リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

雑文

2020-01-25 11:32:35 | 断片
 こんにちは。東京地方、この時期としてはそこそこ暖かく。
 今年は日本全国のようで「続く暖冬、積もらぬ大雪 業者も困惑、「災害」と悲鳴も」(時事通信)なんて今日の記事。一昨年とか大雪のニュースで見たら切実に(?)あちこちでお世話になっていたお助けマンの業者の方々、大変だねえ、、、
 「スキー場に雪がない 「死活問題だ」ホテル悲鳴」「福島県の猪苗代リゾートスキー場は21日、前日からの雪でゲレンデが覆われていた。だが、雪が足らず、昨年12月21日のオープン予定から、まだ一度も開けていない。」(朝日1.21)なんてのもありました。猪苗代には大昔2、3回お世話になったので、(雪のない)写真見ると懐かしい、、、今日からオープンだそうです。ぜひ山から猪苗代湖の青い湖面へ直滑降してくださいませ(緩斜面なのでだいじょうぶ、雪さえあれば)。
 
 長く続いたオタク記事はさすがに終えて、今日はみんな雑文。なんか作成画面に「概要」という項目ができたよ、書かないけど。これ、ネットの諸解説記事にも欲しいな。最近の解説記事、長いよね、頭や目が悪くなったせいか。

 今朝の朝日新聞に、きりたんぽの宣伝的紹介記事。これはおうちで簡単に作れますが、ご注意。心棒は安い杉でお作りください。何回も使おうと高いヒノキ丸材を使ってはダメ。臭くって食べられません。洗ったって香りは飛びませんからお気をつけください(さすがにヒノキは優秀といえば優秀)。
 
 「ストレスで白髪、メカニズム解明 米大研究チーム」「毛根付近にある幹細胞は、、、ノルアドレナリンによって過度に活性化すると、急速に色素細胞へと変わり、枯渇してしまうという。」(時事通信)だってさ。昔、「一日で髪が白くなるなんてありえない」とかのたまった医学博士がいたぜ。ほんと、医者なんて自分の経験値のみだからね。なお、わたしにはほとんど関係ない記事です。ある意味、ゼータクな悩みさ。
 
 最近の本で感心したのが、安本美典「誤りと偽りの考古学・纒向―これは、第二の旧石器捏造事件だ」。まだご存命でらしたかと思いはしましたが、ほんとに老人らしくしつこく纒向遺跡の邪馬台国論を非難している。計257ページ。御年85歳の威力です。粘着系の人は年齢まで武器にできるんだ、と感心しました、ってなんに感心してんだか。
 いや私だったら、こんなの2ページ半で済ませるな、と思いましたもんで。まとめればそんなもんです。読者には長いほうがいいんだろうけどね、誰も出版費出してくれないし。
 ついでですが、この本にチラッと引用されてた纒向遺跡調査者で元桜井市文化財課長清水真一氏のシンポジウム発表で ”弥生中・後期の大和には大したムラがない。遅れた地域。纒向の巨大な墓は別の地域から来た人間が作った墓” というのがあったそうで。そうだろ、そうだと思った、綿々たるムラムラの交通がなくて都(みやこ)化するか。そりゃ被征服地だ。

 というわけで、なんかないかな、本日のお役立ち情報。
 先日、新聞に「アルバイトでもカメラのレンズ集めの趣味して不幸じゃない」なんてつまんない投書が載ってましたが、実家から出て家賃払ってから言ってね、親は心配だよ、と思いました(その後、新聞に要旨として再掲、アパート代払ってましたので大変失礼しました。お詫びしないと。3万5千円、福岡は可能なんですね。でも本記事にも載ってたかなあ、、まあ3秒くらいしか読みませんが)。でもアルバイトは現実、と、こんなブログに来る方用に無理して思いつくに、世の中には「蔵書」なる制度(?)がありますが、勉強好きの若人の皆さまはカネやスペースを無理して蔵書する必要はありません。まずは教科書レベルの本を分野について1冊ずつトータルにきちんと自分の頭に入れて、そのほかは雑誌論文だけコピーしておけば大丈夫。「本」ならいつか手に入ります、最悪、様々な事情により「最悪」ですが、国会図書館から借りられます。しかし、様々な事情により、過ぎた過去の雑誌論文と「ビラ」の論文の入手は非常に困難ですので、これと思う論文等があったら大事にされてください。人が若いときの論文は、今はどんなにアホに見える研究者でも、きらめきがあるものです。ただ、世間なり本人の根性なりがその発展を許さないだけで。
 なんて、中年過ぎてから老人に揶揄されないように、若人あなたもがんばってください。
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方法としての弁証法・(番外:例解的弁証法との接点)

2020-01-18 11:05:27 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は東京も神奈川も午前9時で気温2度台、これは今冬初めてでしょう、寒いんです。多摩地方は雪。ちょっとだけど。
 当家では雨の中ベランダでプリムラが咲いていますが、この寒いのにすごいもんです。近寄ればサクラソウの香りがします。

 ともかくこの冬は雪が降らないようで、「秋田県横手市では14日、「横手のかまくら」に向け職人たちがかまくら作りを始めたが、雪がなく頭を悩ませている。」「かまくら職人の北嶋勝雄親方は「こんなに雪が少ないのは自分は初めて。みんな雪が降ってくれればと思っていると思う。」(秋田テレビ)なんちゅう記事もありました。十日町の雪祭りは新聞1面全部を使って広告が。さすがに十日町ならだいじょぶでしょう、お勧め。2月14~16日。

 こんな寒い日はお昼におでんなんかいいけれど、コンビニおでんは風前のようで。 
「ファミマ、レンジ専用おでん導入 オペ軽減とロス削減へ 具材は選べず」具材は4個入り(税込268円)と6個入り(358円)の2種類。」(食品新聞)
 コンビニ店員の業務削減はいい話ですが、代わりにこれ買えといわれても、お決まりじゃあちょっと無理そうだね。
 東京ですと古い町にはおでん種屋(かまぼこや)というのがありまして、専門店になってるんです。まあ店で食うとかのほかは、煮ないといけないから、気軽にお昼に、というのは簡単じゃないんですが。店によるけど。
 
 さて、ニュースは朝から統一試験のことをやってます。最後だとか言ってるけどウソでしょ。権力主義者が権力を手放すはずがない。早くやめちまえ。
 NHKでは、ついでかどうか、楽しそうな高校の受験応援イベントを特集していました。受けたい奴は勝手に受ければいいと思うのはじいさんだけでしょうか。こんなに甘やかしてよく世の中渡っていけるよ。
 ここはめったに高校生など来ないでしょうが、高卒なら立派なものです。何の不満があろうか。親としては中卒はやめて欲しいけど。本人としては4年間遊べないのは不満かしらね。でもどこいっても若いときの仲間は仲間だよ。それより、なんとかいい仲間のいる就職先に入って欲しいものです。まあ運もあるけどね。そこをなんとか。親だからね。
 
 桜問題。
「内閣府は17日付で、人事課長経験者の内閣府審議官ら幹部計6人を厳重注意の矯正措置とする処分にした。このうち5人は11~17年度に人事課長を務め、招待者名簿を政府の行政文書ファイル管理簿に記載するのを怠った。」(毎日)
 まあ官僚もいい迷惑だね。それも給料のうちってもんだ。おっとっと。大人はそういうものわかりで物事を済ますから、若人は理想がもてなくなるんだね。たって、世の中そういうもんだけど。知らないのは教師ばかり。

 おや、雪になってきちゃったよ。積もったら雪かきしなきゃいけないんだよね。
 
 今日の本題は、これで最後、たぶん、の弁証法の番外編。 
 世の中の一般向けの弁証法の本というのは、この間の当ブログの主題とはまず重なっておりませんね。そこに書いてあるのは、弁証法には「量と質」とか「対立物の相互浸透」とか否定の否定」とかという、わかんないスローガン。そもそもエンゲルスの言い出したこの主題は、形式論理なる「論理」のくだらなさを主張するためのもので、対観念哲学の問題なのです。この唯物論の世でいまさら新しい役目があるわけではありません。もっとも観念論は常に湧いてくるのでいつまでもしゃべることは必要ですが、そんなものはただの再放送で可。
 
 とはいえ、それとこれとはどういう関係になっているか、という点だけおしゃべりしておきます。それが本題。
 さて、一般向けの弁証法の解説とは、「液体の水が百度になると気体になる。みよこれが量から質の変化だ」「似たもの夫婦といって夫婦は似てくる。これが相互浸透だ」「急がば回れ、そうすれば結局早い。これが否定の否定である」といったふうな、現実の事象の例解をもって「弁証法だ」と言い、言うのはいいけれども、それをもって弁証法は役に立つと強弁するものです。こうした論理を例解的弁証法と呼んでおきます。
 まあ、水が気体になる弁証法はエンゲルスが使った例で、これは方法としての弁証法と同じ次元を持っています。つまり気体や液体と人間が概念化する、その概念自体に弁証法を適用すればそれ以上の現実が手に入る、という点です。
 ただ、他の例解弁証法で使われる例というのは、その事態の概念化の一歩手前の例なのです。現実には、その事態の概念化の手前で、それを行為として処理する責務のある人間にとっては、事態を直接写真に取るように言葉にすることには、「ちょっと待てよ、おかしいじゃないか」と思わせる瞬間があります。ある子は先生に言われた問題の解答を持ってくる。別の子はできたら持ってこいといったのに持ってこない。この場面は、解答を持って来た子と持ってこない子で構成されていますが、これを当初の想定にあわせますと「できた子一人にできない子が一人」という現実になります。さて、ここで現実を固定してよいのか。このとき教師が持ってこない子に「どうかな。先生に考えたこと教えてくれない?」と働きかけると新しい場面が創生されます。それは「できた子一人と、もっとよくできたけどその子と違うので怖くていえなかった子」という場面です。これが否定的な場面に働きかけたら否定的な場面は肯定の場面となる、と例解的弁証法は伝えるでしょう。概念化の一歩手前を持ち出す、といったのはこういう意味です。
 例解的弁証法では、弁証法の教授は、市井の庶民が弁証法を使えばといった例を出せば理解するだろう、という発想があるのです。
 実際、ある瞬間における一つの行為の存在は、その一瞬前の行為の意味を異ならせる場合があります。その一瞬前の行為が、その状況において「正しく」とも(この場合、その正しさの基準は任意でよい)、次の行為の成立は、その一瞬前の行為の正しさを「誤り」に変える場合があります。
 この現実の事象を基礎に、事前に「相手の対応」や「対応に対する対応」の予測をスムーズに行うことが、例解的弁証法の自己正当性である、ように私には思われます。
 人によってはこれを弁証法の原則になぞらえて想定することを意識的に行う人間がいるようであり、それが真理をつかむ弁証法だ、というわけです。 
 そんなことは弁証法を知らなくとも適切に行える人間は行えるではないか、と誰でも思うだろうし私なども思うのですが、例解主義者にとっては「誰もが使えて当然だ」というわけです。何しろ誰もが使っていること自体がその正当さの証しなのである、ようです。
 
 さて、しかし、それが弁証法として正しいわけではないというのは、その正しさを保証するのが、次の瞬間に行為する人間だ、ということだからです。たしかに人間が確かめて正しければその認識は正しい。例解的弁証法が自己の正しさとして主張しているのは、実質的にはそういう事態です。
 しかしそれでは人間がいれば方法論はいらない。いらなくてすむというのならそんな方法論は不要です。私には例解主義者がなぜそんなことを麗々しく弁証法だといまだに言い立てるのかが分かりません。再度言えば、弁証法とはできてしまった概念の反省方法です。それによって自分の認識を整序氏、確認し、認識し漏れた新しい認識をその筋道に付け加えるものです。未来行為の想定のような実体験の累積や思考実験で分かることは、なんら弁証法の美名に値するものではありません。
 
(注)本件は、主に津田道夫「弁証法の復権」より。もっとも、本家の三浦つとむの初期の本は好んで数冊読んで面白いのですが、意志論がひどくて残念。結婚の引越しのときに全部捨ててしまいました。

 別件ですが、windows7更新終了。更新なし。やったね。もう二度と来んなよ。最後の更新でも(常のようにトラブって)30分無駄にされた。わたしゃその間じゅう怒り狂ってるわけですだ。絶対二度と来んなよ。
 と思っても毎回インストールがあって、なんじゃこりゃと思ったら最終更新ファイルが失敗。もう12回失敗してるよ。うっとおしいので自主的に自動更新終了にしときました。
 、、、のはずなのに、まだインストールしてる。ああうっとおしい。

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方法としての弁証法・(その7:端緒から上向へ・追加有)

2020-01-11 20:27:25 | 社会学の基礎概念
 こんばんは、今日の夜ですね。というわけで予定通り午前中の続きです。主題は上向。
 上向は、始元で規定した要因の説明の累積です。で終わり。
 といいたいところですが、累積とはいえ、そうそう上に向かってはくれません。それぞれ違う要因に後押しされた上位要因というものがあるのです。そこで、この上位要因を一くくりにします。一くくりといったところで頭の中では、元(げん)とあわせて計2つ、とは限りませんが、人間の頭はそう良くはありません。前回からいうように、複雑な要因について人間は「あれ? これとこれとはちがうぞ」という認識をします。このため、解明先に対しては、元(げん)の他に一つのくくりが入るべきです。「べきです」というのはもっと入るのが想定されますが、「そこはなんとか2つに括れ。それは叙述者への制限に限らず、追随者のためでもある」ということなのです。たとえば、権力ー被支配の2項対立では武力しか出てこないので、次に権力者の経済的基盤の章がいるわけです。世間で大学教授というと偉そうな顔をしてふんぞり返っているから、学生生徒の方たちはびびるかもしれませんが、だいじょぶ、教授(複数)など2つ以上の関連は分からないバカです。もちろん私も然り。バカでなければ弁証法など必要はない、という根本基盤を忘れてはなりません。
 ここで、世の中の太鼓持ち連中の中には、「ヘーゲルは何の規定性の連結もないのに「反」たる項目を挙げたがマルクスは偉いから規定性を延長させて「反」を生み出しているから偉い」などというのがいますが、お座敷芸です。お座敷芸で理論アカデミズムは渡れるし、昔はそうやって渡らなければいけなかったのです。しかし、そんなものは小さん(5代目)がいいか文楽(8代目)がいいかという問いかけと一緒です、ちなみに私は文楽よりは小さんのほうがまし。ともかく問題は規定性の規定の、論理上の、連結ではありません。
 とはいえ、先に見栄を張っている手前、追加して例によって本世界始めての本当のことを言いましょう。
 ヘーゲル論理学の場合は、本人の意識の如何に関わらず、下位の項目は上位のものを解明するモメントとして存在するわけです。当たり前です。現実は種々の事情の総体ですから、ある事情を成立させる契機が何か、ということが解明の主眼なのです。ヘーゲルは観念論者ですが、しかし、現実を相手に自分の体系を作ったのです。
 ところが資本論はそうではない。このブログで何回も言っているように、資本論がなそうとしているのは概念の把握です。壮大な唯物論的観念の理論なのです。現実などどうでもよい、頭の中で一つの概念が検討され余すところなく解明されればそれが成功なのです。それならいくらでも全ての要素を規定的に連関させられる。ばかばかしい。ただの手品です。そんなものが社会科学だと思っているから、マルクス主義はただの教義体系となる。主義者の誰がどう勝手なことを言おうと現実を解明する必要などないから、彼らが書き散らすものはいつまでも浮かんでは消える政治家の恫喝のうたかたにしかならない。資本論の本が厚い? あれは厚さで素人を驚かす芸です。 
 まあ、悪口は置きます。
 ともかく現実解明の場合は、叙述者には、ヘーゲルのようにある規定性のほかに別個に出現し進展している規定性をもう一つ入れる余地があります。これを理論に組み込んで結論というべき解明先へ向かえば、ここに正反合の弁証法が完成するのです。これで読者は、「ある規定性が別の規定性を組み込んで、この現実が初めてできているんだ」と知ることができるのです。
 3つじゃ単純? 他の要素はどうなるんだ?
    、、、って。
 人間、そんな頭よくねえの。頭がいいとされる人間のバカさ加減は全ての学問の学史で証明されているし(てゆうか、頭のいい奴の多くは昔から教授にはなりません)、今でも学者連中の「あんなのが教授」という賃金取得の事実で証明されています。疑問に思う方は自己の力で4つ以上の場合を証明してくださいませ。できたらエンゲルス、隈の次に来る天才ですよ。いや実際、中高年過ぎるともう自分の名誉はいい、若人に禅譲したいと思うものです、お前に何の名誉がと思うかもしれませんが、アカデミズムはバカばかりだからもう20年も前から自己の褒章権によって安心立命(ほんとは30年前からもう理論家1位は堅いと思ってた)。とにかく我こそはという方には期待しますぜ。
 まあ、悪口は置きます。
 で、それでも頭の中で4つ目が出てきたときにはどうする? それが既存の2つのどちらかの規定性を受けるならそちらに入れる。しかし、全く別個なら誰にも理解不能。それはもともと縁のないものです。論文を別にしましょう。


  ***********
 追加

 (番外)許萬元の武市健人への正しい批判の誤り
 この題でぴんと来た人はお年寄りだね。「もう弁証法はいいよ」という声なき批判の念に耐えかねて、この辺に追加します。
 
 さて、この間に書いた理解は宇野の資本論とかから自分で考えたものではありますが、前にも述べたとおり、武市健人と一緒で心強く思ったものです。
 が、世の中には許萬元さんという方がいらして、もう亡くなられたんだね。50年前は新左翼系の哲学者だったぜ。内田弘かなんかの本の注に載ってて、ああそういえばいたな、と調べてみたら『弁証法の理論』(創風社 上下巻 1988年)というのがあって、金持ちのSt区図書館から貸してもらいました。 
 で、これの下巻に武市健人の批判が載ってて、許氏、武市はこうこうだ、というの。「おう、その通り、頭いいじゃん、私の理解と一緒。だから正しいのさ」と思ったら、先生、だから間違っているとかいうのさ。
 ほんと哲学者やマルキストは困ったもんだ。何が違うんだよ、と思ったら、どうも彼氏「正しいものは一つだ」と思い込んでいる。やだね、ブント・構改系と思ってたが(ほんとのことは知らない)そのせいか。「対象自身の真理としての本質性、つまりそれの必然性や法則の反映」なるものが存するという(誤った)思考から離れられないのだね(同書上巻P183)。あるいは、ヘーゲル批判で使った「実践しないと真理に行き当たらない」という古典的なスローガンのせいで、思弁で真理はつかめないと思っているのか。
 「武市の弁証法は天下り的だ」とか悪口のつもりで言っているのだが、社会科学というのはそういうものだよ。科学の理論は研究者が一人でたたき上げるものなのだ。もちろん、それがグループ作業でも同じことだが。実証学者ならみんな知ってることだ。そんなものを100%真理だなどと思っている実証学者はいやしない。そんなもんは高校生かきちがいだ。で、科学者にそれ以外にどうしろというのだ? それよりそんな世界に唯一の真理があると思うほうが神がかっているとしかいえないぜ。っていうか、バカか。
 などとご本人様に言ってもしょうがないが、この人も教授だったからお弟子さんがいるでしょ。ご批判はどうぞ。こんなものは糞の役にも立たない広松の弁証法と一緒。あ、広松の弟子の方からでも批判はどうぞ。みんな先生にお世話になったんでしょ。
 とはいえ、理論の正否を分けるのは当人の理解力じゃないんだ、と、まじまじと知ったところであります。
 
(注意)当該書、上巻は本人著の「ヘーゲル弁証法の本質」、下巻は「認識論としての弁証法」と同じです。ダブリませんよう。

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方法としての弁証法・(その6:端緒の見つけ方)

2020-01-11 11:01:35 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。いいことありますか? 東京地方さしあたりお天気が悪く寒いです。寒いと世間がつまらなく。なんでも今冬の北海道は雪が降らないので地面の下に保管すべき野菜が凍ったりするそうで。人間、いつもと一緒が良いようにできてるんですね。

 一昨日、家の近くの蝋梅が咲いているのを発見。小寒過ぎると咲くんだって。まだ白いけどいい匂い。暖かかったしね。前も書きましたが蝋梅は種を植えるとすぐ生えるそうです。実なんていくらでもつくしね。一戸建てのおうちにはお勧め。
 蝋梅の北限は福島の花見山だって。花見山って桜で最近有名な福島市の山ね。福島は雪が解けてから咲くのかね。
 
 さて、ニュース。ゴーンをテレビで見ましたが、なかなかの役者ですね。日本人エリートに足りないのは語学力じゃなくて演技力だと思いません? 演技力と修辞力。日本人もディベイトくらいできるだろうけど、白人が長年習う修辞力は宗教教義者特有の力があるように思います。エリート志向者は英語を習わせるヒマに、演技学校にでも通わせたらいい。大学だと政治家用に雄弁会とかあるけどね。
 
 ローカルニュース。
「東京都が私立高無償化の対象拡大へ 年収910万円未満に 子供3人以上は一律軽減」(産経新聞)
 こういうの義憤を感じません? なんで都民だけそんないい待遇を受けられんの? (注:もちろん政治家の見識じゃなくカネの有無ですよ)地方選出国会議員は怒れよ。

 ついで香川県。「スマホ平日60分」県条例素案
「県議会は10日、、、素案を示しました。素案では18歳未満の子どもを対象に、、、スマホやパソコン、ゲームなどの使用を1日あたり平日は60分、休日は90分を上限とするとともに、夜間の使用は中学生以下の子どもは夜9時まで高校生などは夜10時まででやめるルールを守らせるなどとしています。」(NHK)
 どこでも権力で他人を思い通りにさせたいやつがいるもんだ。ほんと、痴呆議会なんていらねえよ。アホしかいねえ。(あんまりこういう駄洒落はしないんだけど、腹いせ。)

 さて、オタク話題が続いてますが、本題。
 前回、宇野は「弁証のかけ方が間違っている」といいましたが、じゃあどうするんだ、って、一般論をお教えしないといけない、と殊勝にも思ったところ。
 なにせこういうことは本当に分かっていないと書けない。そして本当に分かっていると、誰にでも分かるように易しく書ける。
 昔、間宏先生が大塚久雄を褒めてそういっておりました。もっとも対象が「社会科学における人間」だったので、マルクスは偉いと思っていた18歳の私はぜんぜん納得しませんでしたが。今思うに、でも咀嚼するということはそういうことだなと思います。
 ただ私以外にそんなことができる人間はいないわけで。

1 解明課題の設定
 端緒はもちろん解明すべき具体的現実とイコールです。その具体的現実の、端緒への改名前の、矛盾を含んだ姿です。矛盾といっても別に対立している必要はない。「くいちがい」でよいのです。要するに、なぜ論理上合致しないのか、それを探るのが、あるいは探れるのが、弁証法です。
 
 したがって、「何を探りたいのか」さえ自分で明確にできれば、理論の端緒はなんでもよい。ただし、探りたいものがめちゃくちゃは困る。「私は「国家論」を探りたい」などという設定では、ダメです。「国家論」なんてものは現実には存在しないからです。もちろん、国家論というジャンルはあるからそのジャンルの解明をしたいということであればありうる選択ですが、私は社会科学徒なので、そういう哲学のことは知りません。
 「国家」などというものもそうで、存在はしないから、当然観念論となります。私は社会科学徒なので、そういう哲学のことは知りません。
 「何を言ってるんだ、日本国は国家じゃないか」ということであればそれでよろしい。では題材は、現実に存在する「日本国家」にしましょう。
 解明先が「日本国家」であれば、当然、学の端緒も日本国家です。ここで、解明先がめちゃくちゃでは一歩も進まない。日本国家が何かを本人が知っているのなら探求など不要でしょう。さて、本人は日本国家の何を知りたいのか。ここで、既に解明先が分かれるのです。これが「視点」であり「視座」であり「視角」です、要するに、解明できることはここで既に決まっているのです。まさか日本国家の一部面である「日本国家の経済活動」を知りたいとは言わないでしょうが、探求者の志向次第で抽象的概念として、解明先の「日本国家」が様々に帰結されてしまうのです。
 ここでは例として「どうもアベの言う日本と私が思う日本は違っているような気がする」「その違いはどこから来るのか」という解明先を設定しましょう。

2 下向法
 ところで、疑問は次々に湧くはずです。
 「アベは日本をどんな意味で使っているのだろうか」「では私は日本をどんな意味で使っているのだろうか」
 「なんかアベのは私の日本とは違う。その日本に私が使えなければいけないようだ、なぜそんなことを言うのか。彼が権力者だからだろうか、彼が資本家だからだろうか、資本家ではないようだが資本家から賄賂を貰っているんだろうか、そもそもアベってなんなんだ?」
 「私の日本はそうではない、私の日本は私の国だ、でもいつからそうなんだろう、私の生まれたときからか、私の国のはずだがわたしはそれに触れないのだが、、、」

 これが下向です。まず、下向があるのです。マルクスもそういってますね。
 どんどん解明先に関わる事態を明らかにしていく。そんなことはなんの探求でも同じことです。そしてその最後に結論が出ます。
 「そうか、アベは日本国家の権力者であり、日本国家とは、国家運動のスローガンなのだ、このスローガンをちりばめた言説こそイデオロギーなのだ。」「かたや私の日本国家は、本来は自己の環境への愛着に過ぎないのだが、その愛着に権力者が好きなイデオロギーを取り入れて、権力の一端を心地よく引き受ける賞賛と優越の体系の一部分なのだ」
 ま、結論が出ないと端緒にいけないので、仮にそんな結論が出たとしましょう。
 
 さて、とんでもない複雑な結論です。元の解明志向時と比べて似ても似つかない結論。これを他人に伝えなければならない。ではどうやって?
 ここからが上向です。

3 端緒の設定
 この結論時の共通項はイデオロギーです。なぜ共通になるかというと、イデオロギーが権力の道具となっているからです。そうするとこの「日本国家」論は「イデオロギー論」に違いありません。 
 といっても「これは本当に根本的本質なのだろうか」などと構える必要はありません。資本論くらいに他人の利益に密着してしまうと、提出された表現が金科玉条、「端緒はマルクスが言った商品以外であってはならない」かのごとく受け止められますが、さにあらず。全般の論理を貫くものであればなんであってもよい。資本論は資本から始まったって良いのです。ただ、商品のほうが書きやすかったというだけです、他人の仕事のことですが。ウソではございません。なぜならもうすでに下向は終わっているのです。結論は出ている。これをどうまとめるか、それが上向なのです。

 「じゃあ並べるだけだから弁証法などいらないじゃないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。万巻の書を読んでようやくつかんだ下向きの探求を積み上げたら万巻があっても足りません。そうではなく、人間は筋道さえあれば簡単に結論に到達できるので、万巻が一冊に減るのです。ウソではありません。資本論全3巻と岩波全書「経済原論」を並べてみてください。初めて見る人は宇野原論の薄さにたまげるでしょう。資本論だって弁証法じゃないかって? ま、マルクスは億巻の書を勉強したんでしょうね、知りませんが。

 というわけで、ようやく始元です。人が持つ「日本国」観念の構成素は何か。日本というこの地域と、「これを自国とする人々」です。ここで「日本」を自明にして「人々」から上向が始まります。「人々」とは何を意味しているのか。人はここから権力者規定と被支配者規定を選び、現実の権力者と人民への旅を、既に明確にされている隈の行為理論を通じて、辿っていくのです。もちろん「隈の行為理論」の代わりに「不明確ではあるがウェーバーの行為理論を道しるべに」であってもかまいません、ただ間違っているだけで。弁証法はそれを使った理論の正当さは、決して保証していないのです。
 それはいいですが、このように、始元は2つ、しかし、分析はさらにその一つを分解して2つにします。人間は思考では2つのことしか比較できない、という能力による制限です。3つ以上を比較するときは、人間は大小でしか比較できないから数値化をするわけで、「数値化」学者などに頭脳は要りません。目があればいい。
 
 ここから先はこんがらがるのでいったん切って、夜に続きを載せる予定です。
 
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方法としての弁証法・(その5:その組み合わせと段階論)

2020-01-04 15:53:02 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。三が日が過ぎてしまいましたが、多数の方は明日あさってもお休みでしょうね。ただ、私のようにテレビを見ない毎日休日者には、もうお正月はおしまい。元日にはお客さんに来てもらいましたので、お正月に悔いはなく。自分で飲みにお宅をおジャマするのも決して嫌いではありませんが、気を使うのはとても苦手なので、もうこれでいいや。
 昨今は忘年会スルーとかが流行ってるそうで。上司の相手がいやだとか。そんな会社には勤めたくないねえ。私は出世とか眼中になかったからそう思うのかねえ。部長におべんちゃら言ってる課長とかいたからね、課長は可哀想だけど、おかげさまで部長と付き合わずに済んでよかった。ま、いい部長もいたけど。
 
 そういえば暮に思ったのですが、いまどきのスーパーの刺身パックは正直だねえ。高価なイカの刺身にはちゃんと「アミノ酸」入りと書いてあるし、高価なトロの刺身には「植物油」入りと書いてある。普段は生イカが買えればそれで作るし、マグロはビンチョウかキハダだから、知らなかった。
 書いてあるのはいいけど、せっかくのご馳走にどして入れるんだろうねえ、日本人、舌が曲がっちゃったんだろうか。 ほんとに高価な刺身には入いってない? 知らねえや、そんなの。
 ついでに悲しいことには、またネスカフェ大衆ブレンド、エクセラが変わってしまって。悪くなるばかり。前の変更は許容範囲だけど、今度は珈琲の香りが失せてしまった。焦げ臭いばかり。味は大して変わらなくとも、もともと大した味じゃないところを香りでもってたのに。まあこれはごく個人的な嗜好だけど。
 
 さて、正月だからニュースなどない、といいたいところ、ゴーンだなトランプだの、NHKニュースに限ってはなかなか忙しそうでしたよ。なんなんだろうね、あいつら。といってとりあえず感想は皆様と同じ。ただの感想にしかなりません。とくにトランプというか、イラン。ほんとどうなったって知らないよ。

 で、とくに本のお奨めもなし。やめたほうがいいよ、というのはあるけど。
 それにしても川崎市図書館って働かなくてさあ。おおむかしからだけど、まだおおむかしが続いているのだよ。市役所はやるようになったのに。と、ついに言ってしまった。味方になるかどうかは普段の行いの結果というものだからね。窓口の委託の人は悪くないけど、一歩踏み込むと呆れ返ることばかり。
 
 というわけで。オタク的本題。
 「方法としての弁証法」(その3)で、弁証法では本来、歴史は扱えない、といいましたが、扱う方法もある、という話で。
 歴史の流れは扱えないが、歴史の筋道は扱える。歴史の過程は扱えないが、歴史の規定性は扱える、といった趣旨です。
 (その3)では、隈は
 『資本主義の富は、商品からできている、ではこの商品の規定性とは何か。それは使用価値と交換価値「ではなく」、『支配』と『労働』である。支配は人間から生産手段を取り上げ、これを資本家に引き渡した。かくて、生産手段を取り上げられた人間は労働を他の人間に売り「労働者」と呼ばれる。売られた他の人間は「資本家」と呼ばれ、自分で労働せずに、労働者を働かすことのみに自己の労働を束縛する。これが世間で言う「労働力の商品化」である。売った労働は剰余価値を作り剰余価値が変態する。これが原理論を構成する。』
 と述べたところです。
 正確には述べてはいないのですが、述べる一歩手前まではしゃべったので、時間の節約のため、述べたことにします。今日はそこから先です。
 
 さて、ここでほおっておかれた「支配」という規定因が、別に歴史を形作り続ける。
 今は私の理論の宣伝ではないので、ここで歴史が、重商主義・自由主義・帝国主義と進んでいくとしましょう。とりあえず「歴史の流れ」です。これはいくら微にいり細にいり展開しても、ただの説明です。歴史家でも経済史家でも分かる平凡な話です。しかし仮に原理論が既にその時々の支配者の経済的期待を明らかにしていれば、この支配の一面を明らかにすることができます。つまり、なぜ支配がこの3形態を通るか、それが知りたい人間がいれば、歴史家がいくら弁を費やしても、その謎に達することはできません。研究者はこの不明な規定性を入手するために、原理的規定と支配者が行う政策行為、つまり経済政策、財政、国際的関係とを2側面において、後者の側面を明らかにしていきます。このとき、原理論で収奪のポイントが明らかになっていれば、今扱った「歴史の流れ」は、歴史家の饒舌に任せることなく、1冊の書物を編むことによって、読者である労働者人民にその必然性を理解させることができます。この結果を人は、資本主義的支配の必然的展開過程として把握することができます。これがご存知の段階論です。段階論の本質は、この2通りの弁証法の構成にあるのです。
 なんて誰も聞いたことがないでしょう? 
 もっともマルクス主義者の間では段階論などはぶうぶういわれるだけで「やったね!」と褒められることもなく消えかけているわけですが、それはただ単に、弁証のかけ方が間違っているだけのことです。宇野弘蔵の基本スタンスは、別に間違ってはいない。他人に「経済政策をタイプ別に明らかにする」とかウェーバーみたいな言い方をするから、誰も恐れ入らないだけのことです。
 
 もちろん、問題は、この解明のどのメリットをとっても、「国家」は解明されていない、ということです。
 岩田弘(という宇野派の世界資本主義論者)などは、宇野から離れたあとはあからさまに既成の「国家」概念を導入して、ただの左翼の戦術理論家になってしまいました。それじゃあなんのための経済理論なのか。
 ま、というわけで、弁証法は歴史にも使えるが、歴史を直接に語るものではなく歴史を「処理する」方法である、ということです。
 
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オカルト(その9;生命の形態)

2020-01-01 10:24:05 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
 今朝は初日の出は雲も切れ間から出ただけですが、まずまずの出だし。昨日暖かかったせいかクサカゲロウが網戸にひっついてました。優曇華(うどんげ)の親ね。紙ですくって飛ばしたら飛びましたがこの寒空に大変です。
 全国的には雪国では雪模様のようで。都会に出てこられた方はなるべく帰ってあげてくださいませ、お互い大変ですが。布団は着せられるときに着せてあげないと。
 
 暮は掃除とか料理とか、そこそこ普通の家っぽく、と思うとなんとなく正月が来る気分になりました。いつもは途中で眠る紅白も、今年は余裕のせいか最後まで見て。
 しかし、これは歌番組じゃ決してないね。こういうのは「ショウ」っていうんだよね。歌舞音曲。「上を向いて歩こう」とか、どこに涙があるんだよ。坂本九が泣くよ。
 ついでに、野沢雅子のそっくりさん(皮肉)、全く似ていない。鬼太郎からやってんだねえ、しかし声優も80歳までか。加藤みどりはいつまでサザエさんをできるのか、、、
 まあ正月から悪口もない。といってべつに悪口のつもりでもありませんが。
 
 さて、本日の新聞は例によって(去年は枚数を数えましたが)どさっと来たのはいいけれど、読んだのはゴーンと最首悟(という昔の人)の記事だけ。紙がもったいない。宣伝は消えてなくなる電子情報にすればいいのに。
 
 というわけで本題は盆と正月恒例のオカルト。
 あ、というわけで普通の方々におかれましては、良い一年でありますように、
 
 さて、ふつう以外の方々、前回は、地球上の生命の本質は「自己」という固有性であり、その固有性は、生命が物質エネルギー世界に貫入した瞬間に生まれるということでありました。
 本日は、では「生命はどこに存在するか」。
 まず、物質宇宙はどこに存在するかといえば、掌の上に、でした。あなたの手のひらの上の空間に宇宙全部が存在するのです。存在の仕方は、プールの回転スライダー。ぐるぐると螺旋状に回りどこまでも広がっていく、ようで、実はあなたの手のひらの上の空間の1点に収束している。永遠即瞬間、位置即無。西田ですかね。空間とはそういうものです。我々生命体はそんな存在の中に個別性として入ってしまったので、宇宙はわれわれにとっては「どこまでも広がっていく」ように見えてしまうだけです。個別などない世界に無理やり入った我々がいけない。
 同様に、生命も、多様に個別的に展開しながら、最後は統一的に1点に収束し、「無」となります。無というと寂しいので「統一的無」と呼びましょうか。個別性が消えるのですから、宇宙と同様に、いかようにも発展し収束する統一的無であります。といっても「霊」は別のルートをたどることはお話し済みです。
 
 さてしかし、もちろんこうした宗教的ないし哲学的認知と人間の生き方とを混同してはいけません。西田本人は知りませんがその弟子の全てはこれを混同しております。生き方はあくまで倫理なのです。生命に人間が介入しようなどとどういう僭越な根性だろうか。あえていえば、人は人の間で生きていかなければならない、それが地球上の生命という個別性を背負った人間の使命なのです。

 ほんと、隈たるもの、イエスの生まれ変わりではないだろうか。

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