こんにちは、ってもう夕方。東京地方、梅雨の中休み。あ、まだ梅雨宣言なし? それはそれは。(ただのいやみ)
自然は緑一色。熱くはなくとも夏の風。
みなさんお元気? 台風を思えば梅雨もまし、真夏を思えば多少蒸してもまだまだまし。
と思うのも幸せとは言えませんが。
少し世間話を。
古くなりましたが、1週間前は「「脱走」ニシキヘビ、アパート屋根裏で見つかる…」でよかったね。ヘビって自分ちが好きなんだよね。なんとも可哀そうで。
ともかく生き物の売買は禁止だよ。
これも1週間前、「黒羽茶の産地である栃木県大田原市須賀川の「須藤製茶工場」で23日、一番茶の茶摘みが始まった。緑鮮やかな茶畑で、早朝から手摘み作業が行われた。」(下野新聞)
なんて話は季節の話題じゃなくて。4週間前の八十八夜にテレビニュースで、機械で新芽をぶわああっとバリカン方式で切り取るニュースやってて。あ、黒羽茶なんつうのはおいらにはかかわりのない商品だな、と思って。うちはバリカン茶。
こんなの100g千円(の半額セール)以下で売れるはずないし。そりゃ存在しないも同然。
もう夏だから、わたしゃおーいお茶ティーバックで我慢するし。
「「病床削減法案」を可決」(赤旗)成立だそうで。
何を考えているのだか。
年寄りがいると、カネがあろうがなかろうが、看護師さん付きのベッドがなけりゃ家族はどうにもならないんだよ。
ということがコロナで若い人びとに多少はわかってもらえて、それはいいことだね。
さて、連回ですがふつうのお客様には失礼、かつ本日は将棋名人戦最終局なので、文章サイズをスリムに。abemaで見てて勝ちそうで勝たないのは時間の無駄で困ります。
前回の「探してた注」、観念対象が知覚対象に変わる件、銀林浩先生の論を使うことにしました。数学教育者。
ジャンルは抽象的な対象ならなんだっていいの。何せ、大昔自分で見つけたことだし。でも自分で見つけても先に人がしゃべってると盗作だといわれるからね。こんなささいなアイデアで盗作だとか言われても気分が悪いだけ。だれでも他人に押し付けとけばいい。だいたい誰かが考えそうなことってわかるからね。
それで「注」とは別件だけど、銀林先生。自我意識が発達すると数学がわからなくなるんだって。
そうだろ、高校数学のわけわかんない解法公式って許せないよね。
中でも漸化式系。解けるのは構わないよ、おめでとう。しかし、どうやってそんな解法が導かれたんだね。あれをすんなり受け入れて数学を解いてく奴なんかに科学の創造などできるものか。納得できる代数学なんて因数分解までさ。で、結果入試数学5点。
で、今日のコンパクトなテーマは、思想はすべて、原イデオロギーではなく、その論の行為主体の解釈による、という趣旨で注を探した件。
どっかないか、と思ったら時枝誠記が大きな声でいってた。
あれれ。過去全然気づいてない。相当驚きました。文法論議だとずっと思ってたから。
時枝が言ったと注を付けておくとみんな恐れ入るから、書いてるほうは楽なんだよね。
その一方、いまどき誰も時枝なんかに言及しないから悪口にいい権威対象なんだろね、時枝への言及本など読む気にならん。何をいっているんだか。悪く言ってただの「売れんかな」。
で、結論、思想の解釈主体が被伝達者だから、主体は行為構成主体となるんだよね。そこが具体的行為者の次元というものであり、社会構成主義者の至らない地点なの。
どこが違うかというと、この議論の中では個人は個人の要因を全部受け持つから、社会は社会システムとして安心して人間への規定因を保持できる。一方での個人は何でもできる具体的行為者の姿を崩すことがない。
この扱いにより、個人と社会の2項対立の構図を崩さないまま個人行為者を確立させうる、ということです。社会が個人の相互行為の結果だなどという視点からは資本主義社会に行きつくはずもない。行きつかなければ社会科学などできはしない、絶対に。ということです。
よくポスト・モダンの諸君が2項図式の悪口を言っていますが、その一言で社会科学の定立、つまり、諸行為の説明ではなく、因果連関立言を定立させるという使命のやる気のなさがわかる、と思うべきです。
自然は緑一色。熱くはなくとも夏の風。
みなさんお元気? 台風を思えば梅雨もまし、真夏を思えば多少蒸してもまだまだまし。
と思うのも幸せとは言えませんが。
少し世間話を。
古くなりましたが、1週間前は「「脱走」ニシキヘビ、アパート屋根裏で見つかる…」でよかったね。ヘビって自分ちが好きなんだよね。なんとも可哀そうで。
ともかく生き物の売買は禁止だよ。
これも1週間前、「黒羽茶の産地である栃木県大田原市須賀川の「須藤製茶工場」で23日、一番茶の茶摘みが始まった。緑鮮やかな茶畑で、早朝から手摘み作業が行われた。」(下野新聞)
なんて話は季節の話題じゃなくて。4週間前の八十八夜にテレビニュースで、機械で新芽をぶわああっとバリカン方式で切り取るニュースやってて。あ、黒羽茶なんつうのはおいらにはかかわりのない商品だな、と思って。うちはバリカン茶。
こんなの100g千円(の半額セール)以下で売れるはずないし。そりゃ存在しないも同然。
もう夏だから、わたしゃおーいお茶ティーバックで我慢するし。
「「病床削減法案」を可決」(赤旗)成立だそうで。
何を考えているのだか。
年寄りがいると、カネがあろうがなかろうが、看護師さん付きのベッドがなけりゃ家族はどうにもならないんだよ。
ということがコロナで若い人びとに多少はわかってもらえて、それはいいことだね。
さて、連回ですがふつうのお客様には失礼、かつ本日は将棋名人戦最終局なので、文章サイズをスリムに。abemaで見てて勝ちそうで勝たないのは時間の無駄で困ります。
前回の「探してた注」、観念対象が知覚対象に変わる件、銀林浩先生の論を使うことにしました。数学教育者。
ジャンルは抽象的な対象ならなんだっていいの。何せ、大昔自分で見つけたことだし。でも自分で見つけても先に人がしゃべってると盗作だといわれるからね。こんなささいなアイデアで盗作だとか言われても気分が悪いだけ。だれでも他人に押し付けとけばいい。だいたい誰かが考えそうなことってわかるからね。
それで「注」とは別件だけど、銀林先生。自我意識が発達すると数学がわからなくなるんだって。
そうだろ、高校数学のわけわかんない解法公式って許せないよね。
中でも漸化式系。解けるのは構わないよ、おめでとう。しかし、どうやってそんな解法が導かれたんだね。あれをすんなり受け入れて数学を解いてく奴なんかに科学の創造などできるものか。納得できる代数学なんて因数分解までさ。で、結果入試数学5点。
で、今日のコンパクトなテーマは、思想はすべて、原イデオロギーではなく、その論の行為主体の解釈による、という趣旨で注を探した件。
どっかないか、と思ったら時枝誠記が大きな声でいってた。
あれれ。過去全然気づいてない。相当驚きました。文法論議だとずっと思ってたから。
時枝が言ったと注を付けておくとみんな恐れ入るから、書いてるほうは楽なんだよね。
その一方、いまどき誰も時枝なんかに言及しないから悪口にいい権威対象なんだろね、時枝への言及本など読む気にならん。何をいっているんだか。悪く言ってただの「売れんかな」。
で、結論、思想の解釈主体が被伝達者だから、主体は行為構成主体となるんだよね。そこが具体的行為者の次元というものであり、社会構成主義者の至らない地点なの。
どこが違うかというと、この議論の中では個人は個人の要因を全部受け持つから、社会は社会システムとして安心して人間への規定因を保持できる。一方での個人は何でもできる具体的行為者の姿を崩すことがない。
この扱いにより、個人と社会の2項対立の構図を崩さないまま個人行為者を確立させうる、ということです。社会が個人の相互行為の結果だなどという視点からは資本主義社会に行きつくはずもない。行きつかなければ社会科学などできはしない、絶対に。ということです。
よくポスト・モダンの諸君が2項図式の悪口を言っていますが、その一言で社会科学の定立、つまり、諸行為の説明ではなく、因果連関立言を定立させるという使命のやる気のなさがわかる、と思うべきです。