リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

いわゆる「知的生産の方法」

2016-03-26 21:26:45 | その他
 こんばんは、日中はちょっと用事で。また寒くまりましたが、桜は卒業式ではなく入学式に似合いますね。
 
 世間は相変わらず不愉快なだけの(誰でも非難する)ニュースしかなく何も言うには値せず、と思ったら、大西英男「巫女のくせに」発言、東京都選出が情けない、どこの都民が選んだんだ、と思えば江戸川区「オンリー」。なにそれ。衆議院というのは村役場の議員のことか。
 で、鳥取は県で衆議院2人? おかしい。1票の重みとかいうが、こっちのほうがおかしい。東京なんて各区域で出す必要などありはしない。23区を(大)ブロックで分けて1人ずつで十分。村からおらがとこの衆議院議員を出すな(=均質地域で議員1人。あとは比例代表の意)。まるで農協出のアメリカ下院のようだ。
 それじゃあ選挙者の権利の不均衡がどうとかいうなら、(過疎の)議員を減らすんじゃなくて、採決権にウェイトをかければいい。東京代表は一人5点。鳥取は1点。無用の議員は不愉快だが、ともかく利害の異なる地域には国政への発言の場を与えなければいけない、それが先決。
 もっともいずこも同じ村政治に発言の場が与えられても自称代議員にしゃべる内容などないか?
 (怒って書くと舌足らずでいけません)

 さて、ストレス解消にもう少しヘーゲルで遊ぼうかと思って、加藤尚武「哲学の使命-ヘーゲル哲学の精神と世界」なるものを借りてしまいましたが、アタマの5ページで10箇所も「なに言ってんだこいつ」箇所がある。呆れて読むのをやめました。
 わたしなどお人好しなもので、加藤はヘーゲル研究者というからまだマルキストだろうと思っていたのですが、様子が変だと思ってネット検索すると彼は「日本を代表する保守思想家」なのだそうな。へ。
 ったくブントはバカばっかりだ。
 他もみんなバカだ、というなら言い換えましょう、ブントは全員無責任だ。
 ときどき思うのですが、樺美智子氏が生きていたら(加藤のネット情報で出てきた)、絶対革共同にいったと思うんですよね。そういわれてしまえば誰もがそう思うんじゃないでしょうか。若ければ山本派へいくはずのところ、黒田のハッタリはみえみえだろうから中核へいって数年で挫折という道程。セクト選択なんて性格と人付き合いですから。
 
 日々のストレス解消感想はこのぐらいに、本日は趣向を変えて、創造的言語表現派労働者の皆様へのご参考。創造的文章の書き方。よく年寄りが書く、知的生産の方法、というやつ。まずは、長文をどう書くか。
 昔、よわい二十歳過ぎの社会学学生時代、システム論でなんかやるだろうという期待の吉田民人が東大に来た頃の話。
 「吉田はカード(京大カード)を部屋中にぶちまけて適切な組み合わせの塊を作ってそれで論文にしている」と聞いて、なんちゅう浅薄な、と思ったその頃はマルクス(体系の)尊敬派の私でしたが、その非難は必ずしも正しくありませんでした。まあ、学生の非難など吉田は屁でもないでしょうから謝りませんが。なにしろその頃私が作ったのは、実証的ではありますが、理論は個性的なだけのシンプルな独断的システム論。そんなものを作るよか、沈潜してしこしこ命題作って近代知性の(私の今の巨大理論の1%程度の)大理論を作ったほうがよかったか、と思うところ。もっともそんなのには間先生は主任教官にはならないから、なんでも塞翁が馬。
 で、結局のお薦め。
 私のやり方はB5白紙を二つ折りにして、その頃、始発の電車で座って、B6に鉛筆で走り書き。これで2、30分先の駅までで400字強を書くことができます。私の場合、いっときにこれ以上は創造的アイデアはわきませんのでちょうどいい。
 で、独身の間はカネがありましたので(コンビニパンではなく)食堂代も出ますので、昼休みはなるべく空いてる食堂へ行って、そこでもB5半分ゲット。そんな私のいきつけの食堂はみなすぐつぶれていくわけですが、それは私のせいではなく、元からです。
 今でもあまり変わりませんが、書くのは朝の頭が慣れた職場着以降、メモ紙に小さい字で400字弱。ちょっとバカになりました。しかも昼はアイデアが浮かびません。
 これらを昔は夜中にやはりB5白紙に詳書して、溜まったところで手書きで原稿用紙に書くわけです。この作業では頭がキャンバスですから若くないとなかなかつらい。
 今はパソコンがありますのでテキストデータでメモしとくだけ。これを昨今のようにまとめあげるわけです。
 
 まとめ方は、テキストには必ず頭書きに題を付ける。そのファイルをたとえば今回の場合10個のフォルダーに分ける。
 そのフォルダー内の数個から10、20、あるいは40個のファイルに入れる。ただ、40個は後処理がきついので、分けた後さらに細分化。1つは20個以下にする。
 これをフォルダーごと、1つのワード文書に挿入、1つのフォルダーを1つのワード文書(一太郎文書)にする。どれか1個をまずいれて、その前後に直感的イメージの順番で挿入し続けます。テキストファイルをわざわざ変えるのは、内容文書の部分部分に色を付けたいため。このとき、題は消さない。
 その後、打ち出して、2次的に正しく、構成し直すのですが、今では体力の低下により夜間作業ができず、到底まだそこまでは行きません。若い方は楽勝で幸せだ、ということがまだ自分ではおわかりにはなれないでしょうね。
 ともかく、これでは吉田民人となんぼも違わない。
 結局、なんでも途中経過はどうでも、最後に80点で上がればよいのです。
 
  なお、その先の先までストレス解消に述べておけば、わたしよりも左翼な文を書くと書店流通させてくれませんのでご注意。資本家を甘く見てはいけません。
 
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こまごまとしたこと

2016-03-19 11:47:05 | その他
 こんにちは、桜の蕾もふくらんで、春ですね。
 私儀、毎年の鼻炎→風邪路線の最後にいますので、現状、楽。免疫が風邪用にフル回転中につき、アレルギーが起こらないようです。ただ体力の総体的低下により、始業時に貧血が出て困ります。低血圧的脳貧血。貧血は倒れるのが一番楽なのですが、そうすると周りがびっくりするんで、なんとか血流を少なくし、他方心臓を鼓舞するというめんどうな。まあ始業までちんたらしていて突然モードを切り替えるのもいけないのですが、アルバイトが率先して仕事をするのも異常ですし。
 
 さて、なんか問題なニュースはありますか?
 yahooの見出しですと、
 ・民主党が人気投票で民進党へ(一発で変換された。単語には強いMsIME)。
 賢明な選択。「立憲民主党」などとどこのバカの案か。これを避ける人気投票だろうけど、らしくなく賢い。まあ世渡りは得意なのだろう。なんでも適当な名前でお茶を濁しておいて、10年ほど待ってまた「民主党」にしたらよい。と思えば、社会党も、まだ世間が右にいかないうちに潰れてたほうがみんなのためだったよね。もう20年前潰れて空白だったら、あと5、6年の右翼社会の中でおもむろに「社会党復活」をうたえば新鮮だったのに。共産党への左翼バネにもなるし。
 
 ・トランプ優勢
 いいじゃん、今のうちにトランプ政権させて、下層階級の歪んだ目を覚ましておいたほうが良い。後では民主党の左バネが効かなくなる。クリキントン負けろ。
 まあ、これはお茶飲み話ですが。
 
 ・保育士払底
 どこにだっているじゃん、元保育士。待遇がまともじゃないからみんなやめるんじゃん。
 それも給料をスズメの涙上げればいい、ちゅうもんじゃないしょ、これは本人じゃないので知らないけれど、30歳過ぎて収入のある夫がいたら、月1万円の増収より自分の子どもの世話ができる時間を貰わなきゃ、普通、やでしょ。
 朝4時起きやら夜10時帰りやら、冗談じゃないぜ。しかも身分は派遣て、何?
 それを月1万だ? 1園で保育士フルタイム3人増にしろ。知らないけどね。こんど調べとこう。
 
 ・高校の政治活動を届け出制に
 なにこれ、よくわからん。届け出って、俺らのころは許可制だったぞ(中堅都立高)。生徒手帳に書いてある。なんでも東京では旧ナンバースクール高校(旧制男子校中学)にはないそうだ、と、なんとなく不愉快だったが。
 だいたい許可だろうが届出だろうが、誰も気にしちゃなかったし。学内集会にだって定時制の反戦労働者はゲバ棒(変換されない。毛唐のIME)持参だったし。
 といっても、今の世の中では実際届けたりすんだろうね。そんなら政治活動など何にもしないほうが、まだしも10年後の生徒のためだよ。ほんと、すべては歴史となるんだから。
 それはそうと最近の子どもたちの遵法精神はなんなんだろうね。
 10年ほど前になんか転換点があったんじゃないか、と思うんだ、その頃忙しいんで世間のことは知らないけど。8年前の職場が変わったときの歓送迎会で、久しぶりに高卒の新採たちがいたら上役が「未成年は酒飲むなよ」「はい」とかいうんで耳を疑ったもの。面白くもねえ冗談だ、と思ったら本気なの。くそみたいな上役だなと思ったけど、それ以降、どこへいってもその調子。へええええ、みたいなもの。 
 今じゃスーパーでも酒買うと画面押させるし。俺が18歳か、あほんだら。
 10年前いったい何があったのかねえ、小泉のせいか?
 なお、こうゆうのは上部構造でも次回本では扱いません。データのないものを扱うと、理解社会学=個人の感想にしかならないからね。
 
 というわけで、この連休で次回本の第1次構成に突入します。とつぜん4月からも別のところで頼まれてアルバイトすることになって、楽しみだった執筆専業がすっとんでしまいました。ので、いたしかたなく貴重な連休、小分け前倒し。
 まあすべて塞翁が馬。人事を尽くせば天命が下る。
 昔、右翼の上役がいて、右翼のくせに共産党支持の労働者でも助ける。いわく、「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」。
 なるほど、右翼でさえそうなのだから、これは普遍的に正しいというわけで。

 
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PS.詩人と黙祷

2016-03-12 20:20:22 | 断片
 あの中学生に過失致死罪を犯した中学校校長が、(全校)生徒に黙祷をさせた。
 そう、NHKニュースが言っていました。
 また、安倍は東日本地震被害者に対する黙祷を、国家関係者にさせたようです。
 
 この野郎。
 
 黙祷というのは仲間が死んだ仲間を悼んで捧げるもんだよ。
 加害者が「黙祷」を第3者に告げるなどと、そんな正義があるわけがない。
 それは、自己欺瞞、他者欺瞞の行為だ。
 
 自らに罪のある者は一人寂しく黙祷せよ。
 自らに罪のない者だけが他者に黙祷を薦めよ。
 まして黙祷を命ずるなど。生徒も部下も、お前の罪を負ってはいない。
 
 人は、ほっておいても仲間に黙祷を捧げる。黙祷は、「第3者」には告げられない、悲しい人々だけの行為である。
 
 糞が。

 この国には、生きてきたその自分の生の感情のために命を懸ける人間はもういないのか。


 命を懸けて反抗して死ねといっているのではない。反抗できないこと、それが何もできず唄うだけの詩人の原罪、被支配者である人間の原罪なのだ、といっている。
     
    しかし、いつまでもそんな世が続くと思うな。


     なお、このトップページ変更はしません。


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埋め草

2016-03-12 11:13:14 | コーヒーブレイク
 こんにちは、また冬に逆戻り。来週火曜から春だそうです。ともかく鼻炎で寝られない日が少なくなるのはよいことです。
 
 さて、次回本、寝られない夜間と朝の通勤電車で積み上げた立言もそこそこ数十枚追加され、内容の7、8割は出来上がったところ、あとは構成と整形ですが、これは寝ながらではできませんので棚上げ。4月からの自由な時間を待ちます、が、そういうわけで漫画の代わりの本の感想以外はこのページには手が回らず。
 本日は埋め草で、例によって中原中也賞、2016、、、
 、、、う~~ん、例によってお達者で。候補者もお達者なだけ。賞の趣旨がまったく不明。お達者でいいならH氏賞があるのに。
 
 というわけで、そうではなく、今見つけた現代詩人賞、尾花仙朔。知らない賞に知らない人ですが。88歳だって。すごいね。
 あまりの年齢でファン層のメディアが違うのか、ネットにはほとんど詩情報がない。谷内さんという人の、これは文章内だから著作権とは関係がないブログから継ぎ接(は)ぐと。以下。

     「化外の書」

     (第2連以下)
 
 ママン いとしいかあさん
 赤紙一枚 国家の召集令状で
 戦場にいったあなたの父 ぼくの祖父が
 白木の箱のただ石塊(いしくれ)に変わって帰ってきた
 そのとき あなたの母ぼくの祖母は語ったのだね

 白木の箱を石塊でたたきつけながら
 ママン 祖母はあなたに生涯くりかえした
 《これが せめて遺髪であったらよかったのに》
 祖母は泣きじゃくり 泣きじゃくりながらあなたに頼んだ 
 《年老いて もしもわたしが惚(ほう)けた人になったら
 父さんの 白木の箱を包んでいるこの白い布で
 わたしの首を絞めておくれ 後生だから……》

 ママン 祖母は恍惚の人になった だがあなたは
 祖母の頼みを聞き入れなかった
 あなたを誰かも見分けがつかなくなった祖母を
 あなたは看取(みと)り
 祖母は何年も幻の世をさすらい
 ある日 滑るように月の裏側に隠れていった 平穏に
 ああ ママン それなのにそれからあなたはぼくに
 祖母があなたに頼んだ言葉をくりかえした
 《わたしが もしも病んで身動きできなくなったら……》と


   尾花という人はもともと「荒地」派なのに、受賞者候補者の若い衆と比べたらまだしも本質的に中也と思える。
   「荒地」というのは、中也と同じく、歌唄いなのだね、結局。
   生を懸けた歌唄い。
     彼らに比べて、なんとも幸せな若い衆だね。
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復習的論理学批判

2016-03-05 10:51:23 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。すっかり春めいて勤務先近くの公園では白木蓮が満開。もっとも木蓮は冬っぽいですが、いまどきの公園は花の植え替えリースの花壇なので、特に綺麗ではありませんが春のようです。
 方や、人間世界は季節文化もカネにまみれ、一昨日のひな祭りの日に帰りがけ、某玉川高島屋に行ってオモチャ売り場を通りましたら、五月人形フェア。鎧兜に自動小銃、はまだないですが。いまどきは武者人形は子ども(である親)の住まいに入らなくて拒否されるせいか兜が多いようで。
 はどうでもいい。ひな祭りの日におひな様がデパートで威張ってなくてどうするんだ。そりゃ3月3日に売れるわけはないが。わたしが安倍だったら日本文化を守るため商工大臣に(いつの話だ)デパートディスプレイを命令させるのですが。こいつは保守じゃなくて、ただの資本家の手先ですね。
 とはいえ天気予報の渡辺蘭ちゃんなどはいつも作るという折り紙の雛人形飾りなど持って当日朝のテレビに登場。わたしの中で点数を上げました。
 
 とまあ、これはウサ晴らし。今日も気が引けますが前回の続き。新しいジャンルの本を予約するにも時間と気力がいるので、前の流れで広松の「弁証法の論理」なるものを取り寄せましたら、失敗。うじうじうじうじ、俺がなんでお前の自問自答に付き合わなきゃならないんだ、状態。
 たまたま図書館に広松の恩師の大森荘蔵の「思考と論理」があって立ち読み。昔読んだ彼の論文はくだらなかったのですが、この本に「現実認識は言語だ」、と書いてあったので広松との対比でちょっと借りてみました。うじうじせず論旨がきっぱりしてて良かったです。
 が、内容はくだらない。
 「まず言語化されていない生のままの経験があって、それを言葉で「表現」するのが言語化だという誤解である」「しかしそうではない」 そうです。
 あ~あ、というのみ。
 経験なしに何が言語か。
 ただし、ここで大森にとっての言語ないし言葉とは、単語ではなく、文法を持った連なりとしての言葉のことです。
 さらに続いて、「無意味な世界に人間的意味を与えること、それが言語の働きなのである」んだそうで、「言語が世界のあり様を制作する」んですと。
 なにをいうのか、机上の生き物が。ほんとにキミが口に運ぶものは元は生きてたんだよ、と教えてあげたい。
 トラだってライオンだって思考はできます。さらに、「ミケ」やら「ポチ」やら自分に与えられた「名」は猫にとっても犬にとっても思考の要素です。昔の名前すぎますが。これを否定する人間は机上で寝ている人間でしかありえません。俺は寝てないって、いや、ほんとは君は寝ている。 
 もっとも、大森にとって「名」は言語ではないのですね。もちろん「危ない!」「助けて!」 という言葉も言葉ではないのです。なにそれ。
 言語化しなければ「無意味な世界」???
 この男は机上で寝ていれば食うものは自然に腹に入ると思い込んでいるようです。
 世界は言語の有不有を問わず、生き物にとってはかけがえのない意味世界です。「そんなこと断言するな」、って言うやつとしゃべるのはただの時間の無駄ですね。
 だいたい論理学なるものは、数学と同じく、たかだかある過程の静的な局面を写しているに過ぎません。ここで「たかだか」とは、そんなものは人間にとって無意義だ、ということです。
 もっとも数学は自然の量を表わせ、それによって自然の姿をよりクリアに見せることができます。一方、論理学は、といえば「人間の考え」を写しているにすぎないので、これをどう動かそうが演算をしようが、人間には「何もわかりはしない」のです。
 だれが「赤い花は赤い」といわれて、何か情報が伝わるでしょうか? うるさいだけですね。
 あるいは「正義は正義だ」も同様。
 俺はそんなことはいってない? 話はここからです。
 人間というのは、「赤い花が黒い」ところから生きていくのです。あるいは「正義は不正義だ」というところから考え始めるのです。なぜ赤いか、そもそも正義とはなぜ「正義」なのか。そうして正義が国家権力にあることが分かったとき、「正義が不正義」である意味を知る。
 いやそれはそもそも「赤い」くはなく、そもそも「正義」ではないのだ? 同一律は真理である?
 だからお前はバカだ、といっている。
 生きている人間は彼にとって「赤い花だから」その矛盾に驚き、彼にとって「正義だから」その矛盾に驚き、真実を解明しようとし、その真実を解明するのです。
 論理学者は生きている人間が真実を解明した後に、イスに座ってお茶を飲みながらその手柄を盗んで、「ほら実は赤くなかったろう」といっているに過ぎない。「うるせえバカ、外野はだまっとれ」とキミだって生活していたら思うでしょう。科学は、人間の生に資するから科学なのです。
 
 なお、ちょっと深入りして言うと、そういう形式論理という写真のような平板な図柄も、理論上「人間の考え」を発展させられるのではないか、といえば確かにリクツの上では人間の思考の0.01助くらいにはなるでしょう。すなわち、「アイデアマンである俺はいつもどんな風にアイデアを出しているのだろうか」と反省した場合に、その「俺の思考法」をなぞれば、忘れていたアイデアを思い出すかもしれない。これは経験的認知事項に過ぎませんが。
 特に、弁証法の論理は、その具体例(たとえばヘーゲル小論理学)を頭の中で転がしながら社会事象を考えると、新しい立言が見えるときがあるものです。
 しかし、これは人間一般に資することではありません。人間のアイデアとは、どう考えるかではなく、考えにどんな事実を使うか、という問題なのです。人間の考えの発展を一般的に支えるものは、その考えの素材に、どんな自然の要素を使うか、が99%なのです。

 まあなんといっても相手はもう生存されてませんから無駄ではあります。でも代わりにおかげさまで教授の給料を貰っている大森の弟子たちがいるのだから彼らがこの非難に答えてくれればいい。
 それでも、彼のような発想は間違っているわけではありません。それを形式論理学とひっつけたのが間違いなだけです。
 ふつうに「言語は人間に特有の思考を促し、さらに人間に特有の現実の再構成を成立させる」 といえばいいのです。
 こんな当たり前のことをどうしていえないんでしょうか? もちろんそれではマルクス主義に刃向かえないからでしょう。
 といっても、これに対して自称マルクス主義者が困ってしまって、「言語など関係ない、それ以前の世界を探るのだ」と生理学構制に落ちていったんでしょうか。
 
 さて、実はここまでの内容は主に「行為の集成」とか「歴史としての支配」とかでお話し済み。ここから先、大森が恐れたマルクス主義=弁証法の優位は、残念ながらマルキストの誰も気づいてないので、アナキスト隈が教えてあげます。ただし、次回の本で。
   って、もったいぶって、ね。なにしろ結末が(また)巨大になるので。
 
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