リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「場所的立場」雑記

2018-04-28 21:45:24 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。暖かく、あるいは暑く、なってきました。姉によると函館の裏山はニリンソウとかなんやらのお花畑だそうです。

 世間じゃわけのわからぬセレモニー(こういう言い方は日が経つと分からない。南北会談のこと)。私は人殺しの言うことなど爪の先ほども信じないので論評もありません。
 個人的にはここんとこ、ほんとよいことなし。こころ的にいっぱいいっぱいのため、ささいな話に乗る気もなく。
 
 というわけで本日は、オタクの極地、哲学論議です。しかも気遣いいっぱいいっぱいのため、少し雑然と放記。
 哲学なんてくだらない? いやまったくそのとおり。だいたい哲学的真実なんてものはそれ自体意味を持ちません。「われとはなんぞや」。知ったっておなかもふくれない。ただし、哲学的真実と言うものは、(間違った)イデオロギーに対する試金石にはなるのです。
 それが哲学上の主客二元論に対する西田哲学であり、道徳諸教義・前衛諸教義に対する実存主義の「選択論」です。前者は存在の形態として、後者は行為の必然的形態として、それぞれ『俺こそは真理』と喚きたてる宗教者の類いの、「国家主義や構造機能主義」あるいは「人間は人間であることによりこれをなさねばならない」といったイデオロギーを真実の名において否定します。
 もっとも西田哲学に哲学的真実があるということは、彼の「主体の存在形態の認識」のことのみを指すのであって、それにまつわる西田幾多郎の山と積まれた独り言を指すわけではありません。すなわち、「この哲学流派を自分(西田)の考えに取り入れるとどうだ」あるいは「自分の考えの基準からすればどうだ」、といった派生的な、彼の言説の95%を占める評論のことを指すわけではありません。といえばほとんど全否定に近い。しかしその帝国大学教授的営為によって弟子の哲学伝道師を何人も育てたのだから、それは私がとやかくいうことではない。私は大日本帝国の税金は払ってないからね。
 まあ本人も「自分は誰にも全然分かってもらっていない」といっていたそうですが、私だけは分かってあげてると思うのですが。
 
 ともかく、独創的な人間とは基本そういうものです。原理は一つ。わたしのように数個の原理を持っていてもよいが、要するに1セット。1セットの原理をどう表現していくか、ということです。それで一生は終わってしまう、それは時間の問題ではなく、1セットを1つしかない環境に当てはめた結果は、一セットの事実認識でできた頭脳しか生産できない、ということです。
 その割りになんでも知ってる私ですが。

 さて、「なんだつまらぬ哲学論議を」というところですが、ここまでの水面下の主題は「場所」問題です。西田の場所概念は正しいと述べたところ。ただ、そんなことをいってもしょうがない。しかししょうがあるのが生活者の場所観念です。以下は、生活者の「場所」観念についてです。ラテンアメリカ人と私は、理論活動の目的が異なる。当たり前か? どこが当たり前なのか? という点です。

 ここで、哲学的真実とイデオロギーとの間にあるのが社会科学的真理、すなわち行為の原理と原則です。哲学的真実とはなんら「理」ではない。ただの「本当のこと」に過ぎない。真理とは、論理が指し示す、生きている全員に当てはまる言説でなければならず、いかに反論できない真実であっても、個人の思い込みであってはならない。行為原則等は隈の社会学原理ではありますがが、これを承知していない人間も、経験的に行動原理を語ることができます。これが人生上の真理です。
 
 ここで場所的立場とは、西田哲学的には存在論だか認識論だかの問題でしょうが、世間的にはそうではありません。たとえば黒田寛一です。彼の如き論、それは彼に限らずヘーゲル哲学を信奉し続けてきた何百万の学生(研究者)諸氏を含めてのことですが、実際に現実に生きている人々が受け入れる問題は、存在論でも認識論でもありません。「私はここでこう生きているが、場所的に生きるというのはこのことをいっているのか?」です。
 西田の場所の問題はそういうものではない。「人は、真空の中には決していない。じゃあどこにいるのか、それは君の身体外の全体である」これが場所なのです。私は西田などまともに読んではいませんが、それにしてもそうなのです。それ以外に、真理にかかわる「場所」問題はないから、西田がバカでない限りはそうなのです。 
 生活者にそんなことは問題ではない。もちろん黒田の根拠も哲学的真実から派生しているのでしょうが、その言説が意味を持つイデオロギー世間、あるいは生徒にカネを貰って生きるアカデミー世間というものは、論理は「根拠」の拡大解釈でようやく存在しうるのです。 
 ではなんの問題か。世間で「場所的問題」と認識するものは、自己の色がべっとりとついて、自分が意味付与をし続けている「場所」、そうした限定的な場所なのです。運動者たる黒田派の諸君が思うのもそうではないか? 
 もう一度言っておきましょう。本来の「場所」とはそうではない。人が今まで感知していない、と認識する世界を含めて場所なのです。たとえば、2年後、友人との思い出話で「え! そうだったのか!」と思い至る世界、それが場所なのです。が、実際上、そんなものは西田エピゴーネンや黒田エピゴーネンには関知しない世界でしょうし、黒田本人に至っては、自分でも「そんなこたあねえ」と思いたがっていることでしょう。
 
 というわけで、そろそろ結論です。
 生活者にとって、あるいは倫理学にとって、あるいは人間にとって、問題なのは、存在論でも認識論でもない。場所的問題とは賞賛の範囲のことでなのです。
 それが人間の生活上独自に意義を持つのは、「その範囲は自分で変えられる」という点なのです。黒田派は自分の組織内についてその範囲を確定できる。同じプロレタリアートのためだからといって、決して敵対党派と同一の場所的立場に立ちはしない。「あいつらがどういおうと関係ない。俺らは俺らの場所的立場で闘うのだ。」そういうでしょう。
 問題は、賞賛の範囲なのです。
 ラテンアメリカ人民と、日本プロレタリアートは、場所的立場が異なる。当然か? 当然ではありません。存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 しかし、生活者としては異なる。現実にラテンアメリカ人と日本人が同じテーマで闘うなどありうるだろうか? いやありえない。まあ反核問題や反米闘争のようなでかすぎるテーマは別として。しかし、もう一度言いますが、ラテンアメリカ人と日本人は、存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 
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世界資本主義と後進国家(その2)

2018-04-21 17:16:24 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、すっかり新緑。花粉恐怖症で2、3週間近づかなかった裏山に行きましたら、もうタンポポも綿毛になっておりました。明日お休みの方は暑いですが新緑狩りはお奨めです。すぐ深緑になってしまいますし。

 さて、このごろは週刊誌ニュースが面白すぎる。委託業者ががんばっているということでしょうが。新聞記者はなにをやっているんだろう。人手不足なのか人材不足なのか。どうもニュースがないわけではないようで、赤旗を見たら 
「 衆院農林水産委員会は17日、森林の経営管理権を所有者から市町村に集積する森林 経営管理法案を日本共産党以外の賛成多数で可決しました。共産党の田村貴昭議員は質疑で、森林の健全育成に逆行すると批判しました。」(赤旗)だそうです。
 しかし、共産党も意味不明。ジャマな土地所有権を制限する(いいから取り上げちまえ)のは当然のように思われますが。自民党が反対なら理屈だけど。
 ま、自民党が賛成が変なのも理屈なだけで、本当は賛成も当然というもの。資本主義者の主義なんて「所有権の不可侵」じゃなくて、いかに都合よく儲かるか、だから。
 この問題の全国民的ポイントは、『明日金にならなければ委託業者はつかない』という点にあると思うのだがいかが? これでは地元山林有力者が市町村にねじこんで金儲けで山はめちゃくちゃ。共産党とか山持ち選挙票向けのわけわかんないこと言ってないで、シンプルに言って欲しいもんだ。

 新聞的には、朝日のコラム天声人語が交代して心配してましたが、「明日なき世界」高石友也のことが書いてありまして安心しました。そういう感性なら大丈夫でしょう。懐かしいね、50年ぶりだぜ。といっても今(?)はRCサクセションのそれのもよう。
 残念ながらネットで「明日なき世界」を引くと、訳わかんない「批評」も出てるけどね。

 そういえば、「防衛省統合幕僚監部の3等空佐が民進党の小西洋之参院議員に対して「おまえは国民の敵だ」などと暴言を浴びせました。」(赤旗)なんていう状況で「演説中の共産市議に暴行か 学生逮捕」ということも起きてますぜ。誰でも言うことは書かない方針ですが、大事だから注意を喚起しておきましょうね。だから軍隊に存在権なんて与えちゃいけないのです、現実が分かったかね、「憲法改正は論理上当然、自分は正しい」諸君。

 さて本日褒めるのはA.G.フランク「世界資本主義とラテンアメリカ」。ご存知であればよいが、従属理論。
 自分でモノを考えたこともない子供たちが、”フランク理論は歴史の進展で「まったく説得力を持たなくなる」(フォンセカ・アッシャーのHP)” などといってみたりしているが、優れた研究というものは乗り越えられるべきものであって、流行の行方で終わるものではない。
 で、何が優れている、って、
「1 世界システムとしての資本主義は生来的に独占性を有しており,周辺従属衛星地域の〈経済余剰の収奪・領有〉によってシステムの中枢部に発展をもたらし,同時に周辺部に低開発をもたらした。
2 このような〈中枢―衛星分極化〉は,あたかも星座の連鎖体系のように国際面ならびに国内面に浸透しており,その結果ラテン・アメリカの辺境の農村までもが世界システムに包摂され収奪される。
3 このような〈低開発の発展 development of underdevelopment〉関係=構造は,商業資本主義,産業資本主義,帝国主義という資本主義の発展段階上の〈変化〉にもかかわらず一貫して〈連続〉している。」(以上、「独学ノート」様コピペ)
 (これはフランクの『世界資本主義と低開発』からのもよう。こっちのほうがコピペに向いているようです)
 さて、これはアミンやウォーラーステインより何倍もまし。なぜかというと実証志向だから。もちろん彼は何も実証はしていないけれど、空語ではないもの。ただ惜しむらくは、「国家」をそのまま実体的に捉えてしまったところ。マルキストだからしょうがないけどね。せっかく「国内的にも中枢と衛星がある」なんてとらえられるんだから、そこで一気に国家をばらさないといけなかったし、もしもばらせば彼には真実が把握できたというわけだ。資本主義は、グローバルなのだ。決してインタナショナルではない。だから「世界資本主義」なのに。 
 といっても前回もいったように、国家間にあって事態を決定する「勝利」は、資本主義ではなく、「国家」支配者の事情である。すなわち支配者の生理性と賞賛・優越である。ここが複雑。
 支配者が圧倒的な国外商品に目がくらみ、かつ国内の産業育成に賞賛と優越を確保できないのであれば、その地域はまっしぐらに国外資本が欲する一次産品の生産に向かう。当たり前です。国内はそのために適合するように再編される。当たり前です。
 支配者は、自己のために労働力が使われればそれでよいのであって、その労働力が何を生産するかは興味がない。たまたま一次産品がなければ、輸出商品を生産する工業を後押しするであろう。農業的土地所有者も、その国家支配が一円的で自己もその国家のうちに含まれている場合にあっては、馬鹿でない限り自己を守るものが国家であることを知っているのであって、自分の腹が痛まない限りにおいて、自分の土地の農業の発展ではなく、国家のトータルな発展を支援する。当たり前です。世の中と言うものは当たり前にできている。というか、『別に社会科学の訓練を受けたわけでもない人々が現実を一見して当たり前だと捉えうる枠組みの提出』 が、理論社会科学者の役割なのです。マルクス・エンゲルスの役割も然り。
 
 なお、フランクが失敗した「国家」規定を再議すべきなのは隈理論を確立し表現している私ではない。「国家=資本家」と思い込んでいる主義者であり、だからマルクス主義者なのだよ。

 またなお、ラテンアメリカはアフリカよりずいぶん明るくてよかったです。どこもきっぱりした植民地国家の歴史があるからね。せめて理論作業は明るくしたいもの。
 
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『「上部構造」の社会学』

2018-04-19 16:38:31 | 上部構造論
 お待たせしました、隈社会学3部作完結編、『「上部構造」の社会学』、合同フォレスト㈱の皆様のご努力をいただき発売されました。 

 皆様におかれましては、できうれば冷やかしでよろしいのでちょっと手にとっていただければ幸せなのですが、例によって書店の店頭には出ないので書店様にてご注文、またはネット販売でAmazonなどの(いろいろの)ウェブ書店様で御購入いただくとうれしい限りです。
 といって内容不明のところ、紀伊国屋ウェブストアには目次が上がってますが、いつまであるかわかりませんし、長いですがさらに詳しい目次を上げさせていただきます。
 なお、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、そちらもご参照ください。

 以下、

**********

序論 
 第1節 土台と上部構造の発生
    1 本論の対象
    2 土台と上部構造
    3 本書の主張
 第2節 社会学の視座と形態 
    1 内部視点と外部視点
    2 社会学の視座
 第3節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式 
    1 人間行為の形式的原理
    2 人間行為の形式的原則
    3 行為の生理的基礎
    4 行為の日常
    5 行為に付随する概念の昇格的設定
    6 概念の便宜的な昇格的設定
    
第1章 行為者に内在する観念過程 
 第1節 行為主体の観念 
    1 個人における観念過程の成立
    2 言葉による伝達
    3 表現と虚構
 第2節 行為主体による賞賛と優越 
    1 賞賛・優越の成立
    2 精神拘束    
 第3節 行為主体による思想 
    1 思想の観念的基盤
    2 イデオロギー
    3 イデオロギーの影響
    4 イデオロギーに例外的に関わる「感情」    
 第4節 行為者のその他の観念性 
    1 政治的諸観念
    2 文化
    3 美
    4 賞賛と優越とイデオロギー・思想の重なり

第2章 支配権力者の行為過程 
 第1節 国家形態 
    1 国家と国家形態との一般論
    2 直接に生産関係から説明すべきでない諸項目
    3 資本主義的行為共同性の変化
 第2節 資本主義国における支配権力と政治過程
    1 政治過程の一般理論
    2 支配権力の被支配者との交渉
    3 支配権力とその他の権力との調整
 第3節 時代特有の被支配者向けイデオロギー 
    1 支配者とイデオロギー
    2 被支配者がイデオロギー化する社会矛盾
    3 時代の中の道徳
    4 芸術表現

第3章 被支配者の継起する観念過程
 第1節 行為共同性下の観念過程 
    1 行為共同性による社会の規定的契機への影響
    2 イデオロギーからの行為共同性への影響
    3 行為共同性の分断
 第2節 被支配者の新たな観念過程
    1 観念過程としての階級
    2 階級としての行為共同性の現実態
    3 階級性の眼前
 第3節 人間の歴史への参加
    1 対抗権力と運動の存在
    2 観念過程の行為者への眼前
    3 運動とイデオロギー
    4 観念過程としての革命

 《およそ社会の経過は唯物史観が示すとおり、人間の主観的意思の如何によるわけではない。下部構造たる経済過程に規定されたものである。
 しかしながら、それでは人間は歴史に流されるだけか、といえばそうではない。あるいは人間は歴史の必然を生きることが自由だ、などというマルクス主義者の言が真実であるわけでもない。
 逆である。人間は主体的に人間社会を変更することができるから、この移り変わる歴史が不可避的に存在するのである。
 本書は、人間が下部構造に規定されている、かのように見える規定性を明らかにしつつ、社会に表れた人間の主観的意思の観念性の秘密を暴き、他方、その下部構造の規定性を形成する行為者としての人間の行為論的自由の意志の歴史過程を明らかにするものである。》
 
 長かったですね。
 前回はどちらかというと実践的でしたが、こちらはいわば学問的。ずいぶん斜に構えております。リベルテールの方々には前著(「歴史としての支配」)のほうがいいと思ったのですが、アナキズム文献センター様には通じなかった模様。残念なことです。

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世界資本主義と後進国家

2018-04-14 18:17:14 | 歴史への視角
 こんにちは。西日本はもう荒れ模様ですか? 東京地方は明日風で傘が使えないとのこと。日曜出勤の方はレインコートを。私は今日買出し済みです。
 ってもうこんばんはですね。本日は別にストするつもりはないのですが、何かとショックで体勢が整わず。心がすぐ体調に響くもので。
 
 で簡潔に。ニュース。ずいぶん前ですが。
 田辺信宏静岡市長が土俵上で改革訴え「21世紀中に変えて」「私は男性だから土俵上でごあいさつさせていただいていますが、先日、兵庫の宝塚市長が女性だからという理由で、土俵の下であいさつさせられました。全国の市長が土俵の上であいさつできるよう、21世紀の中で変えていただきたい」と訴えた。(日刊スポーツ)
 知らない市長ですが、おっちょこちょいの川勝平太に反対しているのもえらいところ、日刊スポーツも私のラーメン屋のひいきでしたぜ。さらにはキ印の貴乃花が女の子の土俵入りに反対とのこと。ちょうどいいですね、「良識ある」相撲界として変革の時期ですな。
 
 次。財務事務次官セクハラ。安倍はどうでもいいが、安倍のおかげで腐った人間が事務官僚トップになるというのは認めがたい。日本国は国家官僚でできているんだぜ。それに方向性を与えるのが政治家だ。それは価値観的政治学であれば真理である以外にない。ブルジョワ政治学だろうが「プロレタリア独裁政治学」であろうが、国家権力が存在し続ける限り同様。政治家はどうせ生まれついてのクズだが、国家の肝要は官僚であり、それを腐らせる状況に対しては、資本家も人民も、どんな犠牲を払っても排除しなければならない。安倍は即辞めちまえ。
 ま、安倍じゃなきゃ言わないけど、安倍だから生じた状態なんだからしょうがねえ。

 本題、今週でアフリカ系後進国の勉強は終わり。
 毛唐でも良心はあって、ポール・コリアーという人の「最底辺の10億人」、アフリカ国家の「政府の」至らなさを嘆き、次の本「民主主義がアフリカ経済を殺す」で、アフリカ諸国家への国際権力の団結的介入を願っておりました。折角の良心も台無しさ。わかっているのか白色人種。他人への希望を文字で表すと傲慢になる。良くも悪くも提言などどうせ無効なのですが、自分の傲慢さに気づけ。

 もっとまともなのがスーザン・ジョージ「債務危機の真実」。「わらの犬」のスーザン・ジョージではありません、てどうせ知らないか。
 IMFの資本主義の手先共の告発の書ですね。アメリカ野郎にはほんとうに頭に来る。めずらしく許せないと思いましたぜ。マルキストも消えた現在、とても重要な書物。もっとも同書の「提言」も虚しいが。
 許せないのは関連者も同じ。いつも思うのですが、クズの山形浩生、なんでクズと感ずるかといえば、そもそも生きる発想が違うので、リベラルとは言葉の意味が通じない。というかこいつに「人間が生きる意味」という発想があるのだろうか? いつ読んでも人間の言葉が通じていない。あ、こいつ評論家です。てめえで「こんな意味だ」と解釈しているのですが、ちげえよ、バカ。そう置き直すとこいつの評論はよく理解できます。ほんと何のために生きているのか不明だ。自分でも知らないのだろう、というか知ろうとする回路が欠如しているのだろう、と思うと納得できる。

 まあ悪口はおいて、どちらにせよ一国ではどうにもならないアフリカ。ここで問題、資本主義はグローバルかインタナショナルか。資本主義には国家などないか、それとも国家間の交渉問題か。
 答え、資本主義はグローバルである。ま、普通だね。しかし、資本主義世界はインタナショナルである。この掛け合わせは初耳でありましょう。
 何をいいたいのかというと植民地的後進国のありよう。
 資本主義は自由に世界中で商品資源の調達先と商品の投下先を探し開拓し続ける、これに国家の制限はない。おかげで対象地域は荒らされて、「俺もあんないいもんが自分のものにできる社会がいい」と誤解に満ちた植民地権力者も登場してくる。
 しかし、資本主義はグローバルなのであって、だからといってナショナルな領域には踏み込まない。「国家領域」までは踏み込みはしない。
 であるにもかかわらず、資本主義世界は、資本主義国家の姿をして新たな資本主義世界を牛耳ろうとする。それは国家となっていない地域だろうと容赦はしない。つまり、平等であれば誰かだけがもうかるなんてことはない。が、実はアメリカを筆頭とした先進国だけがもうかっている。いやだ、といっても許さないのは、各国の大資本家ではない。各国そのものなのだ。
 さて、植民地的後進国はどうするか? 本当は、権力者は自国を富裕にしたい。しかし、資本主義はそれを許さない。では社会主義は? 社会主義なら自国を意思的に富裕にできるのではないか? 理屈はできるがしかし資本主義国家はそれを許さない。しかして彼らは負け続けるしかない。
 これを翻訳すると、後進国的国家地域は、周囲の大国が、資本主義ではなく社会主義になって初めて、操作可能地域となる、ということなのです。

 さて、日本社会学においてここで知られるべきことは、国家その他の権力者を牛耳っているのは資本家ではない、ということです。たとえばスーダンを牛耳っているのは決してスーダン石油資本家ではない。米国資本家に踊らされた地域権力者にすぎない。しかも、この地域権力者たるや、国家も作成できてやしないのだ。
 後進国は国家ではない。行為論上、国家の成立に必要なものは、第1に国家の行為根拠であり人民の国家認知根拠である「税」と、第2に国家が生理性をつかんだ(=給料の出る)官僚と、第3に国家行政が生理性に影響を及ぼす限りでの人民の存在なのです。さて、植民地後進国にはその一つさえまともにない、存在し得ないのがほとんどです。これでは国家ではありません。(その理由は長いので略)。といって「反国家」と呼ぶのでは「半人前」といったただの揶揄の響きがあるので「準国家」あるいは「形成途上国」くらいにしておきましょう。国家ではないとはいえ、確かに議会や選挙といった制度は存在しているので、準国家地域人民はこれを意識して行動せざるを得ない野で、第三者も無視はできないからです。
 ここで最後の難問がでてきます。 
 奴隷的状況を跳ね返すことを奴隷自身が行うのは非常に困難です。困難だから奴隷状態なわけで。まずは先進国自身がなんとかしなければ。評論家諸君は、趣味で他人の悪口を言って満足してる場合じゃないよ。山形君もさ。

 さて、次の勉強先はラテンアメリカですが、これも暗い。暗いのに慣れると自分の身に起きる出来事も暗くなる気もします。
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小言的感想

2018-04-07 21:27:22 | 断片
 こんにちは。中部以南、春の狂乱のひと時が終わりまして。狂乱てなんだ、って、桜でんがな。「来年も花が見れるかしらねえ」ってみんなそういうっていいますよ。ただの花ひとつに狂気じゃないかね。花見か正月か、ですな。もっともそう思うのは、当家が借景で桜に埋もれるせいではありますが。

 更新遅いじゃないか? 
 単なる遅延スト。JR東瓦解かい? K派も自分に都合の悪いことを黙秘する性癖をなくさない限り、いつまでも人民の信頼はかちえないよ。
 
 さて、本日のニュースはお見込みのとおり。あれ。見出し『土俵で心臓マッサージしていた女性に「降りて」 京都』
 反論は許さじ。非国民め。怒涛のように押し切ってしまえ。
 見出しもひとつ『土俵に大量の塩まく 女性らが倒れた市長救命後 舞鶴』
 サンケイネットによれば反論があるってよ。なんだ、「やく」って。みつる? なんの生物だ。「それはいつもだ」って。うそをつけ。漫画家には分からないだろうが、私にはそのとき塩まいたやつの安心的喜びの実感がひしひしと伝わるぜ。誤解だろうがなんだろうが、てめえで作った設定なんだからしょうがねえ。俺のせいじゃねえや。くやしかったら人間に戻って世間にごめんなさいしてから言えよ。
 いや下品でんな。
 関連で『宝塚市長「土俵上がれず悔しい」 大相撲春巡業「伝統守り、変革する勇気を」と呼び掛け』(神戸新聞)。中川智子氏、フルフルがんばってるじゃないですか、応援しとるで。

 とここまで実は昨日の夜ね、夜はさくさくとキーボードが動きます、というか酔言レベルね。
 
 本日の個人的重要ニュース。富士フィルムが白黒フィルムの製造を止めたって。ショック。ちょうど「デジカメで白黒取れるやつって高いな。まあ銀塩カメラで撮るからいいや」と思った翌日のニュース。ダメじゃん。
 あわててコダック社、イルフォード社(という外国のフィルム屋)を検索してまだやってて安心。しかし、もう日本であてにしてよい一流製造会社なんてないんだねえ。BVDもだめだし。グローバルのせいなのか、単に誇りがないのか。富士フィルムが誇りを持った瞬間も10年くらいあるんだけどねえ。
 
 次、朝日新聞読者の声投書。
 19歳大学生より「医者はコンビニ時間で診療してください」旨の発言。
 ほんとぐったりしますな。誰だ18歳で成人だとか言ったのは。法案通ったのか?
 医者は普通に働いてるんだから病人も普通に勤務中に医者に行かせろ、と、どうしていえないんだ??? 
 40年前青春派にはまったく理解ができない。サンケイじゃないぜ、朝日新聞だぜ。赤い赤い朝日は赤い。どこが赤いか。昔の栄光は今いずこ。こんな投書が麗々しくブルジョワ進歩派新聞を飾ることさえナンセンスだ。
 がっくしですぜ。
 そしたら昨日のyahoo見出しで見た記事、『LGBTが気持ち悪い人に会ってみた。』いわく 『強迫観念として、ポリティカルコレクトネスに反してしまったら、僕の方が社会的に葬られるというのがあるんですよ』(withnews)
 ひょっとして本気? 先の投書からかんがみるに必ずしも冗談じゃないのではないかと思って。みんな頭おかしくないか?
 なんで悪口言われたら葬られるんだよお。若人よ、お前らはどこまでバカなんだろう。そんなんで生きていけるのか? って、なんかみんな生きてそうじゃないか。信じられん。そんなんで一人流行らぬ理論作業をできるか? まあおいらはきちがいでもいいや、他の左翼、そんなんで一人流行らぬ反体制闘争ができるか? これはまだまだ何百人かはいるぞ。
 もう知らねえや。困るのは自分たちだし。

 と、ここでしばし考えた私。昔々の物語、私より3歳若いやつらはみんなそうだったな、と。といっても今じゃあもう定年を迎える人たちだけれどもは彼らは大人になっても高齢者の声を聞く歳になってもそうなんだろうな、と思うし、であればそれ以降の人たちはもっとなんだろうね。
 ここで世代に目を向けると、私近辺3歳前後の人間は自分だけが正しいとは思っていないけど、それ以上の団塊の世代は自分たちこそ正義だと思っている。
 で、私近辺3歳前後の人間は、正義であろうがなかろうが、しかし自分で決めなければいけないと思っている。
 けれど、私より2歳も下くらいからもうすでに周りの人間の顔を見はじめてたやね。
 いってみれば私らはミニ大正自由主義世代。1900年ヒトケタ世代だね。サルトルとか中原中也とか太宰治のことだね。「体制」の価値観を離れることが「自由」に要請されていた時代。すでに資本主義文化はグローバル。社会学専攻の人は、この切り分けを使っていいよ。

 そんなことはどうでもいいけど、まだ柔軟な若い諸君。なんとかがんばって世間の目を気にするのはやめたまえ。
 団塊世代:人がなんと言おうと、正しいものは正しい。
  それもいいがな。権力者の設定を他人にまであてはめようとするよりまだまし。
 我々世代:正しいわけではないが、これを私は選択し、これ以降も選択し続ける。
  普通にいいし。
 両者共に、自分で決めた道さ。
 で、諸君の道は? 他人を制度に押し込めて「ああよかった」と思ったり、自分が制度から外れてそれを怖がったり。可笑しすぎるぜ。 
 てゆうか、恥ずかしいし。

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