リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

対抗イデオロギーが不死の理由

2019-10-26 14:05:18 | 上部構造論
 こんにちは。東京地方、そこそこの晴れ。本来はベストの気候と思うのですが災害に翻弄され、たまに青空を見るとやはりいいですね。
 
 大雨は、いやあ、、、と思うばかり。感想にもなりません。丁寧に復旧して欲しいものです。金ならあります、その分の人や資材も。トランプへの賄賂の陸上イージス、6000億、労働者、資材。全部使ってやったらいい。それともトランプが大事か。
 
 ふと気づけば、それ以外 今週は記事の何のメモもない。
 今週はテレビのどこつけてもつまんないニュース一色で見たくないので、全部見ないフリをしていたのでしょう。不快なニュースは見ないのが一番。見たって世の中何も変わらない。
 とはいえ、ビジュアルは真実を表す。朝日新聞の天皇の写真、見た? 「げっ、日本が習近平に乗っとられた」と思いましたが、そっくりじゃん。祝いの踊りは中国武官の踊りだし、彼等は延々1500年、中国の忍びの草か? どこの国家の象徴なんだ。これに「支那人」だとか言いたがる右翼共がバンザイなんかして、なぜ「俺らは情けない非国民、、、」と自己卑下しないのか? ったく理解不能。ま、どうせ私は縄文人の子孫だから。
 (ああどうでもいいけど、中国人は「支那人」じゃなくて「北狄」なんだって by wikipedia。北狄って遊牧民族。昔驚いて書いたことがあるけど、新天皇の子供の頃って、騎馬民族の土偶そっくりなんだよね。)
 レベルの低いケチづけはやめよう。ところで、あの職は早く弟にやらせるといいね。「弟、危険だな」と思っていたけれど、考えてみれば嫌な奴はみんなが嫌いだからね。嫌いな奴を自分の象徴にしたい若人も居なかろう。仲間同士の国に天皇は要らない。
 これもレベルは高くないか。でもなかなか本質的だと思うのだけど。(朝日で評論家が天皇支持が感情的になって不安、と書いてありました、見出ししか見てませんが。私には何の不安もありませんが、これは珍しくそっちの記事掲載が早かった。)
 
 というわけで、今日はオタクの日。次回作にちょっと使うので。だけど、「ちょっと」なんで、こんなに説明しないし。カテゴリーも「基礎概念」かも。 

 まずは、教養問題。
 世の中、「イデオロギーの終焉」なる用語がありますが、それは運動者以外の言である事実と合わせればある種の同義反復に過ぎません。それは「私のまわりは春だから紅葉は終焉した」と言っているに過ぎない。常にイデオロギーの安定社会における役割は、体制イデオロギーたる役割、つまり対抗イデオロギーへの反感の基礎づけ以外にはない。もちろんバカではない論者は、「今は安定社会だ」と述べているだけなのですが、だからといって愚であることを避けられてはいない。安定社会でのイデオロギーの存在意義は、かの論者の言のような体制保持機能以外にはないのです。
 
 とまあここまでは社会科学徒なら誰でも言える。
 次。
 にもかかわらず、イデオロギーは永遠です。なぜか。支配階級の暴力も、対抗運動者の「価値意識」つまり「賞賛と優越」も、これを人々に伝える役割は、イデオロギーが持つからです。
 さらに、対抗的集合性に変化する行為共同性における事実認知も、イデオロギーが変化させるものなのです。
 
 これは知らなかったでしょう。

(その1)2態のイデオロギー概念

 イデオロギーは虚偽意識ではありますが、それは一つの姿です。イデオロギーは言語的にはただの事実認知と賞賛・優越でできているものであり、これは、主張者と、主張者の言を利害のない宙で聞く神である第三者と、にとっては虚偽意識なのです。それは本人の意識・無意識を問わず、他者を自分の意思に従わせるべく存在しており、それゆえに他人が乗れば気持ちがよくなるように作られており、事実の正否を問わない言であり、それゆえに多くは虚偽であり、それが虚偽であることを主張者も知らない場合もある、二重の虚偽です。
 他方、それはただの事実認知と賞賛・優越なのであり、これを受信する者にとっては、その正否を問わず、遠くの将来の目標と、近くに迫った行動の優越と賞賛をもたらすものです。この点だけから言えば、行為主体にとっては虚偽などではない、貴重な行為の将来の管理情報です。
 
(その2)受信者がすくい取るイデオロギー

 安定しているといって支配者がふんぞりかえった世の中はいつかひっくり返ります。つまりそれは、人民の価値意識が凶を示すときであり、それは人々が反逆行為に仲間の賞賛を感じ、仲間への優越を感じるときです。この賞賛と優越は地から泉のように湧き出るものではありません。細々とした火種が相互行為の中で燃え上がり、「燎原の火のごとく」世界をなめつくすものです。つまり、細々とした正当性とは個人のイデオロギーであり、これが燃え上がるのは個人が集合体になることであり、この各種集合体の利害が統合しようとするとき、世のは対抗「イデオロギーに溢れた世界」になるのです。 

 そして現実には、それに止まりません。この事実認知は、暴力も伝えるのです。

(その3)受信者に向かうイデオロギー

 すなわち、現実の生々しい暴力の認知に次いで、他者に暴力を伝えるものこそイデオロギーなのです。
 人は暴力について、事実上、この2通りの認知方法しか持たない。正確には理論上、噂や報道等の「単なる事実認知」があるのだですが、社会ではこれらの事実認知は肯定か否定の評価と共に、イデオロギーの一部として伝達されるのです。それが個人への働きかけではない、社会システムとしての暴力です。
 そうそう、これも教養次元の話ですが、イデオロギーは信念「体系」などではない。そんな高級なものではない。社会の中では常に断片化して伝播するのです。
 さらに、イデオロギーはただの「信念」でもありません。イデオロギーは、その十全な体としては、規制の観念体系であり、刀剣といった武器と同じものです。守れば許す。守らなければ殺す、これがイデオロギーです。
 行為者本人が心密かに持っている観念はイデオロギーではありません。心密かな観念は個人倫理に過ぎない。イデオロギーとは他人にこれを告げて認めさせ、彼の行為をそれに従わせようというものです。これを承認するならよし。承認しないなら、そこから先は、打ち殺す。もっともイデオローグの武力(動員できるニク体力)しだいですが。
 これを受け取る側にとっては、次の行動の事実認知を揺るがし、その話者の肉体的武力に迫られる、「武器」そのものだ、という点です。
 これが左翼の言う「イデオロギー闘争」というやつです。プロレス用語ではありません。
 イデオローグはバカではないからこの規制を意識的に、あるいはバカもいるから最低無意識に、使用します。たとえば人々が、ブルジョワジーの「自由」という言葉に恐れ入るのは、自由が好きだからではない。それまでの年長者からの従うべき情報である「自由」の権力的注入によるのです。もちろん、他国の「自由」であれば、その国の権力者の進める自由です。これを聞いて誤解するのは、実情を知らない子供と同然です。

(その4)受信者に内在し終えるイデオロギー

 対抗イデオロギーは、受信者の中で、それが伝える事実、それが伝える仲間との賞賛・優越、それに感ずる暴力の3通りの要素により、イデオロギーによる新しい集合性と、その集合性内における仲間意識=行為共同性の観念を生まれさせます。階級の転生です。
 
  
 まとめます。
 イデオロギーの使用は
 1 事実認知において、体制イデオロギーは体制の秩序を強制し
 2 対抗イデオロギーは人々に選択肢を提出し
 2 その選択肢の選択において一致した人々について、イデオロギーが提出した集合性への結集度を高め
 3 その対人間的コミュニケーションにおいて、殴り合いと同じ効果を出し、(ただし、ケンカと同様、負けても悔しいだけで実は負けない)
 4 その賞賛・優越において、イデオロギーが提出した集合性への凝集力を高める。
      これらがあるから、虚偽意識を言いたいエンゲルスも説明に苦労するんだよね。
 
 というわけでお分かりと思いますが、「イデオロギーの終焉」とは、対抗運動が存在しないという宣言の言い換えです。何一つ人間の社会認識を進めるものではありません。それを知って使う奴は人民に「流行らないから止めろや」と対抗させないようにするブルジョワジーの手先であり、それを知らないで使う奴は、ただの馬鹿です。
 
   、、、こんなこととうてい薄い書物で説明してらんない。最後(その4)手抜いたのは「こっから先がホントのお話」というわけです。
 
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諸雑件

2019-10-19 11:53:35 | 断片
 こんにちは。ようやく冷え込んできて。さすがに熱を通さない石の当家も、室内温度がどんどん下がっています。
 風邪は大丈夫ですか? わたしは鼻かぜだかアレルギーだかわからない。どっちにせよ魔法のエスタックイブで症状が消えるので。ただ胃が重いので1日1回とはいえ何日も飲めないのでしんどい。
 ところでみなさんはお気に入りの薬なんか持っちゃいけませんぜ。何が入ってるか分かりません。毒は蓄積されますよ。わたしは極端に少なくしてるし。
 PL(風邪薬)とかもお気に入り。安いし、ベスト。最近ネット噂のボディーブローが効いてきて医者が出さなくなって残念(医者の薬の選択なんかそんなものでしょ)(薬局のPLは中身が少ないうえ、高い。なんであんな成分が。売れないからだろうけど)。医者の今の風邪薬は(解熱剤以外)どれも効かない。
 ポンタール(抗炎剤)は人の噂も30年で、もう禊が入ったようでまた売ってますね。あれも気分のいい薬です、わたしゃ肝臓がいいので。(ただし、からだの悪い人はダメ、って何の薬か)
 
 最近気づいたところによると、断捨離って50代でするんだって? そういえば知ってる人はみんなそうですが、だんだん脳内の情報処理ができなくなってくるんでしょうね。バカにしてませんが。
 でも、若人に言ってもしょうがないですが、そんなものほっといたっていつかできますから時間の無駄ですよ。新しいモノを買わなきゃ、以前のモノは壊れるし虫が食うし陽に焼けるし。使えないものを捨ててくだけで十分。そのうち引越しや家の処分とかで置いとけなくなって捨てざるをえなくなるんだから。置いとける間はせいぜい愛でて、ボケそうになったら要るものも含めて捨てればいい。「要るものも」ってとこが大事ね。どうせ施設へ入る、あるいは押し込められるんだから。持ち物は一部屋分に。それでやることがなくなってボケが加速するのは困るけど。
 
 さて、ニュース。
 
 水害も少し落ち着いて、「○○浸水は人災ではないか」なんて論調が出てきましたね。一般論でいえば、とんでもない。第三者の災害は天災か、土地の売主の責任かのどちらかです。「行政の責任」なんて。まあなんと幸せな国民で。
 みんな土地を売る人間は水害や家の傾斜なんて知ってて売るんだからね、こいつが悪い。建築屋は商売だから頼まれれば建てるし、不動産屋もそれが商売だから売るし、何も悪くない。行政は突然できた建造物に苦虫を噛み潰すだけ。それでお前のせいだといわれるのはえらい迷惑な話だ。ああ、責任者がも一人いた、建築基準法に災害予測を盛らなかった国会議員。
 当人の「災害」は自分のせいだね。新幹線基地はああなるのはみんな知ってたってそうだから、ただの経営判断だね、長野市「赤沼」だと。災害じゃなくて新規商品の失敗。予算をケチればそうなるし。公共施設の被害も災害じゃなくて予算をケチるから。経営責任はあるやね。
 というわけで、災害は天災だから行政が処理をする。なんでも他人のせいにしてると自分がみじめになるぞ。

 次。
 竹田恒泰ってこんなきちがいなんだ。B系サイトに載ってた。 ツイッター 10月10日
「昭和天皇は私の親戚である。その昭和天皇を侮蔑し名誉を毀損する展示に対して私は深く傷ついた。皇族方の多くも同じように傷ついたに違いない。一般人なら間違いなく遺族が訴訟する。皇室が起訴しないことを良いことにあの展示をしたのだろう。津田大介氏は卑怯の極み。彼は加害者である。」だと。きちんと反論をしている下記。
木根の化身@チャイ佐軍団 @tinderfighter 10月11日
「俺のじい様、あんたの親戚のせいでひどい目あったんだけど、あんた責任とれんの?」

 次。
「『駅員希望なら子会社に行け』 全駅の丸ごと外注化狙うJR」「外注化は出改札窓口などの一部業務から始まったが、今は丸ごと委託された駅が増えている。、、、高崎線、宇都宮線、常磐線、内房線、外房線、総武本線でも、快速停車駅や無人駅、信号扱いのある駅を除き、ほとんどの駅が丸ごと外注化されている。」(前進)
 ええー、知らない。こういうの誰も言わないもんかねえ、「解放」で言わないのはそれとして、前進でも初めてみたし。ほんと、全社会、低賃金素人化だね。想定どおりとはいえ。
 ものごと、メディアに載らないと何も分からないしね。うちのほうでもたくさん下水系浸水が起きてるし。今日の朝日によると関東・東北の東側には(浸水じゃなくて)河川の氾濫箇所が百箇所以上もあるし。へえ、知らないし。 
 
 思うに、そのうち全国紙がなくなる状況なら、日本も様変わりするだろうね。他人の水害への同情も減って。アメリカ化、中国化が進むね。
 今はみんなでスクラム組んで生きてきた高齢者・中高年が大きい顔してるけど、端から認知症になるし、新聞は売れないし、これじゃあ、全国紙の行く末なんか日本の将来と一緒だね。
 スクラムって、昭和では右も左も資本家も労働者も、みんな一緒に「まとまって」生きてきたから、ブルジョワジーの手先が「自己責任だ」などといおうと、結局行政のせいにしてまとめちゃうけどね、これからは弱肉強食の自己責任だよ。なお、ここでは「手先」ね。安倍や今のブルジョワジーはスクラム組んで生きてきた人間たちだから、言い訳にしても実行しない。ほんと、昭和は精神的にはいい時代でした。
 べつに中年以下が冷たいというわけでなく、他人を隣の人間とは思わなくなる、と。米中でも知った人間は親身に助けるし。そのうえ何も知らなきゃゲームでもしてるしかないって。
 
 批判的ついでに、本の悪口も言っちゃおう。
 浅川芳裕(このとき36歳)「日本は世界5位の農業大国-大嘘だらけの食料自給率」。
何がうそだというのかと思えば、食料自給率41%はカロリーベースだからだ、という。そのとおりじゃないか、と思えば、いや「生産額ベースなら66%だ」って。
 こういう飢えたことのない子供たちは何を言い出すか分からない。いったい、カネの儲かる高級野菜で飢えが収まるのか? プンタレッラやフィノッキオを食べて、人間が1週間でも生きていけるのか?
 何のための食料自給率概念だと思っているんだろう。国家有事のための統計だぞ。これが半分だったら経済封鎖時、残りの5千万人は飢え死にするんだぞ。大嘘だとか、言いがかりもいいところだ。非常時には海外からの豚の飼料だって入らないんだぞ。まったく、論議がかすってもしない。1920年代米自給率9割だって大問題で戦争の原因だって論さえあるのに、何が儲かる野菜だ。
 しかも一回田んぼを壊したらそこには田んぼはもう二度と復活しないんだぞ。責任を持つ担当役所が必死になるのが当然だ。
 こんな話を聞いて続々とネットウヨみたいなやつらが褒め称えるんだから、まことに昭和元禄花盛り。いいよね、おなかいっぱいで。おなかが膨れるとヒマで人の悪口がいいたくなるのか。
 などと農水省も国家有事論も擁護するいわれはないが、飢えた人間への想像力もない連中が「大嘘」だとかいう偉そうな物言いが気に入らない。著者いわく「カロリーベースの自給率とは、自由主義・市場経済において過去のデータにすぎず、いかなる政策の指標にもなりえない」そうだ。北朝鮮はたしかに自由主義じゃないから、トウモロコシの増産政策がいるんだね。能天気もここまで来ると「幸せだね」というしかない。「自給率なんてどうでもいい、非常時の食糧確保のあてならある」というのならそれをきちんと論じろ。農業規制がいやなら、官僚批判のウケ狙いはやめて、正々堂々と「大ばか者たちの農業規制」とかして論じればいい。
 時間の無駄だった。

 明日日曜だね。東京西部近辺で高尾山行く人は、ケーブル清滝駅の左側の道100メートルほど覗いてみたら? 道の脇にウリ坊がいるかも。この前行ったら居てうろちょろしてたよ。6号路がずっと閉鎖されてたから(今日も閉鎖)人が居なくて安心なのかね。もちろん、ママには十分お気をつけください。

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虚無に対する主体性(続々)

2019-10-14 15:02:24 | 歴史への視角
 (前回と前々回の続きです) 

 ここまで、宗教もダメ、思想もダメ、だまされるんじゃないよ、と、いかにも述べてきた風です。それでは取り残されて労働者人民は何をしたらいいのか、社会学の勉強でもしろというのか。
 そうではありません。
 私にはネットウヨのリベラル批判からは彼らの歯軋りが聞こえます。「ちくしょう。ちくしょう」と言っている。何をそんなに悔しがっているのか。「誰か助けてくれよお」と確かに聞こえる。わたしは長生きしてるからね。
 述べたように思想が迫るものは「思想を語る彼ら」からの賞賛と優越です。それでよければ私の関知するところではない。彼らの中で仲間として賞賛と優越を得てゆけばよい。
 しかし、それはただで手に入るものではない。その代償は、彼らの気に入る行動です。
 何度も言うようだが、それでよければそれでいいのです。とくに子供たちはそれでいいのでしょう。
 しかし、思春期を過ぎた人間は自己を持ってしまっているものです。年寄りやブルジョワジーの手先である口先男たちに対して、それゆえの「ちくしょう」の言外の罵声のはずです。
 
 「ちくしょう」というこの疎外を満たす満足は、大人になってしまえば、自己から出て行く行動の成就によるもの以外にはない。 
 もちろん、超自我の持ち主のような少数派はどうでもいい。初めから勝手に行動をしているのですから、本人の苦労度のいかんを問わず、一般的に論議するのはムダです。(私のことですが。) 何それの行為をしたからといって心の中の「超自我」が賞賛してくれることもない普通の人間にとって、自己の自由を保障する賞賛と優越は、自己が新たに社会関係を結ぶ平等な、行為共同性を同じくする、そんな人々との間の賞賛と優越しかない。
 すなわち、自分の生理的状況を改善する事実認知と、それとフィットする限りでの新しい人々との共感です。決まりきった修辞で言えば、新しい明日の認知です。
 残念ながら人との認知詳細は、次の瞬間に引き継ぐ。それまで裏切り、裏切られ続けた人々との記憶は、決して行為主体の新しい明日を導きません。現実には導こうとも、人はその認知を拒否します。ですから、相変わらず正義漢面した人間の言など、はなから聞く耳は持たない。これは正義漢の方々には理解不能でしょうが、それは正義漢の方々が社会学を勉強していないせいです。本来、高校で習うことなのですが、優秀な社会学徒は高校教師にならないのでしょうがない。
 それはともかく、「どうせ人間たちなどこんなもんだ」と思ってその日暮らしをしてきた疎外された人々は、新しい未来と新しい人々の間で自分の新しい未来を形作る。この過程の提示が「論理」というものです。「存在するものは合理的だ」などと知ったかぶりをしている人間は、この新しい論理の恐ろしさを知ることはない。そもそも人間は全てです。正義漢だけが理想の人間であったり歴史的主体であったりするものではない。一人の人間は、彼個人の主体において、社会の歴史のトータルなのです。ただ、その前提さえ備わったなら。あるいは、誰かが備えてくれたのなら。
 
 じゃあ、その未来とは何か。その生理的状況の改善とは何か。そこで仲間となる人々とは何か。
 それはとりあえず、論理そのものの問題ではありません。そこから先は私の口を出すところではありません。彼らは私とははなはだしく違う。そこから先は彼ら自身の思うようにすればいい。あるいは彼らの中の先覚者が、率先して広めればよい。
 このように、人間は誰もがトータルです。私は彼らは嫌いですが、しかし、彼らは友達ではないにせよ、「仲間」なのです。マルキストを仲間というのなら、ネット右翼も当然仲間なのです。
 願わくば、歴史の仲間たちが虚無に面してせっかく生を享けた一回限りのその自己を失わぬよう。



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思想に対する主体性(続)

2019-10-14 14:53:19 | 歴史への視角
 こんにちは。台風ひどかった。近くでも川の水が溢れたり大雨が低地に溜まったりで浸水。何十年か前の災害状況が再現されています。昔起こったことはまたいつか起こるんだね。危険な堤防。危険な埋立地。昭和まで利用されないで残っていた土地は、戦後にどんな立派なビルが建とうとしゃれた家が建とうと危ない土地。若人は、いくら安くても関わっちゃあいけないな。ニュースの福祉施設の陰には新築住宅も多いと思うぞ。古くから居る周りの人は教えてくれない、というか教えられないからね。自分で情報処理しないと。
 昔、近くの多摩川で堤防の端の家々が一部堤防の不備で流されたことがあって、大学の講義で学校教育論を受けたとき、担当の教師が新築の家を流された当事者だった。自分でルポ記事も出したみたい。と思ったらネットに名前も出てた。横山十四男氏。本職は日本史なんだね。
 多摩川の本堤防も、高さぎりぎりでよく持ちこたえているのが不思議。経験値なのかねえ、これからもっと高くしろっていったら膨大な事業だけれど。山の一つや二つ消えそう。
 まあひどいのだけれど、千葉の安房地方の直撃じゃないというのがせめても。

 それにしても日本の一年は災害ばかり。このままでは本題に行き着けないので、目先を変えなきゃ。今日は体育の日なんだよ、知ってた? これはどうも国家の秘密みたいで、朝日新聞をくまなく見たけれど、第1面の日付欄に一箇所、12ポイント活字で書いてあるだけだった。
 というわけで、ラグビー。ニュース映像だけど、(昨日に限って)かっこいいトライだったですね。ずうっと昔見たラグビーの動作紹介試合みたい。あれ(複数)は自慢できる。ファンの方は地味にお祝いしてやってください。
 
 と日常に戻って、予告の続き。
 「主体性」の問題とは本質的には前回記載のようなものですが、現実ではそれは少し彩られる。
 
 主体的に社会に立ち向かおうとする行為主体は、その手前で立ち止まる。「そんなことやったって無理だ」「何で俺がそんな無駄なことを」。
 これが第2の「主体性問題であり、かつまた、現実には、多くの人間が自己の意思を自分で見つめられるようになった時代に、哲学者・思想家が第1に直面した(であろう)焦燥の状況です。つまり「社会の中で」主体となる姿勢です。
 人は自分さえ生きている限り社会のことを考える必要はない、とはいえます。これが本来の主体、即時的な主体です。にもかかわらず、人は社会の中で、他者を考慮に入れた際、その社会に抗することが求められる、ことが必ずある。これが第2の主体性です。
 正しく言えば社会は、人間に対し、その人間の服従とその人間の決起の2通りを別々に求めてくる。社会は他の人間を介してその要求を行う。支配者の小頭は服従を、運動活動者は決起を。
 これへの対応は、服従を取ろうが決起をとろうが行為主体にとっては主体性であることに変わりはない。文句をいう奴には「勝手なことをいうな。俺が選んだのだ」というものです。
 にもかかわらず、服従はさておき、社会に抗する決起は、これを行為主体が行わなければ社会はどうにもならない、常に要求があるにもかかわらず、常に誰も行わない、究極の対応です。これを社会は「主体性」と呼びます。いわば、社会からの呼びかけです。これは呼びかけであることをみれば分かるように、社会の賞賛と優越を含んだ価値行為です。
 これは「自主的」に似ていますが「自主」に含まれる率先性は期待されていません。ただ、「お願いだからやってくれよ。お前がやらないとどうにもならないんだよ」という問いかけへの対応の要請です。
 他方、服従者は社会にとって主体ではない。自分だけの行為をしても、社会にとっての行為しない主体は石ころと同じです、もちろん支配者も直接の当事者たる支配の小頭も、抵抗しない人間は石ころです。そのままほっておけばよい。もっともこの石ころは自分たちのために果実を生成してくれるわけですが。
 
 この事情が社会科学に、賞賛と優越を伴ってイデオロギーとして侵入するわけです。
 科学にとってその「するための意義」は行為主体にとっての意義です。したがって行為主体が自分のためだけに生きていてもそれは科学にとって差し支えない。科学は彼のために彼の役に立つ立言を提供する。
 この普遍的な事情に、しかし、社会は人間を介して、それ以上のことを他人に要求する。社会科学は、社会のための行為をすれば代わりに賞賛と優越を与えよう、と行為促進のイデオロギーを供給するというわけです。イデオロギーを追加すること自体が悪いわけではないが、その申出自体は科学ではありません。追加はいいが、隠して混ぜてはいけない。たとえば主体性論争とは、戦争推進哲学者からも推進される非科学だ、ということをまず認識しなければならない。が、その認識は行為論的社会学以外にはできない。さて、認識した上で、この要求をほっておくかどうかは、逆に科学の名において拒否できる問題ではなく、行為主体が逃れることのできない対応だ、というわけです。
 
 で、まだ続くから不思議。
 たたみこむように、次は、虚無に対する主体性(続々)。
 
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宗教に対する主体性(正)

2019-10-12 12:59:41 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、右(東)からの風が山地にぶつかってすごい雨。これで風まで来るのは願い下げですね。「願い」って、安房地方を通過していいかといわれるとそれもあんまりで。
 困ったもんです。
 まあ、今日は買い物はありません。
 
 でも、この雨でアレルギー元のカナムグラの花粉も全滅かもしれない、こちらは願いたいものです。花粉ひどくて。
 春にもいいましたが、ぜんぜん効かないアレグラ、まだ10錠以上残っているのでよせばいいのに飲んでみました。が、完璧に効かない。悪化する。ティッシュの山。なんなんだろうねえ。
 それにひきかえエスタックイブは神のよう。1回で1日もつ。ただ、胃が重くなるのね。
 
 さて、ニュース。
 ノーベル化学賞、おめでとうございます。どうもお歳が誤記ではないか、と思いましたが、企業研究者で、若いときの他の幾つもの研究は失敗のし続けで大変苦労したそうな。苦労は髪の色に反映するのね。対して、気を使うと髪の量に反映します。企業研究は命を縮めるということで、大変です。褒めてないのでお名前は略。

 柳家小三治、一昨日の朝日新聞。
 落語を磨き上げるとは「自分や人の生き方に、何をどう感じて生きていくことかってこと」若いもんは「誰かが評価してくれるだろうって期待してやっている。そんなことより自分が何をしたいのかが大事だぞ」とご発言。
 そう思うぞ。小三治だもんな。もう落語家も少なくなってしまった。笑わし屋ばかり。
 
 では、早々に本日のお役立ち情報。本題がつまらないから全体を短く切り上げようと。
 某左翼もののブログをみたら、不用品処分のお役立ち情報が出てました。以下、彼の言。
 「断捨離で埼玉県のG社に不用品処分を依頼 電話で荷物の内容も伝え「軽トラック積み放題」で1万5千円の定額のはずが、当日現場に来てから 3万4千円で冷蔵庫など3点しか引き取れないという。定額じゃないとしても相場の倍。ふざけんな!」「G社に電話 説明を求めたら、会社としての説明は一切なく、『で?どうして欲しいの』と鼻で笑った。」「運送業経験者の友人が、不用品引き取り業者はネット情報は全く信用できない カオスの世界とのこと。比較サイト、口コミサイトも信用できない。電話帳で選んだ方がマシらしい。」
 そうなんだよね、みなさまお気をつけください。左翼だからそれなりに応答できても、女性一人暮らしとかだと悔し涙で支払っちゃうよね。
 そこで、どうしたらよいか。
 1 引越し等の機会であれば、不動産屋に紹介をお願いする。
 2 本気の断捨離で山のように出たら、「仏壇も引き受け、ちゃんと仏壇供養をします」と明言しているところ。これは私の世間知で、「一事が万事」の応用です。
 まあどちらも値段はそれなりでしょうが、儲けようと思えばリスクも出ます。
 
 というわけで、普通の方はまた来週。今週中の次回はつまらないのの続き。
 本題。
  前々回、「労働者の最後に残った自由は感受性」と述べましたところ、絶対理解されないかと思いますので、ちょっと真意を述べておこうかと。
 
 まずは、思想を述べる者なんてなあ、いい加減なものです。左翼思想家とか牧師とか僧侶のことです。やれ主体的に歴史に身を投じろだの、やれあれしちゃいけない、これしちゃいけない、我の教えに背けばその身は滅びるであろうとか。てめえらは安全な場所に居て言いたい放題。かたや労働者人民は「悪」に手を染めない限り生きてはいけない。それでいいといっているわけではなくて、人間のトータルの世界が来るまでは、労働者人民は決して満足できるはずもないのだ、といっております。本当の神仏の民や、プロレタリアートの魂にとって、人生の真理は、言いたい放題の自己満足にではなく、悪に手を染めざるを得ないそのくやしさに、あるのです。
 個人の思考上で作り上げた偉さだけを述べるなら、寺院や教会やセクトのアジトでやっていればいい。自分でカネを稼いで明日を生きなければならない世界の人間は、お布施や寄付金やカンパでのうのうと暮らしている連中のいうことを聞く必要など、かけらもありはしないのです。
 
 人間の主体性とは、すなわちある個人が生を享けて、その生を自分のものとして死んでいく、その意義とは、不労所得者がもてはやす自称善意などには関わらないことは、わざわざ親鸞を持ち出すまでもない。毎日、悪を行わなければならない人間が、ある一瞬に、しかし、溜めに溜めた正義を行うことで決まるのです。もちろん、世の中にはその正義を行うその一瞬前に生を終えることもある。それがどうだというのか。人間の主体性は、そっくりかえった坊主や牧師や思想家の言にあるのではなく、今日は腰を曲げ頭を下げながらも「明日こそ正義を行うんだ」と決意した人間の心の中にあるのです。
 人間にとって、自分の感ずる「意義」とは、何の規定性もないゼロの意義などではない。人は感受性によって将来を見据え、それを実現しようとする自己と、その将来の実現を阻害する「社会」とを認知する。人とは感受性なのです。
 感受性といっても何の規定性もないわけではない。社会の中の感受性とは、人にどうしてやると喜ばれるか、あるいは人にどうすれば自己の威厳が確保できるか、そうした人への賞賛と優越なのです。
 
 すなわち人間は、他人の中で生きることなくして人ではない。
 端的にいえば鉱山奴隷は、ひたすら自己の力を振り絞りこき使われてくたくたのまま明日を迎え、そうしてただ単に堅いパンをかじり濁った水を飲んで若い命を終える。これを人間とよんでいいわけがない。どんな良心的な同情心溢れる宗教家であろうと、ここに主体性があるといってはならない。
 しかし、鉱山奴隷は疑いもなく人間です。
 人間には一瞬の正気の機会がある。岩石を削り運び、いくら死ぬほどに疲れても、翌日の夜明けには、「俺はまた働くのか。ここには家族も友もいないのに」と考え、絶望する。この感受性こそが主体性です。そのときに「奴隷主をぶっ殺してやる」と思わなくとも、その苦渋の感受性の一瞬こそが人なのです。彼は今日死ぬであろうが、そのとき彼は神や仏の前で胸を張って、「俺は死ぬほど生きてきた」と言えるのです。もちろん疎外された支配者が作った神や仏は、自分が無視された人間の事態を認めはしないでしょうが、現実の神や仏は彼を天国や極楽に連れたもうのです。なぜか? もちろん神仏は自分だけの審判や往生のことしか考えない牧師や僧侶よりも偉いからです。神や仏が作ったのは個人ではない。被造物は人間総体であり、自分だけの救いや成仏を考える者の救済は、自己矛盾なのです。
 
 という人間の事情は、行為論的社会学にとって、理論の原点です。
 人間は自己の意思があり、行為は意思の通りに行われる。しかし、その意思どおりに動けばそれで自己の将来を実現できるかといえばそうではない。なぜか? 人間の身体的確保や価値の確保は、社会の論理に従って行われるからです。行為の社会学とは、個人と社会の二元論、ただし規定性でつながった二元論の形態を採る以外には存在できない。
 この社会の拘束性の理論的認識こそ、トータルとしての救いの論理の認識なのです。

 で、「思想に対する主体性(続)」もありまして。「1」と「2」なのに題が変わるブログ。ま、どうせつまらないので後ほど。
 それにしても雨が横殴りになってきて、困った。



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よもやま話

2019-10-05 15:57:34 | 断片
 こんにちは。お元気? 暑くて死ぬね。記述用パソコンラック、窓際だし。
 で、10月だというのに二子玉川というところでは花火です。秋だよ、秋。冗談じゃあねえよ、風邪引いちまうよ、といつもならいえるのに、気温30度じゃあけなせない。残念。
 
 本日は頭が難しいテーマにとらわれてますので、こちらはついでの四方山話。
 
 ニュース話題は消費税というところでしょうが、実は私は食料品しか買わなくて。据え置き8%。10%はせいぜい、プリンターのインクかな。電車にもあまり乗らないし。酒は1か月分あるし。というわけで、正直他人事。レジのバイトの人はやってられねえよな、みたいな。
 
 それより昨日の安倍の国会演説、みんな反応鈍いねえ。「人間どんな姿になろうとも、人生をエンジョイ出来る」。れいわの議員のことだそうだが、なんだよ「どんな姿」って。失礼を言うな! ドン! と志位が机を叩いてヤジる、かと思ったら、しないし、ネット赤旗も反応ないし。こういうのに反応できないんじゃ、高校必修国語に文学は必要かもね。
  
 「会津伝統のオタネニンジン(高麗人参)を使って会津美里振興公社が商品化したレトルトカレー「ピンピンころりカレー」が十日から二十二日まで東京・下北沢の「下北沢カレーフェスティバル」に初登場する。」(福島民報)
 だって。カレーはいいんだけど、会津にも美里町があるのか。2004、5年の町村大合併で、町村が三つ集まって一つでも郷の字が付いてるとみんな美里や美郷になっちゃって、なんか恥ずかしい。こうやって地名を頭につければいいのに。仙北美郷町とか 益城美里町とか。会津ほどかっこよくない、と本人たちが思うようじゃあしょうがないが。もちろん仙南村とか砥用町のほうがいいけど。
 ところで高麗人参って知ってる? うちのじじいが飲んでたよ。朝鮮人参。苦いんだ、これが。でも昔で87歳まで生きたから効いたのかもね。
 カレーにはターメリック(うこん)も入ってるだろうから、肝臓にもいいかも。
 
 つぎ、福井の原発の逆賄賂。
 「原子力規制委員長「憤り感じた」 関電に改善策を確認へ」(朝日)、だって。若人の皆さんは「その通り」と思うでしょうが、どっこい、世のおじさん方の多くは関電に同情してると思うぞ。こんな助役のような糞じじい、どこにでもいて困りきってしまうんだよね。早く死ねばいいのに90歳まで生きやがる。規制委員長は学者だから何もわかりゃあしないけどね.
 もっとも「発電所立地当時の書類は、今でも自宅に残っており、これを世間に明らかにしたら、大変なことになる」(窪田順生氏記事)と脅されたそうだから、話は半分ね。
 
 つぎ、「英語民間試験、半数活用せず 萩生田氏「大学の声聞く」」(朝日)
 当たり前だよ、と思ったら返す言葉で
 「国立大は約94%、公立大は約78%が活用する。」だとか。ばかやろう。(英語資格受験の)カネはない人間も国公立に入らせるのが、国家の政策だろうが。
 ほんと、官僚やろうどもが。

 と感想ばかり。本日の役に立つブログは本の紹介。
 藤井一至「土」。土の本。光文社新書。
 良い本として2年に1冊くらいご紹介してますかね。これも2年ぶりくらいに優れた本。ちょっと前に何か褒めた? いや、こっちのほうがいい。世界にどんな土壌があってどんな特色があって、結局食べ物はなんとか増産できないか、という良心的な人の本。わたしゃモラハラなので、良心的というだけで基礎点をクリアしますが、こんな内容の本は本屋には他にないよ。カラーだし。
 残念なのは新書の厚さしかないから、1土壌あたりの記述が少ないこと。もっと地元の農業について知らせてくれないと、内容が左から右に消えていってしまう。百科事典じゃあ記憶に止まらない。
 ちなみに、スコットランドの水はウイスキーと同じ色をしてるそうです。赤茶色。知ってた? それって(泥炭土内の)コケのポリフェノールなんだって。ここまでは知らないでしょう。興味ない? しょか。
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