リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

具体的次元での2項対立の残し方

2021-05-29 18:06:58 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、ってもう夕方。東京地方、梅雨の中休み。あ、まだ梅雨宣言なし? それはそれは。(ただのいやみ)
 自然は緑一色。熱くはなくとも夏の風。
 みなさんお元気? 台風を思えば梅雨もまし、真夏を思えば多少蒸してもまだまだまし。
 と思うのも幸せとは言えませんが。 

 少し世間話を。
 古くなりましたが、1週間前は「「脱走」ニシキヘビ、アパート屋根裏で見つかる…」でよかったね。ヘビって自分ちが好きなんだよね。なんとも可哀そうで。
 ともかく生き物の売買は禁止だよ。
 
 これも1週間前、「黒羽茶の産地である栃木県大田原市須賀川の「須藤製茶工場」で23日、一番茶の茶摘みが始まった。緑鮮やかな茶畑で、早朝から手摘み作業が行われた。」(下野新聞)
 なんて話は季節の話題じゃなくて。4週間前の八十八夜にテレビニュースで、機械で新芽をぶわああっとバリカン方式で切り取るニュースやってて。あ、黒羽茶なんつうのはおいらにはかかわりのない商品だな、と思って。うちはバリカン茶。
 こんなの100g千円(の半額セール)以下で売れるはずないし。そりゃ存在しないも同然。
 もう夏だから、わたしゃおーいお茶ティーバックで我慢するし。 
 
 「「病床削減法案」を可決」(赤旗)成立だそうで。
 何を考えているのだか。
 年寄りがいると、カネがあろうがなかろうが、看護師さん付きのベッドがなけりゃ家族はどうにもならないんだよ。
 ということがコロナで若い人びとに多少はわかってもらえて、それはいいことだね。

 さて、連回ですがふつうのお客様には失礼、かつ本日は将棋名人戦最終局なので、文章サイズをスリムに。abemaで見てて勝ちそうで勝たないのは時間の無駄で困ります。
 
 前回の「探してた注」、観念対象が知覚対象に変わる件、銀林浩先生の論を使うことにしました。数学教育者。
 ジャンルは抽象的な対象ならなんだっていいの。何せ、大昔自分で見つけたことだし。でも自分で見つけても先に人がしゃべってると盗作だといわれるからね。こんなささいなアイデアで盗作だとか言われても気分が悪いだけ。だれでも他人に押し付けとけばいい。だいたい誰かが考えそうなことってわかるからね。
 それで「注」とは別件だけど、銀林先生。自我意識が発達すると数学がわからなくなるんだって。
 そうだろ、高校数学のわけわかんない解法公式って許せないよね。
 中でも漸化式系。解けるのは構わないよ、おめでとう。しかし、どうやってそんな解法が導かれたんだね。あれをすんなり受け入れて数学を解いてく奴なんかに科学の創造などできるものか。納得できる代数学なんて因数分解までさ。で、結果入試数学5点。

 で、今日のコンパクトなテーマは、思想はすべて、原イデオロギーではなく、その論の行為主体の解釈による、という趣旨で注を探した件。
 どっかないか、と思ったら時枝誠記が大きな声でいってた。
 あれれ。過去全然気づいてない。相当驚きました。文法論議だとずっと思ってたから。
 時枝が言ったと注を付けておくとみんな恐れ入るから、書いてるほうは楽なんだよね。
 その一方、いまどき誰も時枝なんかに言及しないから悪口にいい権威対象なんだろね、時枝への言及本など読む気にならん。何をいっているんだか。悪く言ってただの「売れんかな」。
 
 で、結論、思想の解釈主体が被伝達者だから、主体は行為構成主体となるんだよね。そこが具体的行為者の次元というものであり、社会構成主義者の至らない地点なの。 
 どこが違うかというと、この議論の中では個人は個人の要因を全部受け持つから、社会は社会システムとして安心して人間への規定因を保持できる。一方での個人は何でもできる具体的行為者の姿を崩すことがない。
 この扱いにより、個人と社会の2項対立の構図を崩さないまま個人行為者を確立させうる、ということです。社会が個人の相互行為の結果だなどという視点からは資本主義社会に行きつくはずもない。行きつかなければ社会科学などできはしない、絶対に。ということです。
 
 よくポスト・モダンの諸君が2項図式の悪口を言っていますが、その一言で社会科学の定立、つまり、諸行為の説明ではなく、因果連関立言を定立させるという使命のやる気のなさがわかる、と思うべきです。
 
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産業社会学よもやま話

2021-05-22 11:52:22 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、もう梅雨のよう、ジメジメジメジメ、なのに日・月が晴れの予定なので梅雨入り宣言はしないのだ、と。ごまかしだね。それでも一時ヤブ蚊がストップしてるのでうれしいです。そんな存在があったのだと夏になると思い出す。
 
 さて、新垣等の結婚のおかげで、どんぎつねのCMをネットで見ました。おもしろいじゃあないか。知ってる? どん兵衛きつねうどんの宣伝。知ってるよね。私は知らなかった。面白いCMってほとんど夜中9時以降にやるんだよね。9時は夜中じゃないって? しんない。ともかくCMは本番組より面白い。便利だねえ、youtubeって。
 てゆうか、今日の新聞によるとNHK調査で、10代20代の半分は平日15分以上テレビ見てないんだってさ。これはびっくり。わたし以上(以下)じゃん。もっともNHK調査だしね、視聴料抗議のウソかも。ま、今はスポーツ中継やらないしね。
 元に戻って、きつねどん兵衛。わたしはうどんがあまり好きでないので食べた記憶がありません。記憶がないだけですが。天そばの食べ比べはしましたが、緑のたぬきの勝ち。どんべえ、塩辛い。だしがどうとかっていって、本体塩じゃないの?
 
 ついでに、本日の役に立つブログ、ハッシュドビーフ・ルーの調理の仕方。
 以前にハヤシのルーが薬臭くて、とぼやいたことがありますが、どの会社のルーも同じように臭いことを見ると(嗅ぐと)、あれは玉ねぎの焦げと小麦粉の焦げが混ざった匂いだろうか、とも思います。
 ともあれ、この臭さの回避方法。4人分につきトマト液を100cc入れる。
 私は便利なトマトジュースで。
 もちろんトマト缶をたくさん入れれば美味しくなるでしょうが、それはハッシュドビーフではありません。
 この量ぐらいだとハヤシの味はそのまま、軽く酸味が付くのですが、それより臭みがほとんどなくなります。お薦め。
 なお、完熟トマトの、、、というルーもありますが、同じく臭いのでそのままではだめですよ。
 
 というわけで、本日もニュースを無視してオタク話。こういう標題はもちろん私には関係が薄いのですが、残念ながら人間自分のことは見えない。偏見に満ちた他人がはためで語ることにも、その最中を過ごした人の公正な意見とは違った意義があるのです。
 って、昔の産業社会学の本を読んで、これらの(意味のない)論は一体なんだったのかな。と思って。
 
 本日のとっかかりは
 深谷昌弘・田中茂範「コトバの〈意味づけ論〉」・ 深田智・仲本康一郎「概念化と意味の世界」。 
 言語学? いや、深い意味はなくて、注に入れ込もうかと思って借りてきたのです、が。
 こうした認知言語学の進展というのは、社会学の構成主義と一緒で、学の末期的症状だなあ、と。マルキストでいえば、中野徹三の唯物史観修正。生産関係が生活過程に矮小化される事態。立派に学問仕事をしていることは認めますが、これではすべての学は「日常の言語化」に回帰するしかない。言語化とはただ、「コトバにした」というだけの意味です。日常をいくら詳細な言葉にしてくれたところで、我々人間には余計なお世話でしょ。我々行為者は、何のためにそんなコトバを読まなければいけないのか。「言語学」にしてみれば、これでは主語も述語も係助詞も概念も、すべて意味がなくなるわけです。つまり、およそ言語比較のためのすべての構制が消えてなくなる、それだけのマイナスの意義しかない。
 生活過程論が唯物史観崩壊以前に消えたように、認知言語学も先行きここ10年の命じゃないかね。この後は理論への評論と市井の現象への評論作業にしぼんでいく、しかないのでは?
 ま、それは他人事。
 そこで省みすればわが社会学。ちょっと戦後の歴史を振り返ります。
 昭和29年まで生まれの人間は、家柄エリートや私立中学校生以外の子弟は、常に貧困の中、あるいは貧困と背中合わせの生活をしていたわけです。彼らには学問エリートとして貧困を廃絶させなければならない潜在意識がある。そうした全体状況もわからない「68、9年闘争評論家」など、箸にも棒にもかかるわけがない。は、いいとして、だから当時の学者予備軍も、社会科学的学問であればその選択先はマルクス主義経済学に行くか、あるいはもう少し知的に見える社会学に行くか、二択だった。隈の理論にあるように、そこにこそ社会からの賞賛と優越があったのは、名を為した学者とて同じことです。
 といっても昭和10年生まれまでの学者とは要するに家柄エリートと地域エリートですから、貧困者とは「身分」の違う者です。決して左翼的な運動が好きなわけではありません。この点が社会学というマルキズムに対抗する使命を持つ学問とフィットした。幸い相手の政治主義者自体は知的ではありませんでしたので、それはたいした苦労ではなかったのですが、世間の同情は貧困者にありますから、ソ連崩壊までは彼らの威勢の良さに足をすくわれないように始終気を使わなければなりませんでした。それが70年代の産業社会学、農村社会学の「イライラした」文面を規定するわけです。
 さて、その衣鉢を継いだ戦後生まれは、「なんか違ったんだけど、、」と思いながらももう遅く、学の伝統の承継をもっぱらとせざるを得ず、学的成果の斜陽化が始まります。 
 時は移り、後進国収奪による労働貴族化とソ連崩壊と学者のエイジングも進んでいきます。問題の析出と解決の方途を失い大枠の崩れ去った学的対象は、それこそ「論」としてではなく、人びとへの語りとしての生活過程となっていきます。 
 そうこうしているうちに、マルキストは元よりリベラルの産業・地域社会学者も消え果てしまいました。残ったのが構成主義です。実証派の生活過程調査との奇妙な一致も生じて、わたしには理解不能な学問的意図と、日常に埋没した学生諸君との共同作業で今のところ存在しているわけです。
 ほんと、無理してアカデミズムに残らないでよかった。
 偏見がひどい? じゃあこの50年前の諸論て何?

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社会と具体的行為主体

2021-05-15 16:09:58 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。お元気ですか? なにはなくとも健康が一番。
 うちのほうはもう紫陽花が咲きだしました。大昔は、自分で、6月11日から14日が東慶寺から円覚寺へ紫陽花を見に行く時期と決めていたんですが、いま寺のネット宣伝見たら平年で「6月初旬から」とか書いてある。温暖化ですねえ。
 
 ニュース。
「京急油壺マリンパーク」閉館へ 53年の歴史に幕」だって。
 知らない? 三浦半島の先っぽの水族館。ローカルかねえ。
 たしかにわたしももう30年以上行ってないからしょうがないのか。なんたって不便だから。
 子どもと行った遊び場がどんどんつぶれて。あとはよみうりランド(と浅草花やしき)くらいだよ。ちょっとさみしい。
 の一方で、関東地方は、近場のただの広い自然公園て相当増えてて。ハイキングコースは消えてるんだけどね。「ただの」というのは、ガイドブック向きの話題性がなくて、ぜんぜん本が作れない、という意味で。さて、いいことか悪いことか。
 わたしゃ保守的なので、子どもは空き地で遊んで大人はハイキング、というパターンが忘れられないけどね。
 
 さて、本日もオタク系テーマもので失礼。心辺が落ち着いてきたんでしょう。
 
 今日のとっかかりは、畠山弘文「官僚制支配の日常構造」、1989.支配権力を扱う第一線職員(公務員)について、事例的に色々集めて、官僚制支配の現実的様態を1冊の本に仕上げた、ということでしょうか。 
 一生懸命やられたことは分かるのですが、さてしかし。
 下位体系論で扱う人間の社会的交渉は、「その交渉の結果いきわたる情報という存在のこと」であり、その交渉の結果で個別に結果する情報の意義のことではありません。
 つまり、権力過程には、ある一人の第一線職員の交渉結果がどうであろうと、その一人の結果を他の99人の結果と同等のものとする社会過程がある。下位体系論ではその権力過程を視野に入れて、その結果、「第一線職員が携わる業務が『普遍的』意義を持って存在する」と述べなければなりません。第一線職員の具体的行為如何は問題にならないのです。そうでなければそれが必須の存在意義である社会科学の因果連関などつかめやしないのです。当然でしょ? わからない? 因果連関をつかむべくやってみてください、その当然さはすぐにわかります。 
 もちろん、遊び仲間の遊び過程はそうではありません。昨日は親友と思った人間も、ちょっとした言葉のいさかいで、「友人同士」の関係は帳消しにされる。明日はどうなるか、人間の関係など浮草のようなものです。
 しかし。それは社会学であっても社会科学ではありません。
 もちろん私は社会学だとも思っていない。そんな現象に、人間が未来で使うべき因果法則などないからです。それは関係のただの説明であり、学問にしたいのなら心理学でやればよい。
 が、これは個人的な価値観なので、社会学と呼ぶのも結構、しかし、断じて社会科学の対象ではありません。
 
 ここで(本日)いいたいのは、社会学の中での個人行為の意義です。
 もひとつ、佐藤勉「役割理論」『基礎社会学Ⅱ』所収,1981。というのがありまして、佐藤氏は従来の役割理論が不満で、行為主体が自己の役割を把握しつつ主体的に行為する姿を理論化すべきではないか、とおっしゃる、ように読めました。
 が、理論の中に行為主体をおくのはいいですが、その行為主体が「自己の役割」なるものを認識してしまった瞬間、その理論は終わりなのです。そんな人間は「組織内役割の遂行のため」に「組織内思考」をする瞬間しか現実存在はしないのですから。それでは理論は行為主体が生きるトータルな現実を映さず、かつ、そんな人間の部分を切り取って構成した「理論」に主体性など残るはずもありません。 
  
 もっとも両氏とも、これらの本以降、もう関心が移ったようで、それらしい論題はweb上に載ってませんのでわざわざ他人が取り上げるまでもないのかもしれませんが、取り上げるのは私の都合で。人の悪口を言ってほっておいていいのか、という事情。
 
 実は世の中というものはシンプルなものなのです。
 佐藤氏の場合などは、そのシンプルさを「概念」なり「ターム」なりと呼ばれる、実は「無責任な第三者の現象に対する一括伝達用の語」によって表現しようとするから、袋小路にはまるのです。 
 支配にかかわる現象であれば、その支配が現実に現象するときに取っている形態を見据え、この形態の要素を変えていく。それが主体性を持つ行為主体がとれ、かつ、とる、行為なのです。ここに個人とシステムの接点がある。このときの行為主体の選択を事前に定式化しておくこと、これが具体的次元の社会科学であり、それが下位体系の縦断的側面の叙述なのです。具体的行為主体は社会学が提示したその法則的立言を使い、「他者の行動を」変容させていく。いくつものそれらの水路の結果が、社会システムの変更を結果する、そのための縦断的定式の作成なのです。
  
 ただ、その場合には、定量的な規定性は現れません。ある要素が、その社会過程の中で、その既存の関係をどう変更する可能性を持つか、という立言のみです。
 つまりそれは、具体的に何人の封建頑迷老齢者を非難すれば、その封建論を10年でクリアアウトできるか、といった計算に乗る立言ではない、という意味です。
 そう聞くと自然科学に劣等性を感ずる社会科学者が不満を覚えるかもしれないな、と思って長々しく書いておきます。
 およそ科学と認知される因果法則とは、量などは含まないものなのです。
 「いや、それらはみんな数式を使っているではないか」と?
 残念でした。数式は量を表すものではありません、その性質を表すものなのです。その自称の性質の、他の諸事象の中での相対的位置を表現するものなのです。

 あるいは今日借りてきたマンガの代わりの柳澤桂子「二重らせんの私」によると、ある理論が実験データに合わないのが対象細胞の指数関数的増加にあることがわかる場合がある。この場合「理論はそもそも正しい」のです。量はその性質として意義があるのです。量が10のはずが100になろうと、それは主体なり客体的条件なりの性質であって、自然科学的法則の領域ではないのです。
 当然です。
 われわれ行為主体はさまざまな環境の中で明日を探し続けるのです。この時、同じ法則が極東の小島と砂漠の緯度経度的区域割で「量的に」合致するわけがあるでしょうか。いいえ、ありません。
 にもかかわらず、同じ法則は極東の行為者とアフリカ砂漠の行為者とで、同等の意義を持つのです。なぜ? その性質を同じく表現しているからです。

 も一つ、では鉄鉱石から鉄を作ってみましょう。
 この自然科学的因果連関は、鉄鉱石+一酸化炭素=鉄+二酸化炭素です。
 この連関に付随する公式は、
   コークス+二酸化炭素=一酸化炭素と
   砂+石灰石=スラグ+二酸化炭素
 です。これは量の問題ではありません。等式の策定に相対的な量(一酸化炭素3単位に二酸化炭素3単位の対応等)を使いますが、それが量を表していないことはその単位を見ればわかると思います。グラムでもなく立方センチでもありません(以上、平山令明「暗記しないで化学入門無機化学編」)。
 もちろん1年で10万トンの鉄を作るには、溶鉱炉がいくつもいるし、鉄鉱石だって、その成分に従って幅のある量が必要です。しかし、それらのことは自然科学を基礎にはしているけれども、因果連関法則はその量自体にはかかわらない。1年で10万トンの鉄を作るために溶鉱炉がいくついるか、鉄鉱石が何トンいるか、それらは場合場合で違いすぎるので、誰も法則にはしない。
 自然科学においても、法則とはそういう位置にあるのです。

 って、昨日、実家から持ってきた高3の通信簿見たら、物理も化学も「4」だったよ。てっきり「3」だと思ってた。試験勉強前夜一晩だけで何点取れるか、の楽しみがストレス解消法だったんだけどね。たしかにたいてい喜んで帰宅できました。

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社会学が把握すべき「男性性」とは

2021-05-08 13:51:47 | 行為
 こんにちは。連休はいかが? わたしはどこにもいかない代わりに家でぜいたくな海鮮チラシを作ろう、と思ったら、この辺のスーパーではぜいたくな海鮮など売っていないことを発見。普段買わないので知らんかった。もちろん魚屋などないし。まあこんな田舎のおかげで安全なのだけど。
 潮干狩り行った? 行きたいなあ、春の海。中年以降は海岸遊びしなくとも、今どきは近くの港に必ず美味しい海鮮レストランがあるからねえ。身内の不幸その他でもう4,5年行ってないけど。
 
 今日のニュース、 
「尾木ママ アスリート個人へのオリンピック辞退要求は「筋違い」」
「池江璃花子、、、が新型コロナウイルス感染拡大の収束が見えない状況の中、自身のSNSに五輪出場辞退や五輪開催反対に賛同を求める声が寄せられていることを明かした、、、」(スポニチ)
 尾木氏、さすがに善人だねえ、筋違いとか。やつらにはそれが「本当」の狙いなのだよ。
 若人の方々も善人だろうけど、わたしにはウヨの類いのストレス亡者が舌なめずりしている姿がくっきりと見えるよ。
 わたしは碌な生活を送ってこなかった、というわけだ。まあ、それでこそ社会学徒を張れる、ともいえる。
 
 さて本日は久しぶりにテーマもの。
 まずとっかかりは借りてきた水間千恵「女になった海賊と大人にならない子どもたち」。
「宝島」や「ピーターパン」その他を取り上げて、そこでの男性性を発見しようとするそうで。で、男の主人公が出てくれば、彼が行為する諸道徳が「男性性」と見なされるわけです。
 わたしゃ、なにそれ、と思うのですが、いやいや女性にとってはそうなのだろうか。
 わたし(男)には賞賛される主人公の行為は「良き人間」と把握されるのですが、これを自分とは違う「良き男性」と思うのなら、女はたしかに人間社会から疎外されているが、おやおや、ほんとかい、とひとりごと。
 と思って、気晴らしに手に取ったのが借りてきたジョアナ・ストラットン「パイオニア・ウーマン」講談社学術文庫。アメリカ西部開拓史上の女性の回想録800人分というすぐれもの。
 余談だけど、これは良い本。こんなにアメリカのことがわからせてくれる本もない。社会科学徒にはぜひお薦め。
 元に戻って、いや、これは変だぞ。この書では女性はちゃんと自立しているではないか。
 と再度思えば、私が読んだ若草物語だって、少女パレアナ(ポリアンナ)だって、赤毛のアンだって、その主人公にいたく感心したけれど、別にそれは女性に限らず「良き人間」のことだと読み取っていたし。どこにも「女性性」と限定する要素はない。なら女に対する男主人公もおんなじなんじゃないの?
 だいたいそもそも、男が人間の生き方を男のものとして自認するとして、じゃあ論者は、女の何をもって「女性性」と自認するのでしょうか。残念ながら、他人たる男性の批判ばかりでなにもわからない。しかも「男性一般」とか、「当時の」男性一般レベルで論が立っているから、関係ない男性たる私としてはすこぶる愉快ではない。
 かくてこれは想像の域を出ない文学的評論でありましょう。
 
1 問題の所在
 皆様ご存じないでしょうが、昨今「男性性」の論というのがあちらこちらにあるのです、って学会誌も紀要もとってないので、この10年前くらいまでのはなし。世の中には「日本の男性の心理学」なる本もあって、余計なおしゃべりがえんえんとされているのですが意味が不明です。なんだよ、男性一般て。そんなのはすべて私の心理とは一致しない。隈は男じゃなくて悪かったな。正しい題を教えてあげよう。『現代日本の男性意識(2000年前後)』とすればだれも誤解しない。男性性じゃない。ただの意識調査の諸結果。 
 で、それなのに各論者はなぜ「ジェンダー(性別が社会的に持つ意味)」を問題にするのでしょうか? その事情が人間の十全な生を損ねているからではないのですか? であるならばそこに、なぜ損ねているのか、どう損ねているのか、それを明らかにしようとする主体的能動的理論見地がなければ、結果はただの論文棚の肥しにしかならない。

2 有益な視座下における男性性の根拠
 差別の源泉は「支配」です。もちろん男女の区別が差別となるのも同様。男は権力を歴史的に握っているのです。   
 ただし、権力者の後継であることはなんら特権ではありません。「特権」とはただの評者の価値判断の言に過ぎません。権力者の後継者は、その存在に当然「社会的事情」が「一般的に」付与される。それは当人には迷惑でもありうるわけで、単に「社会とはそういうものだ」ということだ、と認識するのが正しい。そしてその要請、正確には男への行為への指示は、思春期までの一年一年、365日続いていき、さらにそれが規範となっている社会の中で確認され続ける。そしてその後継形態がその当時、その地域での「男性性」となるわけです。なんら一時のイデオロギーが作るわけではない。
 他方、女性は長ずるに従い、その眼前に、男性権力者が構築した排除の壁が立ちふさがる。今まで自分も仲間だと思っていた社会に拒否されます。この時点において、男性性は男性性として女性に向かって発生するでしょう。これらはイデオロギーの問題でも、人の考え方の問題でもありません。
 では世間でいう「男らしさ」のイデオロギーは存在しないのか、といえばもちろん存在します。それはイデオロギーを発することが自己の行為の強化になる一群の人々において存在し、発せられます。武力(暴力)行使に連なるイデオローグとその行使者であり、これに乗っかる表現者、たとえば作詞家、あるいは体育会指導者です。

3 男性性の行為者が持つアドバンテージ
 めんどうなことに、先に述べた支配上・制度上の優越のほかに、男性性は、反支配上でもアドバンテージを有します。
 他者と賞賛と優越が同じであるという自信に揺るがない者は、「社会の価値」をバカにしえます。「社会」に胸を張って歯向かえる。一方、社会の価値なるものが、決して「自分が含まれる」社会のものではないと認知している者にとっては、社会の価値は、これを揺るがせないものとして、端的に言えば、絶対的です。かくて「おしとやかな女性」が発生します。
 この態度特性が作る対抗システムは、それぞれの陣営に各ジェンダーを押し込めることを促進するでしょう。
 もっとも、「父」の恩寵を受けた女については、自己の超自我的賞賛と優越は内在化しえることでしょう。ただのパーソナリティ次元の話ではありますが、ジェンダー性からはみ出る現象ではあります。

4 下位体系における男性性の分析特性
 さてしかし、これらは具体性のレベルの論理で引きずりだした結論ではありません。全体社会システムの論理です。具体性のレベルでは、各男性がいかにその行為対応を強いられ、各女性がいかにその手前で排除されているか、といった現象の把握しかできません。
 ではありますが、具体性のレベルでは、その行為対応のイデオロギー位置(づけ)の変換方途やその壁を崩す各戦線の同レベル性の眼前化を示すことができます。
 年寄りの「時代遅れ」の言への対応に、具体的にどんなメディアイデオロギーを結集させるか、そうしたことは全体的視座からは出てきません。あるいは、女性の戦線には右翼も左翼もない、はずの原則を、具体的に実現する社交で提起できます。 
 諸デマゴーグの思いとは異なり、(行為論的自由への渇望という)同じ原動力を持つ人間にとって、状況の把握は、変革のためのそれ以上の饒舌を必要とはしないのです。
 
   と書いて、さて、この文が所属するブログ・カテゴリーは何だろう?
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雑件少々

2021-05-01 15:55:43 | 断片
 こんにちは。東京地方、昼間は良い天気が続き。「楽しや五月 草木はもえ」という唱歌がありましたね。モーツァルト。連休は近場にピクニックでもいかが?
 うちの方ではカラスが忙しそうで。子育ての時期ですね。ピクニック弁当の唐揚げにはお気を付けください。昔、トンビにとられた覚えがある。
 
 今日は何を書こうかとメモを見ると、ずいぶん古い話題ばかり。「ニュー」スじゃないね。
 今日は「ちょっと、知ってた?」というのにしようか、と。
 
 その1、高級醤油。
 昔、塩辛い醤油が嫌になって何年か高級特選醤油にしてたんですが、その一つ、キッコーマン特選丸大豆しょうゆ。最近スーパーで400円レベルが300円レベルに下がって、うれしいなあ、と思ってて、しかしふと気づいたらやけに料理が塩辛い。え? これってもしかして醤油のせい? 対抗のヤマサ有機丸大豆の吟選しょうゆに変えました、が、まだ使ってない。こちらも百円安くなってるからどうだろうか。
 皆様もお気を付けください。
 
 その2。
 「「アカシアの雨」とは、アカシアに雨が降っている、とか雨の中のアカシアの花、ということではないのです。雨のようにアカシアの花びらが散るさまのことです。」
 え”。
 「作詞した水木かおるは芹沢光治良(せりざわ こうじろう)が、1943年に書いた『巴里に死す』を下敷きにしております。パリの市街地に咲くに咲くアカシアの花のことです。」
   (https://plaza.rakuten.co.jp/syokota/diary/201705220000/)
 うそ。
 歌詞と合わないじゃないか。詩心というものに疑問が、、、

 その3。
 今週のマンガの代わりの借本は、オルコットの「ライラックの花の下」(ライラック咲く家)。ここんとこちょっと心が疲れたので休養用。オルコットって若草物語ね。この本も同じように善人ばかり出ていて、善人て悪人のことを描けないんだよね、自分もそうだからよくわかる。しかし、そのわりにずいぶん無理して書いてるなあ、と感想を持ったところ。 
 そしたら今日の朝日の読書欄がオルコットが別名で書いた「仮面の陰に」だってさ。趣きの全然違う「19世紀米国大衆〈スリラー〉小説」なのだと。煽情小説っていうそうで。売れてるみたい。ただいま増刷中だって。
 やっぱ、無理してたんだね。しかし「仮面~」も(本人以外)悪人は出てこないと思うのだがどうか。
    私も本が読めなくなったら、さらに別名で物語でも書くかなあ、、、
 
 その4。
 借本の本体は、近世以後的「ジェンダー」本。図書館の「ジェンダー」題を片端から借りてみたけれど、意味の何もない、なにがジェンダーだか分らない「人々の生活」本ばかり。いわば(社会内生活ではなく)「家庭内生活」だから何の歴史的意義もない。論者たちはどんなつもりで書いているのだか。
 本の中では、小泉和子編「女中のいた昭和」というのは面白かったけど、小泉氏というのはそもそも民俗家なので、歴史的状況がまるで分からない(いってみれば、「背景」はちゃんと書いてある。面白ければよいのならお薦め)。これでは使えない。まあ、うまくいかないものです。
 つまり、大正まで女中が女工と同じほど(70万人)いた(それ以後は女工がどんどん増えてしまった)と書いてあるけれど、さて、どこにいたかは分からない。
 私など古いので、戦後埼玉の地主宅にいたことを知っているけれど、では同様に世田谷の子爵宅にいたかというとそうでもない。それでは昭和中期までの女性労働のイメージが作れない。作れなければ、生活を想像しても無駄。江戸時代は明るいなどと見てきたような嘘を言うやつらの同類になる。今だってみんなそうでしょ、「昭和の女は自由だった」なんて平気で言いそう。民俗家や家庭内生活論者の本なんてそんなもの。いや小泉氏は博識だから違うでしょうが、一般論。
 知らなかったことには、大正末期から昭和戦前期までが家事の高度化、和風洋風の複雑化で一番家事労働が多かった時期なんだって。資本主義生産と購買力上昇の追いかけっこだね。
 それもそうなんだろうけど、それってどの程度の広がりがあったのか、わかりゃあしない。
 私など古いので、目黒区のホワイトカラー宅はそうだったろうと思うけれど、兵庫県の酒屋でもそうであったか、とても不明。
 まあ民俗家本です。

 (P.S. with 怒り。(以下は頭にきてるんで、普通の方にはおすすめしません。)
 今日は土曜日で、NHKでは私の好きなブラタモリ。今夜は深谷。楽しい番組に不快な場面が。
 農民渋沢栄一が地元深谷で地域住民と藍染生産競争をやっている。何をやろうが構わないが、私の神聖なブラタモリで、男どもだけが、野郎どもに限って、汚らしくぎゃあぎゃあ喚きながら競争寄合をやっているのだ。村はお前らのものか。
 不快。
 それは過去的現実であろう、いや現在的かもしれないが。しかし、あるいはもちろん、現実はそれを報道するだけで保守的イデオロギーとなる。現実というイデオロギーである。女性がこの世から消えるイデオロギーである。
 当たり前だ、ととりあえずおさえよう。仕方がない、現実である。
 しかしそんなことを言ったら全部が現実で、それ以外の道はあり得ない。
 だから、
 これに対抗するには現実以外の「事実」、「だから」将来を提示しなければならないのです。これが、自称自由な、しかし自己を擁護して他人の血の美味しさに舌なめずりするだけの、資本主義的正義への対抗の特徴なのです。
 といって、それだけではとりわけクソのような爺どもにとっては、ただの現実への遠吠えになる。そんなふんぞり返り方を爺いどもに許してなるものか。
 かくて、次回作品の5つの因果連関的提示の1つは、これへの女性解放的対抗的将来の提示の仕様、これになるのです。これはかならずしも下位体系論ではないけれど、その論理の流れで爺いどもへの直接の打撃を強いうるのが隈の下位体系論です。以下、乞うご期待。
 
 しかし、こんな表現を口に出せる人って、日本4千万高齢者のなかで私一人だよね。自分が偉い。)
 
コメント
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