リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

資本論と国家

2013-03-09 21:40:22 | 行為
 こんばんは、東京地方あったかくなってきました。本日は20度越え。
 ありがたいことですが今年はそこそこな花粉年のようで、すでにつらい。
 わたしなんざ50年来のことなんで、花粉のゆくえには興味もありませんが、薬の楽さも覚えてしまって、明日は飲もうかと。

 さて、今日はこのブログで奨めながら本人寝てしまった、美輪明弘のヨイトマケの歌をNHKでやってまして、そういえば昔も書いたっけ、と見たら5年前。
 5年前でyahoo検索ヒット数、67,600件だそうな。さて現在は、949,000件。 まあ時代が変ったということですが、どう変ったんでしょうかね。
 ちなみに、gooブログ数は5年前90万件でしたが、今は2倍の180万件。どれだけ生きてるブログかは別として。てことは、この2,3ヶ月でのツイートって奴が反映されてるんでしょうか。ツイートが反映されるんじゃ、検索ヒット数も客観知識の正しさの指標にならなくなったってことですかね。
 
 ま、それはそれ。ヨイトマケノ歌感銘された方には、ぜひ丸山明弘のヨイトマケの唄を聞いて欲しいものです。今のが悪いとは言いませんが、わたしは心底からの歌が好き。
 
 で、ここんとこあまり面白いことがなく、じゃあついでに引きずっちゃえ、と、前の続き。
 なんでマルクスは資本論で国家を書かなかったか。
 彼氏、気づいて愕然としたんですな、自分の最後のマスターピース、「資本論」の発想の誤りに。
 
 マルクス本人、若い頃から資本家こそが諸悪の根源、あるいは諸善の根源と思い込んできた(共産党宣言)。マルクスの頃のドイツはまだ、旧来の支配者が生身の姿で存在していた、ということもあるしね。ブルジョワジーはそんな支配者を打倒し、それまでの世界全体を引っくり返した、というわけだ。
 
 もちろんそれはある意味で正しい。ブルジョワジーは、支配世界を壊していった。それは彼らがそれまでの支配基盤を壊していったからだ。彼らは、旧来の支配者の人民への生理的影響の供給を断ち切った、ただそれだけのことではあるが。
 それまで、人民は生殺与奪の権を支配者に持たれていた。ところがブルジョワジーの席巻以来、人民は支配者の顔を見る必要もない。見る必要がなければ支配者の世話など誰もしない。そりゃ生身の支配者は困っちゃうね。
 実際、どこの先進国でも旧来の支配者は愚痴を言いながら、自分たちのみの生理性の確保(時代のアガリ等)と、名目上の名誉の存在で我慢せざるをえなくなった。

 しかし一方、この事態を見たマルクスらは、ブルジョワジーが、資本の運動で、世界主義を達成するという、無邪気すぎる誤りに陥った。
 なぜ無邪気すぎるといえば、そんな子どもの夢物語は、アナーキストによって幻想であることが指摘済みであったからだ。にもかかわらずこのていたらく。マルクスのマザコンは分析されていないが、なんらかの感性上の欠陥ないしマイナスの特徴があったといってよいのではないか。
 ユダヤ金融資本以外のブルジョワジーには国家があるから、だれもこんな夢物語を考えない。観念論者のさまよえるユダヤ人は、何を言っても許される。

 実は、資本家には国家があり、国家には資本家がある。この2者は一体ではなく、国家である1者と、それに寄生する他の1者なのだ。
 それは逆ではない。国家は資本家がいなくとも存在し得る。資本家は国家なくんば死に絶えるしかない。

 ところでもちろん、国家とはシステムのことである。あるいは国家支配者とはシステム維持者のカテゴリーのことである。
 「資本家」なるカテゴリーが、だれそれの会社株主のことなど指していないのと同様、(若い人は知らないかもしれないが、資本家は資本を持ってる人間なんだから、三菱銀行頭取など資本家ではないのだよ。彼は若干の関連企業の化け株の所有者でしかない。あ、これはわたしが関係者で内部事情をバラしているわけではないから) 「支配者」も自民党党首のことなどではない。
 国家には、その国家を支える下部構造がある。この下部構造がある限り、その関連を現実化する一連の社会的カテゴリーが存在する。これが支配者カテゴリーである。
 マルクスにはこんな単純なことが頭の端にも上らなかったのだ。というよりは、アナーキストをけなすため、考えたくなかったというのが実情だろう。
 他方、人のいいエンゲルスといえば、人民のためになんとか国家を操縦しようと、国家擁護主義者にまでなってしまった。
 
 本来、いったん何千年前かに成立した武力権力内支配者は、その権力が続くべく、すべての社会的諸要素を傾注する。そこには、特殊な場合以外、支配者個人など存在しない。およそ、支配者は、その支配の根拠である生理性を確保すべく努力することで、自己の生理性および賞賛を貫徹するこれにより、支配基盤である当時の経済諸体制も磐石となる。。特殊な場合とは、自分のことしか考えない支配者のことである。そんな支配者は社会体制を壊し、おかげさまで人民は新しい社会体制への手がかりを確保する。

 そんな「国家」は、資本論では分析できるはずもない。
 マルクスは執筆プランの遂行時、さすがにそれに気づき、あまりに気を落として、2巻以降の推敲の努力を放棄した気がするが、さてどうか。

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