リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学概念の歴史的規定性

2018-08-25 09:14:49 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。また暑さが戻ってしまって。この間の雨ったら、いつも買い物とかに出かけるタイミングを東京アメッシュ(という東京地方の雨レーダー)で見るんですけど、土砂降りの雨雲がばんばん飛んで。青梅市とか知り合いが住んでるんですけど、ほんと、山は荒れ狂うんですねえ。  
 この1ヶ月、時間が矢のように過ぎて。家事以外には思考しているだけなので、外界の変化がなく、睡眠状態と同じなのだろうか、と思うところ。外出しても行き帰り矢のようだし。ゆったりとした外出が望まれます。

 さて、本日のテーマは、食べたい食べ物は美味しいか。
 題が違う? そか。まあ新聞と同じ感想を書いても時間の無駄だし。
 一昨日家人がメンチカツと間違えて買ってきたハムカツ(ぶ厚い)。ハムカツってまずいよね? あの塩辛いというか胡椒辛いというか異常な辛さ加減たら。でも時々は食べたいんだよね。
 変? ピーマンとか焼き鳥とかビールとか、不味いよね。でも時々は食べたいんだよね。
 俺は好き? だったらゴーヤとかアシタバとかクサヤとかならどうだろうか、結局、味覚なんていい加減なんじゃん? 食えりゃあ後は別の要因なんじゃね? 「あれ食べてあんとき楽しかったな」、の類いの反応で、居酒屋とか故郷とかの思い出のせいで、腸から(身体から)快感ホルモンが出るんじゃないかしら。オキシトシンとか。腸からは出なそうだけど。あるいは、「外で食べるとなんでもおいしい」というのは、実はセロトニンを味わってるんじゃないかねえ。
 どう? なかなか大胆でしょう。老化してもまだバカにはなっていなそう。
 というわけで、役に立つブログ。テーゼ「食べ物は不味くとも楽しく食べるのが勝ち」。
 
 あと、ごく若い人用に昨日の夜のニュース。「東京都と首都大学東京(八王子市)の運営法人は24日、同大の名称をかつての「東京都立大学」に変更する手続きを始めたと発表した。知名度の向上が目的」(時事ドットコム)、これは新聞とは感想が違うぞ。
 ざまあみやがれ、石原。(この組織改正は、石原慎太郎が東京最後の左翼インテリの牙城をつぶしたくてとった政策。ま、石原の役目は終えて左翼インテリは消えちまったけどね。) 
 改名後、売り物の社会学は残ったとはいえ、名の知れた英文も独文もこの際心理学も入れようか、も、なくなって、どこが大学か、みたいなところはありますが、名前だけでも元に戻ってよい。ざまあみやがれ。他人に知れる前に名前がなくなる卒業生には少しだけ同情しますが。
 ところで、今検索したら都立大の偏差値が神戸大、千葉大より下だったとかいう発言が。こうゆうのは2通りに違うんだよね。第1に、地域。地元の偏差値は高いの。私の頃は「東京では」都立大人文学部は東北大文学部と同レベル。もちろん東北大は東北の雄だから偉いんだけどね、しかし、東京人的には「都落ち」。第2に、時代。昔は慶応ボーイ以外はみんなが貧乏だったから、昔の私立は、早稲田だろうが慶応だろうが、全部国公立の滑り止めなの。うそつけ、たって、あなた、国立年額12,000円の授業料に対して、私学授業料その他年額10数万円払いたい親が何人いたと思う? あとは自宅から通えるかどうか(下宿代を払えるのか)で決まったのだよ。もちろん国立に受かったって女とかだと親に授業料を払って貰えず、泣いて就職したのさ。私は幸い、学部のときは親に早稲田に入学金込み22万円ほど払ってもらって(発表日がずれてた)1日も行かず中退届を出して、国立年36,000円(その年から上がってた。それでも都立大は年額12,000円(都内在住者))でしたが。(大学院経歴はその後です)
 まあこういう下卑た話題には卒業生は乗らないからね、おかげでそのままネット情報が生き残ってしまう。私は家が近かっただけで関係ないし。
  
 というわけでオタク用本題。
 また暑くなって図書館に行きたくないので開いた富永健一「日本の近代化と社会変動」。一度話題にしたこともありましたが、当家には本がわずかしかない。社会学者はどんなふうに歴史を見るのか、と思って開いたのですが、ムダくさい論議ばかり。東大教授は、いらん知識を並べ立てて感想を書けば本になるんでいいやね。知識、めちゃくちゃ。と分かるにはどのくらいの修行期間がかかるのかね。
 
 さて、社会科学の概念はもちろん歴史的に規定されています。ある時点で正しい概念が持つ因果連関は、50年後においても現実に妥当するかといえばそうとは限らない。これはいいでしょ?
 で、この歴史的な規定性を形成するものは、それが社会科学的概念である限りは、
 1 消費物資の生産の必要にかかわる当時の与件
 2 それの時点までの支配上の組織的な当時の与件
 3 行為共同性にかかわる当時の与件
 である。
 というのは隈理論だけどね。
 いってみれば世の中は、経済的な条件と政治的支配の条件と社会学的社交上の条件とで変わる、といえば「理論社会学者」にもわかるか(「文化」領域だけはないよ)。上記1行は飾り文句でなんの内実もないけれど、まあいいや、先に進まないからね。
 たとえば、生誕に伴う人間集団(=いわゆる家族)の形成は、隈が指摘する上記の条件の下で、「シンプルな核家族」や「家父長制家族」、あるいは「同族たる家」ないし「家父長制の性格を持った『家』たる家族」、といった現実形態をとります。
 こうした把握が社会科学的には正しい。因果連関を前提としているからです。因果連関は人間において、未来を変更するための、それだけが科学の名に値する理論契機ですから。
 ただ、それにもかかわらず、そうでない学問もありうる。当該現実の特性を明らかにする、あるいは際立たせるための営為です。これは科学ではないが人間に必須の事実認知をクリアするための重要な営為、学問です。ここでは、たとえば、有賀喜左衛門、中野卓、さらに「戸田貞三・喜多野清一」を挙げておきます。
 「なんだ、性格の悪い科学主義者の癖にずいぶん寛容だな」と思ったあなた、有賀シューレは師匠筋なもので。就職や進学の推薦状書いてもらったし。ま、それはそれ。喜多野もお弟子に習ったしね。
 
 さて、ここで第1の問題は、この2通りの論の次元の差異がわからない論者の存在です。
 富永健一氏。彼は先の本で、家父長制とは「家長の専制支配のもとにある大家族形態」のことであるとして、有賀喜左衛門の論を排しております。いわく「近代化」です。日本の「家」はただの農業社会段階に普遍的な家父長制家族であり、この変容こそ近代化なのだ、というわけです。これは有賀ではなく、「家制度=家父長制の一形態」派の戸田貞三・喜多野清一にとって喜ばしい批判ではありません。後者にとっても論題は現実の日本家族の「文化的形態」だからです。彼らの社会学史上の労苦は、日本文化の特徴の解明なのです。これは自明なので時間の無駄で論証しません。
 さてそこで、人は自分のテーマの解明のためにそれに適した用語を使う権利をもつのであり、それを取り上げて、なにもわからぬ他人がとやかくいって偉そうにできる学問上の役割分担はありません。物事をいい加減に扱って平気なのは、毎年毎年癖だらけの俊英を育てなければならない東大社会学講座の主任教授としては正しい行いでしょうが、それはその仕事限りのことです。
 第2の問題は、科学の枠組みです。因果連関だからといって、その議論の集約形態が無用な概念であるとなれば、それは科学ではありません。歴史に長く尾を引いて虚空に消える幻影です。富永はその結論を「近代化」という観念に集約しました。無意味です。近代化とは何か。それは神の思し召しか。「近代化」はただの歴史の推移という以外のなんの学問的契機も内包しない「概念」です。というよりもそんなものはそもそも概念ではなくただの単語と言うべきでしょう。いずれにせよ社会科学者の用語ではありません。ちなみに、それをいいたいのなら「資本主義化」です。もちろん「資本主義化」は社会学語ではないという主張は50年前からありますが、それはただの体制派の社会学の自己規制です。
 まとめますと、こういう場合は
 「日本の『イエ』は有賀以下が解明したように○○な実態を持つものであったが、これは世界史的にはいまだ商品経済の波及が農業生産上の××を侵していない状況で、江戸期の支配の△△も運動によって阻害されず残存し、イエ共同体の構成員の平等を□□に制約している状況における『生誕に伴う人間集団』の現状であった。したがって、これらの日本的特徴は商品経済の進展、すなわち資本主義化によって崩壊していったのである」といった議論を展開しなければならないのです。まあ今更富永を批判してもしょうがないが、こういう人たちには弟子がいるからね。

 というわけで、本日のオタク用のお役立ちは、概念の歴史的規定性の本質。概念なんて普遍概念以外は定義するもんじゃない、という真理の説明。社会科学では普遍概念を歴史用語化して当該歴史的時代における事項の連関を明らかにすればよいの。「普遍」も相対的だけどね。ウェーバーの「厳密な」定義? あれはただのあほ。ちょっと具体的にわかったでしょ? 大学いっても誰も教えてくれないぜ、こんなこと。
 
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感想数件

2018-08-18 14:15:32 | 断片
 こんにちは。お盆休みはどこもひどかったようで。東京地方も山好きには最悪とも言えそうでした。毎日1回、山は土砂降り。今日明日は炎暑も収まったので、正社員代替で休めなかったバイトの方はしっかり休んでくださいませ。
 と思って買い物に出たけど、やっぱ日差しは暑い。と思って家に帰ったら家の中のほうが暑い。ちょっと熱があるか。
 
 本日はお盆週間なので、変わったニュースもないですね。
 皆様と同じ感想ばかりなので、一言づつ。
 
 まずはめでたい出来事。「「踊る阿呆」が市長に勝った」(現代ビジネス)阿呆踊りですね。おめでとうございます。役人ばらが何をしやがるんでえ、というところ。民間に任せると入場料が減るんでいやだったそうですが、祭りはムダ金を使うためにあるという基本さえわきまえない。
 
 次。サマータイム、IT業界が「やだやだ」と。政治家なんかカネ遊びしか知らないんだから、もっといわないとわかんねえよ。ほんと2000年問題のときもひどいもんだったし。SE系、みんな立って壁に寄りかかって寝てたよ。政治屋はIT屋なんか兵隊だと思ってやがる。とはいえ、金になるのも否定できないから業界経営者としては大きな声はあげられないのだよね。
 
 次、全日本剣道連盟の「居合道」部門で、商談じゃない昇段に裏金。「事実上、金で段位や称号を買うシステムだった。実力だけで合格した人はほとんどいないのではないか」と証言した。全剣連は「慣習は事実」」と認めたと。(産経デジタル)代金は数百万円だと。ああ、情けない。なにが「伝統の武道」か。まさに「恥知らずの日本」の武道だ。

 「山中で男児を発見したのは、ボランティアで捜索に加わっていた大分県の尾畠春夫さん(78)だった。」(ハフポスト)偉いねえ。年寄って魚屋を閉めたあとのボランティアのプロだって。ほら山根明だって悔い改めればまだ輝けるぞ。ほんと、しんぷるに褒めたい。だからといって、60歳過ぎたら会社勤務はムリだから。同僚が迷惑。
 
 感想ばかりで役に立たないね。最近気づいたのですが「湿潤療法」。傷を湿らせ続けて治すやつ。昔、ほんとかよと試してみましたが全然直りゃあしない。なんだうそか、と思ってましたら、娘(大人)が「いや直りは幾分早いし後がつかない」というんだね。ええーーと思ったけれど、ふと気づきました、「かさぶた状態は治ってない」という認識なのだね。知ってた?
 かさぶたでいいじゃんか、というか、かさぶたでいいなら乾かしたほうが絶対早い。
 ま、知らない若い方むけの情報。どうせ年寄りはどうやったって直りゃあしないし。
 
 で、結局本日は感想。
 なんだかの借りた本の後ろにあったその出版社の目録から、漫画の代わりに借りた
「吉本隆明1968」鹿島茂。吉本隆明という人は以前から私の理解の範囲をはるかに(下方向に)超えておりましたが、これでやっとわかりました。下層中流階級の出身と規定すべき心性で、超自我の所有者に激しい憎しみを抱いていた人のようです。私のような超自我者にはわからなくて当然のもよう。それを教えてくれて、いい本じゃないかね。実は鹿島という著者の言うことも理解不能ですが、鹿島氏には吉本のことが手に取るようにわかるもようです。私も吉本が自分と関係ないことが知れてうれしい。
 しかし、このわからなさ加減はブント転向者の姫岡玲治のわからなさと同じ匂いがする。二人ともおんなじなんじゃないかねえ。いずれにせよ関係がない人種です。
 これはお互い様で、鹿島によるとインテリは「思考が日本の社会の現実構造と対応されることなく」論理が追求されるんだそうです。へえそうかい。あれもこれもが日本の社会の現実だということがわからない、自分ひとりの人生が正しいのが下層中産階級というもののようだ。彼は町人には農民のことも分かっていたとおっしゃるのさ。うそをつけ。
 ところが、本人が本当にいいたいことなどわからなくとも吉本は偉いのです。それが「思想」というもの。
 本人は全実存をかけてしゃべっても、聞いてる人間は時代に合う一部しか聞いてない。自分に関係があるところだけ聞く。間にメディアが入れば、メディアが選択してくれるからその一部が増幅される。いやはや。それが思想です。その結果、吉本が戦後昭和を代表する思想家の一人であることには何の変わりもない。それも、もう過ぎたことだけどね。後には、それをそのとき聞いた(それによって変化した)人間以外は、何も残りはしない。しかし、それが思想の価値です。
 というわけで時代にそぐわぬ私の本はとりあえず売れやしないさ。ま、それでオッケー。わたしゃ思想家でなく科学徒だし。日本人、幸せってことでそれはそれでいいやね、とりあえず。
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「経済学」上の「現状分析」とは何か(その2)

2018-08-10 15:31:40 | 社会学の基礎概念
 で、今日の続き、(その2)です。
 
 もともと現状分析という言葉は「前衛のための」現状分析であったわけで、宇野弘蔵も、無論、そのつもりで立てたのが三段階論です。つまり、その昔の「前衛」が、「資本論に窮乏化すると書いてある、今の低賃金が資本論そのままの事態だ」とか、「資本論に恐慌が資本主義をつぶすと書いてある、この現在の恐慌こそ最後的状況だ」といった話をするので、そんなことはくだらないから止めようという話です。動機自体くだらないですが、その頃はそんな低次元の提議も(宇野の)勇気ある独創性に支えられなければしゃべれない、という、半封建的な言論状況だったわけです。こういう連中が自己の立ち位置の反省もなく、「戦前の半封建遺制を廃棄しよう」などと音頭を取ろうとしたのですから、人間存在の悲哀ですな。
 ま、ともかく現状分析は、前衛が革命運動を実践する際に資本主義をどう把握すべきか、といういたって非科学的な用途に供せられるものだったわけで、なにが科学か、てなもんです。

 でもついでに一つ教えてあげましょう。そんな政治的な現状分析論議でも、科学たりうる性質がある。人間の行為ですからね。これは社会学が教えてあげられる。前衛が欲するべきいわゆるところの現状分析とは、思想状況の確定なのです。科学的にいえば、賞賛と優越、つまりその発言が誰に褒められるか。あるいはその発言により(たとえば敵対政治勢力のような)誰それよりも優位に立てるか、という問題です。これによって前衛は、何を論題にすればデモ動員数が上がるか、同盟員が増えるか、選挙支持票が増えるか、その他の方針策定ができる。前衛の現状分析とはそもそもそういうものです。たとえば「世界は帝国主義戦争の前夜だ」などというから経済学だと思うでしょうがそれは違う。前衛とはいえバカではない。前夜であってもなくても明日の抗議集会が盛り上がって、自己勢力が増えればそれでいい。そのための「現状分析」発表です。
 経済学じゃ現状分析ができなくて、社会学ならできるのか、って、社会学はあなた、現状分析のための学ですから。社会学はそもそも、現状分析から始まって因果連関の命題を検討、提出後、また現状分析に戻る、という過程を本質とする社会科学だからです。この結果、社会学は状況の規定要因の明確化とその規定要因に対する行為の集積の総合的セットという外見をとります。
 大学の社会学教授の8割は、自分で「社会学は学者の数だけある」などと平気で発言しますが、しょうがない、みんな若いからね、自分でも自分でやってることが分からないのね。

 ま、これは余題。元に戻って、経済学=生産史の話。
 
 今日の前回、(その1)で、「生産史における科学としての現状分析とは、現在が生産史のどこに位置するか、という課題以外には存在できないのである。」といいましたが、その課題としては科学でありうる。方向性としては、岩田弘という宇野経済学の支流の人です。世界資本主義論を強調した人。
 なんとなく隈の問題意識が透けてきた? そうなのね。わたしゃ経済学などどうでもいいし。ま、ともかく。
 8割しか正しくないウィキペディアによると、岩田弘の世界資本主義論は宇野の「三段階
論とほぼ同一の方法論」と書いてありますが、そうでもない。これはさすがに若い頃の栗本慎一郎が正しい。いわく岩田氏のものは「二段階論として「原理論と世界資本主義論」という構造になっている」(ネットにあった栗本の「資本主義経済史の方法と世界資本主義論」)。伊達にセクトのキャップはしていない(過去)。つまり岩田本人としては、世界資本主義の継時的叙述が、そのまま現在的資本主義の分析につながる予定なのです。
 といってもこれは難しい話ではなく、方法論的には前衛的マルクス主義はすべてそういう構成になっている。その最後の分析時点で「資本論にこう書いてある」などと、いつまでも未練がましくマルクス本人にこだわるかどうかの違いだけです。
 岩田弘の優越している点は、この論議が国家を含め、さらに世界を含めた論議になっているところです。まあ結果として正しくはないにせよ、ともかく理論の枠組みはそうでなければならない。

 さて、では、枠組みだけでなぜ本論は正しくないか。もちろん、岩田氏が経済学しか知らないからです。しかし、世界のシステムは経済システムに限らないのです。
 本来あるべき、「現状を分析する経済学」はそうではない。あるいは、経済学が社会科学の帝王になりたければ、そうではない。
 経済学にとって生産史など、すなわち「資本論」など、どうだっていいのです。資本家による収奪が存在していることは誰だって知っている。プルードンまでの経済学前史でもそんなことは学者ならぬ人民にさえ周知の事項だったのです。もちろん、若きエンゲルスには常識です。
 収奪を資本家がどうやってするなどということはどうだっていい。しかも収奪を搾取などとごまかして何か気の聞いたことを言ったかのごとくふんぞり返るなど論外だ。実はそんなものは静的な第三者の学、近代経済学と同じ冷やかしの理論に過ぎない。
 そうではない。アダムスミス以降の経済学に必要なのは、支配への志向性の解明なのです。
 なぜ他人の労働を他人の家族を殺してまで自己の労働にしたいのか。なぜ人間であるはずの支配者たちは、その体制を平気で承認し続けるのか。なぜその体制を血の滴る国家的施策にまで仕立て上げるのか。さらにこの「文明的」現在に至るまでその体制が続いていくのか。
 それを解明するのが本当の疎外された人間の行為論、「経済学批判」です。
 この経済学批判において、学そのものが「現状分析」になる。現在的資本主義の強点も弱点もその内実が赤裸々にされる。
 
 なんのことはない、隈の次回論究であることは御明察のとおり。
 ただ「経済学批判」の題じゃ本を読もうとする人が分からないからね。買ったはいいが、読んでみるとどうみたって社会学的評論。ここがネック。論理がわかんないんじゃしょうがない。噛んで含めても伝わらないものは伝わらないのは、昔このブログで試してみましたし。教授とか職業でやった人は、伝達のキモがわかるんでしょうねえ。教育の素人にとっては、分かることをどう分かりやすく各節のテーマに置くか、という作業になるのですよ。でさ、整理というかウサ晴らしで書きました。
 
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「経済学」上の「現状分析」とは何か(その1)

2018-08-10 15:27:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。相変わらずの暑さながら東京地方、それなりに旧お盆。いよいよツクツクホーシがなき始めました。晩夏ですね、って気温35度で言っても虚しいか。
 お盆のご予定はいかがですか? 沖縄海水浴派を除いて、本州部は台風もいっちまって、気温さえ気にしなければなんとか過ごせそうじゃないですか。私は気になりますが。まあ老人は家にいるように。
 わたしゃ札幌行って、大通りでトーモロコシ食べて、羊が丘でビール飲んで、したいな。まあ他にあるんでゼータクはいわない。

 沖縄では翁長県知事と言う人が亡くなったそうで。知らない人ですが、なかなかの人生態度でしたね。山根というボクシング連盟会長にも話してやりたいものです。 
 山根:「先生、俺の人生やっぱ間違ってたんですかね」
 高校教師隈:「しょうがないさ。まだ1年は生きるだろ? 時間は充分あるさ。きれいにまとめれば一人前以上の人生だよ、キミも頑張れ」
 どうしてもそういうよね、倫理の教師だから。 教師だっけ?(違います)
 
 本日は金曜日でちょっと早いのは、先週忙しくて放置した「込み入った」テーマが残ってたんで片付けたら終わったのが1日早かったという事情。さぼったので2回分ありまする。
 
 さて、1月ほど前、「歴史学など、全て後追いの評論だ」とバカにしたところでありますが、本日はその経済学版。
 直接には宇野経済学ですが、経済学には「現状分析」というジャンルがある、あるいはありうるのは分かる、と、99%の経済学者が考える点。宇野経済学ですと、資本の循環的変態を明らかにする原理論と、それだけで経済は現実化しない、それを支える国家を考慮に入れた段階論。この2つの検討の結果、現状分析ができる、という組み立て方ですね。経済過程の現状分析は、経済学研究の究極的目標なのであります(宇野弘蔵)。しかしてそれはおそらく科学か、科学の一部であるんでしょう。で、何をもってそれを科学という根拠とするのか、というのが、本日のテーマであります。
 なんてことをいうと、経済学者は全員がむっと詰まっちまうでしょう。「そんな口に出してはいけないことを表ざたにして」。せいぜい宇野派が「原理論は科学だからそれを使う現状分析も科学だ」と言い、あるいは近経派は「俺らは算数使ってるぜ」と言うくらいでしょうね。
 しかし、ここで正気に返りましょう。現実はどうなのか。どの経済学的現状分析論文が科学だって? 具体的に教えて欲しいものだ。
 「○○××経済論」だ? その論文は正しいのかね? それは他の派閥の学派も含めてみながそう思ってくれてるのかね? そうじゃあるまい。世の中の経済学論文の全てであるそれらは、統計的事実を題材にした、しかし実態はただの「主張」だろう。そういうものを「評論」という。「科学」と「論理的整合性の確保された叙述」とは天と地も離れている。評論は論理的に正しい構成を取れば科学なのか? いいや違う。ある叙述は、世界に因果連関を示し得た時にのみ、科学となる。
 長くなるので、とりあえず本当のことをいってしまいましょう。
 科学としての経済学は存在する。ただし、その科学性は現状分析には存在しない。マルクスの原理論ないし近経の原論は、それが正しければ、科学たりうる。ありうる現実過程の因果連関を示すからである。
 しかし、トータルの経済学とは、実は生産の過程の学であり、それは本質的に歴史を内に含む。歴史のない生産過程は存在しない。生産の諸要素は、歴史を経て、つまり世界東西の人間の努力の末の結果を見て、その連なりをもって初めて学として成立するものだからである。端的に言えばそれは「生産史」であり、それに過ぎない。したがって、その論が現実に近づけば近づくほど原理の担保はなくなり、空虚なイデオロギーの塊と化す。その登場人物の諸国家も世界東西の人々も諸資源も、全て経済学上は「初見」であり、その初耳の者たちが論の主人公となるからである。
 ただの生産史である経済学における科学としての現状分析とは、現在が生産史のどこに位置するか、という課題以外には存在できないのである。
 もちろん社会学としては、学の帝王として、この学問上の「僕(しもべ)」なり「婢女(はしため)」なりの生産史を使用しなければならないのは、隈の社会学で述べているとおりであり、使用すれば済むわけだが。
 
 と、まあ途中ですが切りましょう。若人は無謀にもスマホで見たりするから。
 込み入って長いと読めないんじゃないかと。
 
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突然忙しくて

2018-08-04 15:11:48 | 断片
 こんにちは。ほんと、暑い。
 実は突然の急用で今日明日あさって、書く時間がなくて。ほんとはまた込み入った話をする予定だったけど、お手上げ。
 幸い水曜日に一つ書いといたから許してもらえるだろう、と。
 
 とはいえ、せっかく開いてくれて何もないんじゃあしょうがないので、ニュース。
 東京医科大の女子配点減とか、「あ、こりゃひどい」というものがバレてよかったよかった。ほんと、日大ボスやらボクシング連盟やら、昭和の遺物がどんどん消され、そうで、とてもうれしい。日本じゅう権力のあるところに昭和あり。どこまでも「はびこって」たんだね。相撲は全部つぶさないとダメかもしれないが、せめて知性の片鱗くらいはある、だろう、医学部くらいは自主解消ね。と思ったら、ボクシングのほうが存在感強くて、迷惑。山根とか存在自体が悪いんだから、消えてなくなるしかないんだよね、アベとかも。
 
 どうでもいいこと的には、先日、高い和牛を買う機会があって。安い和牛かもしれないけど、要は脂肪がべちょべちょ入ってるやつ。オーストラリア肉用の焼肉のタレでは芸がないのでゴマだれというのを買ったりしました、が、知らなかった、和牛にタレって合わないんだね。塩かレモンしょうゆくらいがせいぜい。知ってた? 
 知らなかったらうれしい、今日の役に立つブログ記事に解してくださいませ。
 
 
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『世界資本主義の論理』

2018-08-01 16:21:30 | 「歴史としての自由」
 (前回、ぶつぶつと悩んでいました件、改めまして)
  次回論究あらすじ

「歴史としての自由」
   -世界資本主義の論理

【第1部】 マルクス資本論の誤てる構制
       (略)

【第2部】 歴史としての自由

 社会で自由に生きるべき人のその生き方を規定するものは、消費物資をいかに入手するか、という様態である。この様態の変遷により、人には「歴史」が生ずる。
 有史以後のすべてのこれまでの社会の歴史とは、国家による強奪の歴史である。他の弱小地域を飲み込み、吐き出し、自国の国家構成員と自ら認める人間のみのために消費物資を掻き集める歴史である。したがって、国家が存在する限り、それが計画経済国家であっても、他国の消費物資の強奪は常に国家の目的である。
 歴史とは階級闘争の歴史だ、などというのは、国家内特権階級の戯言に過ぎない。つまりマルクスである。アイヌの歴史を見ればよい。これを階級闘争で説明して見せよ。
 にもかかわらず、この国家の強奪の歴史を終わらせるには、特権者たちが構成する国家が必要なのである。国家は外部から崩すことはできない。外部からの努力は「他国」という自国の、領地拡大にすぎない。

 さて、その強奪の闘争はいつも、武力に特化した一群の人間がいる側、したがって、多くは武器の優越した側、さらに多くは、生産力の優越した側の勝利に終わった。大和朝廷の地域豪族恭順化を見よ。ところでこの勝利した一群の勢力の内部においても闘争があった。それが階級闘争である。階級闘争は当該一群の勢力を蝕み解体し続けた。それは外部の勢力にはできない作業であった。
 内部闘争とは何か。それは武力の優勢の如何を超える闘争である。内部は内部の一部分を多数部分に変改しながら、武力の保持者を追い詰めていく。
 武力の保持者は武力的構成を味方の者で固めたいが、そうはいかない。武力構成員は、命を掛けざるを得ず、そんなお人よしは、やっと社会の名誉で固めた幹部だけである。人民はそんな武装勢力の名誉を削りながら、行為共同性を広げ、武力を追い詰めてゆく。これが国内の歴史である。現先進資本主義国のブルジョワ革命までの一連の過程を見ればよい。
 では世界史における国外地域はどうか。国外は当該世界の資本主義から排出され続ける「資本主義」性によって、国内の行為共同性を広げてゆく。この国家以前の地域をも再構成し行為共同性を作る、奴隷的平等状況の創出拡大こそ、資本主義の歴史的使命である。後進諸国の歴史を見よ。
 
 すなわち、人間は自己労働による消費物資獲得という、自己の自由を広げる。他方、共通した社会的位置におけるその連帯が絶対多数派を作る。これにより、支配を、国家を、連帯して打ち破る。
 と同時に、自由を知った民衆は、労働力の商品化を阻止し、国家の支配を許さない。資本主義がなければ国家は自前の経済を作らなければならないが、民衆は、自前の経済を持つことで、国家の復活を許さないのである。
 と同時に、自由を知った民衆は、自「国」の経済の安定のため、他国の自由を求める。
 そんなものは理念に過ぎない? そうではない。この歴史段階は人類がはじめて手にした「理念が実現される」段階なのである。行為共同性しか生きる制約のないこの時代、人は下部構造から解放された彼の自由な精神を生きることができるからである。
 ここに他国においても社会主義が生まれる。世界資本主義の代わりに世界社会主義が生まれるのである。といっても資本主義という原始的蓄積を通り過ぎていない後進国にとっては、いったん歴史の凍結が行われるわけだが、この国家での社会主義の漸次的進展は、資本主義の終わっていない現在の解明課題とはしないことが許されよう。
 この歴史的大団円の前段の過程において、『消費物資の獲得』契機を資本主義が作り、『連帯』の契機を身分・階級闘争が作るのである。

 これにより、人は第1に、歴史的価値としての諸闘争を知る。なぜ敗北にすぎない過程の中の死に価値があるのかを知る。その敗北的闘争こそが、支配者に対して、人間が進むべき方向性を示すのである。
 と同時に第2に、人は「目的としての平凡な人生」の価値を知る。なぜ威勢のいい階級闘争に価値があるのではなく、先進国の多くでは当たり前の、「しかし平穏な」暮らしに価値があるのかを知る。平穏で自由な暮らしこそが未来のいつの日か、全世界の人類の誰もが手にすべき価値である。

 ということを、人が知りたくなくてもしょうがない。
 が、それこそが、生きながら、何人もの死を確かめつつ、何十人もの人に助けられた人間の残すべき仕事である。
 
   、、、って、もちろんまだできてないの。まあ、来年だね。
   (ちなみにわざわざマルクス資本論と書いたのは、そもそもエンゲルスは間違っていないからです。ぜんぶ引き回しにあっただけ)

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