモはなくて。
 ほかの人が言わないニュースでは、こんなのはいかが。 
 「多目的トイレ」の名称やめて」 
「国土交通省は、建築物のバリアフリー設計指針を4年ぶりに改定する。障害者ら向けのトイレは「多目的」「誰でも」といった名称を避け、利用対象を明確化するよう求める。一般の人が使うことで本来必要とする人が利用できない事態を防ぐ。」(共同通信) 2021/02/04 。

 もちろん取り上げた意味は不明でしょう。趣旨は「おお。偉くなったもんだ」。
 ちょっとイヤミだけどね、リベラルのはしくれの私ですが、こういう勝手な言辞は好きじゃない。
 もともと多目的トイレという名称は、「障害者用」では逆差別という風当たりが強いからつけた名称です。って、わたしゃつけた当人じゃないけどね。
 「どなたでもどうぞ、使えますよ」と触れ回って障害者の便宜を図ったのに、それを今となって「健常者が使うからそれやめて」じゃ、名前を工夫して制度を右翼議員の非難から守った人の立場がないじゃん。
 ひとこと、長年の制度が定着して、とか障害者の権利が守れて役目は終わったので、とか言ってほしいよ、わたしゃ関係ないけど。人間同士だからね。
 
 憎まれ口ついでに女性問題も。
 森喜朗。こういう老害人間がシンプルに許せないのはわたしの個人的事情。こいつらは生涯の敵なのだ。が、ここではそうではなくて、「男」の言語概念の問題。
 わたしなど、よく、「男は言をたがえるな」とかって表現を、口に出さなくとも頭の中で飛ばすわけさ。小学校で教わった竹之内誠蔵先生は鹿児島県人だからね。 
 もちろんそんなイデオロギーは、要するに江戸期武士官僚=プチ・ブルジョワ知識人固有の道徳です。そんなこといってたら、昭和の民間資本家・労働者連合は生きてはいけない。
 とはいえ、プチ・ブルジョワの特性とは、人間の本質的特性です。自由に生きることが可能な範囲の広い人間階層の特性。
 たしかにそれは表面上の言葉に過ぎませんし、当人が窮地に陥ればそんな信条は跡形もなくなるわけではあります。言ったが勝ちのイデオロギー。もし仮に跡形があるというのなら、それは「良心的」資本家・労働者が生きたあとに残し跡形と一緒ではあります。9割の人間は、多少は正直ですから。
 ま、ともかく、支配社会でかような箇所に使われる「男」なる用語は、その社会での最高道徳に位置するわけで。
 つまり、世間の美味しいところはすべて「男」に取られてしまっている、この状況の反映です。そのこと自体は嘆かわしいところですが、しかし、当該センテンスの意味するところは普遍的なものです。
 「男ならがんばれ」
 「男なら泣くな」
 すべて「人間」にとって必要なものです。
 この文言の示す価値を、差別の名で押し流してはいけません。
 
 もともとこういう事情は権力の偏在のなすところです。権力の大小、というか、すでにここまで歴史が続くと支配と被支配の問題といったほうが正しい。
 支配者は自己の支配の安寧秩序のために、武力行使の代わりに、武力を背景とした役割設定とその役割の保持が必要なわけですが、この保持のためには「弱い」者は助けないと死んでしまうし、あるいはその社会で「人間」扱いされる階層であれば、彼ら「弱い者」の協力も必要です。それにはこの支配階層者による援助行為が「当然でなくとも当然な」イデオロギーが必要だ、というわけです。それは社会において「当然」であってはならない。つけあがられると自分の地位に関わる。といって、ないわけにはいかないのだから、それは「不平等を前提とした当然」というイデオロギー下でなされなければならない。かくて、男はあくまで「人間的価値」を担い、女はあくまで助力の対象でなければならない。
 それはあくまでイデオロギー上の問題であって、イデオロギーは社会的事実の存在によって、時間をかけて廃棄される。しかし、イデオロギー憎さにその実体を流してしまってはならない。

 というわけで、そのうち遠からず私なども、別の意味で森・川淵化扱いされてしまうんだろうねえ。それもしょうがないけれど、しかし、処世の真理は一つです。もとより、処世の方法に過ぎませんが。

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(本日休業)

2021-02-06 16:38:39 | 断片
 こんにちは。東京地方暖かく、本来なら余裕の散歩日のところ、今日明日とても忙しいのでブログに気を割(さ)けません。
 またよろしくお願いします。
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