リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

商売上のお知らせ

2022-06-25 15:04:04 | その他
 こんにちは。東京地方カンカン照りでございますが、冷房ついてます? いくら東京地方、最近空梅雨気味だと言って、6月に35度を超えやしないよ(って記録はあるとさ)。ほんとにもう梅雨明けたんじゃないのか?
 時候の挨拶的には、最近グワーグワーとカラスの幼児の声がいつもするようになって、そういや近くに酢があったようだから、いつまでも生まれた巣の回りで遊ぶのかな、とか書こうと思ったのですが、そんな穏やかな気持ちになれないね。
 いや、カラスの子は「山の古巣へいってみてごらん」ていうじゃん? やっぱ古巣の回りにいるんじゃないかと思って。
 ちなみに「七つの子」は7歳の子ね。疑問の余地なし。野口雨情の確信犯。アナキストで詩人ときたらそんなもんです。
 
 さて、本日はお知らせ。
 
 デジタルパブリッシングサービスからの素っ気ない通知によると、この8月31日で自費出版部門の販売をやめるって。わたしの初期の出版社ね。
 それは後から来る人にはまずいかも。でもこの時代、他にも会社はたくさんあるし。
 
 思えば今を去ること21年前、ある2月の昼休み、職場に日経新聞が落ちてて私がそれを立ち読みしたんだね(立って読んだ)。それによると、いつもの新製品ニュースの横に、「デジ社でこんな事業始めましたよ」記事が。10万円であなたの本ができます、って。
 そのころ、そこそこ自費出版流行ってたんだけど、文芸社とか200万円取る、とかいうんだよ。そんな金がどこにある(いまもやってるんじゃない? しかし売れ先の決まってない(=授業のある教授等以外の)方にはお金があってもお薦めできませんな)。
 ところがそれがバナナの叩き売り以下の10万円! いやこれは神様がわざわざ私のために記事にして机の上に置いといてくれたとしか思えない。わたし的には原稿はいつだっていろいろ持ってるので、その時点での最新版を作ってもらいましたよ。
 担当もいい人で、大塚正志さんというの。担当というか、ほかに社員はいそうもなかったけど。いま親会社の部長してたな。なんでも仕事は人だからね、特に私の場合。モラハラだし。そうやって初めの4冊を大塚さんにたてつづけにお世話になって、そこで「人」の影がガラっと変わっちゃってね、変な会社。
  
 ともかく、懐かしいなあ、青春だな。皆様などまだ生まれてない方もいるでしょ、知らないけど。
 
 というわけで、以下宣伝を兼ねまして、9月以降、新刊で買えなくなっちゃう本をお知らせします。
 
 ・ 「変革の機制-行為論的社会学基礎論」
 
 ・「〈自由〉を探した靴」(「変革の機制」のエッセンスの小説版) 
 ・「光の国のダンサー」(イデオロギーの基礎理論の小説版)
 ・「光と影とネズミの王様」(社会関係の基礎理論の小説版)
 ・「風とベイシティ・キャット」(いわゆる「知識社会学」の基礎理論の小説版)
 ・「パリの爆薬」(国家と変革の基礎理論の小説版)
 
 ・「行為の集成」(上記著作のエッセンスを詰めた理論書)

 真ん中の5冊って「小説版」て書いてあるでしょ? これがいいんだって。誰も言ってくれないけど。
 理論上の中身はいまとなっては「行為の集成」さえあれば間に合うし、そっちのほうがわかりやすかったりするんだけど、中の話がいいんだって。
 ちょっと筋に無理して破綻してる本も1冊あるけど、それも含めて面白いんだから。
 いわば抒情詩。青春賛歌だよ、ってまあ作者の年齢は問わず。
   ふつうの人には決して薦めませんが、こんなブログへ複数回来る純粋な人には面白いと思われますぜ。
   ネットの万能書店、またはお近くのリアル書店にてご注文ください。
   紙の本ですが、注文後プリントするので、2,3週間かかるかと思われます。

 
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私はモラハラ

2022-06-18 15:01:50 | 断片
 こんにちは。目が悪くて梅雨空だと散歩をしても景色が視えずいまいちです。晴れだときらきらと輝いて見えるのですが。それでも庭先、というか東京地方に庭はないので玄関先で、隣同士で酒盛りなんかしててうらやましい、ようやくコロナも落ち着いてきたようで。皆様にはちゃんとお仕事確保されてますか? 川崎市は今週で感染者数上向き化しててちょっと困る。
 
 今日のネットに、鳥貴族正社員3.1%アップとかあります。商品値上げしたからだと。バイト代はどうなるんだろ。 
 日銀総裁はアホいうし、で加速度的に値上げラッシュ。なんで1,2割の燃料・原材料の値あげが、商品5割アップになるのかね。ともかくここは輸出企業の法人税を上げて所得税を下げないと、平民がバカを見ます。うちの国保料の通知、年額5千円アップでした。どこが変わったのかもわからない。年金の4千円減額は、皆様のお金なので文句は言わないけどね。

 さて皆さまはパソコン打っててコーヒー飲んだりしてませんか? スマホ? 会社のパソコンとかしてお茶飲んだりしない?
 おやめになったほうがよろしい。
 わたしゃ部屋の床の置き時計にけつまずいて、キーボードに持ってたお茶ぶちまけちゃったよ。
 砂糖がないから乾きゃだいじょぶかと思ったけど、お茶は砂糖の代わりに不純物が多すぎて、パスワード入力不能。
 まあうちのはデスクトップだから買い替えりゃすむのですが、それにしたって2000円の出費。ノートパソコンの方は最悪ですぜ、キーボードの下、本体の基板だから。業者にハードディスクコピーしてもらわないと。
 前のキーボードはかなり使って、もともと文字が薄くて見えないし、なぜか「D」とかの字が消えかけてたりするし、で買替えたい気はあったのですが。買い換えたモノはその前持ってた機種の後継で、それは「E」のキーが打てなくなって変えたので、どれだけ持つか不安。

 さて本日の役に立つブログ、本題がモラハラだから、ふつうの人は中締めですよ。お料理中級用メモ。
 レシピでよくコマ肉に片栗粉かけてまろやかにする、とかってあるでしょ? 成功したことある? わたしゃない。酢豚や煮物用の塊系はいいけど、炒め物のコマ肉はだめ。いっしょに炒める具材がねちょねちょになるから。と一昨日セロリの牛肉炒めをして自分に腹が立ちました。まづい。セロリになんのさっぱり感もない。あと春雨炒め時ね、伸びきったうどん。手間かけてまずいんじゃあしょうがない。お気をつけください。
 
 さて本題。変わった人だけ用。わたしも怒るのはそう好きじゃない。

「国の賠償責任認めず 福島第1原発事故訴訟で最高裁」(赤旗)
 国が大津波の可能性を知ってたのに防護措置を取らなかったのは無罪、という訴訟ね。
 
 さて、モラハラの隈はこの判決は当然だと思う。
 結局「だれが悪い」って話だからね。これは原発を設置した当該町民、村民が悪い。まずそこをごまかしちゃいけない。「大堤防がありゃいい」とか「水密化されていればいい」とかの問題ではないのだ。この訴訟では人民の自己免責。設置したって何も起こらなきゃいい、何か起これば人のせい。ばかいっちゃあいけない。何か起これば国のせいなどという約束を国がするものか。あとから人のせいにするんじゃない。まず、村民自身が悪かったと思わなければ第2、第3の福島ができる。もちろんその被害の候補村は「今だって増えてる」!じゃないか。それをだれが止められる? 村民しかない。他の誰のせいでもない。
 ついで、それを前提に、それはそうだがここは政治家に原発推進をさせてはいかんとこだろう、という論もあるだろう。
 しかしまだ、国ではなく東電が悪い。
 いったい、設置者以外に現実の設計と、ついでこれが最も大事だが、施工を、管理できるだろうか? いやできない。いいかげんなところで手を抜くのは常に設置主体なのだ。これは「民間の」と付け加えてもよい。国家公務員の誰が原発の傷を知りうるか? いいや誰にもわかりはしない。実際の管理をしている人間が、配管のおかしさや放射線の数値のおかしさや台風の日の波の高さの記憶を上司と検討して、初めてその発端に触れられるのだ、それを国に責任があるなどというのは、人間の行為の責任というものを知らない、口先男の気配さえある。
 じゃあ国は悪くないのか、といえば、原子力発電を東電に押し付けたやつが悪い。廃棄物処理もできないくせに適当に押し付けた政治家(と官僚のセット)が、本当の責任者だ。もうバチが当たって死んでるだろうが。
 
 もちろん、本件は民法第90条、公序良俗。他の誰もが無責任なのだから、村民にモラルを押し付けてはいけない。あるいは民法第1条第2項、信義則、そんなことで選挙の1票をとっちめられるなどとは聞いていない、ってよお、自分は良くて他人は悪いのか。よく恥ずかしくないな、と思って今日は美しくなく終了とします。
 
 
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歴史的イデオロギー論に必要な序論

2022-06-11 17:22:41 | 上部構造論
 こんにちは、東京地方、梅雨入り。雨は少なくともこのどんよりした空がその印。
 ニュースでは鎌倉の紫陽花が見ごろと。明日の朝過ぎれば降らないようですので、明月院以外にどうぞ。明月院なら傘を持って朝のうちに。とにかく混むので。「混む」なんて、ようやく楽し気な季節がきましたね、ワクチン打った人はリベンジでどうぞ。
 わたしはアジサイ群落は近場にいくつかあるので、出来のいいものが近くにないハナショウブ見物。はるばる千葉(茨城)の水郷へ。
 それがまあ遠くて。電車も本数ないんだよ、単線だし。途中でいつの間にか次の電車に追い越されたり。免許のある人はいいねえ。京浜東北以西の方にはお勧めしません。食べるとこ(見つから)ないし。途中の千葉エキナカで弁当買って正解だった。

 で、憂さ晴らし的一筆。
 マンガの代わりに佐々木閑・大栗博司「真理の探究」というのを借りてみましたら気に入らない。
 大栗氏という理論物理学者は、何も知らないということを知らない人物で、「ゼノンの矛盾は微積分ができて解消された」とかいうレベルだし(それは自分たちで「そう呼ぼう」と決めただけ。意味ない。本当の矛盾の理由はただの言葉の使い方)。それはかってにやっていればいいんだけど、佐々木氏というのは結局ただの無神論者なのに、にもかかわらず、臨済宗の大学の仏教学の教授で給料をもらっているって何? わたしは宗教を批判しはしますが、仏教者を自認する男が弱い人間を助けずしてどうする。不愉快だなあ。と、ネットで顔をみたら、なんだ中島義道じゃんか。いや、似た者同士。

 さて、本題。
 ここんとこ日本近代思想史を流しているところ、政治学・教育学・哲学、そんなものによいものはなし。ただ、近代史では松尾尊兊氏のがとてもよいです。わたしも人のけちをつけるだけではありません。
 さて、そこで社会学系。ここには代表で浜口晴彦「日本の知識人と社会運動」をあげると、浜口先生、大正(以降)知識人を均一な社会の中の意識人と捉えてしまう。いや、社会学ってこういうもので、わたしも二十代の時はそうしたのでケチをつけるつもりはありませんが。
 しかし、本来、イデオロギーと資本主義をセットでとらえるには、昭和前期以前は意味を失ってしまうのです。
 なぜ?
 その土台が資本主義社会一般ではないから。当然にイデオロギーの使用者、対象者、享受者その他が、層として違うのです。 
 何を言ってるのでしょうか?
 下層人民が「自分の力」を認識しない限り、イデオロギーはその階層について意味をなさない、ということです。
 あるいは、人民が自分の力を層として認識したときに、イデオロギーは分化上の変容をなす契機となる、それまではならない、ということです。
 それが「序論」として載っていなければならない。
 
 そもそもの話からはいります。
 ある社会、とりわけ資本主義が蔓延する以前の社会には、支配階層に無視される人間層がいます。つまり、人間以下的存在です。
 彼らはまずは人間にならなければならないのですが、それは自己のみの力でなれるわけではありません。彼らがその社会の「人間」になるためには、初めにその社会で支配階層に対抗できる力を持ち、そしてその自分の力を認識しなければならないからです。

 図式化しますと
1 まず彼ら自身の一部がでイベント的行動を起こし
2 それに触発された一部以外の人々が、当該階層を「その社会の平均と同様です」との装いをこらし
3 その後、時間とともに、つまりその後生ずるあらゆる社会上の事実認知の中で、「平均として溶け込む」事実を提供し続ける必要があるのです。

 その間、彼らの周囲で、その第1の過程を助けるのが「前衛」であり、
 その第2の過程を、社会に取り込むために助けるのが周縁的支配者、現在の名では官僚であり、
 その第3の過程を経たときに、それらは、もちろん自分でも他人でも動かしようもない、悪口にすれば閉塞的体制内要素となるわけです。

 そこで現実に戻りましょう。
 明治時代の知識人は、あるいは知識人相当者は、武士階級であった。これは松田道雄氏が正しく指摘しています。つまり、支配者の地位を乗っ取った中下層主階層と同一の者、同一の行為共同性を持つものです。このとき知識階層の意思は、支配階級と変わるものではなかった。
 ではその内実は?
 確かに武士階級は支配階層ではあったであろう。そして確かにインテリゲンチャになったであろうが、かれらは決して生産関係全体を把握しているわけではなかった。後進日本と、典型的な、つまり先陣を切った、資本主義国家との差異です。 
 この時期、国家の肉体力の総体は農民的生産共同体にあった。であればこの生産共同体を動かしうる階層、地主階層が、イデオロギーを嚮導するものなのです。ために武士のイデオロギーは武力国家創出以外は根拠もなしに辺りをさまよい、口先ばかりに、あるいは軍事的嗜好にとどまっていたのです。
 
 さてしかし、支配階級と同じ志向を持つ知識人層ですが、唯一異なる点を持つ。かれらには権力がないということです。
 彼らは彼ら自身の権力を探さなければならない。資本家であり、不満中小地主の不満分子です。
 もちろんそれだけのことですが、体制的権力については、対抗権力と名指される(エリート)集団内部のイデオロギーのみが、対抗しうる。
 それは対抗するに過ぎないが、その内在する自由によって、知識人と彼らに付随する不満分子の内部においては体制的権力が観念的に消滅せられ、それが噴出される。
 かくて、明治知識人も資本主義の増大とともに「前衛」となったのです。

 しかし、ここではまだ下層人民は力を得ていない。
 一方、武士的知識人は時間の経過の中で、自らが下層ともなりうる市井人へと変化していく。
 すなわち、武力階層の分化が生じたのです。
 武力を持たない者が自分の力を(つまり大衆的肉体力の集約を)認識するためには、(その前提以外に)支配者でもなく「弱くもない」階層が必要です。民衆にとっての口先男、ジャーナリストの出現です。

 と、ここまでは生産共同体内男性下層階級の問題です。しかしまだまだ「人間外の」階層がある。そしてそれらがそれ以降の歴史の中で次第に、同様の過程を経て、「人間」になってゆく。
 
 社会学上の「階級」なり「階層」なりの認識は、「産業的発達がそれを作った」という認識であってはならない。階級は社会学上は作り作られるものです。それが具体的人間の社会学です。
 そして、具体的個人に係る権力要素を語るためには、その権力要素の変節の姿、その全体的姿を語ってからでなければならないのです。
 
 
 と、これだけ書くのにどれだけ誤入力があったことか。悲しい視力、、、
 
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学者は「辺境」に立てるか

2022-06-04 15:58:57 | その他
 こんにちは。関東地方きのう、おとといは雹(ひょう)の日、フロントガラスが割れたって、死んじまうね。うちのほうは多摩川で守られてるのでそうひどいのは降りませんが。
 走り梅雨も終わってここんとこいい天気が続いてましたが、来週は梅雨が来そうです。梅雨はいいけど、昨日はとうとう蚊が出てきました。これは困る。

 さて今日の大ニュースは、家の近くの柑橘畑が気づいたら更地になってて。まっさら。これはどうしようもなく困る。ミカンやレモンが熟れていくのを見るのが散歩の唯一に近い愉しみだったのに。この季節しばらく樹上熟成の柑橘もなくなったので行かなかったから阻止できなかった、って所有権ないけど。
 深緑の葉っぱに黄色い柑橘って好きなんだよね、緑の葉に真っ青の実もいいけど。
 幼少のみぎり、実家にあった2,3冊の絵本に、王子が蜜柑の樹に登ってミカンの皮をむく話があって、そのおいしそうなこと。アンリ・ルソーの絵のような。で、食べて魔女に襲われたりしたかな。
 題がわかんないんだよね、他の本は「青い鳥」と「雪の女王」だったから、有名な話だとは思うのですが、、
 ま、ともかくショック、散歩がつまらない。ときどきベランダに来てたアゲハチョウはもっと困るじゃないか、卵産む場所がない。どうするんだろう。こうやって人間の心もやせ細っていくんだね。こんなに家が余ってるのに、もう家を建てる必要なんかないじゃないか。空き家は全部没収すればいい。土地は天下の回りもの。
 
 さっき見たネットニュースの題、「親世代から大きく変化 小学校の今」だと。
 そういえばさあ、小麦粉が高くなって東京じゃあ給食費引き上げだってよ。なんでも上げりゃあいいと思って。量減らせばいいじゃん。東京の給食なんて、社食じゃあSランチだよ、
 コメにすればいいとも思わないんだよね。米のご飯ておかずが多くないと子供には食いづらい。おかず少ないとふりかけ掛けないと味がなくて子供には食えないのだ。旅館の朝食で隣の子供連れの客がよくやってるでしょ。
 パンはいいんだよね、子供でもバター(マーガリン)と脱脂粉乳だけでちゃんと食えるし。スープの一皿もあれば十分。西洋じゃみんなそうして何百年も生き切ったのだから。
 と、昨日、隣のうちから給食のおかずの匂いが漂ってきて、食べたくなって思い出しました。
 
 さて、本題、きょうも本から。菅孝行「反昭和思想論」。思想評論家の古い本。
 「転向右翼のとりえ」という主題で探して読んだけれど、ケチつけばかり。で、中で主体性論批難やってて、いわく
 「「主体」とは何ごとかの価値の担保性たりうるような、一切の神秘性をもたない。それはすぐれて明晰な客観的実在に過ぎないのである。」
 とのこと。
 ほんとに分からない人間というのは困ったものだ。言ったって無駄なんだよね、じぶんでわかんないものは。広松渉の「疎外」音痴と同じ。菅も疎外なんてわかんないだろ、読んでないけど。医者が病気の子に薬を渡して「これを毎食後3回飲めばいいから」っていうようなものだ。そりゃ医者にとっては正しいかもしれないさ、しかし彼は、昼の給食の1食しか食べるものがない家のことは知りはしない、というわけだ。
 いずれも主観的主体性だらけの菅や、疎外なんて存在しない広松にはわかりはしない。
 (ここでは今さら主体性については論議しません、何度も言ったし)
 こういうのは「いじめはいじめている人間にはわからない」という構造といっしょ。
 あるいは女性差別で「そんなものは階級社会がなくなれば消える」だのとうそぶいている「男」といっしょ。
 悪気はないんだよね、ただ、分からないんだから言うだけムダ。
 といってこれは評論家の性格の問題ではなく、人間の環境が人間個人に押し付けてくる制約だから、黙って言わせておくわけにもいかない。それもこれも頭の端っこで思想をいじっているだけだからいけないのだろう、ととりあえずは思うわさ。
 
 しかし、もひとつ、こんな本もあって。石川次郎「地方論への試み」(辺境社)。無名の旧反開発運動家の若き一時期の自伝。
 これがさ、生活者への怒りでいっぱいの、変わった本。
 自分で生活したことがなかったんだよね、困ったものだけれど、なかなか自分の怒りを生きるのに誠実で、潔くて同情しちゃいましたよ。現実の中を転げまわって泥まみれになって、しかし、自分自身が自分の怒りに絞め殺されていくだけ。
 そうなのね、自分で生きればわかるというわけではなさそうなのだよ。
 
 つまり第1に、「哲学者」というインテリが、「ここが辺境だ」と自分で決めて行ったところは、実は辺境などではないのだ。
 ついで第2に、インテリが「俺は戦っている」と思った行動は、ただの個人的行動=踊りでしかないのだ。
 辺境は、自分の武器を捨てた一歩の次にしか現れない。
 闘いは、他者から食べ物を貰う中でしか現実化しない。
 医者は薬を捨ててアフリカの村で生きて、初めて闘いのとば口に立てる。
 
 もちろん、理屈。
 しかし、理屈を知っているだけでも他人の人生がわかるものです。それが謙虚というものであり、自己否定というものです。
(「謙虚」も変? 自分の謙虚さへのエールだったのだけど。正確には、「自己にまとわりついた非大衆性の否定であり」、かな。若人にはわからないでしょうが、多かれ少なかれの世俗的な「エリート」にはどうしてもつきまとってしまう権力性です、わたしも他人をアホと言える限りにおいて「エリート」なのだ、と、これは自己認識なのですが、正しいと思う。もちろん読者諸氏にはお判りのように、だからといって偉くはありません。)


 
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