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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(番外;UFOと、エネルギーがない国)

2024-01-01 10:35:32 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。

 東京地方はいつものとおり快晴。ありがたいことです。今年は少しはいいことがあるといい。
 暮れはNHK、夜のニュースでガザなんか流すからいっぺんに酔いが覚めてしまった。それで続けて紅白だよ、くそくらえと思って見もしませんでした。
 まあこれは幸い去年、もう過ぎ去った出来事。悪い去年の〆らしくてよかったとも。
 
 本日は元旦。お客様がたくさん。
 これが困って。ひたすら人の間の調整。気が小さいもんで酔っぱらってる暇がない。
 ご訪問はうれしいけれど、お客さんは一度に2,3人がいいなあ。
 
 では、酔っぱらう前に、今年が皆様の良い年でありますように。
 

 さて本日は元旦なので、オカルト番外。預言ではなく、ただの啓示的論理。
 
 私の睡眠中の夢によると、UFOの国には「エネルギー」がないとのこと。
    また、突然な発言を。 
 啓示ってなんだよ、って夢の中で誰かがそういったのね。
 そこでなっとく。 なるほど。
 と、一人で納得していてもしょうがない。
 (話の前提は、一番近い恒星でさえ、光速のロケットでも5年かかる。しかも光速で飛ぶなんて無理。なら空飛ぶ円盤など存在するわけないという、まあ理屈。しかし)
 まずは、エネルギーとは何か。
 
 ゆいいつの物理学上の天才であるアインシュタインがいうに、E=MC2
 物体の大きさとは質量のことだ。ところで、光の大きさはというと光速度二乗のことだ、と。
 光に大きさがある? だから天才だね、あるんだよ。
 光は線でも点でも広がりでもなく、ただ、宇宙の中に占有を持つのさ。いわくE=MC2。
 すなわちこの世、この宇宙とは、質量と光でできたある存在であり、であれば論理上、別の宇宙とは、エネルギーが「ない」、あるいは別の形態をとる宇宙である。
 ここまでは、山田克哉「E=mc2のからくり」、ブルーバックスに書いてある。
 
 えーー?? 書いてない??
 そりゃね、本質は字面だけではわかりはしない。前々回書いたように、教科書は、次に自分で論を立てるためにある。

 つまりね、この宇宙を作る物質とは、光速度のことなのです、ってそう書いてあるでしょ。
 そしてこれをいいかえると、この我々の宇宙とは、実は「光速度」そのものなのだよ。エネルギーだからね。アインシュタインの公式にそう書いてある。 
 それは無に抗してできた「時間」であるとともに、無に対する制限、つまり広がりでもある。「広がり」は有限だからね、「制限」のことなのだ。

 さてここで話は変わるようですが、たとえば仮に光速が秒速30万キロの10億倍あったとするでしょ。そうなると時間はこのエネルギー世界よりも10億倍速く進みうる。光の速さは原子の動きの速さだからね。宇宙の始めと終わりなんかせいぜい人1人で経験しうるわけだ。まあそういう状況が生ずる。時間なんてそんなものだ、という意味です。
 
 ここで、「非「我々宇宙エネルギー」世界」についてはどうか。
 そこではエネルギーの、つまり光速度の制約がないので、「当該宇宙人」は自由気まま。「我々宇宙」でいう「時間」など、いくらでも飛び越えてしまう。
 
 ではこの別の宇宙には「エネルギーがない」のかそれとも「別のエネルギーがある」のか、と言えば、「我々宇宙」ばかりエネルギーがある、という言い方は人間には違和感があるよね。その根底は同一のものと考える必要があるかもね。これは啓示ではなく人間の猿知恵的限界。
 いいたいことは、『UFOの国は、我々宇宙のエネルギーではできていない』という、既に知られた(?)経験的事実です。
 この経験的事実を認めれば、すなわち、UFOはわれわれ宇宙内の存在物ではないのです。
 
 以上。
 
 ところで、しかも「当該宇宙人」がこのエネルギー世界と交信できるとすれば、そりゃ人間が死なない世界だね。この世界の人間も死んだらそんな存在にならないとも限らない。
 というのも啓示ではなく「猿知恵」。ちょっと言ってみただけです。
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オカルト(その18;生命の哀しい志向)

2023-07-15 13:54:48 | オカルト(途中から)
 こんにちは。東京地方猛暑、中の、今日はましな日、明日からまた37度だとか、これで今夏は終わりにしてほしい。
 こんな暑いのに昭和記念公園プール(という東京西部で一番広いプール施設)がコロナ下営業中止のまま廃業だって。38年の歴史とか。プールなんてあっちもこっちもなくなっているのに、また一つ。
 思えばうちのガキたちは幸せな子供時代を過ごしたものだ、ピカピカの遊園地もあり、プールもいくつもあり、といっても気づかないだろうけど。なんでも失って初めて気づくものです。
 もっとも真岡市では一万人プールとやらが営業開始したとニュースでやっていたから、一般化してはいけないのかもしれない。50周年だって。おめでとう、いつまでもあるといいね。50年前遊べなかった真岡のスポーツマンの同級生は水泳はやらなかったみたいだよ。

 当家のニュース。レンジをIHヒーターに替えました。電磁ヒーター。高齢者世帯ではガスのつけ忘れも頻繁で危ないので。なんだ、もうボケかよ、という前に、ボケてからじゃ遅いんだよね、実家で母がボケて危ないので電気に替えたら、操作がわからないまま死んでしまった。息子が帰ってきたからと、お茶を沸かそうにも、火が点けられないのだから。
 電気容量の変更もあるし基本料金も高いので、若い方々に薦めはしませんが、旧盆で帰った際には、ちょっと親とかおばあちゃんの様子を見たほうが。アクリルのモコモコセーターとか怖いしね。
 ただ、一人暮らしでしたらしょうがない。ひどくやり方が違うので、替えたおかげで料理しなくなったらそちらの方が怖い。ボケてしまう。いわゆるお嫁さんとかがいる家に限ります。
 
 カナダの懐かしいニュース。
 レストランで酒飲んで酔っぱらったから車を置いて帰ったら、翌日車に「思いとどまってくれてありがとう」って置手紙があったってさ。ま、いいんだけど、その店の名が「Original Joe's」と。
 オリジナルジョーズ! おお懐かしい。横浜関内のイタ飯屋。創業1953年。
 懐かしくて検索したら食べログにちゃんとある。さすがに老舗は変わらずあるんだ、と思えば、「閉店」と注がついてた。
 あ、そ。ないのね。
 じゃ関内フレンチ、「シュミネー」は?
 ないの。もう何もかもなくなったのね。
 懐かしいじゃなくて、淋しいニュースでした。
 
 とはいえ、シュミネーという店が高島町(という横浜近くの田舎)にはある。食べログの内観写真見たら、おお、シュミネーじゃん! 調べたら38年前に引っ越し、はいいけど、息子さんの店かね。大昔、職場で行ってもみんな独身貴族だからフレンチも食べられたさ。なにしろ。11人で平均年齢25歳の職場。2人40,50がいたけど置いていった、失礼。でもみんな退職。死亡者までいて。お店が残っているだけすごいともいえる。

 さて、本日は新暦お盆。
 そろそろネタがなくなってきたオカルト。
 本日は何の根拠もなし。
 って、いつもはあるのか、といわれれば、預言者には霊感が根拠である、といえるであろう。
 
 さて、宇宙生命は1である。
 しかし、この物質世界の誕生地に押し流された生命は、物質の隙間に自己の居場所を作らざるを得なかった。彼は山のように自分の位置を見つけた。しかしそれはほんの小さな占拠だった。もともと1である生命には、できれば全部で一つになりたい志向が埋め込まれている。生命は統合を試みた。あるものは結合を、あるものは他の取り込みを。
 結合や取り込みは回を重ね過程が増大するたびに、専用の過程として現象しだす。「食べる」である。
 その結果できた生命体は、合同を、つまり、食事を、生の営みに加えてしまった。さらに統合を積み重ねる。かくて生じたのが恐ろしい顔をした恐竜である。
 しかしその本質は、細胞の、ただの統合である。何も罪を重ねているわけではない。元はといえば哀しい統合過程なのである。食い続けて大きくなるという手段がまるで無駄な過程だと他者が思うだけである。
 
 この過程の統括が、1生命個体に一つの「霊」である。霊も、物質と生命の合間に潜む、単一現象体ではあるが、その役割の中で生命が個別化している時間の間は、やはり個別化せざるをえない。ここに、体の細胞がいくら個別に死のうと平気でいる単一で個別の「霊」が生まれるというわけである。

 というわけで本日のオカルト、(幽)霊を感じはしないけれど、人が思いつかないことを知る、こういうのは霊感というしかないでありませう。

 ところで橋本幸士「物理学者のすごい思考法」の孫引きによると、葉緑体が緑なのは日光中の緑の波長がエネルギーが強すぎて植物の体に悪いから(緑色を)反射してるせいだって。彼氏は納得していたが、これって論理かね? こんな程度の思考で済むならみんな物理学者になったらいいよ。ほんの少しのエネルギーで済むなら黒ネズミ色にしてもいいし、もっと欲しかったら面積を広くしてもいい、いやもっと効率的にというなら緑だけを吸収してもいいがね。要するに、葉緑体が緑の理由はなにも答えてやしない、できれば緑は避けたいはずだという気持ちの提示。そもそも褐色体というものさえあるというがこれは何?
 
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オカルト(その17;魂の時間経過)

2023-01-01 21:04:55 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます

 こんばんは。
 年が明けてうれしいですね、新しい年。1日経っただけ? いやいやこれからの1年は去年じゃないもの。
 皆様、正月の親戚づきあいはされました? 当家は3年ぶりに御年賀来客。
 昔は私もそれぞれの実家に顔を出して飲み食いさせていただきましたが、いや、お迎えするほうも、飲み食いの用意等は大変、つかれちゃった。おれは食わん、呑むだけ、という人も、日頃飲めない酒が来るとうれしいのでよろしく、ってわたしはもう貰ったからいいです。
 まあお互いさまで、1年に1回くらいお互い苦労をかけあうのもじんせい。
 だからね、去年の昨日と今年の今日は違うの。

 正月は休みは今日だけ、なんて方もいる? わたしもコンビニで年賀状(追加)買ったから、理屈上いるよね。代休は大事にね。東京地方に限っては、これからずっと晴れ模様だって。

 さて今日は昨日の今日だし、朝から飲んだくれてるので、事前準備のオカルト記事。
 今年もよろしくお願いいたします。

 というわけで今年も自信家の隈。というか、自信だけが頼りの隈。
 いつもいつもみんなが言わないことを言える私は、天才か預言者は間違いないところでしょう。本日のオカルトは、「魂の時間経過」。

 ふつうの人は宇宙の「年齢」なるものに圧倒されます。ウィキペディアによると140億年だって。すごい? ビッグバン以降の時間だと。さいきんの日本国債の発行額に見慣れてると、なんでもないけどね。
 いやそうじゃなくて、年齢ね。人間が100歳まで生きるとすると、1.4億回生きなければ140億にならない。これも大したことない? それじゃあ話が進まない。
 ま、しかし1万回生きるのはホネでしょ? 若人にはわからないでしょうが、ホネです。それにしたって100万年しか経たない。
 というわけで先に進みます。

 さてところが、魂の時間では、そんな「はしたの」時間、なんのホネでもないことが起こる。
 そもそも時間というのは物質の動きで測られます。物資の構成素たる原子、その他の諸粒子ね。この動きが人間には「時間」なるものに見える。この速さ、つまり光速度によってできているのが人間からみた宇宙です。という最低限の原理さえ知らない自称他称の物理学者もいますが。

 さて、ここで「魂」です。
 同様に、魂が経験する時間も、その(構成素の)動きによってしか測られない。
 ここで魂の変化速度が10億年に1単位であれば、時間は地球人の10億倍遅く動く。仮に宇宙の寿命が140億歳なら、その間、魂は14歳になるだけだ。ヒヨッコだね。
 もちろんこの「10億倍」の根拠はありません、「100億倍」かもしれません。ここでは、考え方を示したまでです。
 神様は不死かもしれませんが人間も魂ともなれば宇宙の5個や6個の盛衰を見つめられるわけです。
 世の中そういうものです。

 なにをいいたいかというと、宇宙の寿命なんて、魂の寿命に比べればほんの一瞬であることもありうる、というわけです。これは宗教に頼った推論ではなく、自然科学に頼ればそういうことだ、というわけです。
 前言いましたが、「広がり」というものもそうです。宇宙は無限に広がるのか、といえばそうではなく、無限に収束しているのです、人間の理解にとっては。宇宙の広さなど、この掌で終わってしまう、それが人間に唯一理解できる「広がり」概念です。時間も広がりも、その基準が判別不明の現象に突入すれば、人間ごときに把握できることではない。それは人間がバカだからではなく、原理的にわかりえない。人間には人間の知りうる範囲があり、それが社会科学徒隈のオカルトシリーズなのであります。

 ほんと、わたしったら預言者だったらどんなお金持ちになってたことやら。
 お金持ちごときになってもしょうがありませんけどね。


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オカルト(その16;霊の統一状態)

2022-07-16 16:14:20 | オカルト(途中から)
 こんにちは。じめじめべとべといやですねえ。昨日、一昨日など日本全国大雨のような。ニュースいわく「梅雨の終わりのような」。「ような」なんでごまかさないで「明けたというのは間違いで、まだ梅雨だ」っていえばいいのに。
 3連休の人も多いですか? この梅雨のさなか、「海の日」ってなんのはなしでしょうね。山の日はわかるけど。そういえば昔の歌に「海のはなしや山のはなしを、あなたは聞いてくれるでしょう」というのもありましたよ。ズーニーヴー。最近、「町田義人ー戦士の休息ー野生の証明」で話題になってない?
 まあいいや。それより有給だといいですね。
 
 さて、東京地方はお盆時期なので、オカルト。
 
 わたくしは雨にはとんと縁がないので、昨日茨城経由で富岡(福島)へ。googlemapを見てで復興が進んだかと思いましたが、いやいや。昼食を食べるところもない。もちろん、なんの昔の面影もない。まったいら。災いというのはそういうもの。住んでた人間がみんな消えてしまったら、そこは全く新しい土地。幸い来たのはロシア人の入植者ではなく、みんな人の好い、新しい未来を求める(若い・中年の)人たちで、新しい富岡ができていくんでしょうね。
 
 そういう意味では人が生きている場所など、その場所に生きる人生の数だけ、何十何百何千の次元でできている、といったほうがいい。全員が違った景色を見ているうえに、全員が消え去った登場人物を生きているかの如く見ている。
 この同じ景色の中で、数十年前の人物を思っている人間と、今日で会ういつもの仕事仲間を見ている人間が、何の不思議もなく生きているのだから。
 
 この事態を逆に言うと、今の自分の世界は刹那に飛び去って、次の刹那(瞬間)がやってきてまた飛び去って行く、ともいえる。人には昨日生きた人生はない。それは二度と帰ってこない過去だ。なぜか? もう、共に生きた人間がいないからだ、というわけです。
 どっちの言い方がいいかというと、自分の世界が永続的に続く、といったほうがまとなだな、
 もしかすると、昨日の彼らが明日戻ってくるかもしれない。彼らにとっても、共に生きた人間は私しかいないからだ。という理屈ね。
 
 宇宙の霊は(宇宙生命と同じに)一つだ、という真理も、人間のあさはかな知恵がイメージするような平坦な・単純な1個の世界じゃなくて、今まで生きてきたそれぞれの世界が輻輳(ふくそう)した豊かな「一つ」の世界かもしれないよ。この世でさえ複雑に輻輳してても誰も困らないんだからね。
 もしかすると、ほんとに死んだ将棋の大山名人が升田名人と将棋を指しているかもしれない。
 彼ら二人が生きていた時でさえ、二人の世界は違う二つの世界の輻輳だったんだからね。それらが物質から離れて絡み合って統一されるというのも、逆にありそうじゃないですか。
 
    などなど。ほんと、隈も教祖になればすぐ1億円くらい儲かっただろうに、惜しいことをした。

(p.s. 全く関係ありませんが、今回近辺で3種の卵料理を食べて、どれもあまりにも口に合わないので、地域の特性かと思ってわざわざ検索してしまいました。世の中「粉卵」というものがあって、これをそのまま使うと玉子とは思えないものができるようです。検索例ではここのTホテルでの評価(22年4月)が出ており、仕入れ先が悪いのか地方色なのかは不明ですが、関係者の善意に水が差されますのでご担当者は(味付けとか)ご一考ください。)
    
    
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オカルト(その15;生の意味と霊の統一)

2022-04-09 11:03:09 | オカルト(途中から)
 こんにちは。すっかり暖かくなって、東京地方、晴れも続いています。今年は花粉症が驚異的に鼻の前方から消えたので、パソコンも楽だし、薬も目薬だけなので体調がよくて。皆様にも齢と共に緩解(かんかい)が訪れることでしょう。まあいいことか悪いことか。 
 皆様の中には新しい春の方とか? 私など今どきは、不本意な外勤で街中を自転車していたころを思い出します。街路樹の八重桜が花盛りで、せめてもの慰めでした。ほんと、ただの思い出になってよかった。皆様にもいやな仕事もいつか思い出になることでしょう。
 
 一昨日は法事で2年ぶりの会食。食事はそんなもので、お酒もビールを飲んだだけですが、大人と一緒の会食はいいものです。みんなワクチン高齢者だからコロナも安全だしね。もちろん若人の方はお気をつけください。後悔先に立たず。
 
 で、そこの真宗の坊さんの説教で、「故人に思いをはせることで故人も二度生きるのです」とかいうのがあって、わたしは目は悪いけれど、その分、耳で生きているので、そうかしら、と本気で考慮。お盆はまだですが、奇(く)しくも昨日は「花まつり」(釈迦の誕生日)なので(法事先で花まつりしてた)、突然ですがオカルトです。
 なんせニュースなんか不愉快でまったく見ないのでネタがありません。(って聴いてるけど)
 
 さて、生の意味とはどういうものか。
 そもそも生きているとは、細胞が動いている一方、考えている主体があるということです。したがって、生きている意味は、この観念と体の動き、細胞の活動「の中に」あります。たとえ、「生きていることには意味がない」といおうと、生きている意味はその「意味はない」という観念と活動の中にあるのです。
 では「その中に」どんなかたちであるのか、その内容はひとそれぞれで、他人が決めつけてもしょうがありません。しかし、観念と細胞の動きとの中にあることにはまちがいありません。
  
 さてところで、生にはもう一つの意味がある。「生きた」という意味です。この生きたという意味を担うものは他者です。他者の思いの中で人は過去「生きた」のです。
 したがって人間の生の意味とはこの両者の統一の中にあるわけです。
 
 他人の思いの中で生きたなんてそれは文学的修辞にすぎない、ですか?
 いやいや。
 この生者と死者、本人と他人を統一するもの、それが「霊」です。
 既に「オカルトカテゴリー」で明らかにしたように、生命が宇宙において「一」である一方、「霊」も宇宙において「一」なのです。霊とは、他者のものも自己のものも統一されて、はじめて「霊」なのです。
 しかして人の生の意味とは、自己のその観念と肉体であるとともに、他者の中にも存する。人は他人を思えばそこに他人の生の意味も生まれる。霊は他人のそれと混合して、ある一個人の生と他人の生を作り続けているのです。

 預言者隈が、今回は仏教教祖になっちゃったよ。
 さすがに仏教は人生訓による支配思想という99%の外皮を除けば、哲学だね。釈迦の哲学があるから。
 100%人生訓のキリスト教は、あれはなんだい。全部神様の言う通り。原始人にもほどがある。しかもそれが自分で作った神様とあっては何をかいわんや。(イエスがいる? そこだね。どうもイエスの哲学というのがわからない)

 
 おまけ。最近の不思議。
 昔から仕事のパソコンいじりでひじに傷ができるほどだったのですが、アルバイトもやめて、ひじは左腕しかつかないのに、一貫して右ひじに傷ができる。左はきれい。これはなんでしょうか?
 肉体上の刺激も、眼で見えるその場所ではなく、いったん脳とかの神経組織で解釈されて「傷を治せ」と指令されるんじゃないかしら? で、私の脳は右と左を間違えている。
 心理学の学生さんは、頭にとめて答えを見つけてくださいな。
(p.s.つい心理学と書いてしまいましたが、精神分析者やカウンセラーのことではありません。昔は脳生理学と言ってましたが、最近は脳生理学も心理学の市民権を得たようなので頼もしいことです。と、注釈)


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オカルト(その14;生命と物質と霊)

2022-01-01 11:04:06 | オカルト(途中から)
 初春のお慶びを申し上げます。
 東京地方南部、本日もぎらぎらとした朝日、外人が太陽を黄色く描くというのもよくわかります、今日の太陽はどこも赤くない。きっと空気が乾いた国でのことでしょう。
 
 今年はお客さんたちが去年の暮れのうちに来てしまって、それはそれでうれしいし安全でよいのですが、そこから先の気が抜けてしまいました。なんとか大掃除のしめと買い出しで持ち直し。できればお正月はお正月のほうがいいですね。
 さらに、老齢化で就寝時刻が早くなったので年越しそばを昼食にしてしまったのですが、それはそれで天ぷらそばとか(の大カロリー)にしてよかったのですが、大みそかのご飯を食べてしまうとソバのことを考える必要もなく気が抜けて。なんでも習慣を違えるとすっきりしません、て、さんざん食って飲んだあと、ですが。
 
 みなさまは実家とか行ってます?
 まあ世の中、墓に布団はかけられませんぜ、というのが自分のことになるのがいいづらいね。

 ところで、お客さん用のケーキ屋のことを考えていて、当町のケーキ屋の名前、なんて言ったっけか、とふと違う名前が浮かんだ「アマリエンボーン」。
 なんだろう、とても懐かしい名前。
 ネットで苦労して検索したら大昔池袋西口にあった喫茶・ケーキ・レストランだって。今はドコモだった、北口店。なんだろね、ぜんぜん記憶にないのに名前だけは浮かぶアマリエンボーン。40年以上前、何かいいことがあったのだろうか、池袋はその頃の地元だけどそんなとこ自分ひとりじゃいかないしね、、、
 ま、それだけの話。
 
 さて、本題は、お正月恒例のオカルト。本日は霊界問題。
 治部真理・保江邦夫「脳と心の量子論」、1998.によると、「生命は量子的波動である」、と。
 ま、いいかげんな私の集約ですが、どうせむこうも現象の学だから、真理の次元ではそんな把握でよろしい。
 で、そこで霊界です。すでに喝破したように、霊というのは波動ですが、ここで、普遍的な波動のなかでは、人の霊とは人間の間で共有的なものであり、いわゆる市井の言い方を借りれば、人は他人が心の中に生かせている限り生きているのだ、と。だって、波が突然切れたら元の波は波にならない。流れているから波です。

 以下論理です。
 第1に、霊は人と人の間を共に通じて存在している。普遍的な量子の間を波打ってるのですから当然です。ここで、量子という塊に、つまり物質に、こだわっている論は初めから却下です。じゃあ、人間てなんだ。その波動がとても濃い、一地点です。
 ここで、ある人のポイントが喪失したらどうなるか、それは残りの人の間で共に通じて存する、というのが、普通の人間の発想でしょう。ポイントが消えたからといってなくなったら、その波動は波動ではなくただのポイントからの放射です。
 もちろん濃い一致点が消えたら波は次第になだらかになります。
 ここでの「一地点」とは濃さで表わされますから、現象は真逆ですが、水面にインクを垂らしたのと同じ、といっても若人はインクを知らないのでしょう、絵の具を絵筆から垂らしたのと同じです。で、水に落ちた絵の具は、いくばくかの間に大きな水の体積の中に消える、がそれまでは水面を漂う。いくばくとは生命時間でまあ十年くらいでしょうかね。なにしろ「共有」ですから、共有先も消えていくと結局は人には見えなくなる。 
 しかして、死んだ人間は、生きている人間たちが心で思う限り、生き続けている。
 それは記憶上生きているのではなく、生命の波動上、その反映として生きている、と。
 ここで反映とは何か。
 つまりは霊界は生命世界の影ですから、波動的性格は同様です。他方、物質界も中身は量子ですから波動的性格を持つわけです。
 
 「生きる思い」である霊界、つまりしに思いは生命の物質界における存在過程から生じる意味ですから、その意味を担う存在が必要である。それが「生命を持つ物質」です。
 かくて、宇宙には生命も物質も霊も、相互依存的に存在する、どれが欠けてもいけない、というわけです。
 どうでしょうか、それだといかにも生命と霊が統一的に把握されていないでしょうかね。まあトートロジーがあるわけですが、存在が先にありき、だからしょうがない。


 わたしの今年の年初の抱負は、明るく暮らすこと。昨年、一昨年とろくでもなくて、話し声まで暗くなってしまった。あといくらも残ってない一生、せめて明るく暮らしたいものです。
 そのためには、まずは短調になってしまった音声を長調にしようと。突然笑えったって無理だからね、まず基礎作り。理論的でしょ。
 
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オカルト(その13;2つの生命イメージ間の選択)

2021-08-14 11:37:16 | オカルト(途中から)
 こんにちは。今日はお盆ですが、本州以南全部雨のようで。しかもこれからも雨。洗濯が嫌ですね。混紡シャツがすぐ乾いて一番いいのですが、わたしのようなまじめな人間がシャツ姿をしちゃ救われない、しかたなくポロシャツを着るので乾かなくてイヤ。
 子供の多いうちはわざわざコインランドリーに行くんだって? 賢いね。
 もう秋雨前線だってさ。温度も下がっちゃって、子供がいたらプールもいけなくて悲しいよね、ってどうせコロナだけど。当家はちっきょ。車のあるところは実家に顔を出してあげるといいですよ。
 
 首都圏、コロナは手が付けられなくて。先月ネットで「「8月に東京新規コロナが5千人になる」などとバカなことを言ってあおる輩がいる」などとはやしてさらにコロナ感染を増大させたネットウヨのような評論家がいたけど、何してやがるかな。たぶん「だからどうした、5千人なんて屁でもない」とか言ってんだろうね。ほんと、デマゴーグには真実なんてどうでもいいのさ。
 もうロックダウンしかないけど、政府は若い衆が立て続けに10人くらい死なない限りぜったいやらないし。みんな医療従事者と救急隊員任せ。これで運良く危機が通り過ぎれば、「そら見たことか、いい判断だった」と自画自賛するに決まっている。頑張ったのはおめえらじゃねえよ、馬鹿野郎。そんな奴らは今でもいるから今いっといて間違いじゃない。
 と思えば、ずっと大連休に天気が悪いのは神様のご加護だね。大雨の福岡・熊本にいる御親戚にはいえないけれど。そもそもオリンピックやったのは私のせいじゃないし。
 
 というわけで話は変わって、オリンピック。階下の家の歓声でつけてみました閉会式テレビ、おお光が綺麗ですごいじゃん、と思ったらテレビ用のCGだって? なんだかねえ。
 しかし、この閉会式の行動様式って、世界文化なんだよねえ。世界共通の運動会のパターンとディジニーランド文化。いや、わたしにはピューロランドに見えましたが。ちょっと恥ずかしい。
 ともかく、これで世界の規準たる文化が一つ(の欧米文化)に収斂されていくんだな、と感心しました。参加国206か国だって。もう全部の国家といっていい。地球は一つ。人類はみな兄弟。
 あ、ピューロランド、出し物とかそこそこ面白いです。8歳以下ならお薦め。東京都・多摩センタ―駅すぐ。コロナが終わったらね。ほんとは雨でも行けるんだけど、換気がね。
 
 さて、本日の本題はオカルトなので、その前に普通の人用にちょっと知った情報。
 立石俊一「日本人とアフリカ人」、1994。アフリカったってガーナ1国だけの話だけどね(あとは風聞)。それを「アフリカ」にしちゃうのもすごい。ま、性格に疑問は残りますが、それはさておき。
 その1,なんでもガーナ人の身分意識は「白人>黒人>黄色人」なんだって。気づいてなかった。白>黄>黒だと漠然と思ってた。まあ考えてみればそうでしょう、自分たちが一番下はないな。で、黄色人の訳語は「チャイニーズ」なんだって。ま、それもそうかな。
 その2、ガーナは宗主国「イギリスと同じ」階級社会なんだって。ほほう、これも言われてみればそうでしょうけど、知らなかった。ガーナの女は地位のある人間もいるけど、それは女が偉いんじゃなくて、そもそもが「上流階級の」女なんだって。ほう、そう。これも言われなきゃ気づかない。
 で、も一つの著者の主張は、あんな金持ちのたくさんいる国にODAは必要ないと。ま、そうだろうね。
 立石氏はODAで2年半ガーナに居て、さんざん現地人にバカにされた模様。おつかれさまでした。30年前の経験だけどね。30年じゃ階級構造は変わってないでしょう。
 ともかくためになりました、が、こんなことを250ページもこれでもかこれでもかと読まされるのは苦痛。速読の出来ない方には薦めません。

 さて本題。旧盆なので、恒例のオカルト。エビデンスなしの思弁番組。

 自然科学によれば、人間(や恐竜)の身体は生命の統合体というわけです。人間の細胞一つ一つに生命がこもって、例えばミトコンドリアとの他の生命体があって初めて成立しているのが生物の基本態、その統合として目に見える生き物が存在しているようです。そうではない生命の原点は、そこらの細菌。生命数十億の歴史を作ったのはそこらの細菌だ、と。
 そう思うと、生命なんつっても大したものじゃないな、と思いません? 魂も神への祈りもありえないただのうごめく細菌が、偉そうな「生き物」の本体なのであります。人間はただ細菌を統括してるだけ。ただの身体会社の社長さん。
 と、ここまでは自然科学者の「エビデンス根拠の随想」からの話で、私は責任はもちません。ま、それは一つの生命のイメージではあります。

 しかし本当はそうではない。
   (どう? 「そうではない」って、すごくないですか?
   (いいのかね、そんなこと軽々しく言って。

 先の自然科学者の見解は、ただの近代分析主義の産物に過ぎません。なんでも小さく分けていけば、その先にあるものが本体だ、と。
 違います。
 物質をいくら分けても最小粒子にはいきつかないように、他方、存在するのは鉄マグマでありFe2でさえないように、人間の目に見えないものは自然科学者にはわかりはしない。

 われわれはすでに生命は「大生命」であることを知っています。これに対応する「大なるもの」が物質エネルギーです。
 そして生命は、宇宙の物質の存在形式に対応して、個々に分断されたものであることを見ました。その当初に分断されたものが細菌生命なのであり、そこからの生命の歴史は、何とか元の大生命に戻ろうとする合同への傾向性の歴史、しかも失敗しかない歴史にほかならないのです。人間や恐竜に合体された物質をまとった生命の合同組織、それは残念ながら統合への失敗の現象形態なのです。(つまり、すべての生物が行う「食事」とは、分裂生命が物質世界で行う悲しい統合の儀式なのです。)
 これが大生命をにらんだ正しい人間の生命イメージの選択です。だって、初めのイメージじゃ、人間にとって世界は意味はないもの。まあ「失敗」じゃさみしいとも言えますが、しかしそれはあくまで大生命としての現象形態です。本来世界では統一されている、大生命の、物質世界での現象形態なのです。

 では霊とは何か。
 霊は生命の影です。
 しかし、物質に当たった光の「影」が、人間が各々の物質のエネルギー状態をどう呼ぼうとそれらは存在するエネルギーの交互作用の結果の現象という、影を作る物体が何であれ生ずる唯一無二の状態であるように、生命の影も、物質エネルギーにはおかされない状態の生命を映す、最高度に大生命本体に近い純粋の現象なのです。
 これはおまけね。

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オカルト(その12;「無」の2形態)

2021-01-01 17:14:05 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。
 東京地方の正月は、操業休止と乾いた空気で、日の出過ぎても青空に日射しが眩しいほど。
 今日は初もうでに近所の神社に行きましたら、おやおや白梅がほころんで。蝋梅なんか一輪や二輪ではなく。新春ですね。ところで、蝋梅はやたら分厚い葉が残っていて、なんでも温暖化の影響とか。去年はきれいに落ちてたのですが。
 
 さて皆様、今年はいい子はおうちで? 
 2,3日前知りましたら、東京人口、1400万人だって。15年前は1250万だったよ。日本の人口は減ってるのに東京都だけさらにさらに増えて、東京集中も口先だけじゃなく、根本的に国家政策を見直したほうがいいんじゃないのかね。
 まあ、それはいいとして、東京には田舎のある若人がたくさんいるというわけでしょう。 若人は関係ないでしょうが、もう正月も症状悪化でパニックになっている家がたくさんあるようで。だからさ、他人事じゃないって。なかなか家族関係というのは大変です。
 うちも今年はお客さん無し。まあそれも仕方がない。
 
 昨日は食器洗い中、紅白でふと振り向いてテレビの前に行った(前に行かないと見えない19インチ)相手が、やっぱ古いんだね、坂本冬美とさだまさし。それ過ぎたらほとんど知らないんで、風呂に入って寝てしまいました。
 それにしてもさだが太って。なんだいありゃ。歌詞はいい歌だったけどね。
 必死だったら太るはずもない、しかし、必死の歌詞しか頭に浮かばない、とりつかれた人間の悲しさだね、谷川俊太郎のように。
 その点、坂本冬美はシリアスな歌詞も自家薬籠中。ほどほどに生きてる姿が見えて、誠実でうれしいよ。

 で、本題、正月恒例のオカルトでございます。
 今まで、純粋宇宙を無とすれば、星のある宇宙は、「無A」が破れた際の、エネルギーの体系であることが知れました。「物質」という名のエネルギーの下で、「広さ」も生じ「時間」も生ずる。
 と同時に、「無B」は、このエネルギー形態に引きずられて、個別化する。これがいわゆる生命でした。
 この生命の特徴に個別性や時間があることも知れましたが、ここで「広さ」あるいは「距離」について言っていませんでした。
 普通に暮らしていて悟るのは、同じ空間にだけ限れば、それは二人で満たされている空間。
距離的に何メートル離れていてもそれは同じ。
 ということは、自分の、行為主体の、空間を分断しているのは、目、あるいはそれを含む触感覚。そうした、個別身体的感覚、これが諸悪の根源ではないかと。これは元をただせば「物質」の存在形態なのでどうしようもありませんが、なにもわれわれ人間は、「孤独」である必要はないのだ、ということです。
 いやそれをいえば、世の中で「労苦」と言われるものは、自分への関心に限れば、身体への刺激のせい、「物質」性のせいなので、物質性がなくなれば何ほどのこともないわけです。
 もちろん触感覚や身体への抵抗がないと人間生きていけないし、諸生物も同様だろうと思うのですが、そうした身にまとう生物の諸特性は、幸せを疎外している。
 「有」の存在の原罪とでもいうべきものであります。

 という付言をいたしまして、オカルト問題で残るのは、この「無A」と「無B」の合理的統一と、霊の行方、だけだね、たぶん。なぜ物質と生命とは同時に生まれたか、また、生まれた世界の中を占める霊は時間の中でどう消えるかということです。
 
 そんなもん分かるわけないって? それは違う。人間のわかり方など1通りしかないのだから、その合理性を「ウソだ」といわれても、他にありえなければそれが正しい。何百万年経とうと、それが人間の持てる唯一の真理。もっとも科学ではありませんが。
 
 さて新年です。今年の予定は次(々)回作の草稿化。
 それよりも神様がいるのなら希望があるのですがねえ。なに平凡な、皆様と一緒の希望です。
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オカルト(その11;霊界の導出式)

2020-08-15 10:52:13 | オカルト(途中から)
 こんにちは。だるいっすねえ。お盆、皆さんお休み? 旧盆と終戦記念日が同じ日なんて先日生まれて初めて気が付きました。うちは新盆なので。
 当方、口のアフタは治りましたが(チョコラBB、効きが悪くなった)、パソコンは最悪、1日に6回も7回も電源落しやってるといい加減嫌になります。買って6年しか経ってないのに。
 現状、複雑なwebページを開かなければ、1日1回の電源落しで済んでますが、買い替えだな。突然当方へメールが届かなくなるかもしれませんが、その場合はそういう事情です。
 といって、去年の自分のパソコン内ファイルを見ると、1年前も買い換えようとしていたようで、よくもったものだ。
 
 さてニュース。
 ご旅行なんて行きますか? 今日はこんなのが、
「新千歳発成田行きの飛行機を利用した際に前の席に座っていた20代の男性の感染が確認されたため濃厚接触者として検査をしたところ、感染が判明」(日テレ)
 わたしは飛行機は2、3分で空気が換わるので大丈夫と信じておりましたが、乗らなくてよかった、ってどこにも行かないけど。咳が届く前の席が危ないんじゃなくて、機内の空気が後ろに流れるのかね。
 お気をつけください、ったって気をつけようもないか。

 わたしもやむをえず熊本へ、という可能性もなくはないのですが、先日「日本経済の歴史(近世)」という本を読んでいたところ、祖父の村(町)が江戸時代の図表にあって。熊本の「砥用」というところ(当時の行政区域)。一人当たり総生産も税引き後可処分所得も、熊本全41行政区域内最低。熊本で最貧の村でございました。よく東京まで出てきたもんだ。
 
 ニュースといえば、ありきたりだけど一言しておかなければね。
 香港。中国はナチスと同じだね。こんなことが今の世で生ずる、ということについて、というよりアメリカしか反対しやしないということについて、主意主義者と前衛主義者はどう思うのだろうか? 日本もイギリスも反対してる? ほんと、主義者連中と同じ。口先だけ。
 
 明るい話題を。
 数日前、「3秒聴けば全曲わかる」というテレビやってて、しばらく見てしまったら、でてきた45年前の中島みゆき。感動的に綺麗だった。こんな闘う女神みたいな人だっけ。
 われわれの暗い青春を彩ってたんだね。真っ暗に良く似合う、ほんと時代の子だったんだ。
 (団二郎の話って今は否定されてるけど、ほんとかね。いかにも中島みゆきが好きそうなタイプじゃん? そう信じてたけどね。まあいいや) 
 だからさ、歌い手は歌い終わったら別の人生を歩むのがいいと思うのですが。まあそうもいかない。
 
 村山斉という物理学者が、朝日新聞で、宇宙は重力で収縮するはずなのに膨張してるのはおかしい、これはダークエネルギーというもののせいだ、と書いていました。
 へんなの。何一つ分からないものを持ってきちゃいけないやね。それはオカルトと一緒。 わたしゃ、重力が裏側から引っ張ってるんだと思うぞ。我々の宇宙は小さくってさ、すぐ突き当たるんでぐるっと回って、裏から引っ張れるのさ。3次元のメビウスだね。5次元くらいにしとくか。
 
 さて、本題。今日は旧盆なのでオカルト。
 
 何度もいうようですが、「時間」なんていうものはトータルの宇宙にはありません。あるのは物質に専属の現象です。物質の動きが光速度しかないから、しかたなしに物質世界に時間が生ずる。
 ここで、物質世界に生ずるということは、それ以前の原世界には時間がない。と、同じく、生命エネルギー世界にも時間がない。
 にもかかわらず、時間のない生命エネルギー世界が物質世界にちょっかいを出すとどうなるか。生命に時間が付随的に発生せざるを得ない。かくて、生物は時間を相手にせざるをえないわけです。毎日が原子として現象している物質エネルギーの新陳代謝、あれこれと姿を変える本性の経過は、その結果必然的に、生命に時間をもたらしつつ、かつ、自己の更新を必然化する。
 
 ところで、「死」に代表される、物質を離れた生命エネルギーは、もちろん物質ではありません。人間に認識されている世界は生命と物質のエネルギー世界しかありませんから、物質を離れれば、それは大本の生命エネルギーの世界に戻るしかない。
 ところが、実は生命エネルギーは物質と合着する瞬間に、自分の大事な世界の影を引きずる。もちろん、霊的世界です。生命は物質ではないのだから、生命-物質= の答えに、何かが位置するのはしょうがありません。天ぷらうどん-(うどん+エビ)は、天カスです。
 では何がカスになるでしょうか? 両者の差です。生きる思い。生命と物質の差、これこそが残る世界なのです。これを預言者が存在する人間世界では、霊的世界と呼びます。預言者とは誰だって? もちろんご期待通り、私、隈です。
 
 さて、これは端境でありますから当然にピンからキリまで。そこは、基本、生命が物質を離れるときに通っていく世界なのです。霊的世界は生命エネルギーと物質エネルギーの端境として、生命が物質世界に近いものもあります、その遠いところが「往生」、近いところが幽霊です。
 
 どおお? すごいしょ。これが近代合理性、形式論理の恐ろしさだというべきでしょう。
 
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オカルト(その10;(異説)生命の本質)

2020-07-11 10:48:31 | オカルト(途中から)
 こんにちは。相変わらずの梅雨で。世の中災害だらけで困ったものです。日本海側だけはよさそうですが、いつも秋からひどいしね。川崎北部は不思議に多摩川中流域を雨雲が避けるので、毎日ポツポツくらいしか降りません。悪いようです。
 
 軽くニュース。
 yahooから、「わじろ @wajiro_ao・2020年7月4日
会社の若手が「倉庫に聞いたことが無いメーカーの洗濯機がある」と言うので現物を見たら「National」だった。」
 私なんか文字でpanasonicとあったら、常に脳内変換でナショナルにして記憶しちゃいますよ。ときどき生意気な家人にとぼけられて不愉快、「違う。panasonicって書いてあるじゃないか」とか。
 
 「九州豪雨の影響で配達困難地域があるため、特別に紙面をPDF形式で公開します。」(赤旗)。
 これは感心、すなおに褒めたい。PDFでちゃんと読めるの。まあ、いつもやってとはいいません。
 それにひきかえ朝日はほんと心根が悪い。政府の批判はいいが、何も考えずに悪口を言えばいいと思っている。コピペするのもくだらんからしない。
 
「隙間33センチ、転落相次ぐ「都内で最も危険なホーム」解消へ JR飯田橋駅」(毎日新聞)
 よいことですが、昔、通ってましたが、健常者にはそんなでもない。ひどかったのが50年前の小田急線代々木八幡。間45センチはあったし。見るたびに恐怖。カーブでホームがひしゃげてたから。その後、線路を持ち上げたりで(違った、線路を下げたりで)ずいぶん改善はされたけど。なお、去年改修したって。ここのところ小田急には乗りませんが、元凶のカーブはどうしたのかねえ。ホームを曲げると、車両の先がこするよねえ、たぶん。
 
 さて、今日は新盆、の週。私は東京生まれの東京育ちで。
 恒例のオカルトです。今日は「生命とはなにか」の別解釈。
 ちょっと前に出た前川文夫氏の「植物の形と進化」から。
 氏によると、地球の当初、動きがきわめて活発なH、O、C、N原子は、つながりすぐに分解する経過を辿っていたとのこと。これが冷却されて運動エネルギーがポテンシャルになり、分子が生まれる。どんどん分子が眠っていくとまだ眠らない分子が、眠っていく分子に囲まれていく。このまだ生きているタンパク質が残ったとき生物という形に生き残る、んだそうで。
 ただ残念ながら、なぜ、隣の眠ったタンパク質といくばくの距離も離れていない残存した活発タンパク質がそのまま残存し続けられるのか、の説明がない。まあ無理もない、彼のは科学だからね。
 ところで本稿は「オカルト」なのでいくらでもいえます、論理能力さえあれば。
 さて、なぜ生命がそこに突然現象するのか。隈が教えましょう。
 それはもともと物質エネルギー自体が生命エネルギーだからです。
 
 どおお、論理的でしょう。あっつ、と驚かない?
 生命エネルギーはその巨大な力を物質の活発さに費やし、宇宙空間を作成した。
 ところがこの生命エネルギーには波があって、宇宙空間へのエネルギーの放出がしばらくすると、今度は生命現象の機構の構成に動きが変わる。個別な構成体が他との融合を繰り返す。
 もっとも「しばらく」という時間はありません。「しばらく」という、要するに時間は、物質現象だけが持つ、その動きの表現に過ぎません。物質の個的な都合です。
 5次元以上の場の中で、生命エネルギーが物質と生命の波を繰り返す。生命は、それ自体、宇宙のガイアなのです。
 
 と、ね。物事は、論理が大事ね。
 こちらは1元論で、前の説は(去年の旧盆)2元論。そういうときは1元論のほうが偉いわけだけど、しかしこのままでは、なぜ生命が固有の境界を持つか、が説明されない。全宇宙1生命でいいではないか。重大な欠陥ですね。
 というわけで、やはり物質への貫入説は捨てられない。
 巨大な生命のうち生命と物質との端境部分が、分裂しつつ、物質への貫入を遂げる。これが個別生物の発端である。
 と、ね。
 
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オカルト(番外;極楽浄土の本質)

2020-03-21 09:58:20 | オカルト(途中から)
 こんにちは。多くの方が3連休、こんな様子でせっかくなのにね。川崎市は昔多摩川が荒れたおかげで、原っぱの名残が公園になってるんでそこそこ状況が良いもよう。休日模様のニュースにあちこち出てます。
 花粉症も杉はピークを過ぎたって。私儀なんかやけに調子がよく、目がかゆいくらい。恐怖の夜中のサラサラ鼻水も去年の秋以降止まっております。もうお年かねえ。

 先日メガネを拭いたらぼろっとレンズが落ちて。あぶねえ、と座卓の上まで大事に持っておいたら、ネジがメガネ拭きの中にあって、ほっとした途端メガネ拭きが滑って座卓から落ちて、ネジも一緒に落ちてしまった。最悪なことに床が毛足の長いカーペット。しかも私にはそれを見つけるためのメガネがない。昔の保存しているメガネは不良品ばかり。なんとか見つけるまであせってあせって。
 このメガネ、ネジサイズが1.7mmで、引き出しの中がぐちゃぐちゃで1.4mmしか見つからないのもあせった理由。
 教訓、ともかくメガネのネジ1.4mmと1.7mmは用意してすぐ分かるところに置くのがいいですぜ。
 メガネ、2年前に変えて、もう左目が見えない。度を強くすれば更に悪くなるいたちごっこ。なんとかこのまんまあやしながら死ぬまで変えたくないものです。

 さて、ネット情報。フランス保健相が、イブプロフェン(と名指しで)などの抗炎症剤は、新コロナに悪いから、アセトアミノフェンにしろとのこと。
 ええええ。。てなもんで、私の常備はエスタックイブだから、仕方がないからパブロンSゴールドW買って来ましたよ。どうせウソだろうから小瓶だけど。
 しかし、アセトアミノフェンだって、酒と一緒に飲むと間質性肺炎になるって昔から書いてあるぜ。酒飲めないじゃん。
 なお、「この」情報の本旨だとバッファリンやPLもだめということなのでお間違いなく。もっとも別の情報とかもあるんでわかりゃあしない。庶民はわかんない中で生きるしかないからね。どうせ医者にも分からないし。

 コロナじゃなくて、
 「【病院が消える日】透析できるのは70キロ先に…「あなたの命 誰が守るのか」“病院再編“ 地域医療の行方」(北海道文化放送)
 だって。今、厚生省が病院潰し運動やってるのだよ。そりゃそうだ、どんどんいってやったがいい。民間ニュースにしては進歩的で感心な記事。赤旗よりも率直さを感ずる。
 フジ系、なんだけど北海道新聞でもある、って、よく構成がわからない。

 さて、本題。今日は(昨日は)お彼岸、極楽浄土の日、だから、この間のオカルト・シリーズの「自主探究」?とは違って、仏教の世間話。
 
 ふと思うに、極楽浄土の本質はただ一点、食い合わなくてよい、というところにあります。
 人間、生理的条件さえ確保できればとりあえずの問題はなし。あとは趣味の問題。
 ところでこれは全て生物たるもの同じだろうと。生き物にとって、食う必要がなければ世界は清澄澄明なものだ。青空の下、広々と澄み渡る。
 この立論の必要条件は、「極楽が存在する」ことではなくて、死ぬと「霊」が(しばらく)残る、ということだけ。
 つまり死んでしまえば何も食らう必要がない。それはライオンだろうがクマだろうがマグロだろうが同じこと。あるいは食らわれる必要もない。それは牛だろうが小鳥だろうがアリンコだろうが同じこと。お分かりでしょうか、すべて敵のいない世は、何も怖いことはない、本人の趣味で友だちだらけになる、霊の世は、文字通り極楽。 
 これは「自分だけ死なない」のではダメで、「誰もが相手を食わずに済む」というところがポイント。腹ペコになることもなく寒さで震えることもなく、誰かをどやす必要もない、目の前の生物を愛していればいい、これがその結果起こる現象。と気づいたわたし。
 すごくない? わたし。よく気づいたでしょ。
 過去に坊主が1千万人いるとして、この事実に気づいた坊主が何人いるだろうか。せいぜい10人だと思うぞ。もちろん、その自分の坊主に自己表現権はないから気づいただけに過ぎないけどね。
 ま、ともかく、生物であれば誰でもが行きたくなるところが、別に蓮など咲いてなかろうが、極楽浄土、生物が死なない、すなわち争わない、すなわちすべてが仲間の世界だ。今そばを飛んでいるシジミチョウもそばを歩いているカメムシも、みんな君の貴重な友人だ。その生き物の数ったらはんぱじゃないですぜ。仲間(生物)の昔話(=生きてるときの話)を聞いてるだけで百万年くらいすぐ経ってしまう。
 それはなかなか豊かな世界じゃないかい? 若人以外の君もどう? 
 ところでぼくはまだちょっと。勉強が少し残っとります。
 
 いやね、お風呂で思いついたことを忘れず、パソコンの前まで持ってくるというのは、めったに成功しないルーチンなのだよ。「成功しない」までがルーチンね。
 
 
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オカルト(その9;生命の形態)

2020-01-01 10:24:05 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
 今朝は初日の出は雲も切れ間から出ただけですが、まずまずの出だし。昨日暖かかったせいかクサカゲロウが網戸にひっついてました。優曇華(うどんげ)の親ね。紙ですくって飛ばしたら飛びましたがこの寒空に大変です。
 全国的には雪国では雪模様のようで。都会に出てこられた方はなるべく帰ってあげてくださいませ、お互い大変ですが。布団は着せられるときに着せてあげないと。
 
 暮は掃除とか料理とか、そこそこ普通の家っぽく、と思うとなんとなく正月が来る気分になりました。いつもは途中で眠る紅白も、今年は余裕のせいか最後まで見て。
 しかし、これは歌番組じゃ決してないね。こういうのは「ショウ」っていうんだよね。歌舞音曲。「上を向いて歩こう」とか、どこに涙があるんだよ。坂本九が泣くよ。
 ついでに、野沢雅子のそっくりさん(皮肉)、全く似ていない。鬼太郎からやってんだねえ、しかし声優も80歳までか。加藤みどりはいつまでサザエさんをできるのか、、、
 まあ正月から悪口もない。といってべつに悪口のつもりでもありませんが。
 
 さて、本日の新聞は例によって(去年は枚数を数えましたが)どさっと来たのはいいけれど、読んだのはゴーンと最首悟(という昔の人)の記事だけ。紙がもったいない。宣伝は消えてなくなる電子情報にすればいいのに。
 
 というわけで本題は盆と正月恒例のオカルト。
 あ、というわけで普通の方々におかれましては、良い一年でありますように、
 
 さて、ふつう以外の方々、前回は、地球上の生命の本質は「自己」という固有性であり、その固有性は、生命が物質エネルギー世界に貫入した瞬間に生まれるということでありました。
 本日は、では「生命はどこに存在するか」。
 まず、物質宇宙はどこに存在するかといえば、掌の上に、でした。あなたの手のひらの上の空間に宇宙全部が存在するのです。存在の仕方は、プールの回転スライダー。ぐるぐると螺旋状に回りどこまでも広がっていく、ようで、実はあなたの手のひらの上の空間の1点に収束している。永遠即瞬間、位置即無。西田ですかね。空間とはそういうものです。我々生命体はそんな存在の中に個別性として入ってしまったので、宇宙はわれわれにとっては「どこまでも広がっていく」ように見えてしまうだけです。個別などない世界に無理やり入った我々がいけない。
 同様に、生命も、多様に個別的に展開しながら、最後は統一的に1点に収束し、「無」となります。無というと寂しいので「統一的無」と呼びましょうか。個別性が消えるのですから、宇宙と同様に、いかようにも発展し収束する統一的無であります。といっても「霊」は別のルートをたどることはお話し済みです。
 
 さてしかし、もちろんこうした宗教的ないし哲学的認知と人間の生き方とを混同してはいけません。西田本人は知りませんがその弟子の全てはこれを混同しております。生き方はあくまで倫理なのです。生命に人間が介入しようなどとどういう僭越な根性だろうか。あえていえば、人は人の間で生きていかなければならない、それが地球上の生命という個別性を背負った人間の使命なのです。

 ほんと、隈たるもの、イエスの生まれ変わりではないだろうか。

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オカルト(その8;生命の本質)

2019-08-10 14:14:42 | オカルト(途中から)
 こんにちは。暑いっすねえ。外でて歩いてるときは必死なのでいいですが、建物に入って一息つくとむかつきます。本日はyahooの防災情報によると秋田が豪雨。横手市と大仙市が大雨洪水警報で、なぜ間にある美郷町が無事なんだろうと思ってクリックした、とたん、美郷にも大雨洪水警報が浮かび上がりました。バグか。
 しかし、お盆が始まって、午前中は田舎の駅前も、アウトドアの格好をした小さい子連ればかり。うらやましいこと。私は暑いので実際は遠慮したいですが。自分の幸せをわきまえず「あつい、、」とかぐずってるガキもいて、お母さんが怒ってました。
 
 さて、本当の勉強は暑いので想定どおりやる気が出ず。「やる気」の訳は、わざわざ確認しましたが、「Motivation」なんだよね。
「当たり前だろ」というのは学部学生までにしてね。モチベーションがあっても、暑きゃあやる気は出ないんだよね。主意しか神様に認めてもらえない英米心理学なんてエセさ。それを信奉する日本心理学者も頭の程度が知れる。脳生理学者に専攻領域を全部取られておしまいさ。

 さて、ニュースもお盆で、未取り扱い記事はないでしょう。でも「表現の不自由展」てやつは、書いてないね。これは自分の意見の代わりに引用で、長いコピー。大村秀章愛知県知事。
 ここにいらっしゃる方々には当然で意味のないコピーですが、最近政治意見で一番心を動かされました、もちろん左翼サイトを含めて。偉いぞ、選んだ愛知県民。ただし、名古屋市民を除く。
 「最近の論調で、いわゆる“税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだ”ということをですね、ネットでいろんな意見が飛び交っているのはこれは匿名の世界であれかもしれませんが、いろんな報道等でコメンテーターの方がそういうことを言っておられる方がいるようですが、逆ではないかと思いますね。これは行政、国、県、市、公権力をもったところだからこそ表現の自由は保障されなければならない、と思います。というか、そうじゃないんですか? 税金でやるからこそ、公権力であるからこそ、表現の自由は保障されなければいけない。わかりやすく言うと“この内容は良くて、この内容はいけない”ということを公権力がやるということは、許されていない、ということではないでしょうか」
「いちばん酷いのはね、“国の補助金もらうんだから国の方針に従うのは当たり前だろう”というようなことを平気で書かれているところがありますけど、みなさん、どう思われます、それ? ほんとうにそう思います? 私、まったく真逆ではないかと思いますよ? 税金でやるからこそ、むしろ憲法21条はきっちりと守らなくてはいけないのではないでしょうか。この数日間、“ちょっと待てよ”とつらつら考えて、非常に違和感覚えております」
https://lite-ra.com/2019/08/post-4887.html
 ただの自民党の政治家のくせにしっかりしてるよ。で、さらに大村氏に厨房がケチつけてるようじゃないか。こうなると厨房というより精神異常だね、人格が思い浮かぶよ。そこらにいるしね。なんちゅうと「精神疾患をバカにするな」でしょうか。
 ま、それはそれとして、この情報提供にケチをつける気はさらさらありませんが、なんだろね、このサイト。lite-ra? 他の記事をみたら、なんかため息、はあ、、とついたところ。もっとまっとうに話題を扱えないのかねえ、、今はなき子供たちの新左翼サイトみたいだ。 と、思ってネットにかけたら、「噂の眞相」かあ。サイトオーナー、苫米地だって、なっとく。といっても、苫米地、決してばかじゃないぜ。
 
 では、本題。旧盆なので、新盆に引き続いてオカルト。ま、常にそうであるように、半分はほんと。
 さて、世間では生命とは何だ、といっているか。ネットでは「よくわからない」から始まって「結局よくわからないで終わる」。書物は、と見れば、いったい何を考えているのだろうかという、「生物学者」の定義ばかりが目に入る。とりあげるのさえくだらない。理系の連中だから、「本質」という言葉を考えたこともないのだろう。(例:読み物としては、高井研「生命はなぜ生まれたのか」なんて本もあります。)
 というわけで、暑いから答えをシンプルにいってしまいましょう。
 生命の本質とは、「自己」です。
 
 ・進化? 進化しようがしまいが、それは生命観念を揺るがさない。世の中でたまたま進化しているのは、「生物」です。
 ・自己複製? それも生命と生物の混同です。なぜわざわざ複製をしなければならないのか。
 ・恒常性? それも生命と生物の混同です。なぜ変化してはいけないのか。
 ・エネルギー代謝? エネルギーの動きは世界中どこにでもある。もちろんそんなものは生命ではない。それは必要ではあるが生命ではない。
 
 そうではないが、唯一つ、生命には固有の、個別的な、境界があるのです。
 そういうと、それは人間の認識の固有さによるだけで、石にもビルにも境界があるではないか、という否定論がありました。いいえ、石に境界はございません。ただのSiO32-やCO32-の集合体です(wikiより)。どこで切れるものではなくどこで切れないものでもありません。あるいはビルというのはCaやSやAlやFeの複合体です。これらの内実も、どこで切れるものではなくどこで切れないものでもありません。「外部」にいる人間の呼び方が岩から石へ、あるいは砂利へ、あるいは瓦礫へと変わるだけです。そこには「固有の珪素」は存在しません。ところが生命にはある。全ての生命は固有です。
 しかして、固有の境界の複合体たる人間は生命ではない、という議論は正しいでしょう。ただし、人間は生命の複合体である生物です。生命と生物は違います。
 また、境界を持ったエネルギー、つまり、そこらの岩やマグマではなく、「地球」は、生命の可能性もあるでしょう。もっとも地球と月との境界はどこかと言われると、地球の自己管理が今のところ我々には不分明なので不明ですが。なので、可能性にすぎません。
 というわけでまとめがオカルトです。

 では、なぜ生命が宇宙に存在するか?
 生命は、外見上、かならず境界を持つ。この境界を持つエネルギー代謝は、「生命」が「生命界」から出て、エネルギー世界へ貫入した証左である。生命は固有的自己であり、彼は必ず、エネルギー世界を引き連れている。
 
 どんどん真理に近づいていきますな。
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オカルト(その7;霊界の生成)

2019-07-13 10:59:16 | オカルト(途中から)
 こんにちは、全国的に涼しいですね。私は勉強ができてとても助かりますが、子供たちは残念かね。ニュースで「海開きイベントは体育館で」とかやってました。
 おかげで、ナス・キュウリ・水菜・小松菜はいちばにないとのこと。代わりにレタスと白菜をどうぞ、といってました。夏に白菜でどうしろというのか。ただ、来週からは暑いそうです。とにかく外米を食べるめには会いたくないものです。若人は勉強のために食べたほうがいいかな。
 
 政治ニュースは、「人口43万人減、過去最大 少子化進み10年連続」(共同通信)なんてのがあって、これに(ch***** | 3時間前)という人のコメントがよい。
 「富裕層を優遇しても人工増加(ママ)には繋がらない。6年もあれば結婚、出産を推進する事はできた。現政権の責任。」
 いたく感心したので転記。おっしゃるとおりだねえ。
 6年でお前にできるかって? もう、まかせてちょうだいよ、簡単。権力呉れれば。さて、政治勢力で一番できそうな共産党の諸君は、「簡単」と言えるかな? 
 と思えば、「自民党の三ツ矢憲生衆院議員(三重4区)は12日、三重県伊勢市での街頭演説で、参院選三重選挙区に立候補した同党の女性現職候補に関し「この6年間何をしてきたのか。一番大きな功績は子供をつくったことだ」と述べた。」(スポニチ)だとさ。役立たずのお前ら二人とも6年分歳費返せ。

 勉強中の本日のびっくり。
 K派お抱えのこぶし書房、自分とこの基本文書も品切れのまま。わかんねえやつらだなあ。基本文書という認識さえないのだろうねえ。価値の分かるやつはみんな辞めたという事情は分かるが、本がなきゃ若人は無知のままじゃないか。理論のK派の通り名は過去の栄光か。事実認知をばかにしてるね。次回本でせっかく引用して褒めようかと思ったのにしょうがない。「日本の古本屋」によると北海道の古本屋に1冊あるようですが、クレジット情報はだいじょうぶだろうか、、、。なお、「日本の古本屋」というのはネット古本情報です。お勉強好きの若人はメモしておくといいです。
 
 さて、本題です。東京地方、本日はお盆(の入り)。この気温ではぜんぜんらしくないけれど。浴衣で迎え火したら風邪引きそうだね。若人は迎え火って知らない? うちももう29年やってない。子供も提灯持って夜道を歩けるという、ちょっと面白い催し。子供用の提灯で道端の雑草を照らしてみたりするのさ。小さいからぼーっとしてよく見えないけどね。ま、昔の思い出。
 
 ともかくお盆ですので、本日は久しぶりのオカルト。
 本日は、霊の独立性。 
 前回は、「存在がなんらかの方法で生命を失うと霊が生じ、存在が霊を吸収すると生命を得る。」これは光の存在と同じであるという結論でした。では、霊の存在機能は何か、というわけです。
 まず生命は、物質世界からエネルギーを得る(変換する)手段として、「消化」という手段を使う。そのことにより、その時点で生命は、自ら生命自体の新陳代謝(交代)を必然化することになる。生命は細胞として生き続けながら細胞と共に生まれ変わる。この変遷が「生物形態」である。
 さて、ここで、そこには「物質」と呼ばれるエネルギーの形態、に対する、『生物』としての独自性、ユニーク性はない。生物になる前の細胞形態では生命は統合的に存在すればよい、すなわちエネルギーと同じに波間で「かつ消えかつ結ぶ」ものが生命である。エネルギーの存在形態と一緒であり、だれも苦労も悩みもしない。
 そうではなくて、存在が生物形態を取ると共に、生まれ変わらない統一的表象と、その生物世界内の連合が生まれる。これが霊である。細胞が細胞として統一体を形作ると、その一部で、はき捨てられた生命と継続する生命が生まれる、継続生命は、実は統一された生命であるにもかかわらず、「自己」を持つ。これが霊であり、しかし統一されているところから霊的世界が生まれる。
 つまり、西田弁証法のように、個別にして統一、統一にして個別。
 「自分は自分」といっても実は生命なので統一されている。時間は物質の運動に伴うものであるから生命に時間はなく、しかし、自分は物質の移動によって消化をするわけだから、自分にのみ時間がある。霊はいわば生命の上部構造であり、物質から離れれば、統一された「自分たち」に戻る。この結果、霊は生命の記憶機能として存在するわけですな(注)。しかして、存在は新たに霊を吸収したときには記憶機能を得る。
 というわけです。したがって、死んだ人間と話すことも可能。その自分組織に時を越えてアクセスすればよいのであって、問題は、相手の自分組織をどう特定するかだけ。
 オカルトシリーズも、ずいぶんと真理に近づいてきました。


(注)このセンテンスは、小野文一郎という人が「生命体の科学と技術」(編)という本の中で「DNAは作業記録である」(に過ぎない)と書いてあったことによります。ははあ、なるほど、っちゅうことです。
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オカルト(その6;霊界)

2019-01-01 09:50:42 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。(といっても世間では今年はおめでとうをいわないようですが、年が新しくなってなぜ悪いのか。おそらく一緒に暮らしていた場合には、一人いないとお正月の過ぎ方がガラッと変わりすぎるので、始めから何もなかったことにする、周りも気遣いが面倒なのでなかったことにしたいということでしょうが、そんなことは自分で決めればよろしい。田舎もんの意識にはほとほと困ります。などと正月から悪態を。あ、本日の記事は若人にためになるところはございません。なんとなく疎外感もあるなあ)
 と、悪魔のおかげとは思いもよりませんが、私もなかなか元気で、これは神様としては人生のロスタイムという認識なのではないかと思います、職業仕事は時間食いましたので。いずれにしても好都合で本年も勉強的成果をあげる気にもなります。
 
 さて、去年という昨夜は、酒を飲んでる間、紅白を見ておりましたが、演歌は大嫌いなところ、しかし今となってはお友達ですね。一人で歌ってるんだもの。自分の歌を聞かせようとして歌ってるんだもの。歌手Aや歌手Bがおのおの自分の思いにして歌ってるんだもの。と、わざわざ言うのも変だけど、そう思いません? たまにはここに来るかもしれない中高年以上の方。逆に、そうではない中年以下の方々の歌、みんなで楽しく歌って踊って、ぜんぜん生き方が違わあ。といっても年寄りは子供の先のことを心配するものなので強調はしません、このまま生きて過ぎれたら幸せかもね。
(ほんと自分には歌は大事なんで言うだけですが、昔「歌ってマルクス 踊ってレーニン」という揶揄(やゆ)がはやって、今になってこんな揶揄をネットで披露する連中はすべてワケありのクズなので大嫌いですが、昔はこれは否定しなければならない語句で、それは一般論として今も変わってはいない、と思われますね。歌って、踊って。おめでたすぎ。生活人は正月だけにせいや。)

 で、今朝は新聞というものが来まして、みなさまは取っていないでしょうから知らないでしょう、元日は全部で98ページあるんですね。で、その中で私が読んだのは合計で1ページの4分の1ほど。なんなのかねえ、あれ、読む人いるの? 芸能、スポーツ、広告、報道ニュースの個人ネタで終了。みんなゴシップだもの(格闘技の結果はあり)、きょうみなし。「おめえが時代に遅れたくたばりぞこないなんだよ」? しかし、普通の日は読んでんだから、やっぱ正月はおめでたいのかねえ。。。

 というわけで、本日は正月恒例のオカルト。
 恒例の上、自信家なので、「オカルト(途中から)」なるカテゴリーを作っちゃいましたよ。後付け整理なので抜けてる記事もあったりするでしょうが。

 さて、すでに生命界はエネルギー界とは異なることを突き止めたところ。同時に霊界も生命界とは違うものとするのが合理的としたところです。本日は、では霊界とは何か。
 たびたび言うように物質界はエネルギーの塊ですが、そこから物質として固まっていない光あるいは電磁波なる状態が発します。そうwikipediaにも書いてあります。
 かくなる物理界の光(電磁波)の漏れという現象があるという事実にあわせると、霊界は生命界のシワのようなものと考えるのが合理的でしょう。存在がなんらかの方法で生命を失うと霊が生じ、存在が霊を吸収すると生命を得る。光とおんなじでしょう。霊は人間にとっては、光が線的であるように、皺的である。皺は伸びるので、テレパシー等は超常現象ではなく、生命体に平凡にありうる現象である。なお、ここで「存在」とは、宇宙内の「位置」である、とね。
 すばらしい。
 馬鹿なことを、とお思いでも、これを自分で考えられるところが驚異ではありませんか? といっても常連の方には当たり前になってしまって感動がないでしょうね。
 
 ま、本年もおつきあいいただければ幸いです。
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