リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

政治方向の変え方

2019-07-27 10:30:26 | 歴史への視角
 こんにちは。いよいよ暑くって。朝起きてから(6時半)ずうっと青空。雨とどっちがいいのかねえ。といっても日本中天気が悪そうで、旧盆の里帰りのない私としてはこの時期の土日はいつも海水浴とかの時期でしたが、そんな人はアウトですね。
 隅田川の花火もここんとこずっと土砂降りを(テレビで)見せつけられていますが(昔は旅館のテレビで見ていた)、もう時期変えたらいいのにねえ。もう東京も亜熱帯だし。
 
 さて、ニュース。
 最近はNHKニュースももう半年くらい天気予報が主要ニュースで。大衆をバカにしてるね。世の中お天気と吉本でできているそうな。
 「東京都内で発生する自転車事故が近年、増加傾向にある中、都は自転車を利用する都民に損害賠償保険の加入を義務付ける方針だ。」(産経)。へええ、まあいいことだけどねえ。小学生のガキったら歩道歩いてても突っ込んでくるもんね。しかし、私ももう自転車の免許返上かな。
 と思って神奈川県を見たら(県民なので)、もうこの10月から義務化施行だって。知らねえぞ、そんな話。広報ちゃんとしろよ。私が知らずに誰が知ってる?
 ともかく、マジどうしようか。自転車ないと図書館行けなくなるし、、、楽天の自転車保険は年1,620円だってさ。ところで火災保険の特約とかについてるのもあんだって? ほんと自分ちの保険条項も知らないし。。。 

「日本たばこ産業(JT)は24日、明治から昭和40年代に掛けて登場した「わかば」「エコー」「ゴールデンバット」の3銘柄を10月以降、在庫分の販売をもって廃止すると発表した。」(産経) 
 えええ、で、伝統の煙草3つが、、、日本の文化をなんと心得るのか。みんな死ぬほどまずいけどね。しかしこういう風潮は、口には出さねど苦々しく思っています。出してるか。人間なんてみんな偶然生きてるだけだぜ。タバコをそばで吸われたくらいで死ぬならおいらもう死んでらあ。命冥加(いのちみょうが)な諸君はなんと思って生きているのか、、、
 あ、吸う本人は六十で死ぬから。よく見当を数字にするな、と言われるけどね。
 
 国民民主党代表「玉木氏は25日放送のインターネット番組で、改憲について問われると突然、「私は生まれ変わった。議論を進め、首相にもぶつける」と宣言。」(時事通信)
 玉木には(参議院)選挙の前に生まれ変わるという矜持(誇り)もないのかねえ。まあそういう奴だけどねえ。なんでも一事が万事。
  
 そういえばこのたびは選挙良かったですね。れいわ新選組とかN国1名当選とか、国会やNHKも少しはまともになるでしょう。N国も1名ってとこがまともで。どうせ国営放送は国営放送で、なくなるわけもなし。
 自民党も支持が下がったって。気持ち的に多少はましですね。
「自民党の得票率「全有権者のなかで占める得票の割合を絶対得票率というが、1950年代末には40%をこえていた。それが70~90年代初頭には30%台前半まで下がり、90年代からは20%台に突入する。いまや比例では17%だ。」(これは長周新聞)
 小選挙区制がなきゃもっと面白いのにね。村山富市(社会党)の野郎のせいで自民党にさえできなかった制度ができちゃった。まあ、政治家なんてそんなもんだ。いまだに連立で権力をにぎって政治を改良したいなどと言うやつらがぞろぞろ。誰がなろうとやることは歴史的に決定されているのだ。玉木も後10回は生まれ変わるだろう。
 
 ではありますが、実は野党のやれることはいろいろあります。当面の経済も外交も無視でよいのですからね。議員数は取れなくとも外部からなら操作できるのに、やり方さえ知らない。アベの取り巻きは知ってそうですが。
 というわけで野党系に教えてあげましょう。
 もう「露払い政党」の時代です。本当に労働者・失業者の利害を取り上げて、対決すべき本道を世に出しましょう。妥協は玉木に任せる。ともかく民衆は誰も本道を知らないのだから。
 昔、黒寛がやろうとしたそうな。生まれてなかったけど(うそ)。今回は林紘義がやってたね。一回であきらめるなよ、選挙ほど地道の運動が実を結ぶものはない。林は1回じゃない? もちろん候補者は変わってはならず、政治家としての魅力は必須。プロ政治家として当然。人間は理屈じゃなく人につくものだよ。理屈じゃないといっても主張はなんでもいいってもんじゃない。なんの問題でも左翼っぽいことを評論するんじゃなくて、一貫して労働者・失業者の明日の理想を、目に見えるように、世間に広めることがポイント。人間は理屈じゃないが目に見える像を出す。政治党派は評論家集団じゃないし。
 もちろんこれは露払いのイデオロギー闘争だから、選択肢の提出だけ。施策が実現しなくても悩まないでよろしい。実現なんてしっこないし。目に見える未来を、選択肢として民衆が知ってしまうのが政府資本家の恐れること。
 露払い後に本当の大衆の党が、変化した変革の常識の中で、果実を取得すればよいのだから。
 世間なんてそういうものです。
 聞くところではまだ社民党が国会に残っているそうな。いい子ぶって八方美人してないで、必死に理想状態を説いたらどうかね。といっても社民党にはそんな理想がないからしょうがない、というわけだ。要するにどこの党派にもないんだけどね、社会福祉政策以外。俺等にはある? うそつけ。理想状態ではなくて、反論状態しかないくせに。そんな腹の足しにもならない反政府反論に恐れ入る大衆など居るものか。『明日』、『何を』、『どう』すんのか、そうしたら失業者のオイラは「あした」助かるのか。それを言えなくてきれいごとの抽象的なお題目を並べてたって、わたくしだって票は入れてやらないよ。それじゃあ政府だって資本家だって何一つ怖くはないのは今を見れば分かる。反論党派は自前の政治党派じゃなくてただの助っ人業。政府も、扇動で反政府行動が暴力的になるのがめんどいと思うだけ。
 私が褒めた「れいわ」はどうだ。「れいわ新選組からは、重い障害がある2人が当選した。共に大型車いすや介助者が欠かせず、国会の受け入れ態勢作りが急務だ。」(朝日)、立派なものだ。
 話は社会に釘を打ち込むかどうかだけだ。抽象的なきれいごとなど害でしかないんだ。
 もうそういう時代だ、ということです。 
 
 じゃあやらない? どうせなんのやる気もないことは先刻ご承知。そうでない方々がどこかにいるなら、ということです。 
 エラそうに。てめえでやれよ、って? 私は活動家ではありません。どうせ分からない人々に教えてあげただけ。
 
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外在的批判のやり方

2019-07-20 16:48:12 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、急に蒸し暑い夏が来ました。もっとも梅雨明けではなく台風のせいみたいですが、九州方面は大雨で大変ですね。
 駅前を通ったら道をやけに太った黒に白斑のカミキリムシが歩いてました。なんでもコマダラカミキリというそうで、ゼットン(怪獣)の背中の模様がこれだそうです。ゼットンの背中なんて知らねえや。ともかく田舎のいいところです。
 
 本日はどうしようかしら。この3、4日、あれこれと気を使うことばかりで、先ほどようやく一段落したところ、いくつかニュースネタはとってあるのですが、気使い神経が切れてるので、まあ誰も死なないし、どうでもいいじゃん、みたいな気分で。
 
 気使いの不要な情報で、世間では「パプリカ」って歌がはやったのかな? 酒飲んでNHKのCM見てたら(NHKにもCMがたくさんあります。税金電波の不当使用だね)、映像が流れてましたが、明るくって気分が落ち込んでるときにはなかなかいい歌じゃないか、と検索してしまいました。
 米津玄師の作詞・作曲の人生応援歌だって。
    パプリカ 花が咲いたら晴れた空に種を蒔こう
    ハレルヤ 夢を描いたなら心遊ばせあなたにとどけ.
 だって。(幸せな)米津(の歌)だねえ。
 こんな幸せなら、応援なんていらないんじゃないか、と思いはしますが、落ち込んでるときくらいなら現実を忘れさせる、ってことでしょうかね。赤んぼ猫の顔はほとんど可愛い、みたいなもので。こりゃ「癒し」だな。
 「癒し」は思い悩んでいる人間には効かないと思いますが、まあ応援歌というのはその程度のものだ、ともいえます。わたしが子供のときだったら、ば~~かといって画面を消したでしょう。まあNHKだね。
 米津は幸せな歌は歌ってないって? それはあなたも幸せなんでしょう。(ex."lemon")
 
 さて、不幸な人たち宛に切り替えて、本題。
 (これは下記のP.S.を加えたので、本題を変更したものです。なので、P.S.も読んでくださいませ。読まないと理解不能です。)

 一種、前回の続きですが、「廣松渉の国家論」という本がありまして、廣松の悪口を言うために書かれた例のこぶし書房の本で、これも品切れ。まあこの程度は品切れで十分ですが、だからといって間違っているわけではなく、十の内九はいいがかりのような悪口ですが、うち一は正しい。今回ちゃんと見たのは「「等量労働交換」の錯視的解釈」という章ですが。廣松ってほんとにそんなバカか? と思って原著にあたると(「今こそマルクスを読み返す」)、ほんとにバカでかわいそう。彼らもただ悪口を言い慣れてるだけじゃないんだね。ちゃんとツボを押さえている。
 そこで思うに、こういうのが外在的批判の外在たり得てない批判と呼ぶべきもので、なんともムダ。つまり、マルクス主義の大枠の中でやりあっているので理屈はマルクス主義者には役に立つはずですが、実は、お抱え出版社でさえ品切れという状態から分かるように、誰も活用できる話ではない。糞味噌に言うから批判の中身が伝わらない、というのも一部はあるでしょうが、伝わったところで誰にも益がないのですね。廣松を嫌いな人間は多少喜ぶかもしれないが、だからといってトータルに把握し直すわけでもない。私のように分かっている人間が、なに、K派の若いのもバカじゃなかったんだね、と見直すくらい。
 これは「そもそも違っている初めの視座により確定しているはずの最初のテーゼ」を批判しないで、視座を悪口の中に収めてしまって、結論だけ誤りと指摘するからです、って皆さんは読んでないからしょうがないけどね。
 外在的批判は有用なのですが、違うことを違うと言っているだけでは、違うということさえ理解されません。知ってる人は理解するけれど、それじゃ「自分はバカじゃない」ことを知らしめるだけのこと。事実認知の進歩には至れません。
 被批判者との視座の違いを明確にし、被批判者の第1テーゼの視座上の誤りを析出提出した上で、自分の論を展開する。それで、ようやく科学は、人間全体の事実認知は進歩するのです。
 ということで、この論文は使えねえ(役に立たねえ)なあ、という感想と、悪いけど、こっちの廣松のを批判先に使うと(というよりはマルクスのその側面を、ですが)、トータルでみんなの役に立つかな、という感想でした、

(p.s.同一視座内の見つけた欠陥の批判は内在的批判であり、視座の違う人間は他人事で笑っていればいい。問題は、本人たちも赤の他人も、同一視座だと思っている「マルクス主義」なるもの。これは誰も言っていないと思いますが、「マルクス主義」なんて、「左翼一般」と同じだけ、自称他称マルクス主義「内部」で違う視座があるんですぜ、とご本人たち向けに教えてあげる。自称の連中は真理なんてどうでもよく、ただのマルクス主義内での正統争いだから視座も一緒だと信じてるでしょうけどね。「マルクスにとって、俺らが正しく彼らが間違っている」。
 あるマルクスの文章を読んで解釈が違うのはなぜか。もうそこで視座が違うからです。求めるものが違うし、求めるものへの手段的目的も違う。これを社会科学では「視座が違う」と申します。視座が違えば話は金輪際かみ合わない。その論争を実りの出るものにするには、求めるものと手段的目的を明確にし、その明確にしたものの人間的価値を自覚的に表明すること。その自覚的表明の下で、じゃあ論争相手の視座とそこから来る問題点は何かを明らかにすること。その言説を見て、第三者は、「ああこちらの視座と論理が正しい」とか、「いやこれは自分とはここが違うようだ、自分としてはこういう理論を立てるべきだ」とわかり、次代へ理論が膨らんでゆくのです。
 ま、ふつう知らなきゃここまで言わなきゃわかんないけど、知らないのは私のせいではない。
 ついでに、それをやると、イデオローグがいかに根拠のない思い込みで最終目的や手段的目的を設定しているかも分かる。他人に分かるのは不都合でも、自分でそういうことは自覚しないとね。唯我独尊が多すぎるし。
 さらにもう一言、言ってしまおう。マルキストは自分がなさすぎだよね。マルクスがどういおうが、「主義」とは「自分の」生き方だよ。マルクスの意図じゃなくて、自分の意図をいつも明確にしてれば私などがこんなことをわざわざ追伸する必要などないんだ。「主体性」っていう意味知ってんのかい。プロレタリアート性じゃないよ。生きてる自分のことだよ。プロレタリアでもないくせにさあ。
 なんて、きりがないので、またの機会に。)


 
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オカルト(その7;霊界の生成)

2019-07-13 10:59:16 | オカルト(途中から)
 こんにちは、全国的に涼しいですね。私は勉強ができてとても助かりますが、子供たちは残念かね。ニュースで「海開きイベントは体育館で」とかやってました。
 おかげで、ナス・キュウリ・水菜・小松菜はいちばにないとのこと。代わりにレタスと白菜をどうぞ、といってました。夏に白菜でどうしろというのか。ただ、来週からは暑いそうです。とにかく外米を食べるめには会いたくないものです。若人は勉強のために食べたほうがいいかな。
 
 政治ニュースは、「人口43万人減、過去最大 少子化進み10年連続」(共同通信)なんてのがあって、これに(ch***** | 3時間前)という人のコメントがよい。
 「富裕層を優遇しても人工増加(ママ)には繋がらない。6年もあれば結婚、出産を推進する事はできた。現政権の責任。」
 いたく感心したので転記。おっしゃるとおりだねえ。
 6年でお前にできるかって? もう、まかせてちょうだいよ、簡単。権力呉れれば。さて、政治勢力で一番できそうな共産党の諸君は、「簡単」と言えるかな? 
 と思えば、「自民党の三ツ矢憲生衆院議員(三重4区)は12日、三重県伊勢市での街頭演説で、参院選三重選挙区に立候補した同党の女性現職候補に関し「この6年間何をしてきたのか。一番大きな功績は子供をつくったことだ」と述べた。」(スポニチ)だとさ。役立たずのお前ら二人とも6年分歳費返せ。

 勉強中の本日のびっくり。
 K派お抱えのこぶし書房、自分とこの基本文書も品切れのまま。わかんねえやつらだなあ。基本文書という認識さえないのだろうねえ。価値の分かるやつはみんな辞めたという事情は分かるが、本がなきゃ若人は無知のままじゃないか。理論のK派の通り名は過去の栄光か。事実認知をばかにしてるね。次回本でせっかく引用して褒めようかと思ったのにしょうがない。「日本の古本屋」によると北海道の古本屋に1冊あるようですが、クレジット情報はだいじょうぶだろうか、、、。なお、「日本の古本屋」というのはネット古本情報です。お勉強好きの若人はメモしておくといいです。
 
 さて、本題です。東京地方、本日はお盆(の入り)。この気温ではぜんぜんらしくないけれど。浴衣で迎え火したら風邪引きそうだね。若人は迎え火って知らない? うちももう29年やってない。子供も提灯持って夜道を歩けるという、ちょっと面白い催し。子供用の提灯で道端の雑草を照らしてみたりするのさ。小さいからぼーっとしてよく見えないけどね。ま、昔の思い出。
 
 ともかくお盆ですので、本日は久しぶりのオカルト。
 本日は、霊の独立性。 
 前回は、「存在がなんらかの方法で生命を失うと霊が生じ、存在が霊を吸収すると生命を得る。」これは光の存在と同じであるという結論でした。では、霊の存在機能は何か、というわけです。
 まず生命は、物質世界からエネルギーを得る(変換する)手段として、「消化」という手段を使う。そのことにより、その時点で生命は、自ら生命自体の新陳代謝(交代)を必然化することになる。生命は細胞として生き続けながら細胞と共に生まれ変わる。この変遷が「生物形態」である。
 さて、ここで、そこには「物質」と呼ばれるエネルギーの形態、に対する、『生物』としての独自性、ユニーク性はない。生物になる前の細胞形態では生命は統合的に存在すればよい、すなわちエネルギーと同じに波間で「かつ消えかつ結ぶ」ものが生命である。エネルギーの存在形態と一緒であり、だれも苦労も悩みもしない。
 そうではなくて、存在が生物形態を取ると共に、生まれ変わらない統一的表象と、その生物世界内の連合が生まれる。これが霊である。細胞が細胞として統一体を形作ると、その一部で、はき捨てられた生命と継続する生命が生まれる、継続生命は、実は統一された生命であるにもかかわらず、「自己」を持つ。これが霊であり、しかし統一されているところから霊的世界が生まれる。
 つまり、西田弁証法のように、個別にして統一、統一にして個別。
 「自分は自分」といっても実は生命なので統一されている。時間は物質の運動に伴うものであるから生命に時間はなく、しかし、自分は物質の移動によって消化をするわけだから、自分にのみ時間がある。霊はいわば生命の上部構造であり、物質から離れれば、統一された「自分たち」に戻る。この結果、霊は生命の記憶機能として存在するわけですな(注)。しかして、存在は新たに霊を吸収したときには記憶機能を得る。
 というわけです。したがって、死んだ人間と話すことも可能。その自分組織に時を越えてアクセスすればよいのであって、問題は、相手の自分組織をどう特定するかだけ。
 オカルトシリーズも、ずいぶんと真理に近づいてきました。


(注)このセンテンスは、小野文一郎という人が「生命体の科学と技術」(編)という本の中で「DNAは作業記録である」(に過ぎない)と書いてあったことによります。ははあ、なるほど、っちゅうことです。
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感想集+1

2019-07-06 16:28:11 | 断片
 こんにちは。梅雨本番、みなさん地盤はだいじょぶ? といわれても住んでりゃしょうがないようなものですが。崖の近くは新築も旧築も、他の安全そうな家の人からの率直な評価を聞き入れたいものです。
 
 雨でなければまだ夜は涼しい。2、3回書きましたかね、(4月下旬)5月6月(7月初め)は北からアットホームな風が来る。そのまま窓から夜空に飛び出して、そしてネバーランドにはいかないで、また窓に帰ってこれるといい、とほんとに思います。
 
 さて、本日は感想集。
 
 (その1)
 ナット情報に「ハムスター速報」っていうのがあって、『東大卒食事をやめた男「食事はうんこにお金を使うこと」現在は一日三回栄養の入った粉「完全食」を摂取している模様』
 それによると本人(30歳)曰く「1食あたりの食事時間はわずか12秒だ。「これで十分に生きていける。このおかげで、自分のやりたいことに時間を多く割ける。そのための最適な手段だ。結構腹持ちをするので、お腹が減ったりもしない。噛むのを止めたから、顎が細くなってきた。ほとんど痩せていないし、風邪もひかないし、健康面の異常が起きたことはない」。
 みなさんおやめなさいね。体は頭のためにあるんじゃないぜ。消化器官こそが人間の本体だから。使われない胃腸・消化器が怒るぜ。美味いものを食えとはいわないが、せめて塩にぎりと味噌と沢庵で消化器を使わなきゃ。人間はトータルで人間。無駄なものはありません。
 
 (その2)
 『そばにいるよ 病床の子を癒やし励ます犬、静岡で10年』(朝日新聞デジタル364)
 「静岡県立こども病院(静岡市葵区)が、子どもたちを元気づける常勤の犬「ファシリティードッグ」を日本で初めて導入してから間もなく10年。闘病生活を送る子どもたちを癒やす存在として根付いてきた。」
 えらいねえ。なんとか幸せでいて欲しいね、犬。犬だって大変だよ、ぜったい。
 
 (その3)
 参議院選、維新の会が「年金制度を積み立て方式にしろ」とか。やれるもんならやってみろっよ、オラオラ、みたいなもんさ。誰もわかんないから反応しないけど。それじゃ年金制度の意味なんか「無」だよ。ま、できないからこれ以上言わない、みなさまには維新が底抜けの脳天パーだと再認識されればそれで十分。
 
 (その4)
 『毎日新聞が200人規模の早期退職、役員の呆れた「仕事削減策」に怒る現場』
執行役員松木氏の言「(突発的に発生する事件は)テレビを見て取材する方法もある」(ダイヤモンド)
 すごいね、テレビ見て新聞が取材だと。
 当ブログの取り上げ課題をいつも朝日新聞が真似をするのですが、前回のもそうね、でも後から見た人には前後の日付が消えて、いかにも私が新聞記事を盗作をしたように目に写るのではないか、と毎回危惧するところ、考えてみれば新聞記者も私と同じにネタ探しに苦労してるんだね。同じことをやってれば同じところに行き当たる、と、納得。
 
 (その5)
 一生ものだな、と思っていた「たち吉 adam&eve」のセットの大皿1枚、ヒビが入ってしまった。これはむかしむかしの職場の結婚のお祝いプレゼント。実際に買いに行っていただいた茂木奈美子様、小川アイ子様。資金援助していただいた第1係の皆様、その節はどうもありがとうございました。 
 たち吉といえば老舗だからもしかして補充利くかな、と検索したけれど、もうなし。ダンスクとか40年経っても買えるのに、日本てほんとダメだよなあ、って思うんですが。ま、若人はわかんなくてもいいや。
 さらに3日前に「柄がまだしっかりしててすごいなあ」と確認した30年来のミルクパンも(これも酒屋だかのおまけ)、今日は熱で劣化したように柄が欠けて、持ち手はグラグラ。方丈記かの世界だね。と思って「形あるものは必ず滅す」をネットで引いたらそもそもそんな言葉、形骸以外もう残ってないのね。年寄りの一休和尚話だけ。ま、そんなもんだよね。コトバとてモノ。必ず滅す。
 
 (その6)
 本日のネット情報には、「アフリカの少数民族を撮り続ける写真家・ヨシダナギ」(itmedia)というのがあって、写真を見てみたら、おやすごい、私なんかとは才能が違う。現代の植田正治。
 で、ブログのような本人記事もあって、本人が「最後に、かっこよくひと言だけ言わせてほしい。いろんな人が本当に見たいと思うのは、記録ではなく、記憶であると。」と書いてあった。なるほどね。この前半に感心。
 ヨシダナギさん、「いろんな人が見たい」ものを提出したいんだ。へえええ。
 案外、芸術至上主義ってそういうものなのかもね。決して「芸術」によって見る人を否定してるんじゃなくて。そりゃ私なんかとは世界が違うわけさ。
 逆にリアリズムなんて、独りよがりそのもののようにも思える。現実なんか、みたくはないし。なので私なんかにもかえって作者の心が見える。
 と思ったところであります。
 
 役に立たないねえ。
 最後に感想抜きで、社会学若人に役に立つことを。
 現象論の(「現象学の」ではない)社会学には経済的支配とか政治的支配とかいう言葉があんでしょ? それ使うと間違えんだよね、支配が二つも三つもあるようで。それじゃ足りないから文化的支配とか社会的支配とかいってくるじゃん。なにそれ。支配が3つも4つもあったらどんな規定性も書けないよね、そう思いません? というわけでせっかくの論文が現象論になるのさ。
 元に戻って、「経済的支配」と言いたいときは、言うなとは言わないから、経済的局面を使った支配、とかさ、政治的局面を活用した支配、とかさ、支配の性格を語る文言に変えるのが議論を進める第1歩だと思うぞ。本質を語ろうという形容詞ではなく、支配の動きを表す修飾語ね。「赤い花」というと「青い花」という規定と矛盾するでしょ? そうじゃなくて、「赤い光を反射した花」という言葉に代えるといいよ、という意味。これなら次の瞬間に青い光を反射しても矛盾しない。あくまで「支配」の、あるいは「花」の本質を別に規定できるわけ。
 
 と、つまらない歴史屋の本を読んでて思いました。社会学書じゃないのか、って? つまらない社会学者の本はムダだから目も通しません。
 ま、わたしゃどっちのコトバも使わないけどね。
 
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