リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

定義と定理、あるいは人工科学

2019-03-30 14:32:48 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。春まだ遠く 寒くって。寒いとレイノー病が出て指がもげそう。
 東京地方、相当桜が咲きました。が、まだまだ寒く見に行く気にもならない。今日はしけってて洗濯物も乾かないし。関係ないけど。ほんとはここんところの影響で幸せホルモンが出にくくなってるんでしょうね。

 さて、というわけでニュースはないの。なんかある? 「ひきこもり中高年61万人」。富裕病だね。「地方議員無投票ばかり」。やることなんかないんだからいいじゃないか。 「世界の自動車産業は軽量化へ 日本もチャンス」。馬鹿いってんなよ、軽自動車は女子供の棺桶じゃないか。すぐにぺしゃんこ。家族には絶対乗らせちゃいけない。

 本日は、ごく一部の中堅研究者用。科学とは何か。
 天下のwikipediaによると
「自然科学と言う時の「自然」とは、基本的には人為的ではないもののことである。」「現在、「自然科学」という語は、狭義には、物理学、化学、生物学、地球科学、天文学など自然科学全体の基礎となる理論的研究をする部門を指」す。
 まあ、99%の人がそうだというような。
 じゃあさあ、いかにも科学らしい法則科学分野、物理学とか化学とかって、相手は「自然」か? 違う。残念ながら教科書の目次を書き込むスペースは無いけれど、思い出せるように、たとえば某物理の教科書『2節 運動量の保存  1 運動量と力積  2 運動量の保存  3 衝突とエネルギー』これ自然か? あるいは化学の教科書『2節 酸と塩基  1 酸と塩基  2 酸・塩基の価数と強弱  3 水素イオン濃度とpH  4 中和反応と量的な関係  5 中和反応と塩』これとか。これらは人工現象でしょ。人が「自然科学」の名において広めているものは、実は人工科学なのですよ。(他の科目は博物学と言ったほうがよい)
 サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である。なんら自然現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で自然を評論することができる。
 
 というわけで社会科学です。
 サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である、残念ながら実際には作れないが。正しく言えば、頭の中で箱庭を作って喜ぶための学である。なんら社会現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で社会を評論することができる。
 
 ということに気づいて、ばかばかしくなっているところ。
 といって数理社会科学に対してではありません。久しぶりに「経済学批判要綱」(マルクス)を眺めたのさ。馬鹿だねえマルクス、何を遊んでんのさ、と思って彼の遊ぶ意図と効果を考えたんだね、そしたら結論されてしまった。
 誰も搾取に怒りを覚えてやしない、労働者の世界を作ろうなんて考えてやしない。単にヒビキのいい言葉で労働と資本と諸利潤をシステムにしてみただけ。
 
 つまり、サイエンスではなく真実の社会科学は
 1 何に焦点を当てるか、という点が根本問題です。この設定には何の抽象性も入らない。研究者の意思次第。それが決まれば次に
 2 ではその社会事象の発生のための規定性は何か
 の視角への移行が始まる。この2点目への移行にも何の抽象性も入らない。しかしついで、
 3 これが規定性だ。
 という提示について、別の箇所で研究者が費やした努力の結果である社会科学の因果連関の結論的定理が必要となる。
 この1から3までの過程の提示が、真実の社会科学です。
  
 4 さて、最後に、この定理の適用によって、はじめて数学的意味での「定義」が可能となります。が、そんなものはいまさら必要ではありません。それはユークリッドによる幾何学の集大成でそうだったのと、同じ経過です。
 
 この順序で明らかなように、真実の社会科学における定義の可能さは、焦点の設定に起因し、それだけで済むわけです。もっともその内容を構成する諸定理が存在しなければ、依って戻る定義も、まず存在しないのですが。
 
 ただし、人工科学ではそうではない。人工科学はどんな定義も自由自在。さらにその定義次第でサイエンスの内容も自由自在です。 
 数学者ヒルベルトが、公理の決め方は自由でありその取り方で無矛盾のいくつもの幾何学がありうる、旨、述べたそうですが、要するにそういうことです。サイエンスはユークリッド以後の自由数学です。
 これを静態的に一般化すれば、「これは頭で作ったモノ(理念型)だから現実と差があって当然」と居直るしかないし(ベーバー)、そうではなく動態的な仕組みに当てはめれば「現実を貫くのはこの法則性なのだ。理念型とは違う」と顔を真っ赤にして反論しなければならない(降旗)。
 いずれにせよそれらは、真実の社会科学ではない。社会事象の因果連関の結論的定理が要求される社会の科学ではない。
 人は社会事象にどう焦点を当ててもよい。しかしそれにもかかわらず、人々の生活の中に存する幾何学は、有用な定理から出発して戻ってきた定義によるユークリッド体系なのだ、ということを理解しなければいけません。われわれの社会科学も、自由ではあるがしかし、まずわれわれの、いや研究者個人が生きる、生活に根ざさなくてはならない。
 「じゃあアインシュタインの数学(体系)は不要なのか」という論は、100年早い、あるいはギリシア数学3000年分早い。隈理論も知らないで、自分が意味のあることをしゃべっていると思うな、ということです。
 こんなの当然じゃん、どこが中堅用の議論なのかって、以前に勉励を促した呉座くん、その後勉強をしたようだけど、まだ歴史が自由であるという前提がまずもってわかっていない。ああ、若い学者にとって学者世界の風習は揺るがしちゃいけないんだな、という忖度ですな。

 東京地方、明日は暖かなもようです。わたしの幸せホルモンも戻ってくるかもしれません。
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数十年前数件

2019-03-23 15:56:56 | 断片
 こんにちは、東京地方ここんとこあったかでしたが、本日は一転寒、雨まで降ってきてます。皆様のお近くは桜咲きました? わたしはまだ一輪も見ていない。花を見たのは蝋梅が最後かね、沈丁花とか辛夷(コブシ)とか木蓮とか、花の木は近くにそこそこあるのですが。
 そんなこと言っててもしょうがないので、いまベランダから外を覗くと、桜がちょぼちょぼとゴミのように白く咲いている。雨空じゃあしょうがない。
 
 さて、そろそろまともなテーマを取り上げたいと思う今日この頃、来週くらいはなんとか。
 本日はこんなのから。
 夕食時ヒマだったんでTBSの癒し系森田さんの夜の天気予報を見ようとしたら、その前にCMあり。「電車の時間なんて 気づかなければよかった」小田急のCM、知ってる? いいと思わない? デートの二人が最終電車で反対方向に分かれ、向かいのホームの端に立ってさよならをするCM。
 胸熱だね。まあ、こういうのは青春の真っ只中だと、「ちぇ。(いい気になりやがって)」とか思うのかもしれないけど。まあ、それも青春。若いっていいね。べつにうらやましくはないけど。通り過ぎた何か。

 次。「A380「空飛ぶウミガメ」到着 ハワイ線にANA投入」(朝日)。旅客機に海亀のイラスト。なかなかかわいいじゃん。塗装なんて塗り絵に過ぎないからどうだってよさそうだけど、あんがいそうでもありません。
 40数年前初めて飛行機なるものに乗った福岡行きボーイングDC8。落ちそうでひとりぼっちで心細かったけど、翼に描かれた日の丸が力強かった。それしか覚えてない。どうやって飛行手続きをしたのかな。

 次。1968年2月掲載のサザエさんで、女性に「ブスのオールドミス」と言った男が糾弾されている漫画を取り上げて、大塚某という評論家(58歳)が、女性の経済力が強くなった結果だ、と評していました。おやおやびっくり、と力も無く呟いてしまう。
 そりゃ当時の児童にはわからないだろうが、それは戦前から引き続いた女性解放闘争が、日本共産党のくびきから脱して雌叫びを上げた、新左翼闘争の歴史だよ。
 そこで今どんな情報記録が残ってるのかと検索してみましたが、確かに何も残ってはいない。これじゃあ評論家にわかんなくてもしょうがないけどね。ほんとたかだか50年の歴史も分からないのに、100年、200年前が分かるはずもない。せめて社会学者なら、70年にウーマンリブ運動が発生するなら、それ以前に飽和して雨粒が落ちる雲のような全体状況があったはずだ、くらいまでは想像できるだろうけどね。説明前段の日本共産党の内部事情など、もうかけらも残っていないでしょう。 
 まあ50年と言えば、世間も何もかも変わるよね。この間やりとりをした税理士事務所の前が私の出身小学校で、まったく面影も無い。裏の駄菓子屋がタバコストアだけになって残ってるくらい。で、司法書士事務所が私の出身高校の駅よりの手前で、高校とか見に行ってもそれこそ何一つ記憶が戻らない。よく廃校になる生徒の思いとかニュースになりますけど、思いがあるうちが幸せというものでは? ただ不思議なことに私の出身大学も跡形しかなく消えたところですが、こちらは前の道を通るだけで面影を感ずる。毎日通ったわけでもないのに数年今に近いせいかねえ。

 さて、どうでもいい話ばかり。
 本日は新雅史の商店街小著がとっかかり(「あたらし」さんじゃなく「あらた」さんだと)。立ち読みで、「「マルクス主義・産業化論」という社会変動の二大理論は、都市の零細小売商の増加という現象をその理論の内部で説明することができなかった」なんて書いてあるから、おやどんな反論があるんだね、と思って借りてきちゃったら、純粋に商店街理論でした。なので、本の本文は私には関係ありません。いいたいのはさきの一行。
 どんな主義者も、資本主義初期都市には農村離脱者が「零細人」として住み着き、あるいは日雇い、あるいは零細業に従事したことは事実として知っていると思うのだが。今でも後進国ではそうだし、先進国では、農業生産物は輸入でまかなえてしまうし、工業では過剰生産に苦しんでるので、第一次でも第二次産業でも処理できない人間を、仕方が無いので「第三の職種」で、しばらく時間つぶしをしてもらっている。そんな説明にたいそうな理論が必要なものではないと思うのだが。
 まあ、本論にも一言言うと、著者は商店街を1930年代以降に弱い零細小売業同士として組織化されたもの、とおくわけだけれど、50年前までの順調な戦後小売業は、決して零細と呼ばれる必要も無かったはずだと思うんだけどねえ。その理由を二大変動理論は明らかにしていない、というならそうだね、聞いたことないから。でも、小売業者たちが零細でなかったのは商店街の一員だったからとも思えないんだよね。 
 そもそも、大規模店舗さえなければ、商店というのは十分価格決定機構を持つんじゃないかねえ。「いやなら買うな」だね。実際、十分な資力のある消費者相手ではそうだったから、近世的商店が存在したんだろうし。ところで、農村からの落ちこぼれ業者は、十分な資力のある消費者を相手にできる歴史時期が来るまでは、産業予備軍の域を出はしなかった、というわけで。
 さて、大正期に入り相当の資力のある消費者が出現してきた。それを相手にする業者の群雄割拠の中で、商店街構想ができた。商店街とは単に対大規模業者の問題なのである、と書くならそれで済む。そうだよ、そういってんじゃないか、というならあっちこっち飛ばずに書いて欲しいし、それは社会変動理論の問題ではなく、経営戦略論だな。

 というわけで、もともとの興味は、わたしはサラリーマンの子なので商業のことが必ずしもわからず、次回作品でどこまで触ろうか考慮しているところでの出来事。それでも小売業者の同級生はたくさんいたから、上記の点では、若い酒屋のお子さんである著者より自分のほうが正しいと思うけどねえ。

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相変わらずで(その2)

2019-03-16 15:18:39 | 断片
 こんにちは。寒いといっても平年並み。本州以南は、もう平野・盆地は雪は降らないと見ましたが、如何?
 わたくしぎ、花粉のおともに、アレグラFXを買ってみましたよ。まるっきり効かない。糞みたいに効かない。こんな効かない自称「薬」は初めてだ。何にも効かずに3年ぶりに、ティッシュの山。それでいて不快症状だけはしっかりある。なんで効かないんだって調べても、みんな何も知らずにアフィリエイト受けしようとしてるから、ネット情報も役に立たない。とんでもない話だ。
 まだ1000円分以上残ってるぜ。どうしてくれんだ。 
 といって第2世代ヒスタミン剤もなんでも効かないわけじゃない、アレロックいいよ、効くから。といって、薬局じゃ買えないんだよね。陰謀だな。 
 今回も翌日熱です。おかげで救いの感冒薬エスタックイブのご利益を受けて。これ1回で翌日も効くの。よく出来てる。ただ、副作用で肺胞炎症が起きるのでは? と疑ってるので誰にでもは薦めません。 
 
 さて、今日は朝から課題ばかりで、今ようやく解放、なんか腰が疲れた。
 ニュースいこうかな。
 「秋田新幹線など車内販売、15日で終了 乗客は惜しむ声」「地域の特色あるお弁当が楽しみだったので残念」(あちこち)
 一昨日全国ニュースでやってたけどさあ、何言ってんだよ、いまさら。「惜しむ声」なんてただのウソだろ。人の悪口をいいたがるネット野郎と一緒だよね。俺らなんか土地の駅弁大好きだけどもう十数年、車内販売で土地の弁当なんか見やしないよ、常磐線で、仙台牛タン弁当見たのが最後かなあ。だいたい、東京近辺じゃこの十数年、駅売りでも名物弁当なんて売ってないんだぜ。知らねえだろ、「残念だわ」諸君。ほんと口ばっか。まあ東京駅だけは全国の(!)名物弁当を売ってるからね、普段興味のない奴がそう思い込む、というのはあるな。
 「いやいや世の中そういうもの。ありそうな合いの手入れて、それで楽しんでんだからそれでいいんだよ」というならおしまいだ。そういうウソツキ情報を私の前にひけらかさないように、乞い願いたいものだ。

 ついで、「2時間ドラマが次々とエンタメ総合枠に」。示し合わせたようにこんな記事があちこちに。
 実際、ドラマが消えるって日本から映像文化が消滅するってことじゃないかね、ってわたしゃドラマなんてこの40年間見てないけど。私の映像文化は、娯楽映画(のテレビ放映)だけだけどね。にしても当事者諸君は文化を放棄してないかい? わたしゃエンタメで感動したことなんかないぜ。
 
 というわけでエンタメ番組。おととい、ふと見たネット動画集めの「ペットの感動物語」。犬が一生懸命人を助けたら、解説が「本能だから」、とか抜かしやがるのさ。いや、言葉が悪いね、ご説明あそばされちゃうのさ。で、バックの他称視聴者も「ああ、、」だとかいいやがる。
 ふざけんじゃねえよ。たとえイヌだとして、猫だとして、だけど体張って、命かけてやってるんだよ。そんな事態を、「当たり前」だとか「ああ、、、」だとか。ばかにすんじゃねえよ。俺は命張ってんだよ、俺じゃないが。アベ以下だよ。アベがどんな糞野郎だって、命賭けてんだよ。
 という怒りにポイントを入れてくださった方。だいじょぶ、あなたは正当な生き物です。
 
 他方、新聞。
 10数年ぶりに駅で日経日曜版を買ってみました。なんて驚き。記事ないじゃん。表に「私の履歴書」があったし、なんだ変わってないかと思ったら。2枚もめくれば広告ばかり。産経がつぶれそうだというのはよく聞きますが、日経もダメか。朝日はあれで頑張ってるんだね。

 というわけで朝日。
 「大学など高等教育の「無償化」が本格化する。家計が豊かでないために進学を断念する若者を支援するのは、誰もが賛成する「よい政策」にみえる。これに対し、大阪大学大学院の吉川徹教授は「大卒学歴至上主義を無分別に押し付けるものだ」と異議を唱える。」(朝日新聞)。
 吉川徹、計量社会学者だとさ。変なやつ。貧乏でも大学にいければ結構なことじゃないか。なんか言いたいんだよね、いるいるこういうやつ。てめえはうまいこと大学院まで行ったくせに。
 彼が言うには、非大学者の税金を使っておかしい、だとか。そもそも税金て存在それ自体がそれ以外の何モノでもないぜ。
 で、こんなことすると大卒偏重を助長すんだとさ。
 うそをつけ。この制度を使うのは、大卒偏重の流れに乗ってるだけであって、その流れを止めたって大卒の扱いは変わりゃしねえよ。低所得者の代わりに中流家庭者が大学に入るだけなんだから。 
 この論法のありうる意味としては、「低所得で大学にいけるアタマを持った人間を高卒にしとけば、高卒者の価値が上がる」って趣旨かね、どの階層が大学に行くかの他人事の感想では、それしか違いがないから。その発想自体が意味不明だ。いかにも博士課程出の度し難い偏見。
 で、この人間が言うには、金の卵の高卒を大事にしろ、と。どうやって大事にするんだ、といえば高卒には5万円の補助給付金を「企業に対して」出せ、ってさ。年額60万円企業に出して、本人の生涯賃金の差、4千万円をごまかせとよ。高卒がよけりゃ、企業はカネなんてくれなくとも雇うさ。賃金低いんだもの。全く意味不明。(長いけど記事が大きいのね)
 だいたいさあ、学閥のない企業なら、つまり社員が一流大学に限られていない企業なら、高卒だって出世は野心しだいじゃないかい? 問題は高卒だと野心が薄いってことだけだと思うのだが。まあ、初めの一歩で採ってくれなきゃしょうがないけどね。
 
 くだんねえ。
 悪口だらけなのは復活の兆しか?
 
 さて、本題。相変わらずにその2とはなんだ、と。 
 本日のテーゼ、カツ・フライには、メリケン粉はいらない。あると半端なく不味い。当たり前だ?
 いや、私はメリケン粉いっぱいの立ち食い蕎麦屋の400円の串カツ定食サラダ付き(もちろん鶏肉と玉ねぎ)とか好きで。決して悪口を言う気もなかったのですが、忙しい昼間ならまだしも、スーパーで買ったのを、夜、ヒマで味わったりするとマジまずい。
 立ち食い定食は食う量が少ししかないから嬉しいんでしょうね、たぶん。これが、それを腹いっぱい食おうとした時は、そりゃまずい。
 (近くにスーパーが2軒あって、1軒はメリケン粉(=今で言う小麦粉)は少ないのですが、油が悪い(なんの移り味か、味付き油になってる)。これもまずい。)
 天ぷらを蕎麦・うどんの掛け物にするならいいんでしょうけどね。メリケン粉がたぬき化して。それとか居酒屋のダルマ握りのようなカキフライ2ケで1皿とか。
 「悪口言ってないで自分で作って食え」。正論ですね。しかし、やっぱ自分一人用だと揚げ物はめんどい。「おいおいKさん、それじゃ話が違うんじゃないか」と前の職場の私の料理の教え子は言うかもしれませんが、トンカツ自分で作って美味しかったでしょ? 作れないのと知ってて作らないのはちょっと違う。
 というわけで、ためになるブログ、スーパーのトンカツは、水とめんつゆで煮て潰した卵をいれてフタをして数分、カツ煮かカツ丼に加工するのをお勧めします。なお、中年以上は、玉ねぎ入れたり、ありあわせの野菜の味噌汁を付けたりしないといけませんのでご注意。40歳過ぎて野菜を食べないなど、ありえない。


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相変わらずで

2019-03-09 16:06:25 | 断片
 こんにちは。花粉ですね。昨日すっかりやられて今日は熱も出たので、花粉によく効く風邪薬を正式に飲めます。花粉症とアレルギー薬の副作用とじゃ、どっちもどっちで。なんか弱くていい薬ないですかね。アレグラかあ、、、
 きのう懲りたので、今日はどんなにお日さんが照ってても外へ出る気になりません。ゴミ捨てにいったけど。
 
 さて、ニュースでは、大阪市長と県知事が交代するって? 相変わらずばかばかしいね。
 ただの県知事権力を増悪(ぞうあく、ね。「増す」という字)ざせようとしてるだけなのに。で、成立したら松井がまた戻るんでしょう。あ、見ないで書いたら「府知事」っていうのか。ばかばかしい。
 こういう矛盾はどこでも起きてるんだから、本気だったら、全国市町村の権限を小さくするように主張すべき。そうしないのは大阪地域一帯を牛耳る権力が欲しいだけ。たかだかの県権力だけどね。ちっせえ。
 
 次。2、3日前、最低賃金を全国一律にしろ、と共産党。東京と鹿児島では現状200円以上違う、と。危ないことをいうなあ、と思ったら、昨日「厚生労働省は都道府県ごとに異なっている最低賃金について、一部の業種は全国一律とする検討に入った。7日の自民党議員連盟会合で説明した。4月に新たな在留資格が創設され、外国人材の受け入れが拡大するなか人材を定着させる狙いがある。」(日経)。そうらいわんこっちゃない。乗せられただけ。
全国一律低額最低賃金制。東京と熊本(秋田でもいいが)と一緒なわけないだろ、と誰だって思うぞ。すべての理屈というのは実際がどうかじゃあないんだから。たしかに田舎は交通費はかさむだろうが、そして一般に田舎じゃ近くに住まいはないだろうが、それでも近くに住んでる人間や自家用車持ってる人間だっているんだから。
 共産党はなんで全国一律が好きなのかねえ。
 そういや、なかなか悪名が響いてこない「同一労働同一賃金」とかね、諸、小労働官僚は自分は関係ないから、コトバに乗せられているだけ。「ヒビキがいいぜ」。何が「同一労働」だよ。ただの「同一職種」なだけじゃないか。みんな人によって労働内容も労働の出来不出来も違うんだよ。で、違って何が悪い? 本来の労働官僚の言葉は、「同一労働時間同一賃金」だよ。労働左翼もそんな基本を忘れ果て、いや忘れたフリで、悪口のわの字も出やしない。おかげで、高度労働・裁量権労働とその他一般労働の分断の嵐。
 学生さんには何怒ってるかわからないでしょうね。先祖回帰。戦前の職員VS労働者制。同じことだがホワイトカラーVSブルーカラー制。戦前より悪いのは、今の労働者層は、自分の労働技術を無視されているので、およそ仕事がつまりもしない。
 ってよそみちへいってしまった。
 
 こんなのもありました。「著作権法改正を進めようとしている文化庁が、自民党に正確ではない説明をした」。長いので一部の例だけ挙げると、審議会で「法改正に「積極的な意見」のうち【学者】の発言とされた四つが、1人の2回にわたる発言を論旨ごとに四つに分割したものだったという。」「文化庁が示した方向性に賛同している委員の意見は余すところなく紹介しているのに、「慎重な意見」を出した4人の意見は省略し紹介すらしていない」(朝日)。官僚が腐り切ってやがる。何やったってアベが守ってくれるからね。権力のオートノミー。権力はそれを人民に見せ付けることにより自己の権力を自然に確立することが出来る。社会学の基本です。隈社会学だが。
 
 さて、本日のためになる話。ここんとこ一人で食事しててヒマなので、食料の味をつい味わったりして気づきました。安いものは不味い。
 安い野菜、安い果物、安いハム、安いチーズ、安いレトルト食品、全部まずい。高いものを食べてないので高いとどうかは知りませんが(醤油だけは以前に気づいて、料理の苦労が台無しにならないよう変えたので知っています。高い醤油(ノンアルコールのやつ)は普通に美味しい)。
 で、そういうことはどっちでもいいのですが、問題は複数で食べるとそういうことに気づかない、ということで。それはそうで、不味かろうが食べ物だから人間に不満があるほうがおかしい。素材が美味いとか不味いとかって何さ。というわけで、お一人の方は誰かと暮らしたほうがいいですぜ。そっちのほうが絶対本来だから。
  
 ともかく、今年は、あるいは去年から、わたし的には厄年ですね。まるで、はたち前のよう。いくらでも悪いことが湧き上がるという、あらあらまあまあ。前厄に本厄。それじゃ来年も悪そうだな。もう年齢上、厄年なんて残ってないんですけどね。
 そういうことで、そろそろガンかなんかになってあせって次回作品を作って、ああ間に合った、みたいに死ぬのかもしれない。それも、ある意味、僥倖と思うべきかも知れないし、ま、間に合ったということで。
 きのうおととい、構成の壁を少し乗り越えたので、そこはかとなく余裕。
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悪口なし

2019-03-02 16:53:02 | 断片
 こんにちは。東京地方、暖かくなって花粉が飛んで。症状も長い期間を取りますといろいろ変わるものです。最近のトレンドは喉の痛み。外から帰ってうがいをして10分後までイガイガする。まあ鼻水がサラサラ出続けるよりはましですが。
 
 ようやく気がかりも少なくなり、特に世の中、土・日という存在は厳然とありまして、今日明日はそこそこ心も飛び跳ねてよい、なんてこともありませんが。ともかくもそういうわけで今日はゆっくりですが、1日ではそうそう心も自由に動きませぬ。今日もお茶濁し。

 さて、今日の感心、その1。
 『横浜・寿地区「簡宿街」の医師が回る独居老人の看取り』(寿地区って、山谷・釜が崎ね。「簡宿街」は簡易宿泊所街)。山中修医師という人。「僕たちがやっているのは、日に日にうつろう患者の希望をその都度聞き、あるいは察知し、できるだけそれに沿う最期をみんなで伴走して見届けるということなんです」(yahooニュース)
 偉いなあ、、、
 父親も医者だって。医者の息子は信頼してるよ。ガリ勉(知らない言葉?)なんて要らない。医大の入試に優先枠があって当然だと思うのだが。
 
 今日の感心、その2。
 米朝決裂。トランプは、「「建設的な2日間だった。しかし、ときには立ち去らないといけないときもある」と述べ、両首脳間で合意に至らなかったことを明らかにした。」(産経)。
 エライなあ。ほんと感心だよ。わたしにはそんな身も蓋もない交渉できない。予定でやってるよね。ブタは相当痛いだろう。
 やはり政治家は地獄に行くような奴でないとつとまらないよね。アベなんてまだまだ。
 困るのが沖縄の玉城デニー氏。あんな人が善くっちゃそれこそどうにもならない。レーニンは確かに極悪人だね。
 
 まあ、人を褒めるような感心モノは面白くないので2件が限度だけど、もう一件増やせば、公平にトランプを褒めることができる自分に感心。
 
 さて、今日の役立ち情報、これも褒めちゃおう、
 ジョーン・C・ウィリアムズ『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』、集英社、2017。
 ネットにはピント外れの感想がありますが、そもそも政治学なんて随想をまともに読んじゃいけない(著者は政治学者)。ま、読んでけなしあうのが楽しみなのかもしれませんが。ともかく現代におけるアメリカにおける労働者階級の分離が活写されていること、必要にして十分。それ以上は社会学者の役目だし。
 なにしろ私なんかトランプ支持は一部の衰退産業従事層と思ってたんだから、そうじゃないもっと構造的に確定され終わった状況の結果だと、本人は言ってなくとも(偶然?)示されたら、褒めるしかないね。
 社会学者なら、これを読むと近現代イギリス労働者階級の姿を思い浮かべることでしょう、おんなじだね、って。
 違うだろ、アメリカはワーキングクラスのさらに下があるんだよ、とか言わないように。それもお互い様ってもの。
 ま、ともかく、社会学徒にはお勧めです。評論用には不要。著者の主張の質としては随想にすぎないからね。 
 
 ついで。
 この前の不要カメラの件は、どなたさまもお申し出がなかったです。しょうがないのでカメラのキタムラF支店に電話したら、値のつかないものはお引取り願うだってさ。昔、新宿本店はそんなこといわなかったけどねえ。思えば、思わなくとも分かりきって、あの頃はいい時代でした。かなしいけれど、このカメラ一式、ゴミだね。ほんと、リサイクルが聞いて呆れる。
 というわけで、残されたほうが困るから、持ちモノは最少限で、大事にして欲しいものです。わたしも最少限で大事にしたい。

 というわけで、次回作に浸れるかな。
 
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