というわけで、本日はこっちが本体。今日はわたしがいつも知らないふりをしているフェミニズムというかリブ運動への疑問。
昨日、例によりまして食後の食器洗いちゅう、ふと思うに、ボーヴォアールの議論といういうのもあまり解放的ではないなあ、と。
ボーヴォワール40歳(ウィキがワールだっちゅうんで)。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。
良い言葉のように聞こえますけど。私どもの時代には、意識的な少年少女はまず押さえておかなければならない言葉でしたね。その頃は高校1年で左翼なんてあたりまえでしたから。
ま、ともかく、あんまり科学的ではないけれど、まあ、そういう修辞ですね。そういう修辞が有効な時代があった社会があった、ということです。
「社会があった時代があった」というんじゃなくて「時代があった社会があった」 ね。そりゃいまだってそこにいきつきもしないイスラム社会ばかりだけれど。
ただ若い人は、日本ではそういうことは言ってほしくない。
もともと、「第二の性」って本でして。
中学生のころ。ざっと目を通したことはあるけれど、表題の趣旨以外は、趣旨が不明でした。って14,5歳でわかるかよ、てなもんですか。
でも今ネットで検索しても、これはフランス階級的エリート社会でしか必要のない本だとおもうのですね。趣旨は、日本でも、残念なことにその他の国でもあと100年は、必要な本だけれども、って、そりゃなに言ってるかは読まなきゃわかんないよね。
シンプルに言えば「論旨に」歴史的な普遍性がないのです。「論理に」普遍性はあるのですが、ぎゃあぎゃあいってたってフランスエリートの社会での言葉遣いのイメージしか湧きたてはしない。(こうゆうのは日常言語にするのが難しい)
ま、ともかくも。
でも私ももう中高年でして、それ以上のこともわかるはずですね。
なにが悪いか、って、女は生まれからして女だし、ってことで。それをないことにしてもしょうがない。
いや、だからイスラム諸国・ヒンズー国のような野蛮な国ではまずそれを隠すのはしょうがないわけね。さっきはそういうことをいったの。まず、「作られた女像」を壊さないとね。
しかし、それは像を壊すだけの役目しかない。
女は女で戦線を固めなければ、それは左翼の1形態にしかならない。早い話、前衛の自己満足。
女の統一戦線とは何か。
女の大部分は、母存在にアイデンティティを持ち、その社会での母文化を自己のものとする。それが全体社会の存在の土台なのだから、それを否定してもしょうがない。ついで、その社会でのそのアイデンティティを実践し。それにより、自己の文化をさらに追加的に創る。それも人間行為者として当然なんだから、それを視野に入れなければ統一戦線など組めない。組めなくてもわたしはよいが、それは男に好都合なだけだ。そういう議論は、左翼の一分派の議論になるだけ。男は「ああそれがヘミニズムネね」とか思っていれば通り過ぎてしまう。
今は、この2014年の日本の文化に沿って、母と独立女性が対立しているだけ。発表能力の高い女は自分のこと(独立女のこと)しか言わない。そうではなくて、母にアイデンティティを持って成長し成長し終わった人間が持つべき理想を確定していくべきではないのか。
母だからなにしちゃいけないとか、それは子供に悪いからだめだとかいうことをいってんじゃないのさ。
母は結婚契約をせずに早く独立して「子供を育てろ」、とか、独立するために、「子供は男に押し付けろ」ということも含めていっているわけ。いやでもなんでも、母存在を視野に入れない以外には、歴史的に多数を取れるフェミニズムは存在しないだろうと。それはフェミニストが往々にいうようには決して付随的なことではない。
なんどもいうようだけれど、そうでない議論は、男と女の関係論であるフェミニズムではなく、ただの自分の自由を求めるアナーキズムの一分派。
それで悪いとはいっていません。
男である私と同じ視点だからね。それでよければ私と一緒に150年待ちましょうや。
わたしはただ、正しい議論をしたいだけ。
基本、男の敵が男であるのと同様に、男と女は敵だからね。(女と女はどうか知らないし、女にとって男がどうかも知らないけれど。理論上は、女の敵が女であるのと同様に、女にとっても男は敵じゃないのかね?) (なお、これを男は全部の人間が敵だと書いては何も伝わらない。僕の男の友達は決して僕の敵ではない。)
と、まあ、久しぶりにためになるブログ。こうゆう議論にはふつうなにを読んでもお目にかかれませんぜ。
昨日、例によりまして食後の食器洗いちゅう、ふと思うに、ボーヴォアールの議論といういうのもあまり解放的ではないなあ、と。
ボーヴォワール40歳(ウィキがワールだっちゅうんで)。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。
良い言葉のように聞こえますけど。私どもの時代には、意識的な少年少女はまず押さえておかなければならない言葉でしたね。その頃は高校1年で左翼なんてあたりまえでしたから。
ま、ともかく、あんまり科学的ではないけれど、まあ、そういう修辞ですね。そういう修辞が有効な時代があった社会があった、ということです。
「社会があった時代があった」というんじゃなくて「時代があった社会があった」 ね。そりゃいまだってそこにいきつきもしないイスラム社会ばかりだけれど。
ただ若い人は、日本ではそういうことは言ってほしくない。
もともと、「第二の性」って本でして。
中学生のころ。ざっと目を通したことはあるけれど、表題の趣旨以外は、趣旨が不明でした。って14,5歳でわかるかよ、てなもんですか。
でも今ネットで検索しても、これはフランス階級的エリート社会でしか必要のない本だとおもうのですね。趣旨は、日本でも、残念なことにその他の国でもあと100年は、必要な本だけれども、って、そりゃなに言ってるかは読まなきゃわかんないよね。
シンプルに言えば「論旨に」歴史的な普遍性がないのです。「論理に」普遍性はあるのですが、ぎゃあぎゃあいってたってフランスエリートの社会での言葉遣いのイメージしか湧きたてはしない。(こうゆうのは日常言語にするのが難しい)
ま、ともかくも。
でも私ももう中高年でして、それ以上のこともわかるはずですね。
なにが悪いか、って、女は生まれからして女だし、ってことで。それをないことにしてもしょうがない。
いや、だからイスラム諸国・ヒンズー国のような野蛮な国ではまずそれを隠すのはしょうがないわけね。さっきはそういうことをいったの。まず、「作られた女像」を壊さないとね。
しかし、それは像を壊すだけの役目しかない。
女は女で戦線を固めなければ、それは左翼の1形態にしかならない。早い話、前衛の自己満足。
女の統一戦線とは何か。
女の大部分は、母存在にアイデンティティを持ち、その社会での母文化を自己のものとする。それが全体社会の存在の土台なのだから、それを否定してもしょうがない。ついで、その社会でのそのアイデンティティを実践し。それにより、自己の文化をさらに追加的に創る。それも人間行為者として当然なんだから、それを視野に入れなければ統一戦線など組めない。組めなくてもわたしはよいが、それは男に好都合なだけだ。そういう議論は、左翼の一分派の議論になるだけ。男は「ああそれがヘミニズムネね」とか思っていれば通り過ぎてしまう。
今は、この2014年の日本の文化に沿って、母と独立女性が対立しているだけ。発表能力の高い女は自分のこと(独立女のこと)しか言わない。そうではなくて、母にアイデンティティを持って成長し成長し終わった人間が持つべき理想を確定していくべきではないのか。
母だからなにしちゃいけないとか、それは子供に悪いからだめだとかいうことをいってんじゃないのさ。
母は結婚契約をせずに早く独立して「子供を育てろ」、とか、独立するために、「子供は男に押し付けろ」ということも含めていっているわけ。いやでもなんでも、母存在を視野に入れない以外には、歴史的に多数を取れるフェミニズムは存在しないだろうと。それはフェミニストが往々にいうようには決して付随的なことではない。
なんどもいうようだけれど、そうでない議論は、男と女の関係論であるフェミニズムではなく、ただの自分の自由を求めるアナーキズムの一分派。
それで悪いとはいっていません。
男である私と同じ視点だからね。それでよければ私と一緒に150年待ちましょうや。
わたしはただ、正しい議論をしたいだけ。
基本、男の敵が男であるのと同様に、男と女は敵だからね。(女と女はどうか知らないし、女にとって男がどうかも知らないけれど。理論上は、女の敵が女であるのと同様に、女にとっても男は敵じゃないのかね?) (なお、これを男は全部の人間が敵だと書いては何も伝わらない。僕の男の友達は決して僕の敵ではない。)
と、まあ、久しぶりにためになるブログ。こうゆう議論にはふつうなにを読んでもお目にかかれませんぜ。