リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

資本論の弁証法の誤り(その2)

2013-03-03 10:55:59 | 行為
 こんにちは。今回は昨日の続き。こんなの長期間やってると迷惑な訪問客の方もおられるだろうし。

 で、引き続いて、「始元」問題。「資本論の」というよりは、「社会の」、ですが。

 「始元」というのは、論というのはどっかから始めますよね、で、対象が大きいものだと、さて、どこから話し出しましょうか、という、その初めのことです。 物事を叙述するのに、その対象に特徴的な事柄を初めに論じだして、それにまつわることを深めていく、ないし広げていくと全体像が把握できる、という手法で。
 経済社会の場合、マルクス主義者の間では、資本論がそうであるように、始元は商品であるように取りざたされています。 まあ、それだからマルクス主義者というんだね。
 しかし、それで、経済社会がわかるんだろうか? 人間が、著者本人が、生きて生活しているその社会が分析できるんだろうか? ま、私は、わかんね、っていってるわけだけど。
 
 もともと、マルクス自身をみればいい。彼が自分の疎外状況を自分で取り沙汰したことがあるか。いいや、ない。
 彼の理論では、エリートは必ずエリートのまま生涯を閉じる。マルクスは自己には何の反省もなく、ただの文筆プチブルのまま生涯を閉じた。

 しかし、人間てそういうもんか? いやそうではない。
 ドイツ観念論者が偉そうに言いたいことをいって150年、日本ではそれを乗り越える思想運動が起きていました。全共闘運動のことです。

 70年日本は、アジアレベルの世界市場資本主義体制では、支配階級の市を占めていました。1955年以降、日本は、アジア人民の労働力を自己の国家の消費物資に当てるよう努力を続け、それから10年、努力が実になったことはたしか3,4回前にも話題にした気がしますが。
 その中で、支配階級の突撃隊長を勤めていたのが東大卒以下のエリートサラリーマンたち。
 そして、勃発した学生紛争の中で、それを問題にして闘争としていったのが、日本の諸大学の全学共闘組織でした。
 すなわち、彼らは、マルクスと異なり、自己の疎外状況を問題にし、行動に移したのです。
 残念ながら彼らの主張はアジビラにしか残っていまあせん。しかし、エリート支配階級自身の疎外を問題にしたのは、日本の全学共闘会議をもって嚆矢とすべきなのかもしれません。
 「ません」なんて弱気なのは、なにしろ活動家人民の主張は、アジビラの中に消えてしまったからでして。日本の学生のビラはウンザリするほど読みましたが、同様の運動が起きていたドイツ、フランスのアジビラを私は読んでいないので。
 いえ、日本でさえアジビラはすでに消えてしまってますね。ようやく証拠として提出できるのが、東大全共闘議長、山本義隆「知性の叛乱」くらいか。そこでは、過渡的な疎外への反抗が記録されています。

 さて、前書きがすごく長くなった。
 本来、人間が生きている社会を人間に即して分析するのであれば、始元は、生産物(である商品)ではなく、消費物なのです。全共闘学生(を牽引した部分)は、大人になった当時の子供たちが書き立てるように、お祭り騒ぎで面白いから闘争で安定した人生を投げうったわけではない。彼ら自身がどういう状況の下で日常の生活を得ているかを真剣に考えたから、命まで投げ出していったのです。
 マルクスは何を食べて自分の生命を確保したか。エンゲルスからの食費の供給であり、報われない妻同然の女中の料理であり、あるいは彼の生理生活をトータルに維持管理した妻某の労働でしょう。そうした自己の状況を解明せずに、他人事の「経済学」を披露して人生がわかろうかなどと、片腹痛い所業もいいところだ。
 もう一度言いましょう。経済社会の始元は、消費物資なのです。もちろん、資本論で生産物商品から始めて交換価値を解明したことは、結構な偉業ですけどね。それを経済社会の始元にされたらそれは違う。
 
 さて、にもかかわらず、消費物(としての商品?)のマルクス的解明では、なにも分かりはしない。 それは自称のみの概念的把握にすぎない。
 前回述べたように、マルクス出現以後150年、いまだにヘーゲルが重んじられているのには理由があるわけです。消費物資はどのように人間の手に入ってきたか。その歴史を語らなければならない。
 
 ここまででマルクス主義的には、論議はおしまいね。
 
 しかし、毎度のようですが本当のことを言えば、消費物資で展開すればみんなが分かる話になるか、というとそうは思わない。
 消費物資の歴史は、消費物資の入手形態の展開の歴史である。すなわち、支配の歴史である。人に分からせるには、資本主義社会におけるその展開を叙述するしかない、と思いませんかね。
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