こんにちは。春まだ遠く 寒くって。寒いとレイノー病が出て指がもげそう。
東京地方、相当桜が咲きました。が、まだまだ寒く見に行く気にもならない。今日はしけってて洗濯物も乾かないし。関係ないけど。ほんとはここんところの影響で幸せホルモンが出にくくなってるんでしょうね。
さて、というわけでニュースはないの。なんかある? 「ひきこもり中高年61万人」。富裕病だね。「地方議員無投票ばかり」。やることなんかないんだからいいじゃないか。 「世界の自動車産業は軽量化へ 日本もチャンス」。馬鹿いってんなよ、軽自動車は女子供の棺桶じゃないか。すぐにぺしゃんこ。家族には絶対乗らせちゃいけない。
本日は、ごく一部の中堅研究者用。科学とは何か。
天下のwikipediaによると
「自然科学と言う時の「自然」とは、基本的には人為的ではないもののことである。」「現在、「自然科学」という語は、狭義には、物理学、化学、生物学、地球科学、天文学など自然科学全体の基礎となる理論的研究をする部門を指」す。
まあ、99%の人がそうだというような。
じゃあさあ、いかにも科学らしい法則科学分野、物理学とか化学とかって、相手は「自然」か? 違う。残念ながら教科書の目次を書き込むスペースは無いけれど、思い出せるように、たとえば某物理の教科書『2節 運動量の保存 1 運動量と力積 2 運動量の保存 3 衝突とエネルギー』これ自然か? あるいは化学の教科書『2節 酸と塩基 1 酸と塩基 2 酸・塩基の価数と強弱 3 水素イオン濃度とpH 4 中和反応と量的な関係 5 中和反応と塩』これとか。これらは人工現象でしょ。人が「自然科学」の名において広めているものは、実は人工科学なのですよ。(他の科目は博物学と言ったほうがよい)
サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である。なんら自然現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で自然を評論することができる。
というわけで社会科学です。
サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である、残念ながら実際には作れないが。正しく言えば、頭の中で箱庭を作って喜ぶための学である。なんら社会現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で社会を評論することができる。
ということに気づいて、ばかばかしくなっているところ。
といって数理社会科学に対してではありません。久しぶりに「経済学批判要綱」(マルクス)を眺めたのさ。馬鹿だねえマルクス、何を遊んでんのさ、と思って彼の遊ぶ意図と効果を考えたんだね、そしたら結論されてしまった。
誰も搾取に怒りを覚えてやしない、労働者の世界を作ろうなんて考えてやしない。単にヒビキのいい言葉で労働と資本と諸利潤をシステムにしてみただけ。
つまり、サイエンスではなく真実の社会科学は
1 何に焦点を当てるか、という点が根本問題です。この設定には何の抽象性も入らない。研究者の意思次第。それが決まれば次に
2 ではその社会事象の発生のための規定性は何か
の視角への移行が始まる。この2点目への移行にも何の抽象性も入らない。しかしついで、
3 これが規定性だ。
という提示について、別の箇所で研究者が費やした努力の結果である社会科学の因果連関の結論的定理が必要となる。
この1から3までの過程の提示が、真実の社会科学です。
4 さて、最後に、この定理の適用によって、はじめて数学的意味での「定義」が可能となります。が、そんなものはいまさら必要ではありません。それはユークリッドによる幾何学の集大成でそうだったのと、同じ経過です。
この順序で明らかなように、真実の社会科学における定義の可能さは、焦点の設定に起因し、それだけで済むわけです。もっともその内容を構成する諸定理が存在しなければ、依って戻る定義も、まず存在しないのですが。
ただし、人工科学ではそうではない。人工科学はどんな定義も自由自在。さらにその定義次第でサイエンスの内容も自由自在です。
数学者ヒルベルトが、公理の決め方は自由でありその取り方で無矛盾のいくつもの幾何学がありうる、旨、述べたそうですが、要するにそういうことです。サイエンスはユークリッド以後の自由数学です。
これを静態的に一般化すれば、「これは頭で作ったモノ(理念型)だから現実と差があって当然」と居直るしかないし(ベーバー)、そうではなく動態的な仕組みに当てはめれば「現実を貫くのはこの法則性なのだ。理念型とは違う」と顔を真っ赤にして反論しなければならない(降旗)。
いずれにせよそれらは、真実の社会科学ではない。社会事象の因果連関の結論的定理が要求される社会の科学ではない。
人は社会事象にどう焦点を当ててもよい。しかしそれにもかかわらず、人々の生活の中に存する幾何学は、有用な定理から出発して戻ってきた定義によるユークリッド体系なのだ、ということを理解しなければいけません。われわれの社会科学も、自由ではあるがしかし、まずわれわれの、いや研究者個人が生きる、生活に根ざさなくてはならない。
「じゃあアインシュタインの数学(体系)は不要なのか」という論は、100年早い、あるいはギリシア数学3000年分早い。隈理論も知らないで、自分が意味のあることをしゃべっていると思うな、ということです。
こんなの当然じゃん、どこが中堅用の議論なのかって、以前に勉励を促した呉座くん、その後勉強をしたようだけど、まだ歴史が自由であるという前提がまずもってわかっていない。ああ、若い学者にとって学者世界の風習は揺るがしちゃいけないんだな、という忖度ですな。
東京地方、明日は暖かなもようです。わたしの幸せホルモンも戻ってくるかもしれません。
東京地方、相当桜が咲きました。が、まだまだ寒く見に行く気にもならない。今日はしけってて洗濯物も乾かないし。関係ないけど。ほんとはここんところの影響で幸せホルモンが出にくくなってるんでしょうね。
さて、というわけでニュースはないの。なんかある? 「ひきこもり中高年61万人」。富裕病だね。「地方議員無投票ばかり」。やることなんかないんだからいいじゃないか。 「世界の自動車産業は軽量化へ 日本もチャンス」。馬鹿いってんなよ、軽自動車は女子供の棺桶じゃないか。すぐにぺしゃんこ。家族には絶対乗らせちゃいけない。
本日は、ごく一部の中堅研究者用。科学とは何か。
天下のwikipediaによると
「自然科学と言う時の「自然」とは、基本的には人為的ではないもののことである。」「現在、「自然科学」という語は、狭義には、物理学、化学、生物学、地球科学、天文学など自然科学全体の基礎となる理論的研究をする部門を指」す。
まあ、99%の人がそうだというような。
じゃあさあ、いかにも科学らしい法則科学分野、物理学とか化学とかって、相手は「自然」か? 違う。残念ながら教科書の目次を書き込むスペースは無いけれど、思い出せるように、たとえば某物理の教科書『2節 運動量の保存 1 運動量と力積 2 運動量の保存 3 衝突とエネルギー』これ自然か? あるいは化学の教科書『2節 酸と塩基 1 酸と塩基 2 酸・塩基の価数と強弱 3 水素イオン濃度とpH 4 中和反応と量的な関係 5 中和反応と塩』これとか。これらは人工現象でしょ。人が「自然科学」の名において広めているものは、実は人工科学なのですよ。(他の科目は博物学と言ったほうがよい)
サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である。なんら自然現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で自然を評論することができる。
というわけで社会科学です。
サイエンスとは人工科学である。モノを作って喜ぶための学である、残念ながら実際には作れないが。正しく言えば、頭の中で箱庭を作って喜ぶための学である。なんら社会現象を解明はしない、が、人工科学を知っている者は、類推で社会を評論することができる。
ということに気づいて、ばかばかしくなっているところ。
といって数理社会科学に対してではありません。久しぶりに「経済学批判要綱」(マルクス)を眺めたのさ。馬鹿だねえマルクス、何を遊んでんのさ、と思って彼の遊ぶ意図と効果を考えたんだね、そしたら結論されてしまった。
誰も搾取に怒りを覚えてやしない、労働者の世界を作ろうなんて考えてやしない。単にヒビキのいい言葉で労働と資本と諸利潤をシステムにしてみただけ。
つまり、サイエンスではなく真実の社会科学は
1 何に焦点を当てるか、という点が根本問題です。この設定には何の抽象性も入らない。研究者の意思次第。それが決まれば次に
2 ではその社会事象の発生のための規定性は何か
の視角への移行が始まる。この2点目への移行にも何の抽象性も入らない。しかしついで、
3 これが規定性だ。
という提示について、別の箇所で研究者が費やした努力の結果である社会科学の因果連関の結論的定理が必要となる。
この1から3までの過程の提示が、真実の社会科学です。
4 さて、最後に、この定理の適用によって、はじめて数学的意味での「定義」が可能となります。が、そんなものはいまさら必要ではありません。それはユークリッドによる幾何学の集大成でそうだったのと、同じ経過です。
この順序で明らかなように、真実の社会科学における定義の可能さは、焦点の設定に起因し、それだけで済むわけです。もっともその内容を構成する諸定理が存在しなければ、依って戻る定義も、まず存在しないのですが。
ただし、人工科学ではそうではない。人工科学はどんな定義も自由自在。さらにその定義次第でサイエンスの内容も自由自在です。
数学者ヒルベルトが、公理の決め方は自由でありその取り方で無矛盾のいくつもの幾何学がありうる、旨、述べたそうですが、要するにそういうことです。サイエンスはユークリッド以後の自由数学です。
これを静態的に一般化すれば、「これは頭で作ったモノ(理念型)だから現実と差があって当然」と居直るしかないし(ベーバー)、そうではなく動態的な仕組みに当てはめれば「現実を貫くのはこの法則性なのだ。理念型とは違う」と顔を真っ赤にして反論しなければならない(降旗)。
いずれにせよそれらは、真実の社会科学ではない。社会事象の因果連関の結論的定理が要求される社会の科学ではない。
人は社会事象にどう焦点を当ててもよい。しかしそれにもかかわらず、人々の生活の中に存する幾何学は、有用な定理から出発して戻ってきた定義によるユークリッド体系なのだ、ということを理解しなければいけません。われわれの社会科学も、自由ではあるがしかし、まずわれわれの、いや研究者個人が生きる、生活に根ざさなくてはならない。
「じゃあアインシュタインの数学(体系)は不要なのか」という論は、100年早い、あるいはギリシア数学3000年分早い。隈理論も知らないで、自分が意味のあることをしゃべっていると思うな、ということです。
こんなの当然じゃん、どこが中堅用の議論なのかって、以前に勉励を促した呉座くん、その後勉強をしたようだけど、まだ歴史が自由であるという前提がまずもってわかっていない。ああ、若い学者にとって学者世界の風習は揺るがしちゃいけないんだな、という忖度ですな。
東京地方、明日は暖かなもようです。わたしの幸せホルモンも戻ってくるかもしれません。