リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

方法としての弁証法・応用の部(その2)

2018-09-29 13:55:42 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。雨ですね。秋の長雨。この季節の雨は台風とセットになるせいか、きつくて嫌ですね。昔、外回りで自転車に乗ると、レインコートを着ても冷たいわ、メガネの雨粒で目は見えないわで、生きているのがいやになりました。来週は台風が過ぎるとなんとかおさまりそうですが。
 
 さて、ニュースは、普通の感想のものばかり。ニュースへの反応は、わたしは左翼というよりは普通、を心がけており。
 日米貿易交渉「トランプ氏によると、その結果、日本が大量の米国製武器を買うことになったといいます。」(赤旗)、不愉快だねえ、トランプのポチ公。普通の人も不愉快でしょ? 陸上イージスも秋田、萩、って変な場所なのは、ハワイとグアム防衛用だってえ話じゃんか(北朝鮮からのミサイルの通過地点)。その一方、もっと日本にとって有効な海上イージスは、金がなくて使うタマが買えない、ってお笑い種だね。愛国自民党は石飛を支持しろよ。でもこういうのは本質的?に男は好きなんだよね、フィルムを買わなくともカメラを買い増す(ま、昔話)、とか、将棋初段のくせに50万円の将棋盤を買う、とか。持ってるだけでウキウキするんだから反論もしがたい。
 次、「創価学会ブロック長 デニー支持訴え」(赤旗)おう、やるじゃん、創価学会。公明党なんか少し脅かしてやらねば。といってデニーって自民党だけどね。赤旗さえ(例によって選挙のため)節操を捨てる社会もいまいち。
 
 ま、ふつうなので、話題を変えます。
 しゃんしゃんちゃんが久しぶりにテレビに出てました。体が重そう。大事にされると太る。子供って、たくさん食べると親がうれしいんだよね。困ったものだ。
 
 ところで普通でも分からないのが最近目に付く「民主主義は嫌い」論。今日も川口 マーン 惠美とか山崎学日本精神科病院協会会長とかアベのお友達たちが民主主義をけなしている記事があるけど、けなすとなんかよいことがあるのだろうか。ネットウヨの言みたいに、彼ら特有のストレス解消になるのかねえ、「憎っくき朝日」みたいな。そんなとこにケンカの相手はいないと思うが。
 というわけで本日の役に立つブログ、藤田嗣治展が東京、10月8日まで(次は京都)。都美術館 例によって1600円。もう日がないよ。そういえば去年の運慶展いった? なかなかよかったね。藤田嗣治は中学生のころ見に行ったら、とてもよかったぞ。あの白い顔を描けないものかと水彩絵の具でしばらく努力したほど。あとでネタバレで、絵の具じゃなくて石膏を塗った色と聞いて騙された(だまされた)気がしました。まあ絵の好きな人は画集なんかもお勧めですね。
 
 それでは、風邪に気をつけて。ここんとこクシャミが止まらないし微熱もでます。いつものことですが。アレルギーなんだか気温のせいなんだか、、、

(割り込みP.S. 今日はお気に入りのタモリ、ブラタモリの番組の日で。見てたら山形県飛島の取材でした。酒田港の風待ち港で重要だったという、おめでたい話で。理系だねえ、、、
 いまどきは社会学的読者の皆さんも習わないんですかねえ、飛島といえば養子奴隷の島。「南京小僧」という名前で有名になったのね。いまどきのネットだと「つづきの村から」というところに、「南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、みんな貧しく、忙しく働いていたのである。」
 まあ、いまどきの人だから理系だねえ。
 もちろん歴史を度外視すれば養子奴隷など別に飛島に限ったことではなかった。けれども、そういう制度は「僻地」に残る。
 さらにもちろん、定着的生産共同体では同じ生産労働者を「特別にいやしめ」はしなかった。けれども「他の下郎と一緒に充分に」卑しめたのだ。別に今の飛島の方々に悪い思いはないけどね。そんな人間の個別の苦しみも分からず平気の平左でしゃあしゃあとつぶやく理系人間は、大嫌い。理系=いまどきの自称歴史学者だけどね。なんていってると、感情が止まらないので止めます。)

 (という挿入はおいて)
 だが、この先を覗く(のぞく)とまだまだ長い。スマホの人には見えないでしょうが。
 というわけで、本日のオタク題。最近多い以前の続き。年寄ると拙速に意味が認めがたく。だんだんしつこくなる。
 
 で、弁証法ですが、世に言う、「量から質への転化」だの「対立物の相互浸透」だの、そんなものは頭の悪い理系の奴ら向けのスローガン。実際エネルギーなんていろんな形をとり存在物であるかのごとく現象するんだから、、スローガンで元気付けないと現象にとらわれてしまうからね。しかし、社会現象は(すでに)そうではない。少数ながらまともな頭の持ち主ならすでに理論システム化への一歩手前までいける。大多数の頭の悪い学者には、科学を評論で邪魔をすることを止めてもらうだけでよい。

 と言うわけで、今回は、始元からジンテーゼまでの、理論者が取り扱うべき属性について。
 私も哲学は趣味でもありますが、こんなのは見たことないぜ、みんな火事でも見るように遠巻きにわいわいやってるだけ。したがって、今回も哲学史であればヘーゲルの次に位置させるべき一行であろう。
 
 さて、本題。始元から結論までをどう展開するか。
 人間にとって、ある規定性、つまり「お前はこう動かないとひどい目にあうからそうやれよ」という要因。これを見つけたとして、それをどうみんなに知らせるか。という問題です。
 先に言ったように、頭がまともならそれは見つけられる。見つけられない学者は、事実を確定させる仕事だけに専念するように。ただ、それを表現するのはそう簡単ではない、ので簡単にしようということです。
 さて、社会事象について、研究者が「普遍的人間」として見たときに「同じもの」として把握するしかないものが、別の規定性によっては別のもののように見える、あるいは見うるという場合がある。赤いリンゴと青いリンゴは同じはずだが、初めてみる人間にとって、それらは同一ではない。でも研究者にとってリンゴはリンゴだ。同じなんだけど、こう違う。その意味をつかもうとすればそれをトータルに扱いうるというのが弁証法です。と例にしてみると、ほんと理系なんて頭は要らない、単純作業だね。
 
 ま、ともかく、弁証法的叙述といっても、簡単なことは簡単。ある事象とある事象とは違うといってもそれがちょっと考えれば分かるシンプルな差異であれば、単に「次章で照射方向を変えますよ」といえばよい。たとえば、すでに蓄積のある社会・人文科学であれば、照射方向の変更はすぐに理解される。それでよい。
 しかし、取るべき別の選択肢が世間に認められていないときにその叙述を完成させるには、「同じものだ」ということを強調することになる。まあ哲学者のような、自分でやったことのない人にはわかりませんがそういうことです。
 一般に、「巻」や「編」やらと括られる(くくられる)単位はそうです。「正反合」とかいって、3部構成にするもので、研究者個人の趣味を越える。普遍的な分類法はないでしょう。世の中そううまくはいかない。それらは研究者の趣味で、あるいは志向で、どう問題を照射するか、その照射的立場の表現となるしかないでしょう。まあ例外はあるでしょうが。
 例外はよいのです。この大括りの3部門は自由なのです。論者の視点に従って、設定可能な3点なのです。資本論だって、そう偉そうな分類で出来てるわけじゃあありませんぜ。
 もちろん、資本論も3部全てが合わさってようやく一人前になること自体は変わりませんが、今の問題は、「どういう形でも3部「の内容」が表現されていればいい」ということをいっているわけです。
 
 さてしかし、本当の弁証法の優位はそんなところにはない。
 もとに戻りましょう。
 今問題となっているのは、そこではない。その内実たる始元の行方です。
 始元が存在するのは、あくまでダブった要因があるからです。だから分析して異質の「反」を析出し、しかして統合する(=正)。この場合、人間の分類意欲は、「これ、もとのままだったら(私=人間にとって)よいのになあ」という行為的順序において、この「もとのまま」を阻害する要因が異質なため「反」と名づけるわけです。
 ほんと自分で書いててクリアに書けてると思うのですが。
 ダブったものの規定性を、一通りずつ分けて書くことで、いわば3次元を2次元化できる、というわけです。
 剰余価値と資本は同じものではありますが、その規定性は別です。しかして別に分けて書き、あとで現実として合体させる、これは2つに限らず、ひとつのダブりを終えたら次のダブりの解決に向かう。そして、同様にダブりを個別化し、あとで合体させる。
 ところで誤解があると思いますがこのとき、ダブリとは「正」を形作る2要因ではありません。たとえば「商品の2側面性が使用価値と価値だ」と言ったときに、この使用価値には触らないのです。使用価値は保存されて資本までいく。触るのは必ず一方の側面だけなのです。
 まあこういうことは自分で悩んでみないとわからない。分からない人には不要な論議ではあります。私は哲学には興味がないので。
 
 さて次に、もう1通りの優位があり、それがいわば量から質への転換。まあこれはスローガンなので、力から質の転換でも、好きにしたらいい。どう言おうと同じことです。
 つまり、継時性、あるいはいわゆる歴史性を考慮する。
 ある規定性の中には、時間が経つと変化するものがある。この扱いはマルクスにはまるで理解できなかったようです。「規定性は歴史の推移で変わるんだから、規定性の旅は歴史を作る、従って私の資本論の論理は歴史的になるはずだ」と信じていたんでしょう。ヘーゲル主義者ですね。なので、いまでもマルクス主義者はそう思っているはずです、もしもまだ非転向者が生存しているなら。
 ところが残念ながらそうではない。それは継時性の中身は、資本論の場合、「経済」は歴史の全部の要素を持っていない、という、単純な、かつ、もっともな、理由によっています。前提にないものを論理の中には組み込めない。われわれはヘーゲルにもマルクスにも義理立てをする必要はない。単に、別個に、あらためて、扱えばよいのです。
 
 長くなりましたが、あなたが自分の理論を持ちえそうだ、と直感したとき、もう一度お読みくださいませ、このサイトがそのときにまだ存在すれば。
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人によって役に立つかも。

2018-09-22 14:18:49 | その他
 こんにちは。秋ですねえ。夜には虫がキョロロロロと鳴いています。エンマコオロギでしょう。ネットで鳴き声を聞くと可愛いですが、相当うるさい。そういえば、夏の初めに「6月からこんなに蝉が出たらお盆までには生まれすぎてもういなくなるのでは」という懸念を呈しましたが、そこそこ持ちましたね。でもうちの方では朝夕のうるささは平年より減ってました。朝夕はカナカナ(ヒグラシ)くらい。それももう終わりですが。
 
 さて、相も変わらぬ不愉快なニュース群。樹木希林氏が「楽しいことなんかない。けど、面白がれ」と言い残されたそうですが、人間ができてらっしゃるんでしょう、なんも面白くねえ。
 それより前回は完璧に役に立たなかったので、ちょっと意識して2題。

 一つ目。「国内第2位の健康保険組合、解散を決定 51万人が加入
 派遣社員や家族約51万人が加入する「人材派遣健康保険組合」が21日、組合会を開き解散を決めた。加入者数は国内第2位の健保組合。企業と従業員が折半する保険料率が9・7%まで上昇し、負担を軽減するため。」(朝日新聞デジタル)
 だってさ。そこでお知らせ。解散はいいけど、その後は、それぞれの会社で政府管掌健保というところに入ら(せ)ないといけないんだよ。各会社の派遣社員の皆様、そこのところをよく把握してくださいませ。とぼけて「社員の皆さん、みんな国保に入りなさい、保険料は会社でもってやるよ」なんていうやつらがいるからね。国保じゃあ医者にかかる費用は同じでも、厚生年金加入が消えちゃうんだよ。厚生年金と国民年金は、貰える年金額が倍以上違うからね。お気をつけください。次に入る(べき)なのは会社ごと政府管掌健保(=政管健保)。それぞれの会社が引き継ぐんだよ。そうでないと法律違反だよ。とりわけ家族持ちはよく把握するように。
 というわけで、一般常識。
 健康保険組合(=組合健保)でも政管健保でも、どちらかにはいっていれば、年取って厚生年金が出ます。なんで年金が関係するの? と聞かれれば、国でそうゆう取り扱いなの。
 で、「わかった、でもどうせ何らかの制度のお金を払うんでしょ?」 といわれればそうじゃない。
 派遣社員くらいの給料なら、年金は自分の分を払うくらい取られれば、国民年金で妻の分がタダになるくらいしか払わないで済む。日本語難しいね。あとでまとめるね。ついで、健康保険料も、国民健康保険で妻や子供の分がタダになるくらいしか払わないで済む。
 言い換えましょう。片働き夫婦と子供2人の家族で、会社が政府管掌健保に違法に入らなければ、本人は、本人以外の費用として、奥さんの年金料に20万円と、奥さんと子供2人の国保代、年に10数万円(地方自治体で違う)、計、年に30数万円は余分に払わないといけない。
 おおごとでしょ。失礼ですが致命的な額では?
 なぜそんな違うって、組合健保・政管健保加入なら年金料は半分は会社が払ううえに妻はタダだから。子供の保険料もタダ。さらに、健康保険は、会社の健康保険は構成員が若い奴しかいないので、病気の支出が少ない=保険料額も少ないから。
 かたや、国民年金は半分は国費だけど、残りは全員が払うから。さらに国民健康保険は、半分以上国費は出るけど、何しろ構成員が年寄りばっかで医療費が出る一方=保険料が高いから。
  
 「分かったよ、でも会社が入ることだろ、俺関係ねえや」って。そうじゃないんだな、これが。会社は持ち出しが出るんで政府管掌保険には入りたがらないの。上の記事でも、だからやめた、って書いてあるでしょ。(「企業と従業員が折半する保険料率が9・7%まで上昇し、負担を軽減するため。」)。入らなきゃ。その分、名目上、給料も上げられるし。なので会社は隙があれば、「後は社員お前らで勝手にしろ」って話になるの。そうでないのがほんとだよ。でもあなたのとこ、そんな立派な会社じゃないでしょ。それ違法だからね。そんな場合は労基署に言いつけたほうがいいよ。ほんとうは健保協会・厚労省とかの仕事だけどね、奴らもグル、、、失礼しました、「必ず味方になるわけじゃない」のでご注意。なら実態に即してるでしょ? 「うん」といわれちゃおしまいだが(この辺ただの悪意です)。(労基署は管轄が違いはします、が信用できる。)
 こんな話初耳? 10年前ここで書いた気はするけどね。しかしそんな生き死にに関わることは高校で教えろよ、バカ教師共が。(実は教えている、全国でごくごく何人かの社会科の教師様だけには失礼いたしました。)
 
 長かったですね。学生その他の正社員(予定)等の方には関係ないかもしれませんが、世の中思うとおりにはいきません。
 もひとつ、一般向けに役に立つ話。
 魚焼きグリルの窓の焦げ付きが余りにもひどく、お掃除。あなたなら何を使う? 洗剤? 落ちやしません。ネット情報だと効果があるのは、1温水で重曹。2塗料はがしを塗る。というもの。もっともめんどそうなので私は試してはいませんが。
 じゃあどうする?
 ここでお役立ち用品。ステンレスのペーパーナイフ。洗剤で汚れを緩ました後、これで削る。「それは金属ヘラってこと?」いいえ違います。ポイントはカーブ。刃がついてないのに封筒の紙を破るため、ナイフにはカーブがあるはず。そのカーブを焦げ付きに当てて、その接点に力を集中させる、というわけです。私は昔のプラス・ステンレスペーパーナイフS型だけど、今のプラス製品はギザ刃付とか書いてあるんで傷が付いてダメかも。つるつるの刃のないペーパーナイフでやってください。ちなみにこれは他の什器も焦げ全般に適用可能。洗剤で浮かして、焦げを削る。当然少しづつ削るわけで、ぞんざいな人はダメです。ぞんざいな人は重曹系漬け置き1時間をお選びください、できるかどうか知りませんが。あと神経質な人もダメかも。「削ったら微妙に傷が、、、」とか言わないように。私は神経質でもぞんざいでもないめんどくさがりやです。
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理論表現の構成の前提(その小さな続き)

2018-09-15 15:40:10 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日も雨。この地面を冷やし続ける雨の後にまた暑い日が来るなんて信じられませんし、実際もう来ないでしょうね。
 涼しくなったせいか、なにかと周りも賑やかになってきませんか? 私の周りもそうですが、私は自分の世界がかき乱されるのは好きではなく、ブログも乗らない。
 
 ニュースもたいしたことないよね。たいてい一言発言済みだよね。物事が終わってからぶうぶういうのは嫌い。
 そういえばまた北海道野菜、あれこれ不足する、って? いつもそんな不足話ばかりで半分疑ってるけどね。野菜の値段はこの6年間、それまでより5割は上がり続けだよ。
 いずれにせよ北海道は日本の野菜の倉なんだとさ。そんなとこで原発がつぶれたら大混乱だね。まあどこでつぶれたって大混乱だけどさ。そういえば、うちのほうじゃ、福島で野菜の値段が上がった記憶がないなあ、その秋以降から高くなった。
 
 たんたんとぶつぶついってますな。
 
 気を取り直してネットニュースを見直せば、和歌山のパンダの写真が。可愛いね。名前はまだ無い。レッサーパンダの女の子もいるよ、もふもふして。蘭花ちゃんだとさ。東北サファリパークってどこかい? と思ったら二本松だと。二本松は東北か。福島は関東地方ではないかい。中通りは東北線で平野の中走ってるといつのまにか着いちゃうからねえ。白河の関が歴史上すぐ消えちゃったのも当然。

 ぶつぶつですな。
 本日はまるで役に立たない。
 漫画の代わりの本の話題ですと、佐藤満彦「ガリレオの休職活動ニュートンの家計簿」。これはなかなか唯物論的で良い本です。私は山本義隆は大好きですが、「一六世紀文化革命」とか最近の著書はどうだろうか、物理学的かもしれないけれど、社会科学徒用ではない、としか。まあだから物理学なんでしょう。
 元に戻って、本書。本旨はいいとして驚くのがルネッサンス以後20人くらい載っている科学者への悪口雑言。佐藤氏じゃなくて、昔からの評伝者が書いたそれ。(実は佐藤氏にも感じられるが)。「陰険で、野心的で、賞賛を過度に熱望し、反駁されると我慢できない性格」ニュートン。「稀有の異常性格」キャベンディッシュ。「気難しく、底意地わるく、そして疑りふかい悪玉」フック。「不遜な態度に自信が加われば、世間の鼻つまみものになるのもやむを得まい」パラケルスス。「自信家で横柄尊大な」ティコ・ブラーエ。「係累の金銭無心の四面楚歌から長女のもとに逃れた科学者」ガリレオ。「やや歪んでいる(肖像画の)口は、粗野の現れ」コペルニクス。エトセトラエトセトラ。見てると山本氏の叙述の高貴さが恋しくなる。「あほか。全部おめえのことじゃねえか」 といわれそうだ。私のように20年後有名になる予定がある人間は、他人に勝手なことを書かれる前に自伝を残すのは一つの方法ですね。まあ自信家で横柄尊大。
 
 というわけで、軽く(ちょっと難しく)前回の続きで終わりにします。
 漫画の代わりに(宇野経の)鈴木鴻一郎「一途の人」なる本を借りたら、梅本克己の批判をしていました。梅本が「原理論でも労働者階級の社会変革とのかかわりあいが説かれるべきではないか」と言うのに対して「梅本氏といえども原理論では資本家を資本の「人格化」として以外には説くことはしないであろう。同様に、首尾一貫のためには、労働者もそこでは労働力商品の「人格化」以外のものとしては説かれえないはずではないか。」だってさ。まあみなさん100人中100人がそう思う、という方へ1票。ところがぎっちょん、私が前回述べたことは、通じてないほうに1票は賭けるが、そうではない。隈氏は、資本家は資本の人格化「としてしか動けない人間」として描け、といっているのですぜ。同様に、労働者も同様に、自分の境遇にくやしいながら、あるいはそれを僥倖として、労働力商品の人格化としてしか動けない、しかし、そんな「人間として」描きますわさ。この実質同じようでしかし天と地の隔たりを持つ修飾語の意味は、まあ、指摘されれば100人中20人はわかっていただけるものと思いますが。
 しかし、鈴木のこのような発言は、降旗節雄だったら「おいぼれはうざいだけ」で済むんですが、原理論を歴史へつなげたいと思っていた故鈴木鴻一郎の言としては零点。だからなにもできずに世を去ったのさ。そもそも原理論にありうる矛盾を書かずして、じゃあどこに矛盾の現実化が生じうるんだね。現状分析? ありえねえ。前提にも無いことが忽然と現れる「理論」など、そんなものは論理ではない。科学から外れた評論だ、ということは100人のうち10人は、そうかも、と思われるでしょう。まあ私の理論の評価は20年後だからね。そう思えば科学主義者宇野が「労働力の商品化の無理」と「原理論に」一行(実は何ページも)書いたのは(新版原論だと言葉はないかな)、さすがに行き届いた処置だったといえる(しかし、梅本が「いいたかった」ように(知識がなくて日本語にならなかったように)、それでは足りない)。だめじゃ、鴻一郎。人のよさそうな人だから先生はつけようか。鈴木先生。
 なお、別な話、宇野の岩波新書「資本論の経済学」の話が出ていて思い出した。あれは驚異的にわかりやすいけれど、記事が、弁証法構成ではなく、トピック形式なんだよね。そのほうが分かりやすいのかなあ、、、まだ迷っている。
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理論表現の構成の前提

2018-09-08 13:31:48 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。相変わらず災害列島、困ったものです。台風は警告できますが、地震は警告できないし。しかし、田んぼのためにわざと山の裾(すそ)に家を建てるんでしょうかね。それで子供たちを養うんでしょうが、それも困ったことです。それにしても、まともでない地面に住むのも売るのも止めましょうよ。広島の場合とかひどかったですよね。世の中には業突く張り(ごうつくばり)の地主が多くて、あんなのざらな話ですが。ともかく、まず土地を造成しない。ついで、安くても買わない。いったん家が建てば、本人は死んでもよくとも次に誰かが住みますからね。社会的責任というものです。
(別な話、北海道の山がなだらかなのは地層が古いから、と聞いてたけれど、地震で崩れるからじゃないか)

 さて、ここんとこ大方の人には役に立たない記事が続いて肩身が狭いので、むりやり、役に立つことを挿入。といっても知ってる人は知ってるでしょうが。
 「安いうなぎの食べ方」
 先日姉に教えてもらった料理法。テレビでやってた、とのこと。
 ネットに頼ると、「「得する人損する人」でサイゲン大介さんが紹介していました」https://shirutoku.info/unagi-oishii様、というもの。
 スーパーで中国産680円、消費期限今日まで、3割引というのがありましたのでやって家人に食べさせてみましたら(私はうなぎは嫌い)、評判上々。浜松の旅館で出たうなぎより、よっぽどふっくらしている、とのこと。この「ふっくら」が売りのようです。
 なんでも安物のタレが諸悪の根源のようで、しかも中国産ときたらどうしても洗い流したい、で、流水やら漬け置きやらで付いている全部タレを流してしまいます。このときに水を吸わせるのも重要な要素とのこと。
 で、風味付けにお酒をちょっとかけて魚焼きグリルで蒸し焼き。
 さらに、「付属品のタレに醤油小さじ2杯を加えます(塩味が加わり、香ばしさが出ます)。そして、レモン汁を少々加え」レンチン。かけて出来上がり。とても簡単。
 ネットと違う?
 違わなきゃわざわざ書かないさね。
 このレシピの問題が、蒸し焼きのとき「うなぎを挟むように(ほうじ)茶葉の入った器をうなぎの両側にそれぞれ配置します。」ってやつで、水っぽくなるから香ばしさをつけるんだそうです、が、いかにもめんどくさい。この手間があるだけで作りたくなくなる。まあ今回は、いちおう形だけやりはしましたが、香ばしいかと家人に聞きましたら、「山椒を振りかけたらなんだかわかんなくなった」とのことで、形だけするくらいなら、なくても問題なく美味しいようです(山椒はかけましょう)。
 以上、役に立つブログでした。
 
 話は変わり、本日の話題は読書感想。
 去年だか「誰か読みました?」と聞いたことのある、モントゴメリー&ビクレー「土と内臓(微生物がつくる世界) 」片岡夏実訳。図書館の予約が途切れたので読んでみました。人間の腸の内部は 植物でいう土壌なんだって。まずは、植物に土壌は要らない、水と空気があればよい、とこの30年ばかり聞いてきましたが、そうじゃないんだって。根拠は書いてないけど。ともかく経験的にそんな植物は生き残らないんだと。土壌内の微生物が植物の生理を正常にするんだって。下肥とか堆肥とかあんじゃん、あれが健康の元。と同様に、(小腸はただの消化場所なので)大腸の中は微生物で汚いほどよいんだと。悪玉菌もいていいんだってさ。
 まあ内容は藤田紘一郎と同じだけど、やはり「土壌と一緒で細菌が多いのが良い」という整理は秀逸。しかして、堆肥の代わりに人間は野菜繊維を食べるべし、ということになる。専門の学生はそう覚えると、新しい類推仮説が沸きそう。
 (といっても、本全体ではたいしたことない。ネットのレビューにあった「モヤっとした(部分が多い」本というのが正しいが、( )内は不要。全部もやっとしている。この訳の題は意訳で勇み足の訳題なのだけれど、しかしこれがなかなか本質的だ、と思われるだけ)
 
 ついで、図書館持参のバッグの隙間が余ったので借りた、「社会システム理論」とかいう本。登場人物の宮台真司とか今まで気の知れなかった人間の気が知れてよかった。疑ってたとおり、彼らには学問が遊びなんだね。信じられない。そんなら毎週遊園地詣でをして人生を過ごすほうが面白いじゃあないか。まあ人それぞれだけど、そういう趣味で大学で学問を教えていていいのかね。ふつう、教授が遊びだと思えば、教わった人間もそう思うわな。どうせ大卒の肩書きが欲しいだけだから、楽しけりゃいいのか。私の時代なんか、そんな気持ちで学者になった同年配以上はいなかったけどね。(P.S.学部出て、そこそこの一流企業に入った先輩や同輩の方たちも、社会学教室出身者は、その企業の良心となった、と、外見上見えます。重役とかにはなれてないけどね。失礼ですが、子供たちの将来のための知識で。)
 いってみれば、やはりまだ生き残ってた「社会学は人間の数だけある」シューレ。まあ「研究者の数だけある」よりは民主的でよいけれど、それって「井戸端理論の作成法」というのが的確だと思う。「なにいってんの、だってそういうものじゃん」と、いわれるところが世代の断絶だね。わたしは断絶していてうれしいし、あちらもそうでしょう。そんな時代は所詮(しょせん)、世界史のあだ花。「花」であればだけれど。
 
 で、本題。
 前々回に概念は歴史的だ、といいましたが、実は因果連関の解明は歴史的ではない。因果連関には時間的な継起はあるが、構成する概念の歴史性を除けば、その表現に歴史性はない。
 「そんなはずはない」「それでは形式社会学だ」あるいは「宙に浮かんだ観念論だ」とかまああるでしょうが、人間の頭脳というのはそうそう複雑にはできていない。常に、いわば、眼前的にできている。今、目の前で物事が展開するのを捉えるようにしか表現できない。これを無理して「歴史的」に書けば、その時点で他人には伝わらない。歴史は人生の全てだからです。せっかく抽(ひ)き出した要素は、他人の目の前から消えて、混沌とした歴史が立ち現れるだけとなります。
 というわけで、次回論究、いまだに構成をやってるのですが、歴史的な因果連関をどう埋め込むか、どうもフィットしないので、あれこれと参考になるものを探していたところ、ふと見れば旧版の黒田寛一「宇野経済学方法論批判」。そうなの、こういうのを探してたんだよね。
 世間の人たちは、武谷三段階論とか、梯経済哲学とか、武市弁証法とか、って、ただの幼稚な図式、子供のようなもんだ、と思うでしょうが、これが不思議。40歳前の人びとは蓄積がないから、くだらないと分かったって自分で体系だてるすべもない。で、40過ぎて充実して、さてどう体系作ろうかな、と思ったって、もう体系方法論が湧き上がらない。中年では、あっち考えているうちにこっちがすっ飛んじゃうんだね、過去やったことのないことだから。40歳過ぎたら幼稚くらいでちょうどいい。自分で体系立てようなんて思うのは、社会学徒1万人いたって99.99%。そもそもいないから誰もその意義が分からない。
 というわけで、それを提示してくれた人には素直に偉いもんだと思うしかない。黒寛(くろかん)も然り。嫌いでも言ってることはまともなんだからしょうがない。かっこつけてるのがうざいけど。
 まともといってもそれは宇野理論とはなんの関係もなく、研究者が自分の作品作成にあたる際の心構えを、延々と述べているだけ。場所的立場、ってやつね。研究者も、その他の人間のその他の生き方と同じように、主体的でなければならず、当然「その作品もそういう構成をとる」はずだ、と。おっしゃるとおり。宮台の「対偶」みたいなもんだ。趣旨は当然なんだけど、構成のとり方としてはなかなか難しいところもあるの。なので、時々本書を開いたほうがよい。といって、本の内容は何度もいいますが、遠巻きに延々と綴り続けているだけ。
 ちなみに、哲学徒と付き合いのない方のために、哲学徒なんてみんなこんなもん。いいかげんなところで修飾語を取りちらからして悦に入る。実は本人何も分かってはしない、誰が何を書いても永遠の序説。ま、それでもそのあいまいなところはそれぞれで自信があるのでしょう、あいまいだからなんとでもいえる、そっから先、なんにでも化けられる、口先は。幸いほとんど哲学徒とつきあいはないですが100%そうなんじゃないですか。3人が3人そうなら、100%。
 いや別に悪口ではなくて、そういうもんだというだけですが。
 黒寛もそう。しかし、おかげで人間の原則というものを思い出す、というところです。これは同じ政治家であいまい哲学徒の広松渉の及ぶところではない。
 
 

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部分システム下の規範の形成

2018-09-01 16:21:34 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。ようやく9月で、どちらさまももうひどい暑さはなさそうですね、台風は別として(台風915ミリバールだって。あぶねえよ。でかすぎ。特別緊急警戒警報的指示がでそう)。東京地方はもう桜の葉が落ちたりしてます。雑草はなぜかいつもこれからが旬なんですが。
 
 さて、ニュースは、昭和年寄り批判の体操業界への飛び火、がんばってますね。塚原光男とか、権力で腐って若い頃の栄光も台無し。弱きものは人間か(元からとの説も)。18の小娘に「全部うそ」とか「名誉毀損」とか、それがそのまんまパワハラだっておいぼれにはわかんねえんだよね。
 他のじじい、昨日なんか、「兵庫県宝塚市教育委員の男性(72)」普通学級で頑張ってる子に「難病児、養護学校が合う」 発言(毎日)なんちゅうのもあったよ。人間、権力からは60歳で手を引けよ。もっとも具志堅体操協会副会長は61だと。年寄りの鑑だね。人気が出ても、すぐやめなさいね。誰でも腐るから。
 
 ついで、自民総裁ほとんどアベ一人。ほんとにいないんだろうね、できるやつ。みんな金魚の糞だから。自分ひとりじゃなにもできない。「石破茂元幹事長(61)は25日、総裁選への立候補を表明した際に掲げた「正直、公正」のキャッチフレーズを変更する」(毎日)。自民党で安倍晋三首相への「個人的な攻撃」と受け止められたそうな。どこがさ、自民党、ひとつひとつ挙げてくれ給え。お笑い草だぜ。この草を食べると笑い転げて死ぬんだぜ。で、えらそうな元自衛隊大佐参議院議員・佐藤まさひさ氏は石破を軽く裏切ってアベについたそうな。イラクいって部下だった自衛隊員が何人自殺しようが気にも留めない奴だからね。取り巻きのネット囃子も同じ穴のムジナだし。ムジナに悪いがそんなもんさ。ただ問題は福島出身というくらいで。
 
 「中央省庁による障害者雇用の水増し問題で、厚生労働省が28日に公表した調査結果。 不適切に算入した人数は3460人」(毎日)だと。すぐ是正するんだそうだから、いっぺんに3千名が安定職に。今年は障害のある方、チャンスですね。人間、運のよしあしって絶対あるし。
 いろんな障害のある方と働きましたが、仕事さえセットできれば私には何の問題もなかったです。今はコンピューターが進んで、全盲の方も事務できるんですよ、お若い方。ただ、その職がそうそう多くはないので、お一人その職に就くと二人目はちょっと大変、というのがあるのね(足の悪い方とか、そういう障害は大丈夫)。ごまかした3千職を順々に30年で割りつければ、年に100人ずつ助かる理屈ですが。30年で退職はしないけど、時代は進むかもしれないし。
 もちろん、それで障害者の大部分をカバーできるかったって、無理ですけどね。にもかかわらず、それは規範を変えてゆく。今までごまかしてた企業も「国もそうだろ」とはいえなくなる。40年前からみたら障害者を取り巻く世界は見違えるよう。
 違いは40年前は左翼と老人支配者が変えたけれど、今はリベラル大衆が変えられる、ということで。
 逆かな。常にリベラルが変えるんだけど、40年前だけは左翼とくたばりぞこないが変えた、というのが正しいか。
 まあ定式化しても応用しづらいんでやめましょう。
 
 さて、本日は、「旧『日本的労務管理』の形成」。また題が違うね。
 「社会の部分システムでの規範の形成」じゃあいかにもオタクの極地。それにもめげず訪問された方、あなたは偉い。
 しかし、こんなところで抽象的な話はできません、て、いつもしてるけど。話は具体的に。
 というわけで、話はシンプル。人間は現在を現在与えられた環境を現在持っている力で生きるものです。労働者は毎日毎日生きて分かっているように、労働者我々は50年前のことなんか知らない。現在の状況下で、現在に見合った適切な生き方を選択し続けている。ところで、自分の次の瞬間をどう選択するか、といえば、その考慮の対象は、経営者の横暴と、これに対抗しうる「私の会社」の対抗権力と、その選択のおかげでクビになったり自主的に退職したりするときに「それでもいいや」と思える人間関係です。
 自分で書いてて納得したりしますな。
 で、この与件をまとめますと
 0 当該登場人物像をめぐる
 1 生理性と
 2 対抗権力と
 3 行為共同性
 35年来、常に変わらぬ隈理論でさあ(もっとも、前回の理屈に比べて相手が現実なんで、事実認知要素とか多少は複雑)。「部分システム」というのは、諸要素が限定されるので、資本主義や国家が、直接にはでてこない、という意味。そんなことは実証時には当たり前なんだけど、統括理論があるので、いちおう「部分」といっておかないと。
 で、前回の富永の本にも出てきたんで、こちらを例にしようかというのが、旧「日本的労務管理の特徴」です。
 
 さて、今解明が必要なのは、労務管理という現象でも、その現象を引き起こす諸事情でもありません。先行研究が厚いからね。旧日本的労務管理は、とりあえず「第1次大戦前後、重工業の大企業・官営工場から発した」でいいや。「なぜ大企業・官営工場がそんな労務管理をしたか」。経営者の考えも労働者の事情もすでに経営社会学が幾重にも論じている。それはいいのね。さてと、だからなんやねん? というわけです。そんな事象の経緯の叙述は因果連関ではない。社会学は歴史学か? いいや違う。社会学はその現象の存在や存在経緯ではなく、その現象の発生の因果連関の法則性を語らなければなりません。経緯と因果連関はどう違うか。因果連関とは、いつの時代にも使用できる法則による説明です。旧「労務管理」は現在の労務管理ではない。じゃあ現在の研究をしなければならないのか? しかし常に新は旧となる。あたりまえ。社会科学は歴史学ではない。常に「じゃあ今はどうか」を、研究者ではなく、教科書で法則を習った高校生でも分かるようでなければならない。
 というわけで旧「日本的」労務管理とはなんだったか。すなわち、西欧先進資本主義国では労働者の行為規制は労働者を取り巻く労働者組織のものでした。鍛冶職、製図工、石工、、、めんどくさい、クラフト・ユニオンです。例が出てこないのは私のせいじゃない、ネット上、浅学がいや先学が列記しないのだ。時間の無駄、知らない方は調べてください。そんな労働者の権力と賞賛は労働者組織にあり、資本家の世話になどなりはしなかったのです。
 第1の段階。ところが後進国の日本にはそうした労働者組織がなく、会社が自己の指示の下に工場技能工を育成した。この権力的指示だけが自分の行為世界である状況で、ここでは労働者に影響する権力も、しかして労働者の行為の行方も、労働者が生まれた「イエ」(農業・商業)労働世界と一緒で、「会社」にあった。だから、大企業以上労働者には「イエ」イデオロギーがフィットするのであり、もちろん、そのフィットが自己の権力世界の認識(村長・商家長の行い)と合致する中間管理職も存在するのであり、そうした下位社会が存在したのであり、だから、戦前世界は半封建的なのです。
 仕組みは常にシンプルです。哲学的社会学者が「百万遍」を語る必要などどこにもない(唐突ですね。現在探求中のそっち方面に呆れ気がさしていて)。
 第2の段階。この大企業の行為と大企業労働者の行為は、大企業を経営する政府・政商の権力とともに、中・大企業に広まるべきであり、中・大企業の規範は、中企業でも取り入れるべきである、と権力階梯内の人間は考える。この「べき」さが、経営者が認知する、企業間権力のなしうる業というわけです。これが労務管理イデオロギーです。
 後付けの「学者」が、「いや計算上、当時そんな会社は2、3割もなかった」といってみてもそれはごまめが歯ぎしりしているのと同様です。当時は小・零細工場でもごまめの歯ぎしりで負け惜しみを言っていたことでしょう、しかしそんな非力な者の発言は権力社会にあっては、行為論上の意義はゼロです。最近の若い人の歴史学(や叙述的経営学)ではその類いの「数的処理」をよくみかけます。人生で生理性の条件というものを知らない幸せさですね。しかし全部、行為者が死んで消えた後の後付けです。まだ生きてるけど。
 ということを書くと、間先生の正統のお弟子さんから「おぬしのいうのもわからんでもないが、だからなん? 求めてるもんがちがうだけじゃろ」といわれるでしょうね。だから、前回言ったとおり、2通りの志向があるわけで。私のは社会変更論の例解だけ。
 まとめ。「一方からの権力的指示だけが自分の行為世界である状況では、周りの登場人物がそれ以前から持つ規範の合理的適用が、行為者の行為の選択合理性となる。」当事者は、この規範の持つ合理性をなんとか自己に有利に変形して使用しようとする、というわけです。
 
 というわけで、教科書に【例題】をつけるなら、次のエポックメイキングで、「同じ公式を戦中の政府官僚・企画院の規範の形成に適用してみよ。」というのもありだな。あんまり評論をするのも好きじゃないけどね。「なんだ、評論か。科学じゃないのか」って? わたしゃ戦前の政府官僚なんて知らんからね。科学には基礎事実が不可欠なのですよ。社会科学は実証的でなければならない。【例題】には「企画院官僚」が持っていた彼らの行為環境を「仮定の所与」として付けておかなければならない。ついでに【応用例題】で、「この場合、現実の説明に足りない要因があったら、挙げてみよう」というのも上級高校生用にいいかな。
 それはともかく、実証は私の任ではないからね。それどこんじゃないし。今現在の認識では、こうした形式社会学的定式は、それがいくら真理だろうと非アカデミッシャン(=非大学教授)が山のように提出したって誰もみやしないからね、経験済み。ソクラテス然り。まずは、行為者が共時的、継続的に把握するはずの世界像を示さなくてはね。世界像があればその隙間を埋める努力は自然に後続に任せられるんじゃないかな。プラトン然り。この場合端緒の後続は、アカデミズムとは関わらない、ただの、といっちゃあなんだが、左翼ね。要するに私がそうであったように16歳の高貴な人間さあ。キミ、期待してるよ。プラトンはただの中年前の東大生級だから、プラトン以上になるんだね。
 というふうに、ストレスは解消しないと大変なんだよ、こんな孤独な作業。
 
コメント
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