リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「神の手」のその根拠

2013-03-31 21:34:42 | 行為
 こんばんは。東京地方ここんとこずっと寒く、咲いた桜がさほど散らずに残ってはいます、が、そうはいっても寒い曇り空では私などはお花見気分になれません。私はすごくずっと前の晴れた日に見ているのでいいんですが。
 そんな満開の桜の原宿の一角で、本日は甥ッ子の結婚式。いいですねえ、結婚式って。どなたさまも若いときは幸せがいいです。
 年取ったっていいものはいいわけでしょうが、中高年的には、そう思いませんかねえ、ご同輩、、、ま、ご同輩はあまり読者として想定していませんが。

 さて、本日は、理論好き読者用。従いましてお題は、サッカーではなくアダムスミス、”神の見えざる手”の話。
 
 そりゃなんだ、というと、よくまとまっているので、日経の記事らしいですが、お借りして。
 『個々の消費者や企業にとって、市場メカニズムは目に見えない。だが、ある与えられた価格に従って自分の利益を追求するように行動するなら、財の需要量と供給量が変わり、価格が調整変更され、やがて需給が一致する均衡が達成される。

 均衡で達成される需要量と供給量は、無駄のない資源配分を反映している。消費者や企業が自分の利益を追求することで、社会の利益が高められるのである。』
http://cbc-souken.co.jp/cbc/2012/07/post-28.html
 
 しかし、見えざる手といっても別に事態が見えないわけではない。そういう調整は人間でもやろうと思えばできる。ってゆうか、そもそも資本主義的生産活動は人間がやろうと思ってしてるわけでして。「これ売れてないの? じゃ生産絞って」って。中央集権生産は、やり方がいいかげんなだけ。
 
 で、今日のテーマは、神であれ、人間であれ、調和的な活動ができる根拠は何か、ということで。
 なにそのテーマ、って、何をいいたいかは答えをいうと分かりまして。
 
 つまり、資本主義的生産活動ができる根拠は、初期社会主義者が主張するように、「所有」である。
 しかし、それはマルクスが言うような国家の基礎になるものではない。
 逆に、階級国家において、諸階級の国民が調和的な活動ができる根拠は、支配武力の貫徹なのであり、資本家の生産は、この武力に支えられた『所有権』の崇高さに基づいているわけです。
 つまり、日本のどこかでは工場で製品を作り、営業マンがそれを売り、家庭ではそれを買って自分達で使用する。他方、そんな生活を後押しする官僚と、また日本のどこかで、そんな生活など気にもとめず、日夜日の丸に向かって敬礼しつつ国家を守ろうと訓練を続ける自衛隊員がいる。そのトータルなシステムの根拠は、資本主義社会、その他の階級社会においては、支配武力であり、またそれに支えられた『所有』である。
 
 いや、何をいいたいかというと、ブログ2回前にマルクスの『所有』概念をばかにしたわけですが、そこを隈理論を知らない人間が読むと、私が『所有』概念自体を否定したかと思われるかとも思い。
 
 ほんとブログって話が通じないで面倒ですよね。いわんやツイッターをや、と思うんですが、ツイートで満足できる「言いたいこと」って、そんな軽い欲求って、わかんねえなあ、、、ま、それはいいや。
 
 で、続き。じゃあ、無階級社会では見えざる手はありえないのか、という話。
 そこには国家に守られた「所有」はなく、「占有」しかない。
 そんなものは隣の人間の武力で木っ端微塵だ、という展開ですね。
 
 いやそれで、私はこれまでは階級社会しか扱ってこなかったので、「共同体権力」という言葉を時折使っていたのですが。つまり、「過渡期社会にも共同体権力は残る」、みたいな。
 その『権力』なる語もちょっとねえ、と思いまして。
 で、今後、無階級社会の表現では、『占有の安定の根拠は共同体的利害である。』 みたいに、「共同体利害」というのが分かりやすくないか、と。ほんとは『行為共同性的利害根拠の同一性』ってゆうんですけどね。
 わかんない言葉使うより、近似的に分かるほうがいいやね。ほんと、エンゲルスは偉いんだよね。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ユニーク主義者の御期待にお答えし

2013-03-25 21:36:59 | 断片
 こんばんは。あいかわらずそう(世の中に)は納得的でない今日この頃。今日は、休みにもかかわらずお天道様があんまり体力を使うなとおっしゃりたいのを私に伝えんがため、東京地方、寒い雨。おかげで私はちょっと体力がありますので、くだらないですが、ニュース対応を。
 常連の方には、こいつがなんかいってりゃ世の中まだしもやる気が出るんだが、とか思いません? 私は他の方に対してそういう気があるんですが、みんな死んだようだとどうもねえ、、、

 検索ニュースによれば、なんでも自民党が「文科系大学試験にも理数科目を」いれたいんだそうな。
 自民党の文教族というのは、財務族とは違い、天皇をすめらみことにして、あとはアホの人民に規範を叩き込めばすべてうまくいくと思ってるだけのバカですから、本当の知識過程などわかりゃしません。
 それにしてもまあ、お里の知れた。
 「わしゃ社長だから、学歴必要ないのは分かる。だけど、ほんと技術者が使い物にならんでよお。これじゃ産業戦争はできんぞな」
 
 というニュースを読んだ読者様の一部は、「ここのブログ主は、算数、因数分解1問のみ正解の5点で大学へ入った、と威張ってる奴だからなんかいうだろう」と思っても不思議ではなく。
 ただ問題は『そんなバカにかかわってもバカなだけだぜ』と、本人が独り言をしただけで。
 
 まあ、しかし、なんか不愉快だし、そういうことで、自分でもくだらないこといってんな、と思いながら本日は娯楽ブログ。
 
 だいたい、自分の好きでもないことをする天才がいますかね (いやしませんぜ)。アインシュタインだってファインマンだって、数学・物理以外は落第生ですぜ。
 もちろんファインマンなんて評価しないインテリは多いでしょうが、それをいうならアインシュタインも同じ穴。なにも偉くはない。偉くはないけれども、そのユニークさとしつこさが、世の中で天才と呼ばれる結果をもたらす。
 しかし、ユニークさとしつこさには、他種領域など入る余地がない。他の何かの科目の成績も良かったら、それはたまたま好きだっただけだ。
 
 その事情が理数系にのみ適合するという理由があるだろうか。自民党のバカに代わって言えば、いや、ない。
 天才は好きなことしかしない。
 嫌いなことをして大学へいきそして出た人間は、ただの秀才という。それは秀才諸君が一番わかっていることで、自民党のバカは隣の高級官僚に聞けばよいのだ。自民党も野党ボケして官僚が怖くなっているのだろう。
 
 ま、こんなことはどうでもよくて。
 あえてばかばかしいテーマを取り上げたのは、なんで大学の試験て2科目以上もあるのかねえ、という疑問で。
 1科目でいいじゃん。
 1科目、たとえば美味しいラーメンを作る人や、あるいはブローチを多種多様に作る人は、どう考えたって、その他の道に行っても、高級官僚と同じであっても以下ではない能力がありますぜ。そこが秀才や、秀才にもなれない凡人にはましてわからない。(ただ、スポーツ1芸というのはどうも次元が違う気がしますが)
 
 ま、わたしゃ世間ずれしてますんでわかります。凡人は、いくつになっても好きな道なんて手に入りませんから18歳で人生の道のポリシーを知ってるなん想像もつかない。しかして他人もそうだと思うしかないわけです。
 ほんと、凡人が文部行政に口を出すと、ろくなことになりませんな。

    ふん、ま、公平に言ってウサ晴らしですね。でも後半は真理だな。そういう(1科目な)人たちは、高級秀才と同様に、必ず自分の頭を通して、考えてますから。


 P.S.おっと、エロトラックバック以外のトラックバックがつきました。なんだか面白そうなサイトです。よろしかったら下記へどうぞ。
コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加

再三のように「生産概念」

2013-03-21 21:35:17 | 行為
 こんばんは、春ですね。ここで普通ですと東京地方のサクラ情報を書くのがおなじみこのブログですが、ちと不愉快で。

 ここんとこ、次期配本物の構成上の問題で、ちょっとマルクス主義者の歴史過程論を見直して。
 で、くだらないのだけど、いわないといつまでもひっかかるイワシの骨のような話を。
 
 マルクス、資本制生産に先行する諸形態、岡崎次郎訳、青木書店、1959.
( 私はあまり訳者名をいれませんが、だって誰が訳したってそうそう中身は変るわけじゃありません、だけど、岡崎という人も報われない訳者なので、わざわざ書きました。良心的によく訳していると思います。)

 (ここにマルクスが示すモデルがマルクスが考えた歴史順だと思ってるバカはほとんどいなそうなんで、いまさらいいませんが、それをおいてさえ)
 所有所有って、ばかいってんじゃねえよ、みたいな叙述の果てに、いわく
 ”所有は生産の諸条件に関連する。なぜ消費の諸条件に、ではないのか、それは個人の生産行為は主体の側の能力の生産を必要とするからである、云々” pp.42-43。
 ったく。これさ。
 ばか、さらさらいってんじゃねえよ。おめえ、どんな行為を「生産」ていってんだ?

 マルクスの「たかり」生活を生産とうそぶくことは、マルクスは納得しても労働者は決して納得すまい。私は労働者として納得しないぞ。
 政治局員のカンパ収益が彼らの生産だといって納得するマルクス主義学生同盟なり諸共産主義者同盟員がいるだろうか。、、、いいやいまい。って、いたら笑ってやるだけだが。
 たかり行為はただの人間の一行為にすぎない。
 人をたぶらかして偉そうな顔をしている、乞食以下の行為だ。
 上記は、乞食の行為も私は納得していない、ということではあるが、世の中、「しょうがない」ということはある。とりあえず明日食べなきゃ死ぬときには、乞食をすることも胸を張ってすべきだ。
 しかし、そうじゃねえぞ、マルクス、および政治局員。お前らの生き方は生産ではない。お前らは何を造ってもいない。それが「生産」なら生産カテゴリーなど何の意味もない。もちろん、どうであれ何の意味もないのだが。
 お前らの行為はただの「行為」そのものにすぎない。
 「生産」が社会科学的カテゴリーでありうる根拠は、食うためにする行為がすべて支配者にからめとられている、その中で食うために行為する存在が歴史の動きに関わるためそれを表すために意義があるのだ。
 タカリもカンパもヤクザも、そのどれも上記社会科学の範疇には乗りはしない、それは上記社会科学の中で人民とは離れた、「逸脱者のエピソード」に過ぎないのだ。
 反論があるならしてみろ。
 
 さて、もちろん、われわれアナーキストは全人民の味方だ。
 「社会逸脱者」で何が悪い。
 マルクスにもヤクザにも、生きる価値がある。
 、、、て、他にそんな仏様のような慈悲深い左翼や右翼がいるか? いや、いない。全人民を考慮に入れられるのは、アナーキストだけだ。
 そんなアナーキストにとって、根本は、社会のダニのようなマルクスでも生きてゆかなければならない、だれでも消費しなければならない、そんな消費の構造なのだ、
 
 
   てなわけで、ちょっとこのところ花粉症と花粉症薬アレルギーで体調が悪いので、しばらく黙ります
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

右翼以下

2013-03-17 21:13:53 | 断片
 こんばんは。東京地方、相当暖かく、じっと目を凝らすとちらほら桜の花も見られます。ま、わたしは目が悪いんで、白い何かが見えるというだけですが。

 さて、本日は疲れてただの埋め草ですが、ここんとこ自民党は、TPP、米さえもアメリカ帝国主義に売り渡す勢いのようで。
 国家の礎えを売り渡して、何が右翼かと思いますね。
 もちろん右翼ちゅうのはそういう非国民なものではありますが。
 
 そもそも日本てなにかといったなら、誰でも日本人と規定された者なら、なんとなく自分の回りにありそうな何かが日本だと思っている。
 これについて資本家は、世界に対して自分の利益になるための象徴が日本だし、共産党はどうしようもない自分勝手な人民を統一的にアメリカ帝国主義に刃向かわせる「よすが」が日本だし、右翼は宣伝カーでがなれば日当がもらえる何かが貴い日本さまだ。
 まあ3者3様のおめでたさでんな。

 しかし、日本とは、本来は、日本人民が住む(日本人民と合致した)この土地のことでしょうね。それは資本家が損をしようが、そんなことでは変らない土地なんじゃないでしょうかね。
 しかして、戦前の国家ファシズムも人民にとって意義を持ったわけで。

 と思えば、情けねえ売国奴たちだ。自民党もそのうち右翼に殺されるぞ。
 と思えば、戦前の過程も理解されようなもんですが、しかし「戦前の過程」、ってだれも知らんがね。

 いや今こんなくだらないことを考えてるわけではなくて、今週は歴史過程を考えているのですが、なにしろ昼は花粉症、夜はその後遺症で、頭が動くのは夜中目覚めたときだけで、それに今日も出勤だし、、、なんて、幼少期アレルギーの私にとっては50年間おんなじ春、おんなじ条件なのに、それも情け無い言い訳ですね。
 年取ることは、悪いことのほうが多いです、って当たり前か。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

白い花赤い花 媚びか闘いか

2013-03-11 21:05:25 | 断片
 こんばんは。東京地方本日は寒く。なのに花粉は消えず。

 変な題ですね。ま、本日は久しぶりに、酔言=断片。本題「若いとは闘いのことだ」。
 今夜、食事中に流れた「白い花赤い花」、芹洋子。
 なんじゃこりゃ、なっとくできん。まあ、年齢にして声はよく出しているけれど、なんじゃこの媚び媚びした唄い方は。
 不満げな私に家人が、声がいいけど心がないといいたいの、というので気づいたところ、心はある、が、ばあさんの心じゃ。
 ばあさんが「孫よ幸せにな」、なんて歌ってるだけの御詠歌。
 もうやめろよ、ばあさん。
 
 本来は、これは恋人同士の歌。恋人同士の不安と恍惚でみなぎってるはずの歌。
 恍惚というのは、「彼は、彼女は、あたしのものよ、誰にも指一本触れさせはしない。」という自負のことです。
 読者の若人はわかりますよね。歌うべき甘い声の後ろには、この幸せがなくなるかもしれないという不安と、そんなことを許すものかという闘いの姿勢が必ずある。
 疑う人は、そう思って売れてる乙女の歌をきいてごらんさい。怖いぐらいさ。
 
 もちろんわたしゃ音曲のことは知りませんけどね。しかし、老いたりといえども詩人、、、だっけ?
 ま、そんなもんさ。
 
 芹さんとやら。人は、表現先の相手の心を、甘くみちゃいけませんぜ。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

資本論と国家

2013-03-09 21:40:22 | 行為
 こんばんは、東京地方あったかくなってきました。本日は20度越え。
 ありがたいことですが今年はそこそこな花粉年のようで、すでにつらい。
 わたしなんざ50年来のことなんで、花粉のゆくえには興味もありませんが、薬の楽さも覚えてしまって、明日は飲もうかと。

 さて、今日はこのブログで奨めながら本人寝てしまった、美輪明弘のヨイトマケの歌をNHKでやってまして、そういえば昔も書いたっけ、と見たら5年前。
 5年前でyahoo検索ヒット数、67,600件だそうな。さて現在は、949,000件。 まあ時代が変ったということですが、どう変ったんでしょうかね。
 ちなみに、gooブログ数は5年前90万件でしたが、今は2倍の180万件。どれだけ生きてるブログかは別として。てことは、この2,3ヶ月でのツイートって奴が反映されてるんでしょうか。ツイートが反映されるんじゃ、検索ヒット数も客観知識の正しさの指標にならなくなったってことですかね。
 
 ま、それはそれ。ヨイトマケノ歌感銘された方には、ぜひ丸山明弘のヨイトマケの唄を聞いて欲しいものです。今のが悪いとは言いませんが、わたしは心底からの歌が好き。
 
 で、ここんとこあまり面白いことがなく、じゃあついでに引きずっちゃえ、と、前の続き。
 なんでマルクスは資本論で国家を書かなかったか。
 彼氏、気づいて愕然としたんですな、自分の最後のマスターピース、「資本論」の発想の誤りに。
 
 マルクス本人、若い頃から資本家こそが諸悪の根源、あるいは諸善の根源と思い込んできた(共産党宣言)。マルクスの頃のドイツはまだ、旧来の支配者が生身の姿で存在していた、ということもあるしね。ブルジョワジーはそんな支配者を打倒し、それまでの世界全体を引っくり返した、というわけだ。
 
 もちろんそれはある意味で正しい。ブルジョワジーは、支配世界を壊していった。それは彼らがそれまでの支配基盤を壊していったからだ。彼らは、旧来の支配者の人民への生理的影響の供給を断ち切った、ただそれだけのことではあるが。
 それまで、人民は生殺与奪の権を支配者に持たれていた。ところがブルジョワジーの席巻以来、人民は支配者の顔を見る必要もない。見る必要がなければ支配者の世話など誰もしない。そりゃ生身の支配者は困っちゃうね。
 実際、どこの先進国でも旧来の支配者は愚痴を言いながら、自分たちのみの生理性の確保(時代のアガリ等)と、名目上の名誉の存在で我慢せざるをえなくなった。

 しかし一方、この事態を見たマルクスらは、ブルジョワジーが、資本の運動で、世界主義を達成するという、無邪気すぎる誤りに陥った。
 なぜ無邪気すぎるといえば、そんな子どもの夢物語は、アナーキストによって幻想であることが指摘済みであったからだ。にもかかわらずこのていたらく。マルクスのマザコンは分析されていないが、なんらかの感性上の欠陥ないしマイナスの特徴があったといってよいのではないか。
 ユダヤ金融資本以外のブルジョワジーには国家があるから、だれもこんな夢物語を考えない。観念論者のさまよえるユダヤ人は、何を言っても許される。

 実は、資本家には国家があり、国家には資本家がある。この2者は一体ではなく、国家である1者と、それに寄生する他の1者なのだ。
 それは逆ではない。国家は資本家がいなくとも存在し得る。資本家は国家なくんば死に絶えるしかない。

 ところでもちろん、国家とはシステムのことである。あるいは国家支配者とはシステム維持者のカテゴリーのことである。
 「資本家」なるカテゴリーが、だれそれの会社株主のことなど指していないのと同様、(若い人は知らないかもしれないが、資本家は資本を持ってる人間なんだから、三菱銀行頭取など資本家ではないのだよ。彼は若干の関連企業の化け株の所有者でしかない。あ、これはわたしが関係者で内部事情をバラしているわけではないから) 「支配者」も自民党党首のことなどではない。
 国家には、その国家を支える下部構造がある。この下部構造がある限り、その関連を現実化する一連の社会的カテゴリーが存在する。これが支配者カテゴリーである。
 マルクスにはこんな単純なことが頭の端にも上らなかったのだ。というよりは、アナーキストをけなすため、考えたくなかったというのが実情だろう。
 他方、人のいいエンゲルスといえば、人民のためになんとか国家を操縦しようと、国家擁護主義者にまでなってしまった。
 
 本来、いったん何千年前かに成立した武力権力内支配者は、その権力が続くべく、すべての社会的諸要素を傾注する。そこには、特殊な場合以外、支配者個人など存在しない。およそ、支配者は、その支配の根拠である生理性を確保すべく努力することで、自己の生理性および賞賛を貫徹するこれにより、支配基盤である当時の経済諸体制も磐石となる。。特殊な場合とは、自分のことしか考えない支配者のことである。そんな支配者は社会体制を壊し、おかげさまで人民は新しい社会体制への手がかりを確保する。

 そんな「国家」は、資本論では分析できるはずもない。
 マルクスは執筆プランの遂行時、さすがにそれに気づき、あまりに気を落として、2巻以降の推敲の努力を放棄した気がするが、さてどうか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

資本論の弁証法の誤り(その2)

2013-03-03 10:55:59 | 行為
 こんにちは。今回は昨日の続き。こんなの長期間やってると迷惑な訪問客の方もおられるだろうし。

 で、引き続いて、「始元」問題。「資本論の」というよりは、「社会の」、ですが。

 「始元」というのは、論というのはどっかから始めますよね、で、対象が大きいものだと、さて、どこから話し出しましょうか、という、その初めのことです。 物事を叙述するのに、その対象に特徴的な事柄を初めに論じだして、それにまつわることを深めていく、ないし広げていくと全体像が把握できる、という手法で。
 経済社会の場合、マルクス主義者の間では、資本論がそうであるように、始元は商品であるように取りざたされています。 まあ、それだからマルクス主義者というんだね。
 しかし、それで、経済社会がわかるんだろうか? 人間が、著者本人が、生きて生活しているその社会が分析できるんだろうか? ま、私は、わかんね、っていってるわけだけど。
 
 もともと、マルクス自身をみればいい。彼が自分の疎外状況を自分で取り沙汰したことがあるか。いいや、ない。
 彼の理論では、エリートは必ずエリートのまま生涯を閉じる。マルクスは自己には何の反省もなく、ただの文筆プチブルのまま生涯を閉じた。

 しかし、人間てそういうもんか? いやそうではない。
 ドイツ観念論者が偉そうに言いたいことをいって150年、日本ではそれを乗り越える思想運動が起きていました。全共闘運動のことです。

 70年日本は、アジアレベルの世界市場資本主義体制では、支配階級の市を占めていました。1955年以降、日本は、アジア人民の労働力を自己の国家の消費物資に当てるよう努力を続け、それから10年、努力が実になったことはたしか3,4回前にも話題にした気がしますが。
 その中で、支配階級の突撃隊長を勤めていたのが東大卒以下のエリートサラリーマンたち。
 そして、勃発した学生紛争の中で、それを問題にして闘争としていったのが、日本の諸大学の全学共闘組織でした。
 すなわち、彼らは、マルクスと異なり、自己の疎外状況を問題にし、行動に移したのです。
 残念ながら彼らの主張はアジビラにしか残っていまあせん。しかし、エリート支配階級自身の疎外を問題にしたのは、日本の全学共闘会議をもって嚆矢とすべきなのかもしれません。
 「ません」なんて弱気なのは、なにしろ活動家人民の主張は、アジビラの中に消えてしまったからでして。日本の学生のビラはウンザリするほど読みましたが、同様の運動が起きていたドイツ、フランスのアジビラを私は読んでいないので。
 いえ、日本でさえアジビラはすでに消えてしまってますね。ようやく証拠として提出できるのが、東大全共闘議長、山本義隆「知性の叛乱」くらいか。そこでは、過渡的な疎外への反抗が記録されています。

 さて、前書きがすごく長くなった。
 本来、人間が生きている社会を人間に即して分析するのであれば、始元は、生産物(である商品)ではなく、消費物なのです。全共闘学生(を牽引した部分)は、大人になった当時の子供たちが書き立てるように、お祭り騒ぎで面白いから闘争で安定した人生を投げうったわけではない。彼ら自身がどういう状況の下で日常の生活を得ているかを真剣に考えたから、命まで投げ出していったのです。
 マルクスは何を食べて自分の生命を確保したか。エンゲルスからの食費の供給であり、報われない妻同然の女中の料理であり、あるいは彼の生理生活をトータルに維持管理した妻某の労働でしょう。そうした自己の状況を解明せずに、他人事の「経済学」を披露して人生がわかろうかなどと、片腹痛い所業もいいところだ。
 もう一度言いましょう。経済社会の始元は、消費物資なのです。もちろん、資本論で生産物商品から始めて交換価値を解明したことは、結構な偉業ですけどね。それを経済社会の始元にされたらそれは違う。
 
 さて、にもかかわらず、消費物(としての商品?)のマルクス的解明では、なにも分かりはしない。 それは自称のみの概念的把握にすぎない。
 前回述べたように、マルクス出現以後150年、いまだにヘーゲルが重んじられているのには理由があるわけです。消費物資はどのように人間の手に入ってきたか。その歴史を語らなければならない。
 
 ここまででマルクス主義的には、論議はおしまいね。
 
 しかし、毎度のようですが本当のことを言えば、消費物資で展開すればみんなが分かる話になるか、というとそうは思わない。
 消費物資の歴史は、消費物資の入手形態の展開の歴史である。すなわち、支配の歴史である。人に分からせるには、資本主義社会におけるその展開を叙述するしかない、と思いませんかね。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

資本論の弁証法の誤り(その1)

2013-03-02 21:41:13 | 行為
 こんばんは。寒かった冬も、そろそろ春。これから花粉症が猛威をふるいそうな。目がかゆくて。

 さて、本日も先週の続き。左翼オンリー、「資本論」信奉者への問いかけ。 ときどき、左翼っぽく書かないと、サラリーマンのぐちばかりになってなんのサイトか忘れられますもので。
 
 先週は、「宇野が相対的に偉い」みたいなことで。
 で今回は、ともかくマルクスも宇野も二人とも、おかしい、という話。
 
 左翼の間では、資本論は弁証法の体現として格好の例、というより犯すべからざる範例ということになってますが、そりゃ違うぜ、ということで。 
 マルクス先生の執筆プラン、資本・土地所有・賃労働、国家・外国貿易・世界市場。
 こりゃなんだね、から始めましょう。
 
 さて、先生、こんなプランを掲げるところによると、対象を概念的に把握すればそれでその崩壊も分かるという、素朴な思い込みがあったとしか思えない。。
 つまり、エンゲルスに限らず、マルクスにも反映論の思い込みがあったのではないでしょうか。
 (申し訳ありませんが、時間の節約上、分からない人は、今回、読者の対象外ということで)
 実は弁証法というものは、そのような存在分析の方法ではありません。人間による存在の把握方法です。それは頭のどうしようもなく悪いギリシア哲学の伝統で分類する存在論と認識論のうち、ニュアンスを別とすれば、認識論に近い。
 つまり、弁証法の手法をとれば、ある対象が変化していくとするならば、その契機を述べることで全体的に把握がされる。
 しかしところで、資本主義を国家-世界市場まで分析したとしても、だからといって資本主義が壊れることが叙述できるわけではない。それは内部構造とその構造主が辿る時間経過とは、いっぺんに叙述できないからです。
 人は本を書いて、自動車のメカニズムを語ることはできる。しかし、そのメカニズムが働き出し、その結果エンジンその他がポンコツになるまでを、メカニズムの章で人に理解されるべく語ることはできない。ま、、やれるという人はやったらいいですが。
 弁証法とは、対象を自動車にあてはめれば、「単にメカニズムを話すことでは自動車を語ることにはならない、自動車とは、20年乗り回せば潰れるものだ、ということを書かなければ、自動車の所有者にとっては虚偽の説明だ」という叙述学問です。「自動車とはこりゃすげえもんだ、2千万円払うのは当然」と思って買ったら10年後、「ガタン」という音とともにエンコして動かなければ人間は破産ですから。
 しかして、ヘーゲルが構想したように、その概念的把握の全体は、「歴史」とならなければならない。
 
 当たり前だ?
 だからわれわれは宇野はダメだといっている?
 
 当たり前さ。しかし、宇野ではなく、マルクスのプランでは(でも)歴史的把握は、したがって契機の発展による概念的把握は、できない。私はそういっている。
 世界市場で全体構造は把握できる。そして、その次に、その全体構造がどう壊れていくのかを別途に叙述することで初めてその崩壊の過程が露わになるのです。
 具体的には、宇野原論を再度分解して、「世界市場」を入れたのち、その歴史を描くことで初めて「資本主義原論」は完成する。

 もちろん、問題は、そこで完成するのは「資本主義原論」に過ぎず、従って、支配武力で調整される現実の国家世界を描くことはできない。
 できなければ、「そんな崩壊など現実にありえないではないか」、と資本主義者共にけなされる。いや味方の左翼もけなしますな。
 これはもちろん岩田弘の論のような、人民の実力行為が起動しなければ完成しない主観主義の理論を書けといっているわけではありません。経済原論の意義とは、資本主義の内部構造により世界が辿らなければないはずのモメントを明らかにする、それだけでよいし、しかしそれをしなければならない、といっているわけです。

 でも、それが現実と違うといって他人にけなされては元も子もない。1億人民のうち、わかって物事をしゃべろうという人間など、せいぜい10人、と考えたほうがよい。しかも右翼共といったらそれに輪をかけて能無しだ。
 というわけで、マルクス主義のためには、敵対者にけなされない、現状程度の、児戯をちょっと越えたマルクス「資本論」や宇野「経済原論」の存在でよいのでしょう。

 しかし、なんどもいうようにそれは誤りだ。まず契機(要因)の到達範囲を明らかにしなければ、現実でどれだけの射程距離をもつのかは知ることはできないからです。

 ま、ここまでは、マルクスの経済論には歴史を追加しなさい、という、左翼ならだれでも同意しなければならない、いたって穏当な老婆話で。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加