リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

資本主義先行体制の規定性(その2)

2023-11-25 16:40:03 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。今日は曇って寒い。昨日の昼間は薄いカーディガンで十分だったのに。明日はもっと寒いって。東京地方の行楽地は今が一番紅葉のはずなのに。私はなにかとあって、紅葉狩りはいってないけど。まあ、東京も平坦な場所はこれからだから。お近くの大きな公園なんか気晴らしによろし。火曜日またあったかいそうです、昼休みとか行けるといいね。
 
 当方、いつも秋になると赤い実を楽しみにしていた他人んちのザクロの木。もうすぐ破裂して赤い種実が出てくると思ってたら切り倒されてしまいました。なんだよ、いったい。
 ザクロなんて東北以北の人はご存じないよね、うちは半分熊本だから生家の庭に柘榴の木があって(常連の方用:いろんなものが生えてた)、気が向くと齧ったりしました、が種ばかりで美味しいものではありません、が黄緑の葉に赤い花や実が映えて綺麗なものなのです。
 が、切られてしまって。
 人の心がすさんでるね。ちょっと前は秋になると黄色い実を楽しみにしていたレモン畑が宅地分譲地になって。そんなに金が欲しいか。まあ柘榴の幹は枯れかけてたから、倒木対策かもしれないけれど。
 
 意味ないけど、生家にビワの木もあって、『犀のように歩め』なるgooブログ(11月21日付)に、「ゆりかごの唄」の挿絵が貼ってあり、昔見てた歌絵本の挿絵によく似ていて懐かしかった。(あれ、なんかの無断借用ではないかしら。藤城清治ふうの。)はいいんだけど、枇杷の実が揺れるゆりかごって、物覚えの悪い私の相当古い記憶、、前書いた記憶も絵本だったけど、記憶が絵本化している。

 もひとつ個人もの。
 ベランダ用のサンダルが上下に分割してしまって、買い替えにいつも行く安売りの靴流通センターに行きました。さてそこの最低品上下一体サンダルはいくらで売っていたでしょう?
 500円? 10年前だね。900円? 5年前だよ。今は? 2000円。
 びっくり。引き返そうと思ったけど、他に買うあてもなく。仕方ないので買いました。
 いまどきってサンダルってはかないのかね。店頭の安売り売り場には、スリッパみたいな甲カバーがついたやつばっかし。もっと雨はけ(?)の良い便所サンダルがいいのだ。だいたいサンダルごときが店の最奥、リーガル製品の前で売られてるというのも想定外でした。
 左翼も時代錯誤ですが、私のような保守も時代から落ちております。負けるもんか。


 では、本題。先週の続き。長い長い。ふつうの方は温かいものを食べて明日の良い秋の日をお楽しみください。
 続き入るよ。
 さて、まず第1に、マルキストないしマルクスの言う「生産様式」とは、「支配様式」のことである、という認識です。
 奴隷制生産様式だ? 読者諸君、奴隷とは平民「あなた」のことです。ギリシアであれローマであれ、「奴隷」なる者の人数推定は、歴史学者に言わせれば、ギリシア・ローマの平民という名の地主階級と同数以上の塊です。その奴隷Aにとって、「きみんとこの生産様式は主人が奴隷の君らを使う生産だよ」などと言われて納得するか。いいや納得しない。生産してるのは俺たちだ。それはマルキストないしマルクスの、エリート臭プンプンの醜い表現です。奴隷にとってこの時代の生産は「われわれ的生産」です。ただ単に、自分が働かされる仕方が、奴隷的支配なのです。
 「封建的生産様式」? いつだってマルキストやらウェーバリアンやらは神様のように偉い。当該時代のやっと「奴隷」時代から逃れた平民Bにとって、年貢をとられるこの生活は彼らの支配者の待遇である「封建」ではない。「年貢的」支配様式です。あるいは「封建領主的」支配様式、といえば穏健な表現でしょうか。
 もちろんこうした支配様式について「引っ張り犂(スキ)型生産様式」とか、「車付き犂型生産様式」とか、現象的生産方法で呼ぶのは勝手です。
 いずれであれ左翼を標榜してきた歴史学者・経済史学者たちは、もうほとんど死んでいるとはいえ、ほんとうに恥ずかしくないのでしょうか??
 なお、呼び名を変えればいいと言っているわけでもなく、これらの支配様式が継起する、などと隈には考えられません。

 そもそも奴隷制とは、小範囲の戦争により、定住的生産よりも人的強制労働のほうが生産性の良い時代の人民支配様式です。その時代の定住農業支配がすでに優勢になっていれば、そこでの「奴隷の確保」は、小規模となり、「奴隷制」とは呼ばれない。無理やり奴隷制という教条主義者はいますが。
 それに対して封建制とは、土地生産性の増大に伴う広範囲の定住的秩序の安定化により、必須消費物資が土地からの上り(アガリ)で賄われる地域での人民支配の形式です。
 ついでにいえば、絶対王政とは、商品経済の浸透により小国家的人民支配が崩れたときの、支配者同士の支配争奪の結果です。

 それぞれの支配様式に移行するにはそれぞれの規定性が指摘されるでしょうが、筆者は、(筆者だけではないと信ずるのですが)そんな昔の事態など把握できないのでここに記そうとは思いません。

 元に戻って、第2に、生産物を必需品、便宜品、奢侈品と分けるならば、人は、資本主義とは便宜品のシステムであると知らなければなりません。
 人間は、行為の先にその行為しなければ手に入らないものを求める。
 資本主義は必需品はこれ以上いらないまでの発展の後に生ずる過程です。しかもその生産物を、民衆は各人が「同様に」求めるのです。同様でないモノは、たとえそれを億万長者が買おうとも、それは資本主義体制外のモノです。つまり、資本主義商品とは腹がくちてから生産される物品であり、「資本主義だから豊かだ」と資本家とその手先が騒ぐのは、そもそも資本主義とはそうした段階である、という生産力過程の表現にすぎない。それが「奢侈品」でないのは、そこであるモノを人がみな所有可能であれば、それを「奢侈」とは認識できないからです。
 便宜品、それは誰にとっても自分の使用下にあれば自分の安楽が上昇するものです。これを他者と協働して入手せんとするのが、行為の側面からみた資本主義のシステムです。

 ついで第3に、資本主義とはグローバルなものです。「どこかで」便宜品の生産がなされていれば、その「どこかから」時代は進んでいく。資本主義は交易の体系なのです。

 そう見極めればあとは簡単です。

 こうした事態の根本的規定性は、生産力の増加です。
 ただし、社会構造上での生産力の増加とは、生産共同体から離れて、自らの力の産物を、必須消費物資と交換できるようになった人間の部位の増加に「過ぎない」。当初においては、生産共同体こそが、生産力の足を引っ張り、人間の自由の足を引っ張る根源だったのであり、ようやく商品経済の進展の中で、生産共同体がそのおこぼれにあずかろうとする行動をとるようになるのです。つまり、生産力の増加に伴う、交易の重要化、とまで言って、資本主義の規定性が具体化する。
 
 さて、資本主義は商品経済ですから、「交易」が萌芽的に必要です。
 交易が商人と貨幣・紙幣の存在を生む。貨幣には社会科学上は何の謎も存在しない。
 交易自体は、そのための方法的便宜を進行させるでしょう。「道」を含む交通用具です。これは頭のどこかにメモするだけでよいでしょう。
 交易自体はもちろん通時代的に存在する。それぞれの個人の必要物資獲得のための交易です。
 これに以下がプラスされる。
 
 まず、消費必需品生産の剰余が集積される国家(複数)です。
 すなわちその剰余労働力の存在と、その労働力を行使して便宜品を生産させ得る統一国家であり、他方で当該国家支配者の奢侈消費物資欲求を刺激し、交易によってかなえさせてくれる他の統一国家です。
 ということは、統一されるべき小国家が必要でもある。一人で突然大国家を制御するなど、ありえない。
 その小国家の存在のためには
1 貯蔵可能な地域消費物資の存在
2 支配者の元への消費物資の集積≒税
 が必要です。   
 ついでこれら複数の小国家を武力的に支配しうる統一国家が必要なのです。
   
 ここで、当該統一国家に便宜品生産の条件がなければ交易には至らない。消費必需品は他国の統一国家では「間に合っている」からです。これが間に合っていなければ、交易ではなく戦争が生ずる。
 
 この交易の条件の中で産業技術が生まれる。そして伝播浸透する。
 この技術発達についても自然的過程と把握すればよいでしょう。「いやそれは人間の主体的能動性を無視している」といった評はありえますが、そんな事情は行為者の将来の想定の条件にはなりはしないからです。

 さて、この交易という条件は、十分条件ではない。交易は国家間の物質的「繁栄」をもたらすが、そのままではいつでも消失しうる生産条件です。
 「消失しうる」とは、そうした国家支配者の行動は「自由」だからです。彼らは彼らの観念世界に生き得る。観念の赴くまま、財産=労働力を放蕩し、あるいは他国を侵略し返り討ちにあい、それはすべて支配者彼の恣意なのです。これに付き合う者は人民ではなく、彼の官僚だけなのだが、それでも敗れれば「国」が滅ぶのです。
 
 資本主義の先行要件の交易条項とは、人民の商人の存在への需要です。 
 すなわち、まずは、人民による消費の主体的欲求の存在です。
 もちろんこれは行為論的観念部位の問題です。第3者的には、それを可能にする生産力段階。あるいはその段階を出現させる諸自然条件と言い直せる。
 つまり、なんらかの理由により、包括人民の消費物資生産に剰余が出て、そこに割り当てられるべき労働力に「空き」が出ること。
 この何らかの理由とは、理論上は消費物資生産力の増大であるが、現実には、生産力はそのままでも強奪的に剰余物資が確保され、ともかく結果として、余剰人員がでればよい。
 ここで包括人民とは国家においてで彼らに反乱されると困る範囲の人民のことです。
 次いで、その剰余労働力人民が生産する便宜消費物資が存在すること。
 そこでの生産力に応じた、便宜物資のことを指す。人間は、自己の常態の安逸と、自己の労働の減少を目指すが、その対象のことです。
 ここに、商品のやり取りが生ずる。生じたやりとりは周囲の人民の欲求を刺激し、雪だるまのように増大してゆく。
 
 これが、国家支配者とその係累にとどまらぬ、生産の必要の発生と発展です。

 まとめましょう。
 第1に、支配者の存在形態、支配者が統一的に君臨すること。これは教科書では交易の便宜という観点から書かれるが、ではある王権が公益を保障すれば資本主義はなるか、といえばそうはなりません。ポイントは、これにより国家構成員の利害が一律化するところにある。ロシア帝国のように、統一部位とその他の一括部位に分かれても、その統一的部位において発展する。
 
 第2に、支配者の消費物資の獲得形式、国家構成員が行う技術的生産による余剰物資が既に確保されていること。第3者的には、生産力問題ともいえる。これは武力的獲得剰余であっては意味がない。隣国からかすめ取るといった仕業です。
 
 第3に、行為論上は支配者とその行為共同性体の消費物資への対応、つまり、支配者と行為共同性を同じくする、集合性、貴族群、官僚。あるいは観念的に同一の水準を有する他国家支配者の存在です。彼らが剰余消費物資に同様の欲求を見出すことです。これは「自由なる」支配者の意志の問題、といっても社会心理学的には必然的な心理的傾向、の問題です。そして第3者的には、同様の生産様式国家間の交通の発展といってもいい、が、結局、偶然の話です。

 ここで、およそ社会科学上の立言の意味は、これを将来の想定に適用するところにあります。
 この場合、規定性の内容は、第1に生産力の進展と、第2に人民の行為共同性の意義と、第3に支配者の行為共同性の意義です。
 したがって、次の生産様式もこれらの規定性に何かが追加されたものになるでしょう。
 何かとは? それには資本主義の別の側面、崩壊の側面を見なければなりません。


当日追加;(ふつうはpsですがあまりに怒りが。)
「借り人競争のカードに「黒い人」 生徒が抗議しても教師はレク続行 沖縄本島北部の中学校」(沖縄タイムス)
 人はどんなバカにでもなる権利はあるが、人非人になる権利はない。ところでなんだ、沖縄って。この教師、クズの最南端だ。(日本には極北という言葉があるのを知ってられるといいのですが。)
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資本主義先行経済の現象態(その1)

2023-11-18 16:12:57 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。全国的には天気が悪いそうで、福岡さえ雪。東京もここんとこは寒く、昨日はとうとう暖房を入れてしまいました。陽が入らないと、マンションでも寒い。
 これで終わりなら、今年は東京地方、秋が3日しかなく。と分かるのは、秋用の薄手のユニクロカーディガン、着たのが3日だから。突然夏から冬へ。もうジャンパー(薄手)だよ(いちおう、買い物には連日出る)。

 ところで七五三でふと思ったところ、千歳飴ってどこで売ってるんだろう? 昔は熊野神社で売ってたけれど、スーパーで見ないし、好きなんだけどな。
 そしたらスーパーその他では不二家のミルキー千歳飴を売ってるんだって。見ないのは手提げ袋を探すからで、個包装で売ってるもよう。しかし、個包装もねえ、、ミルキー味はいいとして。ネットで見たら、「お参りして貰う」なんてサイトもあるよ。なんだね、そりゃ。飴2本、1万円かね。
 まあ、高齢者は歯に悪いから子ども用ミルキーしか売らないのでしょう。歯が抜ける(「あの高い場所のブドウは酸っぱい」というやつ)。
  
 軽いニュース。
 ローソンやファミマでバーとして酒が飲める、という記事があったと思ったら、セブンイレブンはセルフ紅茶する、って。
 まずはコンビニのバーっていいなあ、と思うのですが。わざわざ地域のBARに行ってバーテンダーと話題探すのってめんどくさい、けど、家で一人で飲むんじゃ暗すぎ、なんてときは、スタバでコーヒー飲むように酒が飲める、、うん、とてもいい。最近は喫茶店でタバコも吸いづらいから、考え事するのにコーヒー飲むより長くいられるからいいんだよね。
 ところで、セルフ紅茶って売れるかしら? スーパーでも少ないのに。
 ローソンのセルフ珈琲は、喫茶店に行く暇(や金)がないとき、机に持ち運ぶのにちょうどいい。のと、紅茶もおなじかねえ、、紅茶って、それだけ飲んでもつまんなくない? ま、よけりゃいいんですが。
 
 さて、本日はなぜか感想が出るニュースがない。頭のメモリーに余裕がないのかな。
 なので本題に移ります。
 
 とっかかりは、エスワティニ王国国民による悪口。
 「なにそれ」? そう、わたしもアフリカの国々には自信があったのだけれど、初聞き。え~~、と思ったらスワジランドのことだって。ウィキペディアによると「2018年、国王ムスワティ3世が自身の誕生日と独立50周年を祝う式典で「国名をエスワティニにする」と宣言した。」そうな。当然悪政。インテリ国民はぶうぶういうというわけ。内戦のミャンマーみたいなもんでしょう。、

 というわけで、この悪政はどうにかならないか。
 答え。どこの国でも国家領域が統一化されるまでは悪政はなくならない。
 なぜか? 支配者の統治力とは、資本主義以前では武力であり、国家が統一化されるまでは武力が活性化し続けるから。平民のデモ力なんかでは対抗できない。
 
 じゃあ統一されていれば平民のデモ力でなんとかなるのか?
 といえば、それは各支配層別の支配がしっかりしていれば平民は奴隷化し、中間支配層の団結が崩れれば、平民の力が相対的に上がる。奴隷は平民になる。これがその原因を問わぬ現象態です。つまり、平民の反抗を抑えるには、直接の武力がいる。第1に、この直接の武力行使層。第2に直接の武力行使層では手に負えないときに応援する上位の武力行使層。こうした層別のまとまりが必要なのです。当然でしょう? 
 さらに、この武力層が常に殺人をしている専門組織の場合、圧制は支配者の思うがままになります。多少の反抗なら目をつぶってやろう、という態度は殺人行為を知らない人間の話です。

 ただ、これはただの現象で、規定因ではありません、が、現象からは規定因までさかのぼれるので、重要な指標なのです。
 
 さて、本題は、この資本主義的生産に先行する諸形態の規定因です。
 って、まずこの題はなんだ、と。
 これはもともとマルクスのただのメモにつけられて、その結果世界中で知られている名詞群です。そのメモには、資本主義以前の生産様式にはこんなもんがあった、と、アジア的とか古代的だとか封建的だとかっていうものだ、と書いてあったわけで。 
 マルクスのメモなど関係ないじゃないか、というわけですが、そこはそれマルキストの事大主義というもので、なにしろ自分が偉いと思うものにかかわるすべてに悪口は許さない。とくに自分には許さない、という、まあ、職業学者対応の事情です。
 それもメモだけで終わっていれば私のような部外者は「バ~~カ」と言っていれば済むのですが、マルクスも金に困ったのか公刊書物にさらにカッコつけて書いてしまった。それらは資本主義以前に継起して起こる先行様式だと。
 そんなことを書かれちゃあ許せない。
 どこにそんな根拠があるんだよお、あるというならいってみろ。
 残念なことに何も言わずに死んでしまいました。
 おかげで虎の威を借るキツネたちがああでもないこうでもない、って外面を舐めていく。何を言ってんだか。いくら外面を塗り替えても根拠のないものは根拠がない。
 とはいえ、それでは自分が正しいと言って老いる者や、それを聞く者は真実を悟ることがない。
 というわけで、わたしはマルクスのように見たこともない昔の神話は書けませんが、社会科学で可能な、資本主義の一歩手前。資本主義的生産に先行すべき「単独の」形態の規定性についてお話しておきます。

 今日は(その1)で、導入。
 マルキストは共同所有が私有に変わる、とか意味不明なことを主張します。
 所有の形態で資本主義への道が変わる? そんなバカな。ばかでも何百万人がそれを信じてきたわけですが。そのどこに資本主義への契機があるというのか。どこにもありません。
 そもそも所有は占有が破られる社会での支配権力による強制処置です。そんな行為の結果である事態に一般共同性が特定されるはずがない。人間はまず当初に占有する。この占有を破るものは権力であり、この権力に対抗するために使われるのが支配権力です。順番が違います。
 支配社会の歴史は、まず支配が発生してから始まる。それ以前の歴史の規定性が支配を生んだりなくしたりするのではありません。支配はいったん発生すれば、その消滅は、その社会の消滅か全人民の権力確保以前になくなることはありません。
 
 つまり歴史は、当然にも、より武力が強い集合性が決める。肉体の闘いにおいて武装が強ければ、彼らが勝つ。人民が曲がりなりにも支配階級と対抗できるようになったのは、徴兵制度ができてからです。つまり平民が武装してからです。過去、徴兵制度が支配を人民の手に取り戻す第1歩だったのです。
 それは、既に、その規定性を失ってはいるように見えますが、理由はシンプルです。資本主義的支配では、そのシステム上、武装は最低限で済む。
 ここでは、もちろん、武装兵団が徴兵せずにはおられなくなった歴史が必要でしょうが、それは現象態として、次回(その2)は、その底にある規定性に移ります。
 

 で、さっき見たら池田大作氏が亡くなったそうです。なんかいい人そうですが。聖教新聞のCMはだいたい好きだな。
 で、これが共産党にかぎらず、日蓮宗の人にとっても大っ嫌いなんだよね。他人事ながら面白いことで。おんなじ日蓮、どっちだっていいじゃん、と思うんだけどね。
 
 
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古い歌ども

2023-11-11 16:23:34 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、気温はやっと平年並みに、北陸、北日本はあっちこっち雪が降って、ずいぶんと寒そうです。突然変わるのはやめて欲しいですね。
 当家のベランダでは今年は暑さで40年来生きてるゼラニウムが瀕死。他方、シクラメンはひと夏中咲いて。枯れかけのホテイアオイもおととい咲きました。
 店頭もようやく秋らしく。リンゴがしだいに値段が下がり160円。いつもはスーパーの「ふじ」(サンフジ)ばかりなのですが、家人が農協の出店から買ってきた赤いリンゴ、久しぶりに華麗な味。あれはなんなんだろう、、まあ二度と出会いそうもないけど、人間いろいろ試すのがいいです。

 ちょっとニュースを覗きます。
「職場の昼食は毎日「ゆで太郎」です。430円の「かけ蕎麦」ばかり食べていますが、栄養は偏りますか? 蕎麦なら健康に良いでしょうか?」(ファイナンシャルフィールド)
 かけが430円! こりゃまた。天そば550円。
 ゆで太郎は都心の街路に出てるからねえ、、
 と思って田舎にもある「六文そば」見たら、かけ400円。昔、天そば260円だったのに、今500円、
 と思ったら、それは中延店のせいで、須田町店はかきあげ430円、人形町店は五目天そば330円。。。そういうのもチェーン店ていうのかね。
 ともかく、500円超える立ち食いそばなんて食いたくない。やっぱコンビニのり弁だな、430円。栄養もそこそこ。
 
 次、
「野球しようぜ!大谷が国内の全小学校にグラブ計6万個寄贈 野球界の未来のために「将来一緒にできたら」(スポニチアネックス)
 大谷のニュースは楽しいものばかり。ほんと、偉い。
 1校にグラブ3つだって。で、うち1つは「左利き」用! 野球選手だから意識は高いのかもだけど、考えもつかない。うちの息子は左利きなんだけどねえ、まるで意識したことない。心の中で恨んでるかな。

 次、
 全日本剣道選手権、ひいきの松﨑賢士郎、2着。
 勝負事は1着でないと無意味。
 ただ竹刀振ってるだけの若いのにやられたか、と思えば、きれいに小手を決められてて。情けなか。
 やっぱ、応援は大谷だな。冷たい観客。 
 
 次、
「共産から支援受ければ「推薦できない」 連合が衆院選基本方針、立民に圧力」(産経新聞)
 ほんと、連合は共産党並みにイデオロギッシュだね。いやな奴(ら)。とくに代表のあのおばさん。そんなのに入ろうとした社会党の今は後期高齢者、みんな口拭ってるけど、人間て反省ってできるのかねえ、、
 
 さて、今日はコーヒーブレイク。といえば最近は歌の話題。
 本日の朝日新聞の全面広告、
「私たちの青春の歌が帰ってきた!」なるキャッチで50~60年代の洋楽歌を集めたCDが出ると。団塊用。
 私はぜんぜん「私たち」ではありませんが、その全面広告に顔写真のある20名の西洋歌手たち、18名まで顔だけでわかるとこが昔の時代(パティ―・ペイジとダスティ・スプリングフィールドは分からなかった)。一曲の歌の寿命が長かったんだね。テネシーワルツもサビは歌えるし。

 youtubeでのいくつかの発見。

 「百万本のバラ」の原曲 ラトビアの歌で(ダーヴァーヤ・マーリニャ)っていうそうだけど、これ、加藤登紀子の歌うロシア経由のはうっとおしくて嫌いですが(昔はカラオケリクエストされることがあって困った)、これが驚いたことに、ラトビアのソ連帝国主義(覇権主義)へのレジスタンス歌だって。これは面妖な、、、youtubeで聞いたらほんといい歌。誰か日本語で出せばいいのに。

   幼い頃のこと 悲しみが襲うと
   私は母の胸で 抱きしめてもらう
   母はやさしく笑みを浮かべ 私の耳元で囁く
   マーラは与えた 娘に命を
   与えて、与えて、与えてくれた
   マーラは忘れた 娘に幸を
   忘れて、忘れて、忘れさられたままに
             訳 楓
      https://ameblo.jp/merrymorrow/entry-12365695938.html
     (「マーラ」とは女神のもよう)


 と思えば、湯原昌幸(という人の)の「ポーリュシカ・ポーレ」。
 これ好きでよく口ずさむのだけれど、残念ながら、そもそも反封建で立ち上がった農民を弾圧する赤軍の応援歌だって。
  「草原 草原よ 広い草原よ
   英雄達が草原を行く
   赤軍の英雄達が、、、」
     ば~~か。
     
 知らない?
 知らないのを知るのが人生というもの。
 で、このたび初めて知った吉田拓郎の曲。拓郎って知ってる? 名前だけ?
 50年前は、”浴衣の君はススキのかんざし、、” とか、こんなチャラい奴、と思って聴かなかったところ、youtubeで流してみた「人生を語らず」。
 
  ・・・
   教えられるものに 別れを告げて
   届かないものを 身近に感じて 
   越えて行け そこを
   越えて行け それを
   今はまだ 人生を 人生を語らず・・・
 
 おお、やるじゃん、さすが、時代だねえ、、、
 なのか、自分もチャラくなってしまったのか。。。
 
 次、尾崎豊、もうお子さんの時代だけれど。
 こっちは、本人のときは家も仕事も忙しくて対象外。
 で、その後知った曲のお気に入りは「僕が僕であるために」、若いってほんといいねえ、のところ、
 こっちもよい、「ダンスホール」、、


   あたいグレはじめたのは
   ほんの些細なことなの
   彼がいかれていたし
   でも本当はあたいの性分ね

   学校はやめたわ
   今は働いてるわ
   長いスカートひきずってた
   のんびり気分じゃないわね、、、
   

    これはわたしが年取ったんだね。いずれにせよ若いっていいねえ、、、
 
 
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ニッポンイデオロギー整理(その2)

2023-11-04 15:56:23 | 上部構造論
 こんにちは。暖かい(暑い)日が続きます。ちゃんと季節通りでないと、献立のほかに、掛布団でも困ります、そんなバリエーションないし。タオルケットか毛布の2択、タオルケット明け方寒いし。。
 しかし、昼間はだいたい暑からず寒からず、都会へ出ればなにかしら(安い)催し物をやってるし、大変いい季節ではあります。東京の人は仕事帰りにちょこっと無料の個人発表展に寄るだけでもそこそこ文化に浸れるでしょう、なかには買う奴しか客じゃないという画廊もあるけどね。
 ただ神奈川県民の施設は散らばってる上に電車が遠くて。近代美術館なんて良さそうなのだけど、バス(葉山)。ボルし(1200円)。

 さて、いい季節でも悪いニュースは絶えず。
「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」(共同通信)
「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は1日、国会内で民間団体と合同集会を開き、明治天皇の誕生日に当たる11月3日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。、、、立憲民主党の大島敦企業・団体交流委員長、日本維新の会の馬場伸幸代表や国民民主党の前原誠司代表代行らが参加した。」
 だと。なんだ、大島って。けんぽうしんさかいいいん、とか、履歴にある。
 自公や前原はしょうがないとして、ばかやろう。
 若人は知りはしないことだけど、11月3日はもともと「明治節」だよ。明治天皇を崇める日だ。そうやって外堀を埋めてくわけさ。その証拠に法律で外堀を埋め尽くされた自衛隊は、もう誰も違憲だなんてしりゃあしねえ。何が立憲だ。明治憲法と間違えてやがる。
 
「トヨタ世界生産が過去最高を更新 23年度上半期、505万台」(共同通信)
おなじみの輸出業界ニュース。こんなもんの金儲けのために円安物価高に毎日顔をしかめているだけの庶民ときたら。ほんとに羊。

 さて、以下はちょっと反省情報。
 新聞に論を張った「三木 那由他」というトランスジェンダーな人。おっしゃるに
カミングアウトした人は「きっと怖い思いをしながらそこにい」るんだから、あなたの助けを必要としてるんだから、って。
 私も古い人間で「関係ねえや」という基本姿勢であったところ、怖い思いをして立ちすくんでいるといわれちゃあそうそう無視もできない。
 だいたい人の感情反応パターンは、自分にない事態については了解を超える。しかして、「いわれなければわからない」。べつにどっちだっていいじゃん、と思っても、そう思えないんだ、といわれたら素直にそうかと思わないといけない。
 ほんと、どっちだっていいと思うんだけど、最近の子は華奢にできてるのはなんなんだろう。わたしのほうが華奢なはずなのに、、うちの子も華奢なんだよねえ、最近の子じゃないけど。 

 というわけで、普通の方はまた来週。
 今日の本題は長いの。
 ニッポンイデオロギー(その2)
 わざわざニッポンというのは、たとえば他国の戦争国家では全然状況が違うからです。
 で、こんなにも長々書くのは、単に本業にやる気が出ないからです。長期服薬の副作用でウツになるのだ、知らんけど。
 で、今回は、前回の整理です。整理なのでちょっとくどい。
 まず注意書きから。

 (注意の1)

 ここで扱うのは、発現・発出された言辞としてのイデオロギーです。
 全ての制度からは、いわば「イデオロギーを抽象・抽出する」ことが可能ですが、それはここでいうイデオロギーではありません。それは当該社会の権力の発揮方向の事実認知として、とりわけ支配イデオロギーの重要な源泉となるが、それ自体がイデオロギーではありません。
 ここでのテーマは、現在のイデオロギー、「つまり」、「変化する/変化させるイデオロギー」を扱うためです。

 (注意の2)
 イデオロギーとは、もちろん個人意識に密着している感情ではありません。さらにもちろん、行為者が「心に秘めている」信条でもありません。個人意識のうちの、人間相手に表明せられた、「他人に自分の意識として理解されたい」言語内容です。
 その言語内容に必須なものは、それが対手に伝わるべく表明されることから、
 第1に、共通の言語体系であり、
 第2に、相手に受け入れられたい正当性です。それが本当に自分にとって正当でなくともよい、相手に「自分の意識」の表明として納得されればよいのです。。
 個人行為者の正当性使用は、当該行為者の現在とされている表明目的によって変わる。
 個人なら同じイデオロギーを「持っている」わけではありません。個人行為者の環境は常に変わっている、しかして、そこで必要とされる外界の賞賛と優越も常に変化しているのです。

 (注意の3)
 さてところで、この手の話で面倒なのは、人間個人の千差万別性であり、個人の環境対応の臨機応変性です。個人はそれまでの自己の思い込み通りにしゃべり、あるいはそのときどきに意見を変える。まことにあてにならず、これをイデオロギーとかでくくるわけには、いきづらい。
 この事態をいったん消しておかなければ社会の理論を作ることはできません。  
 この状況を、一般に社会と具体的個人と捉えることは当然にもできますが、それはやってみればわかるように、とても煩瑣な問題であり、人間が日常、次の行為に適用するには実用性がないのです。心理学ならぬ社会科学においては意味がありません。このため、ここでは注意書きをしておきます。

 すなわち、支配権力イデオロギーあるいは対抗権力イデオロギーは、個人による差異を無にするのです、あるいは無視できなければ権力イデオロギーにはならありません。 
 ついで、下位集団の権力に依拠するイデオロギーは、より大きな権力イデオロギーに服する。これも同様に、より大きな権力イデオロギーは、下位集団が持つ権力を無にするからであり、あるいは無にできなければその権力イデオロギーは逆につぶれるからです。
 
 以下のイデオロギー現象の整理は、その発出されたイデオロギーの形態によります。すなわち、あるイデオロギーの裏に密着しているはずの人間行為者の存在形態について述べています。
 それは「ある人間行為者がこういう状況にあればそう行為するであろう」という設定ではないのです。ある(複数の)イデオロギーがその社会構成員によって発出された理由は、こうした人間行為者の選択によっている、という「説明」です。それはいってみればある社会現象の理由を知りたいという動機に応じた言説であるに過ぎません。
 たしかに「過ぎない」。過ぎないのですが、残念ながら科学の性質たる因果連関の立言は、説明とセットでなければ存在しえないのです。
 ポイントは、その説明によって成形された因果連関の立言が、次の将来の予見に、誰がなしても使用することができるか、ということです。その予見が将来の現実によって裏付けられた時、その説明は初めて、因果連関とセットにされる。と同時に、因果連関も一人前の立言として不動のものとなるのです。
 

 さて本題です。

(1) 権力を制度にする方途を持っている行為者におけるその環境対応

 まず、支配社会においては、行為主体の生理性も賞賛と優越も、行為の原則は基本的に制度によって左右される。そしてその制度は権力によって左右される。
 わかりやすくいえば「政治イデオロギー」集団関連の人間の対応時。これには政治投票行為を発現させる議会制国家内の選挙権所持人民の選挙行為場面を含みます。

 先に述べたように、今問題になっているのは選挙民の持っている具体的な思想ではありません。選挙行為を発現させるイデオロギーです。個人行為者は社会のいろいろな場面でいろいろなイデオロギーを保持する。今の問題は行為者が現に直面している状況なのであり、それゆえに、その状況は武力によって枉げられ、あるいは事実認知によって揺るがされる。

 元に戻って、この限りでの人間のイデオロギー発出の理由は、といえば生理的条件の確保であり、賞賛と優越です。
 ここで、資本主義時代においては、武力関連以外の状況においては、消費的生理性の確保に限定される。
 何度も言うようですが、行為者個人の生活すべてが消費的生理性確保にとらわれているのではありません。人は次から次へと通るいろいろな環境を生き抜いている。

(2)下位システムの賞賛と優越

 ついで、生理性が確保されている集合性、つまり若人や学者やイデオロギー闘争当事者らのような集合性内行為者については、ある程度の「自由」が利く。
 「真理」に価値が置かれる集合性では、タテマエとして、真理として遠くまで行っているイデオロギーが優越を得ます。
 タテマエといったのは、既に集合性において、その建前を基礎として、具体的な人間関係が編まれているので、具体的人間関係上の対応とも取れるからです。

(2)ー2 権力者的少数賞賛

 似た事情により、同じ集合体内賞賛と優越としても、権力を行使しうる集団にあっては、当該集団内行為者の自意識を形成した「時代」と、それを保持することがエリートのしるしです所属集団・準拠集団の様相で雑音が入ります。ただし、この類の雑音は、時代の中で消し飛ぶのは、前の注記に書いた通りです。
 
(3)権力上の被排除者による賞賛と優越

 もともと「正当性」とは、社会の賞賛と優越がなんらかの権力に維持されている状態を指します。
 権力行為から排除された人たちにとって、各行為者が取り結ぶ社会的交渉で発出するイデオロギーは、まず第1に、当時の公認道徳や民衆道徳(仲間内の道徳)を根拠として持たれます。
 ついで第2に、権力に対抗することが許可されている社会にあっては、そうした道徳に対抗する地点で、個別に紡がれます。
 いずれも理解不能なごく少数の意見が交じるのは、発言が個人に由来するからで、社会科学上の意味はその理解不能な意志が無視されるところにしかありません。
 
(4) 変革性イデオロギー

 さて最後に、人間には拒否の自由というものがある。たとえば権力者から「こうせい」と言われた時の信条。これを拒否するときに、賞賛や優越を超えて自己の意思を発現したいし、これをすることができます。
「いやです。」そういって去っていく個人行為者。本来は黙っていればいいものを、そこで相対的権力者に対してこう発したい。
 それは偶然の行為ではなく、対抗権力の雲をどんどん重くし、雷鳴にまでもっていく行為です。
 その行為論的根拠を個人の「超自我」と書いておけば世の中はの言論などは済むのですが、ここではあえて、普遍的公益道徳によると述べておきます。
 社会の庶民道徳は、その普遍性において、社会秩序の道徳となる。これが公益として公認された道徳ですが、これは抽象的に、反公益行為への対抗として、人間社会に埋め込まれるのです。簡単に言えば、教育で詰め込まれるわけですが。
 超自我が、いわば、行為に枠をはめさせられるのに対して、こちらは、自己の自由を根拠に、その下支えとしての抽象的公認公益道徳の下に、自己の自由を発現するのです。しかしてこれは、一部エリート的超自我形成に対して人民一般に存する機制なのです。

 と、誰かに読んでもらおうとは思ってなくて。
 ただ、ポイントは(4),です。



コメント
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