不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

次回作構成予定(人間の居場所)

2024-02-10 17:18:47 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、東京地方、今日もいい天気。といって、月曜は雪でひどかったです、ね。お勤めごくろうさまでした。わたしは真底冷えてぞくぞくしながら家に閉じこもっていました。黴菌には触れてませんから、寒さの風邪。
 で、関東地方、来週は18度、20度だってさ。めちゃくちゃ。うれしいんだけどね。3連休とれなかった人も、火、水はよい天気なので、ずれたほうがよいかも。梅は終わり加減ですが、こういうときは代わりがなんでもある植物園とかね、あったかかったら。わたしは珍しく所用外出予定。
 
 ところで、ふつう外出は買い物くらいにしかしないのですが、出かけると町でしんどそうに足をひきずる年寄りがぞろぞろいます。年取るとあんなになっちゃうのかねえ(私は違くてよかった)、なんて思った翌日、重いテーブルの脚にいやというほど自分の右足の指をぶつけ、痛さにソファーにうずくまりました(足元なんか遠すぎて見てない)。その結果、翌日の買い物はびっこひきひき止まり止まり。靴に圧されて痛いのだよね。可哀そうな年寄り、とか思われたかねえ、、、今は内出血アザも足の甲全体に広がったので、吸収されて終わりでしょう。
 
 皆様には、「何ごとも一瞬で起きる」という人生の真実を、とくに55歳過ぎたら思い出してくださいませ。55歳でそういう状況に陥り出すので、とばっちりで社会に迷惑がかからないように、人間、60歳定年制を作ったのであります。70過ぎたらアホばかり。
 ともかく暮らしの暗転は一瞬で起きます。まあ、5年に一回くらいの割かな。暮らしの明転というものも理屈上ありそうですが、まあ、10年に一回起これば幸せな人生ですね。
 ゆめゆめ自分は別だなどと思わないように。眼の悪い人は早く治しましょう。
 
 さて、きょうも特別なニュースはなく。
 ニュースではありませんが、ビオレ・キッチンハンド・ジェル・ソープ、の入れ物。以前サンスター練歯磨きのことを褒めたところ、これも素晴らしい。最後の最後まで石けん水をすくってくれ、まことに美事。美しい技術っていいなあ。

 ま、ということで、本日のお題は、スペース潰しで前回の続き。
 残された『それよりも問題は、「なんだこれは。どこに人間がいるのか」という批判で』問題。

 これはもともとは黒田寛一の「宇野経済学方法論批判」の提起。曰く、宇野には「疎外されたプロレタリアの自己回復のための主体性論」がないんだそうな。そりゃま、そうだ。
 彼の遺産にはもう主導理論の死に絶えた一派がありますが、若い頃には問題意識レベルではまともなものがあります、その意図は全部失敗しましたが。
 とはいえ、マルクスの意図は人間の主体性だ、とかって、そんな話は知っちゃいないさ 夜鳴鳥 関係ねえし。
 
 さて、ひとは或る理論に対してどう向きあうものなのか。

 社会科学の役割は、科学による社会把握とそこから発する因果連関の法則を武器として、人それぞれに異なる自己の人生を良い方へ向かわしてゆく、自己の自由を求めていく、そこにあり、そこにしかありません。それ以上に科学様に、あるいは理論様に、教えていただけるものなどないのです。
 人間行為者は、自己の環境を認識し、これを自己の自由に合わせようとして行為する。これは根本原則です。
 しかしある環境に対抗し自己の自由を手に入れるためにどうすればよいか、ということは決して普遍的に決まってはいない。 
 シンプルな例を出しましょう。「山火事だ、さあ逃げろ』。そんな状況で、もちろん多くの人々は炎の見えない方へ逃げるでしょうが、それが正しいかどうかは別問題です。炎の先へ先へと逃げても後から火が追いかけてくるイタチごっこかもしれない。そうじゃなくて炎を迂回して後ろに回ってしまえばそこが本当に安全なのかもしれない。
 つまり、資本論がどう工場労働者の現在の疎外を教えてくれようと、問題はそこではない。
 問題は、行為主体が持つ未来への道筋とその到達地点です。それがなければレベル上は「どうぞお好きな道を』でおしまいです。自由勝手な実存主義。もちろんそこで、前衛主義者の恫喝が入るわけで。「これこそが正しい道だ。他は堕落への道だ」。結論をどう評論しようが、同じことです。 
 
 社会科学上の実存の道とは、そうではありません。「この未来への道、行き先が知らされている道を、君の人生として行くのか行かないのか」という問いです。
 行先といっても、それは抽象的なものですから、「君の行先として君の人生に組み入れるのかどうなのか」というのが正しい言い方でしょうか。それは現象としては人それぞれで違う。
 そこまで提起して、それが科学の結語なのです。
 
 積極的に立ち入って書きましょうか。
 すなわち、それによって、自己と全世界人民の同一性なり加害・被害の関係なりを認識し得なければならない。
 プロレタリアート? 何の世迷言か。結論の場面までで科学として明らかにし終わっている(はずの)ように、世界はグローバルですが、その人民主体はプロレタリアートではありません。被支配人民一般なのです。くやしかったら工場労働者はグローバルな農民なしで生きてみろ、ということです。そうではない。次回作では、被支配人民は、プロレタリアに限らず、「生産・消費の場面においても」これこのように、同一の運命を持っているのだ、ということが明らかになっているはずです。「生産・消費の場面」、すなわち次回作が「経済学批判」たる所以です。

 さてその時点で、人生は読者にゆだねられるのです。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次回作構成予定(その、、4かな)

2024-02-03 14:21:43 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。今日は節分、明日は立春。東京地方、ここまで暖冬。去冬はマフラーや手袋を1、2回したけれど、今年はないかな。ただ、天気予報は、日、月、火と寒いと言ってはいます。
 本日の昼食が、恵方巻。例によって最低品と、珍しくキンパ巻(韓国海苔巻き)。いや、キンパはもういいや。ごま油飯。好きじゃないの。酢飯は時々食べたくなって、助六とか買うんだけどね、安いし。それと牛肉巻やらウナギ巻やらトンカツ巻は食べたくないから、結局最低品だね。

 さて、ニュースがなくてNHKは困ってる様子。あるいは少ない取材記者を全部能登に投入しているせいか。いずれにしても、戦争以外は交通事故くらい。

 以下少し。
 「「路頭に迷った気分」ヤマト運輸“クロネコメイト”個人事業主ら約2万5000人がきょうで契約終了」(TBS NEWSDIGEST)
「すべて団体交渉という形では拒否」「今まで弊社を支えて頂いた方には、心から感謝を申し上げる」」とヤマト運輸がいったと。
 いやさあ、こんなのヤマトって「会社の」問題の気がしないね。こういうこと発言するやつってさあ、「お前だろ」。いや、あなたではなく。
 そんな気が多々。裏切り者が多すぎる。

 「五輪王者ウルフ・アロンか、新星の新井道大か 柔道男子100キロ級の五輪代表争いの行方」「2月2~4日、柔道のグランドスラム(GS)パリ大会が行われる。、、、成績次第で代表争いが決着する」(産経新聞)
 この新井って若人の大外刈がすごいって。足の長さが92センチあるからぐるっと巻き付いて逃れられないんだと。いっちゃなんだけど山田風太郎の世界。
 ただスタミナがないんで長引くと疲れちゃうんだってさ。まだ19歳だからね、これから。ちょっと楽しみ。

 というわけで、本日は、次回作品の構成、もう何回目かしら、と思うけど、ここにはあまり載せてないね。
 それぞれそれ以前の構成を変えたわけではありませんが、そして今回もはっきりとは変わってませんが、心の中ではガラッと変わり。まあ外観的には、以前に出てた部品を縮めて、全部を大くくりにして提示する、というか。
 
 一番初めに出したのが、「資本論」の構想と同じという
 1 一般的・抽象的諸規定
 2 ブルジョワ社会での諸カテゴリー
 3 国家形態におけるブルジョワ社会の総括
 4 生産の国際的関係
 5 世界市場と恐慌
 
 うん、やっぱり外見的にはあまり変わってないのが不思議。
 ま、結局

0 序論

1 概念構成

(0) 「経済」学なるもの

(1) 資本家と労働者と、いわゆる国家

(2) 擬制国家による商品経済介入

2 経済学の社会規定性 
 
 (1)資本主義前史時代の規定力
     労働力創出と労働者陶冶
    
 (2)資本主義国家における規定力
     支配者と人民

3 国家の本性(題目は変えます)

(1)国家による世界市場創出、正しく言えば侵略

(2)世界資本主義内国家への対抗と新たな国家性の誕生
   
(3)国家間戦争その他の支配者的賞賛の発現

(4)政治経済体制の崩壊と崩壊への対抗

終章 元に戻って、現在とは

 と、「なんだ、取らぬ狸の。。」とおっしゃるかもしれませんが、主観的には、大枠が確定すればこれを太らせれば結果が生ずる(はずだ)という、シンプルな「明日の予定」というところになります。

 それよりも問題は、「なんだこれは。どこに人間がいるのか」という批判で。
 もちろんこの隈が忘れているわけではありませんが、名目上表現できてないのは大いなる欠点。
 まだ最終じゃありません。あと1年あるので、原稿としての終了は秋だな。
 
 この「秋だな」なんちゅうのも若い頃なら書かないところ。昔なら「11月だな」とか言った。いろいろとね、時期をきっぱり言えない身体があるのですよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資本主義先行体制の規定性(その2)

2023-11-25 16:40:03 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。今日は曇って寒い。昨日の昼間は薄いカーディガンで十分だったのに。明日はもっと寒いって。東京地方の行楽地は今が一番紅葉のはずなのに。私はなにかとあって、紅葉狩りはいってないけど。まあ、東京も平坦な場所はこれからだから。お近くの大きな公園なんか気晴らしによろし。火曜日またあったかいそうです、昼休みとか行けるといいね。
 
 当方、いつも秋になると赤い実を楽しみにしていた他人んちのザクロの木。もうすぐ破裂して赤い種実が出てくると思ってたら切り倒されてしまいました。なんだよ、いったい。
 ザクロなんて東北以北の人はご存じないよね、うちは半分熊本だから生家の庭に柘榴の木があって(常連の方用:いろんなものが生えてた)、気が向くと齧ったりしました、が種ばかりで美味しいものではありません、が黄緑の葉に赤い花や実が映えて綺麗なものなのです。
 が、切られてしまって。
 人の心がすさんでるね。ちょっと前は秋になると黄色い実を楽しみにしていたレモン畑が宅地分譲地になって。そんなに金が欲しいか。まあ柘榴の幹は枯れかけてたから、倒木対策かもしれないけれど。
 
 意味ないけど、生家にビワの木もあって、『犀のように歩め』なるgooブログ(11月21日付)に、「ゆりかごの唄」の挿絵が貼ってあり、昔見てた歌絵本の挿絵によく似ていて懐かしかった。(あれ、なんかの無断借用ではないかしら。藤城清治ふうの。)はいいんだけど、枇杷の実が揺れるゆりかごって、物覚えの悪い私の相当古い記憶、、前書いた記憶も絵本だったけど、記憶が絵本化している。

 もひとつ個人もの。
 ベランダ用のサンダルが上下に分割してしまって、買い替えにいつも行く安売りの靴流通センターに行きました。さてそこの最低品上下一体サンダルはいくらで売っていたでしょう?
 500円? 10年前だね。900円? 5年前だよ。今は? 2000円。
 びっくり。引き返そうと思ったけど、他に買うあてもなく。仕方ないので買いました。
 いまどきってサンダルってはかないのかね。店頭の安売り売り場には、スリッパみたいな甲カバーがついたやつばっかし。もっと雨はけ(?)の良い便所サンダルがいいのだ。だいたいサンダルごときが店の最奥、リーガル製品の前で売られてるというのも想定外でした。
 左翼も時代錯誤ですが、私のような保守も時代から落ちております。負けるもんか。


 では、本題。先週の続き。長い長い。ふつうの方は温かいものを食べて明日の良い秋の日をお楽しみください。
 続き入るよ。
 さて、まず第1に、マルキストないしマルクスの言う「生産様式」とは、「支配様式」のことである、という認識です。
 奴隷制生産様式だ? 読者諸君、奴隷とは平民「あなた」のことです。ギリシアであれローマであれ、「奴隷」なる者の人数推定は、歴史学者に言わせれば、ギリシア・ローマの平民という名の地主階級と同数以上の塊です。その奴隷Aにとって、「きみんとこの生産様式は主人が奴隷の君らを使う生産だよ」などと言われて納得するか。いいや納得しない。生産してるのは俺たちだ。それはマルキストないしマルクスの、エリート臭プンプンの醜い表現です。奴隷にとってこの時代の生産は「われわれ的生産」です。ただ単に、自分が働かされる仕方が、奴隷的支配なのです。
 「封建的生産様式」? いつだってマルキストやらウェーバリアンやらは神様のように偉い。当該時代のやっと「奴隷」時代から逃れた平民Bにとって、年貢をとられるこの生活は彼らの支配者の待遇である「封建」ではない。「年貢的」支配様式です。あるいは「封建領主的」支配様式、といえば穏健な表現でしょうか。
 もちろんこうした支配様式について「引っ張り犂(スキ)型生産様式」とか、「車付き犂型生産様式」とか、現象的生産方法で呼ぶのは勝手です。
 いずれであれ左翼を標榜してきた歴史学者・経済史学者たちは、もうほとんど死んでいるとはいえ、ほんとうに恥ずかしくないのでしょうか??
 なお、呼び名を変えればいいと言っているわけでもなく、これらの支配様式が継起する、などと隈には考えられません。

 そもそも奴隷制とは、小範囲の戦争により、定住的生産よりも人的強制労働のほうが生産性の良い時代の人民支配様式です。その時代の定住農業支配がすでに優勢になっていれば、そこでの「奴隷の確保」は、小規模となり、「奴隷制」とは呼ばれない。無理やり奴隷制という教条主義者はいますが。
 それに対して封建制とは、土地生産性の増大に伴う広範囲の定住的秩序の安定化により、必須消費物資が土地からの上り(アガリ)で賄われる地域での人民支配の形式です。
 ついでにいえば、絶対王政とは、商品経済の浸透により小国家的人民支配が崩れたときの、支配者同士の支配争奪の結果です。

 それぞれの支配様式に移行するにはそれぞれの規定性が指摘されるでしょうが、筆者は、(筆者だけではないと信ずるのですが)そんな昔の事態など把握できないのでここに記そうとは思いません。

 元に戻って、第2に、生産物を必需品、便宜品、奢侈品と分けるならば、人は、資本主義とは便宜品のシステムであると知らなければなりません。
 人間は、行為の先にその行為しなければ手に入らないものを求める。
 資本主義は必需品はこれ以上いらないまでの発展の後に生ずる過程です。しかもその生産物を、民衆は各人が「同様に」求めるのです。同様でないモノは、たとえそれを億万長者が買おうとも、それは資本主義体制外のモノです。つまり、資本主義商品とは腹がくちてから生産される物品であり、「資本主義だから豊かだ」と資本家とその手先が騒ぐのは、そもそも資本主義とはそうした段階である、という生産力過程の表現にすぎない。それが「奢侈品」でないのは、そこであるモノを人がみな所有可能であれば、それを「奢侈」とは認識できないからです。
 便宜品、それは誰にとっても自分の使用下にあれば自分の安楽が上昇するものです。これを他者と協働して入手せんとするのが、行為の側面からみた資本主義のシステムです。

 ついで第3に、資本主義とはグローバルなものです。「どこかで」便宜品の生産がなされていれば、その「どこかから」時代は進んでいく。資本主義は交易の体系なのです。

 そう見極めればあとは簡単です。

 こうした事態の根本的規定性は、生産力の増加です。
 ただし、社会構造上での生産力の増加とは、生産共同体から離れて、自らの力の産物を、必須消費物資と交換できるようになった人間の部位の増加に「過ぎない」。当初においては、生産共同体こそが、生産力の足を引っ張り、人間の自由の足を引っ張る根源だったのであり、ようやく商品経済の進展の中で、生産共同体がそのおこぼれにあずかろうとする行動をとるようになるのです。つまり、生産力の増加に伴う、交易の重要化、とまで言って、資本主義の規定性が具体化する。
 
 さて、資本主義は商品経済ですから、「交易」が萌芽的に必要です。
 交易が商人と貨幣・紙幣の存在を生む。貨幣には社会科学上は何の謎も存在しない。
 交易自体は、そのための方法的便宜を進行させるでしょう。「道」を含む交通用具です。これは頭のどこかにメモするだけでよいでしょう。
 交易自体はもちろん通時代的に存在する。それぞれの個人の必要物資獲得のための交易です。
 これに以下がプラスされる。
 
 まず、消費必需品生産の剰余が集積される国家(複数)です。
 すなわちその剰余労働力の存在と、その労働力を行使して便宜品を生産させ得る統一国家であり、他方で当該国家支配者の奢侈消費物資欲求を刺激し、交易によってかなえさせてくれる他の統一国家です。
 ということは、統一されるべき小国家が必要でもある。一人で突然大国家を制御するなど、ありえない。
 その小国家の存在のためには
1 貯蔵可能な地域消費物資の存在
2 支配者の元への消費物資の集積≒税
 が必要です。   
 ついでこれら複数の小国家を武力的に支配しうる統一国家が必要なのです。
   
 ここで、当該統一国家に便宜品生産の条件がなければ交易には至らない。消費必需品は他国の統一国家では「間に合っている」からです。これが間に合っていなければ、交易ではなく戦争が生ずる。
 
 この交易の条件の中で産業技術が生まれる。そして伝播浸透する。
 この技術発達についても自然的過程と把握すればよいでしょう。「いやそれは人間の主体的能動性を無視している」といった評はありえますが、そんな事情は行為者の将来の想定の条件にはなりはしないからです。

 さて、この交易という条件は、十分条件ではない。交易は国家間の物質的「繁栄」をもたらすが、そのままではいつでも消失しうる生産条件です。
 「消失しうる」とは、そうした国家支配者の行動は「自由」だからです。彼らは彼らの観念世界に生き得る。観念の赴くまま、財産=労働力を放蕩し、あるいは他国を侵略し返り討ちにあい、それはすべて支配者彼の恣意なのです。これに付き合う者は人民ではなく、彼の官僚だけなのだが、それでも敗れれば「国」が滅ぶのです。
 
 資本主義の先行要件の交易条項とは、人民の商人の存在への需要です。 
 すなわち、まずは、人民による消費の主体的欲求の存在です。
 もちろんこれは行為論的観念部位の問題です。第3者的には、それを可能にする生産力段階。あるいはその段階を出現させる諸自然条件と言い直せる。
 つまり、なんらかの理由により、包括人民の消費物資生産に剰余が出て、そこに割り当てられるべき労働力に「空き」が出ること。
 この何らかの理由とは、理論上は消費物資生産力の増大であるが、現実には、生産力はそのままでも強奪的に剰余物資が確保され、ともかく結果として、余剰人員がでればよい。
 ここで包括人民とは国家においてで彼らに反乱されると困る範囲の人民のことです。
 次いで、その剰余労働力人民が生産する便宜消費物資が存在すること。
 そこでの生産力に応じた、便宜物資のことを指す。人間は、自己の常態の安逸と、自己の労働の減少を目指すが、その対象のことです。
 ここに、商品のやり取りが生ずる。生じたやりとりは周囲の人民の欲求を刺激し、雪だるまのように増大してゆく。
 
 これが、国家支配者とその係累にとどまらぬ、生産の必要の発生と発展です。

 まとめましょう。
 第1に、支配者の存在形態、支配者が統一的に君臨すること。これは教科書では交易の便宜という観点から書かれるが、ではある王権が公益を保障すれば資本主義はなるか、といえばそうはなりません。ポイントは、これにより国家構成員の利害が一律化するところにある。ロシア帝国のように、統一部位とその他の一括部位に分かれても、その統一的部位において発展する。
 
 第2に、支配者の消費物資の獲得形式、国家構成員が行う技術的生産による余剰物資が既に確保されていること。第3者的には、生産力問題ともいえる。これは武力的獲得剰余であっては意味がない。隣国からかすめ取るといった仕業です。
 
 第3に、行為論上は支配者とその行為共同性体の消費物資への対応、つまり、支配者と行為共同性を同じくする、集合性、貴族群、官僚。あるいは観念的に同一の水準を有する他国家支配者の存在です。彼らが剰余消費物資に同様の欲求を見出すことです。これは「自由なる」支配者の意志の問題、といっても社会心理学的には必然的な心理的傾向、の問題です。そして第3者的には、同様の生産様式国家間の交通の発展といってもいい、が、結局、偶然の話です。

 ここで、およそ社会科学上の立言の意味は、これを将来の想定に適用するところにあります。
 この場合、規定性の内容は、第1に生産力の進展と、第2に人民の行為共同性の意義と、第3に支配者の行為共同性の意義です。
 したがって、次の生産様式もこれらの規定性に何かが追加されたものになるでしょう。
 何かとは? それには資本主義の別の側面、崩壊の側面を見なければなりません。


当日追加;(ふつうはpsですがあまりに怒りが。)
「借り人競争のカードに「黒い人」 生徒が抗議しても教師はレク続行 沖縄本島北部の中学校」(沖縄タイムス)
 人はどんなバカにでもなる権利はあるが、人非人になる権利はない。ところでなんだ、沖縄って。この教師、クズの最南端だ。(日本には極北という言葉があるのを知ってられるといいのですが。)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資本主義先行経済の現象態(その1)

2023-11-18 16:12:57 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。全国的には天気が悪いそうで、福岡さえ雪。東京もここんとこは寒く、昨日はとうとう暖房を入れてしまいました。陽が入らないと、マンションでも寒い。
 これで終わりなら、今年は東京地方、秋が3日しかなく。と分かるのは、秋用の薄手のユニクロカーディガン、着たのが3日だから。突然夏から冬へ。もうジャンパー(薄手)だよ(いちおう、買い物には連日出る)。

 ところで七五三でふと思ったところ、千歳飴ってどこで売ってるんだろう? 昔は熊野神社で売ってたけれど、スーパーで見ないし、好きなんだけどな。
 そしたらスーパーその他では不二家のミルキー千歳飴を売ってるんだって。見ないのは手提げ袋を探すからで、個包装で売ってるもよう。しかし、個包装もねえ、、ミルキー味はいいとして。ネットで見たら、「お参りして貰う」なんてサイトもあるよ。なんだね、そりゃ。飴2本、1万円かね。
 まあ、高齢者は歯に悪いから子ども用ミルキーしか売らないのでしょう。歯が抜ける(「あの高い場所のブドウは酸っぱい」というやつ)。
  
 軽いニュース。
 ローソンやファミマでバーとして酒が飲める、という記事があったと思ったら、セブンイレブンはセルフ紅茶する、って。
 まずはコンビニのバーっていいなあ、と思うのですが。わざわざ地域のBARに行ってバーテンダーと話題探すのってめんどくさい、けど、家で一人で飲むんじゃ暗すぎ、なんてときは、スタバでコーヒー飲むように酒が飲める、、うん、とてもいい。最近は喫茶店でタバコも吸いづらいから、考え事するのにコーヒー飲むより長くいられるからいいんだよね。
 ところで、セルフ紅茶って売れるかしら? スーパーでも少ないのに。
 ローソンのセルフ珈琲は、喫茶店に行く暇(や金)がないとき、机に持ち運ぶのにちょうどいい。のと、紅茶もおなじかねえ、、紅茶って、それだけ飲んでもつまんなくない? ま、よけりゃいいんですが。
 
 さて、本日はなぜか感想が出るニュースがない。頭のメモリーに余裕がないのかな。
 なので本題に移ります。
 
 とっかかりは、エスワティニ王国国民による悪口。
 「なにそれ」? そう、わたしもアフリカの国々には自信があったのだけれど、初聞き。え~~、と思ったらスワジランドのことだって。ウィキペディアによると「2018年、国王ムスワティ3世が自身の誕生日と独立50周年を祝う式典で「国名をエスワティニにする」と宣言した。」そうな。当然悪政。インテリ国民はぶうぶういうというわけ。内戦のミャンマーみたいなもんでしょう。、

 というわけで、この悪政はどうにかならないか。
 答え。どこの国でも国家領域が統一化されるまでは悪政はなくならない。
 なぜか? 支配者の統治力とは、資本主義以前では武力であり、国家が統一化されるまでは武力が活性化し続けるから。平民のデモ力なんかでは対抗できない。
 
 じゃあ統一されていれば平民のデモ力でなんとかなるのか?
 といえば、それは各支配層別の支配がしっかりしていれば平民は奴隷化し、中間支配層の団結が崩れれば、平民の力が相対的に上がる。奴隷は平民になる。これがその原因を問わぬ現象態です。つまり、平民の反抗を抑えるには、直接の武力がいる。第1に、この直接の武力行使層。第2に直接の武力行使層では手に負えないときに応援する上位の武力行使層。こうした層別のまとまりが必要なのです。当然でしょう? 
 さらに、この武力層が常に殺人をしている専門組織の場合、圧制は支配者の思うがままになります。多少の反抗なら目をつぶってやろう、という態度は殺人行為を知らない人間の話です。

 ただ、これはただの現象で、規定因ではありません、が、現象からは規定因までさかのぼれるので、重要な指標なのです。
 
 さて、本題は、この資本主義的生産に先行する諸形態の規定因です。
 って、まずこの題はなんだ、と。
 これはもともとマルクスのただのメモにつけられて、その結果世界中で知られている名詞群です。そのメモには、資本主義以前の生産様式にはこんなもんがあった、と、アジア的とか古代的だとか封建的だとかっていうものだ、と書いてあったわけで。 
 マルクスのメモなど関係ないじゃないか、というわけですが、そこはそれマルキストの事大主義というもので、なにしろ自分が偉いと思うものにかかわるすべてに悪口は許さない。とくに自分には許さない、という、まあ、職業学者対応の事情です。
 それもメモだけで終わっていれば私のような部外者は「バ~~カ」と言っていれば済むのですが、マルクスも金に困ったのか公刊書物にさらにカッコつけて書いてしまった。それらは資本主義以前に継起して起こる先行様式だと。
 そんなことを書かれちゃあ許せない。
 どこにそんな根拠があるんだよお、あるというならいってみろ。
 残念なことに何も言わずに死んでしまいました。
 おかげで虎の威を借るキツネたちがああでもないこうでもない、って外面を舐めていく。何を言ってんだか。いくら外面を塗り替えても根拠のないものは根拠がない。
 とはいえ、それでは自分が正しいと言って老いる者や、それを聞く者は真実を悟ることがない。
 というわけで、わたしはマルクスのように見たこともない昔の神話は書けませんが、社会科学で可能な、資本主義の一歩手前。資本主義的生産に先行すべき「単独の」形態の規定性についてお話しておきます。

 今日は(その1)で、導入。
 マルキストは共同所有が私有に変わる、とか意味不明なことを主張します。
 所有の形態で資本主義への道が変わる? そんなバカな。ばかでも何百万人がそれを信じてきたわけですが。そのどこに資本主義への契機があるというのか。どこにもありません。
 そもそも所有は占有が破られる社会での支配権力による強制処置です。そんな行為の結果である事態に一般共同性が特定されるはずがない。人間はまず当初に占有する。この占有を破るものは権力であり、この権力に対抗するために使われるのが支配権力です。順番が違います。
 支配社会の歴史は、まず支配が発生してから始まる。それ以前の歴史の規定性が支配を生んだりなくしたりするのではありません。支配はいったん発生すれば、その消滅は、その社会の消滅か全人民の権力確保以前になくなることはありません。
 
 つまり歴史は、当然にも、より武力が強い集合性が決める。肉体の闘いにおいて武装が強ければ、彼らが勝つ。人民が曲がりなりにも支配階級と対抗できるようになったのは、徴兵制度ができてからです。つまり平民が武装してからです。過去、徴兵制度が支配を人民の手に取り戻す第1歩だったのです。
 それは、既に、その規定性を失ってはいるように見えますが、理由はシンプルです。資本主義的支配では、そのシステム上、武装は最低限で済む。
 ここでは、もちろん、武装兵団が徴兵せずにはおられなくなった歴史が必要でしょうが、それは現象態として、次回(その2)は、その底にある規定性に移ります。
 

 で、さっき見たら池田大作氏が亡くなったそうです。なんかいい人そうですが。聖教新聞のCMはだいたい好きだな。
 で、これが共産党にかぎらず、日蓮宗の人にとっても大っ嫌いなんだよね。他人事ながら面白いことで。おんなじ日蓮、どっちだっていいじゃん、と思うんだけどね。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルチュセール主義者の闘い

2023-08-20 14:33:14 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、って昨日の今日は早い?
 明日生きてるかわからないからねえ、、
 昨日はさんざん気晴らし書いたので、ちょっと正攻法で。
 
 とはいえ誰にもウケない本題なので、ページを開いちゃった人あて。
 週間天気予報とか見ると相変わらずの暑夏が1週間続くようで幻滅ですが、なんのなんの。日本全国、来週(28日)以降、最低気温がまともになります、ということは午前中は過ごせるということで。よかったね。
 
 さて、本題は、次回論究、政治経済学書の構成の重要部分。。 
 テーマは、皆様お持ちの「同じ日本人」信仰をどうしたら中立化できるか、という「政治経済学的課題」。みんな他国に攻められたら「最後まで戦う」んでしょ? 困ったものだ。わたしゃ腹いせの反撃後はもうやめるよ。それ以上は女子供が死ぬからね。しかもそれを決めるのは私、希望だけど。まあ、変は変ということにしておきます。

 で、世の中にそういうことを考えた人が、まあ他にはいないだろうなあ、と思ったらそうでもない。

 西川長夫という比較文学者の「国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について」。
 はじめの5ページがとてもよい。けれど羊頭狗肉の羊頭はあれど狗肉がない。本人にとってはアルチュセールの枠組みが肉なのだろうけど、これは認められない。
 まあこれも300ページ以上あるところ、奥歯にモノがはさまったような書き方なので翻訳して簡単に言ってみましょう。

『どこの国でも人民が「国民」として国家の奴隷になっている。これではならないのだが学者連中の営みを筆頭に、日々この「国民」の再生産がおこなわれている。私にできることはそれを暴くことくらいだが、学者連中を筆頭にひどい反発をくらっている。私でなければ倒れてしまうだろう。私はよくやった』という本です。

 まあ東大教授(という、どんな院生でも評価するのが商売の)上野千鶴子が慰めてたりするんだけど、例によって口先だけだから慰めになってない。
 いや歯に物をはさみながらも、アカデミズムの学者がよくここまで書いた、それは確かに闘いであったろうと思います。朝鮮侵略の具体的当事者の子、西川氏が、よく自分の過去を引き受けたものです、このアルチュセールの翻訳者がこんなに立派な人間とは思いませんでした。
 と、本題はそれを踏まえただけで、「狗肉」の部分の見通しであります。

 まずは、彼のテーマの扱いが悪い。国民と国家と、さらに〇〇国民はすべて次元の違う概念です。日本人学者、とりわけマルキストの系統は、近代科学による分析というものをぜんぜん身につけたことがない。
 国家は今日は扱いませんが、「国民」と「〇〇国民、たとえば日本人」は同じ意味ではありません。前者は国家支配者によるイデオロギー付与の結果であり、後者は文化の問題です。
 「高校野球とは友情、連帯そしてフェアプレーの精神」であるなどという言辞は、イデオロギー付与であり、甲子園で負けた高校野球部が隣県の野球部にいう「同じ東北、がんばれよ」なる言辞は、後者の「文化の問題」として立ち現れるわけです。
 後者は、個々人の(部分的な)生活範囲がもたらす行為共同性の結果です。
 あるいは「全体的な規定性」としては、「本来の」資本主義的装置においては、平等が前提であり、この平等的取り扱いが社会の行為共同性を極限にまでもっていく傾向性を持つのです、資本主義に関してだけで、支配者の意向とはかかわらない点で、ですが。
 
 もちろんこの行為共同性の存在の不可避は、支配者にとって人民コントロールの美味しい源泉であり、このコントロールの出来不出来の規定性が、その中立的根拠性を、残念ながら、大きく規定するのです。 
 人民にとっても権力による自己の表現の擁護は大切な優越の源泉です。これはアカデミズムの学者も、井戸端会議しかしない市井の1市民にとっても同様です。アカデミストのほうが生活が懸かっている、ということはありますが、市井の人間とってはこの権力による擁護は、解放行動の中でも重要な位置を占めてしまうものです(拙著「解放行動の原理」既述)。
 
 かくて、上記の状況に対抗するには
 第1に、対抗権力の存在が支配者権力に対抗しうる大きな源泉となります。
 ついで第2に、対抗権力を支える行為共同性の確立が、対抗権力を有効にする大きな力の源泉となります。
 さらに、第3に、支配権力者による人民への「手出し」には常に、支配者の地位を揺るがしうるリスクが懸かります。そこでこのリスクの暴き出しが重要になります。。
 第4には、「個的生命」ないし「個的生活」の人民個人にとっての第一義的価値化です。ポイントは、これはイデオロギー流布の問題ではない、というところです。
 
 こうした日常について、支配者は「国民という攻撃」をかけてくるわけです。人は容易にこれに乗り、戦争に突入する。
と、ここまでは行動の具体性の次元です。
 
 ここでちょっと考えてみましょう。戦争は誰が起こしますか?
 ここには2つの立場がありますが、2つしかありません。戦わす立場と、戦わされる立場とです。
 われわれ平民は「戦わされる」に過ぎないが、考えてみてください、誰が人民を「戦わす」のですか? 会社の経営者ではありません。プーチンであり、ザレンスキーであり岸田であり自民党議員です。もちろん、田舎の地主の末裔のくそじじいでもあるでしょう。
 
 被支配を脱しようとする人々の連合は、同一的境遇の行為共同性にとどまらず、支配階級が仕掛けてくる「国民」攻撃を自己の力として逆手に持ち変えることが、多くの場合、必須です。もちろんそれによって得られる未来が「国民」から離れられるとは限らないのですが、少なくとも次なる段階に動かすことはできる。
 それ以上によい未来ができるかどうかは、支配者による攻撃の時に、人民がどういう配置にあるか、による。
 
 つまり、政治経済学に求められるものは、
 第1に、支配者及び地域支配者の領土への欲望
 第2に、これに対応しうる人民の自由への自己の力の認識
    すなわち、個的生活の獲得力の自己認識と行為共同性認識
 それらの分析枠組みの提出です。
 これは物的強制状況を扱うことから社会学ではない。ところで政治学に原理はないから政治学でもない。だから、政治経済学の課題なのです。

 と、西川氏の総括的グチを見るにつけ、ああ私の次の本も評判が悪いのか、とちょっと残念。
 まあどうせ私が生きている間には受容されないし。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治経済学における「権力構造」の定置(その2)

2023-07-30 14:42:25 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。昨日はアクシデントで中断しましたので、早いうちに追加しておきます。
 これは(2023-07-08)の続き。ぶっきらぼうに、中身だけ裸で置いておきます。

 さて、ここで権力構造とは、組織内の権力構造でもなく、疑似構成体、つまり同様の機能連合体の中での権力構造のことでもありません。そうした組織内の権力に対する行為主体の立場には、拙著「解放行動の原理」をご参照ください。
 
 政治経済学上の権力構造とは、支配者の権力が、どう分割照射しているために、被支配者の行動が規制されているか、ということです。といって、支配者の権力など、彼(ら)をプロレスのマットに上げてみれば分かりますが、「本当は」ないも同然です。
 
 つまり、人間に即して踏み込んでいえば、
 ある社会の部位の人民の肉体力が、どれだけ

1 集約される可能性を持ち

2 集約され続ける時間経過を持つか

3 その肉体力集約がどこをめざしているか
  すなわち、次の2過程のいずれかの途上にあるか
   3-(1)既存の支配者によって操られている=自主的に支配者に向かざるをえなくなっていること
   3-(2)既存の支配者への反逆可能な反感を有していること

4 それをどれだけ支配階級が認知しているか

ということによります。
 すなわち、一方で、人民の力の、人民自身の認知と、その支配階級における認知と
 他方で、行為者の行為の次の将来に、人民における彼の行為共同性的賞賛を現象させる社会事象が現象しうる事態を抱えているか、
 という問題です。
 そして、当該社会において、どの構造が人民の力を彼ら自身に認知させ、さらに支配者にその状況を自覚させ、他方で人民の行為共同性を現象させるか、
 そこでの認知化構造と、現象化可能性をもたらす構造とにおける、政治経済学的要因の析出あるいは暴露が、政治経済学の使命なのです。なぜならその知識が新しい人民の歴史を作るから。


 いやほんと、世の中、人のいい人を食い物にするやからばかり。ここに来るのはいい人だけなので、くれぐれもご用心。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あるべき政治経済学の構成は(その1)

2023-07-08 17:05:04 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、昨日は七夕。といってもこの辺ではお飾りの笹は片りんもみられません。前住んでた近くの町では川のフェンスに笹を差し掛けて並べてるって、センスに疑問があるけど、まあないよりまし。こいのぼりも泳がないし、困った田舎村だ。
 今日は都会の入谷では鬼子母神の朝顔市が最終日だそうで。もうしぼんでるけどね。しかし率直に言えば、朝顔なんて買うもんじゃないがね。種まいときゃいくつも次々に生えるし。この「次々」が取り柄だと思うぞ。次々に咲いて次々にしぼんで。ただ、この祭りは都会の風情というもの。田舎の寺でやっても、なにそれ、だね。
 
 ここいらの田舎では、空き地を囲ってノカンゾウを植えていたのが綺麗に咲いていました。
 空き地を囲って植える花がノカンゾウってとこが田舎だね。
 ノカンゾウって、シンプルな野ユリの赤いやつ。雑草。囲ったって周りの雑草を抜かないから、見た目そのまんま雑草。東京でも線路の土手とかに生えてます。なかなかよい。
 
 『萱草に寄す』って立原道造の詩集ね。ワスレグサと読むの。1日でしぼんじゃうから、ってワスレグサ。こういう伝説は話半分ね。朝顔だってハイビスカスだって、翌日も咲くときはあるさ。まあいいけど
 
    ささやかな地異は そのかたみに
    灰を降らした この村に ひとしきり
    灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
    樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた、、、、
    
 教科書にあったでしょ。今は詩なんて載せないか。
 立原の場合の萱草はユウスゲみたいだけどね、黄色い萱草。ニッコウキスゲとかの夕方版。
 いいねえ、七月お盆の地方ではキスゲもベニスゲも実家に帰れば見れるね。そんな地方ないか。
 
 さて、現実逃避は終わって、ってどっちが現実かは別として、本日のお題は前回(週)の続き。
 政治経済学で扱える規定性は、社会科学的題材をどこまで包括しうるか。

 政治経済学で扱える規定性とは、当然に、資本主義経済に基づく消費物資の入手と、資本主義経済を選択している支配階級の調整にかかわる、人民の行為論的将来の規定性です。資本主義の存在は、消費物資の豊富さを追求する支配階級を基盤としているからです。 
 そもそも「経済」学なるものは、擬制なのです。経済学とは片方に支配者の行為として現象する支配過程と、他方に人民の生活過程として現象する被支配過程とで出来ているものです。
 すなわち、或る消費物資の生産は、その生産者であり消費者である人民Aにとっては彼の生活です。ただしそれが生活全部ではないのは、彼がその生活物資を奪われるから、彼が「支配されているから」です。そして彼の人生は一つであるから、この2つの混合した過程は「被支配過程」なのです。(その支配過程への盲目が、昔、一部で流行った「生活過程論」の誤りです。)
 他方、この生活物資を奪う支配者にとって、やはり或る消費物資の生産は生活ではありますが他方、それ以上にその他者による「生活過程」は支配者にとっては支配の本体、支配過程なのです。
 このため経済学に必然的に追加されるのが、支配者と被支配者をつなぐ、人民における「権力構造」論です。これが或る時代の新自由主義のイデオロギーにつながります。

 さて、ここまでが原理論です。しかし原理論は内容をもっていません。原理の現象は時代によって、あるいは構成素の流出入によって、変化します。ここで宇野弘蔵とは別の意味で、段階論が必要となります。どちらかといえば岩田弘・鈴木鴻一郎の趣旨に近い。
 
 段階論とは、その規定の中身で、その論者が欲する因果連関を説明しなければなりませんが、ここではとりあえず、その枠組みだけ提示しておきます。段階は4つです。

 第1 資本主義前史時代
 消費物資=富に目のくらんだ国家=支配階級と、異国民=人民を犠牲にした消費物資増大化の歴史です。
 原始的蓄積。
 
 第2 資本主義国家
 本来の資本主義国家は、支配者と国家下流階級=中産階級=資本家との提携の歴史です。
 植民地主義的侵略。

 第3 世界資本主義内国家の誕生
 国家は、資本家の奴隷たる人民を、消費物資増大のため国家構成員として取り込んだ。この時点において過剰資本は、他国において自己を処理させるべく、資本家を叱咤する。
 帝国主義的侵略。

 第4 単一世界資本主義
 後進諸国の国内植民地主義の再生産
 後進諸国において、前史資本主義化が進行する。ただ前史との違いは、それ以上の資本主義的進展を許さないところです。人民はどこまでも異国民です。
 腐臭漂うカオス。

 さて、では「現在」がどうなっているか。それは宇野経でいう「現状分析」ではありません。現状分析は(岩田等と同じく)段階論に吸収されています。その代わりに(運動的)「総括」がはいります。この論では対抗権力が被支配過程に埋まってしまうので、その変革的意義を取り立てて記しておこうという意味です。
 
 と、全体像まで見え透いてしまう解説。
 しかし、完成まであと2年弱余裕があるのさ。
 


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不愉快にめげず次回作へ(その3)

2023-06-03 14:16:55 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。ストレス性腸炎もやっと消えて穏やかな日々に戻る今日この頃、
 昨日はすごい雨でしたねえ、といって分かる方も多そうなこの日本、外働きの方はご苦労さま。私は自転車外勤を3年しましたが、さいわい「本降り」はあっても「土砂降り」にはあわず、それだけでもラッキーだったな。
 家にいると、蝶々やシジュウカラや、が、軒下で休めばいいのにと思うのですが、葉っぱの下に隠れてんでしょうね。我慢の人生。カラスのハンガー製の巣でもひたすら耐えるばかりでしょう、カラスも子は悪くないのに。
 人間は亡くなられた方がいらっしゃるのであまりいえませんが。
 
 さて、日常に戻りまして、ニュース。 
 今日は朝日新聞に大きく、”運転手不足はこんなきつい仕事を低賃金でやってられないからだ”、と書いてありました。
 マスコミが言う「人手不足」なんて、実態は全部そういうもんです。きつい、安い、捨てられる。反省しろよ朝日新聞。取り上げたのはいいが。
 で、運輸資本家が言うには、2024年にこき使うのが規制されるので、それまでに稼げるだけ稼いでから会社をたたんじまう、とのこと。なにをかいわんや。 
 
 つぎ。
「「医師の業務を看護師も」範囲拡大へ 規制改革推進会議の答申案判明」(朝日新聞デジタル)
 おおこれはよい。とにかく医者が偉そうすぎて、奴隷制度。看護婦は自立して仕事しなきゃ。じっさいは看護婦でひとくくりは無理だけどね。そんなことを言えば、医者だってひとくくりは絶対無理だろう。無理を承知で働いてるか。

 つぎ。
「食料安保強化へ、輸入作物の増産拡大を推進…政府対策案の全容判明」(読売新聞)
 これがほんとわけのわからぬ。たとえば牛乳はどうするつもりだ? つい4,5日前、いつまでも補助金は出せないとか口走ってたじゃないか。
 ほんとに右手と左手でやることが違う。どうせ全部官僚の机上の作文で、政治家の方針なんてゼロなのだろう。
 
 というわけでお待たせしました、次回作品予定の3  書名発表 
 
 「反国家の政治経済学」 
      ー体制内視点の学的論理を突破するために

 ”「資本論」といいマルクス(主義)経済学といい、人々が反体制の拠点と崇めてきたものは、結局、自分たちの体制内での賞賛確保の努力でしかない。われわれはこうした意図せざるボルシェビキたちの経済理論の根底的な誤謬を乗り越え、アナーキズム政治経済学の大綱を、ここに著す。”

 2025年、堂々公開予定!

 って、予定が遠い? 
 ま、半分くらいはできてるんですが、なんといっても今回作の評判が悪くて。不愉快で早々にホームページの宣伝を変えたので、ブログの方も同期させようと。
 そりゃね、今回作は製本も適当でお茶を濁そうかと悩むくらい世間様に受けるなんて思ってなかったけどね、目論見通りだから面白いか、といえばそんなこたあねえ。 
 わからん奴らの相手をしてる時間はわたしには残されていない。次進むぞ、ってなわけで。

 ちなみに(その2)は、「一閃して「政治」経済学批判」(2023-02-18 )です。
 と、これを見てみると、4カ月経ったのになにも進んでいないじゃないか、と。題が変わっただけ。
 まあまあ。
 あと2年だから。
 
 話としてはですね、まず資本論、冒頭。
「資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は一つの『厖大な商品集成』として現象し、個々の商品はかかる富の原基形態として現象する。だから、吾々の研究は商品の分析をもって始まる」長谷部文雄訳。
 アウトぉ。
 だめだめ。一発目でだめ。だから純粋商品社会さ。どこにもない架空社会。そこに誰が住んでいるというのかね? 俺りゃぁ住んでねえ。勝手に何でも書くがいい。そんなものは私の社会とは何の関係もない。
 理屈だろ? 
 そうさ、誰もが頭をかすめながら見ないようにしてきた理屈。
 しかし商品の動きはわかる?
 そうさ、誰もが真理だ、とか、資本家さえ認める理論、とかいって、さもそれが科学でございといって喜んできた評論だ。
 馬鹿言ってんじゃねえよ。真理も科学もその視座によるのだ。これは言ったね。そんな資本家の「科学」がプロレタリアートの科学になるはずもない。そんな「マルクス主義」の基本が「マルクス主義者」がなぜわからないのだろう?
 (ここ。悪口3文、下品だから削除。われながら偉いねえ。しかし、今に見ていろ。)
 
 こんだけ言やあ、少しは目が覚めるか?
 もちろん覚めやしない。それは彼らにとっては、自分の生活であり生活の糧であり誇りだからね。行為論的に、覚めるはずもない。必死に目を背けるしかない。
 かくして、本論はボルシェビキのそれではなくアナーキストの科学と言わざるを得ないのだ。
 
 まあ、さ、150年間誰もできもしなかった営為は、提出しないで分かるはずもないからね。 
 で、そこでだ、(の3)と(その2)との違いは構成の「国家」の章の位置づけ。
 その2では国家は人民の身近から順番に流してきた場合の位置で、それが一番わかるだろうかと思ったのですが、国家を初めからもっと人民の身近に書いておかないとヘーゲルの上向の道をたどれない。わたしゃヘーゲリアンだからね。
 というわけで、さて、国家。擬制であることはもっと近いところでバラして、再度「国家」の「節」を通って、3度目の「国家」へ繋げないといけないようです。
 
 以上、ご報告でした。

 雨はやみましたがベランダの花はぼろぼろ。沖縄のハイビスカスは、スコールと台風の中、なぜ咲いていられるのだろう?
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本主義と支配システム』

2021-03-09 16:33:40 | 賃金・価値・権力
 お待たせしました、隈社会学の真髄を傾注した下部構造の理論、『資本主義と支配システム』、合同フォレスト㈱の皆様のご努力をいただき本日書店発売です。 

 皆様におかれましては、できうればちょっと手にとっていただければ幸せなのですが、さてどこまで書店に上がりますやら。まあ無いと思われますので、できましたら書店にてご注文、またはネット販売でAmazonなどの(いろいろの)ウェブ書店様で御購入いただくとうれしい限りです。
 といって内容不明のところ、例によりまして詳しい目次を上げさせていただきます。ちょっと長いですが、そのほうが本代が無駄にならずに済むかと。
 なお、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、そちらもご参照ください。

 以下、

**********
序論
 第1節 不可視の規定的構成の解析
    1 社会科学の本質としての不可視の解明
    2 見えないシステムを視る
 第2節 歴史と社会科学
    1 研究者としての主体性
    2 継時性の社会科学
    3 人間の行為の原則と歴史
 第3節 歴史性と行為主体
    1 歴史における主体性
    2 生存の中の主体性
    補項 思想に対する主体性 

第1部 支配システムと経済法則
第1章 支配システムとは何か
 第1節 見えないシステム
    1 支配の回路と生産手段
    2 階級
    3 身分制度と階級性、あるいは階級構造
    補項 2つの類似概念     
 第2節 支配システムとは何か
    1 支配における武力
    2 生産手段の強奪あるいは非強制的世界のシステム
    3 言説としてのイデオロギー
 第3節 社会における支配の成立あるいは国家
    1 国家
    2 国家の成立
    補項 支配の成立
    3 可視としての国家
第2章 経済学の諸範疇と資本論
 第1節 経済学批判の批判
    1 「経済学批判」と国家
    2 「経済学批判」と交換価値
    3 「経済学批判」と支配関係の消去
 第2節 生産共同体での物資の移動
    1 交換行為の実態
    2 贈与行為の実態
    3 贈与及び交換
 第3節 支配範疇下の物資の移動
    1 カネと価格の成立
    2 労働時間と生活費
    3 消費物取得の本来的事情
    4 労働対価の条件
 第4節 支配範疇下の労働
    1 貨幣又はカネ
    2 「労働力」概念の誤り
    3 現実の賃金の事情
    4 後進国賃金
    5 世界資本主義国における賃金
 補節 経済学批判と弁証法
    1 経済学批判における始元
    2 資本主義分析における始元
第3章 経済法則が変成する支配システム
 第1節 支配者による資本主義経済の取入れと育成提携
    1 経済生活の本質
    2 商品経済の席巻
    3 市場の創出
    4 労働の蓄積
    5 上層における優越と下層における競争
    6 土地所有権
 第2節 新たな強制機構、あるいは「労働(力)の商品化」
    1 労働者と「労働(力)の販売」
    2 労働力の商品化の行為論的翻訳
    3 国家と労働力
 第3節 資本主義の取込みによる支配システムの変成
    1 生産共同体からの自由
    2 武力の減衰
    3 行為共同性の進展
 第4節 生産関係の腐朽
    1 資本の過剰 
    2 支配者の資本家への巻き返し
    3 人民の事実認知上の平等化の崩壊
    4 労働(力)収奪の商業化とその限界
第4章 後進国資本主義
 第1節 「後進国」の形成
    1 植民地の形成
    2 国家の作成
    3 イデオロギー構制の作成
 第2節 後進国の経済体制
    1 原始的蓄積
    2 後進国支配権力者の恣意と経済
    3 市場経済体制
 第3節 後進国家の階級状況
    1 支配階級の武力機構
    2 被支配者の武力行使
    3 後進国における行為共同性の基調
第2部 支配システムの人為的規制 
第5章 政治革命による支配システムの再構築
 第1節 階級の表出
    1 階級性と階級構成員
    2 階級者が持つ事実認知
 第2節 変革主体、または自己権力の表出
    1 自己権力の弁証法
    2 被支配者が見る「そのときの自由」
 第3節 権力システムにおける変更
    1 変革主体の機能
    2 行為共同性に根ざした階層構造
 第4節 後進国
    1 後進国における階級現象の構制転成
    2 世界資本主義における階級状況の転成
第6章 支配システムの制限の方途
 第1節 既存の社会主義原理の問題点
    1 変革後の経済
    2 過渡期社会と労働時間制
    3 社会主義と民主主義、あるいはソヴィエト民主制
    4 社会主義とカネ
    5 社会主義と集団農業
 第2節 支配の無効化の方途
    1 商品化の体制の変更
    2 生産手段の取戻し
    3 狭義の過渡期の規定性
 第3節 残された後進国問題
    1 世界生産力の問題
    2 後進国人民の自由の問題
    3 先進国の変革後の後進国 
 終節 権力減衰への社会体制


 《「有史以後のすべてのこれまでの社会の歴史とは、国家による強奪の歴史である」。マルクスへの根底的な批判と共に今お届けする世界資本主義の過去と未来の真実。
 人類の歴史を彩り続ける不幸な、しかし栄光の諸闘争が、営々と形作ってきたこの人間の自由。世界資本主義とはその現象形態であり、この過程を貫く論理を明らかにしたとき、次なる自由の段階と、それらを全世界的に最終解決する未来とが明らかになる。》
 
 これは社会学というよりは経済学だと思われるような社会学。あるいは「社会思想」とも分類されそうな、しかし、社会科学です。
 アナーキストにはいったん国家が残る論理なのでご不満かも。でもどうせ前々著(「歴史としての支配」)でへそを曲げましたので、これはアナキズム系にはあげません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会の平準化と無規定視点の妥当性(その2)

2020-06-20 11:50:01 | 賃金・価値・権力
 というわけで、オタク用、本日の続き。簡単にね。
 さて、全社会労働者価値論も趣旨は間違っているわけではありません。実際、労働者が働くからみんな生きていられ、資本家も労働者収奪の結果、裕福なわけです。
 そもそも、前回のべた資本主義世界の論理は、資本家が労働者収奪をする世界が存在する場合のみ有効であるに過ぎません。その世界が停止したとき、初めて、社会体制のパラダイムは変更されるのです。それはいつ? 変革(革命)後です。
 変革後すぐの「粗野な共産主義」の段階では、そこに存在する資本主義の「売買」関係しか事実認知していない人間に規定されて、商業の場はまずは「交換」の場となるでしょう。わたしは「交換」ナンセンス派ですが、しょうがないのです。
 ここにおいて、運輸・保管等労働者は、資本家の代わりに資本家が使った剰余価値の源泉である労働者から直接に自分の分配分を受け、賃金を受けていたサービス労働者は、そのサービスの受け手に対し労働の交換要求を行うでしょう。
 このとき、もちろん、交換価値規定は消えて、人間の労働は労働一般となる。
 左翼理論の視座としての価値論は無意味となり、仮にそれでも論理立てようとするのならば、ここで、労働の一般理論が生ずるのです。交換基準も、「平等な」基準として、労働時間と労働強度、あるいはその時代でのその他の有償労働の基準が当てられるでしょう、そのときの人間しだいですが。
 このとき、人間の占有する権利である「生産手段」は、社会全体として、消費物資の生産に使われる全ての機構の人間労働との接点、となります。
 
 ついで、本来の共産主義の段階になって、それまで十分に事実認知された交換の実質のなさが、「交換」の場を「相互取得」の場に変えたとき、人間の労働は、自由な行為一般として存在し、その「労働」たる規定性を喪失し、「価値」や「生産手段」という無価値な概念を消滅させるでしょう。
 
 わからない? 
 まあ、次回作品の宣伝ね、キャプションみたいなものか。他の誰も言ってないので、展開するのはブログ記事では無理というもの。「視点で違う」こと(と、その影響は社会構成で違うこと)だけご理解ください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資本論解釈に見る、視点に依存する規定性(その1)

2020-06-20 11:41:18 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。梅雨とのことですが東京地方今日は良い天気、2、3回暑い目に会うと、最高気温予想28度って、涼しくてありがたいくらいです。

 さて、今日の本題も、ずっと下方。
 とわざわざ書くほど、今日は記事がだらだら長い。なんだろね、意味も薄く。普通の方たちは、今日はスルーしたほうがいいかも。

その1)
 読者の方におかれましては、調味料のキャップの取り方をJIS規格並みに統一してくださいませんか?
 って誰に言ってんだよとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、はっきり言って、当ブログにいらっしゃる方は、インテリか、あるいは社会に対峙(たいじ)するのがなんの苦労か、と思う方に限られると思っております。そういう方は、当社会では稀有(けう)。そういう方は世間、たとえば上司も一言を聞かざるを得ない人間なのです。常にね。とくに製造業に入ったあなた、エリートですし期待されてますぜ。
 というわけで、ブルドッグソース等に入社されましたら、ぜひ、蓋の取り方を統一していただきたい。ソースの蓋の取り方、あれ、常に不明。不明で家人に渡すと1秒で取りますが、ともかく蓋付近真っ白けで突きつけられてもわかりゃあしない。目え見えねえもん。老眼の方はお分かりでしょうが、私のような弱視でもそうです。
 それからゴミ分別用の蓋取り、これも料理酒、オリーブオイル、ソースで全部違う。ぜひ業界的に働きかけていただきたい。これは前世代共通では? うまく国家公務員になれた人は、もうそれだけで責任があるからね。通産省なり、厚労省なり、期待してますぜ。もっとも期待の優先度は低いけどね。高かったら私自身で闘うけど、蓋の取り方だからねえ、、、でも権限ある当事者となったら責任問題ですので。ぜひよろしく。 
 
その2)
 一昨夜(6月18日)、死去後ずいぶん経ってネットでわさお(6月8日死去)の思い出話が出てました。そうかそんな時期か、と。
 私もなんども葬式・御通夜に出ましたが、そんな折に司会者の言う「故人の思い出話」なんかできやしませんよね。せいぜい「驚いた」くらいですし、それでいいのです。若人の方は失礼だと怒るかもしれませんが、できやしませんて。直後ですもの。死んだ情報のほうが重要ですし、それに驚かないやつは来る必要もない。その後、しばらく経って知り合い同士で集まった折、ようやく思い出話を始めるのです。それで周りも癒される。
 わさお君も、そうやって思い出話をされて、わたし的にはよかったな。周りの癒し。なんたって11、2年前初めてネットに出た頃、かわいかったし。
 
その3)
 「君のような顧客をぼくは喜んで失う」アマゾンCEO、人種差別的な顧客への対応が称賛される。(以下、引用長文)
「ベゾス氏はアマゾンの顧客2人からここ数日以内に送られてきたEメールのスクリーンショットを投稿した。メールは同社が"Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)運動"を支持していることを批判するものだった。このうちデイブ(Dave)と名乗る男性が送ってきたメッセージには、下品な言葉や人種差別的な中傷が含まれていて、「お前とのビジネスは終わりだ」と書かれていた。
 ベゾス氏はこのメッセージをインスタグラムに投稿し、そのキャプションに「デイブ、君のような顧客をぼくは喜んで失う」と書いた。
「こうしたヘイト(憎悪)は、影に身を潜めていることを許されるべきでない。目に見えるようにすることが重要だ。これはこうした問題の1つの例に過ぎない」ともベゾス氏は書いている。」(buizinessinsider)
 デイブ君、ショックだろうねえ。こういう差別発言屋って、悪口言いながら自分が相手の仲間だと思ってるんだよね。それが今日の自分の存在のしがい。ところが孤独の現実がバレてしまった。ほかに仲間もいないから、その日はコンビにでも行ってひたすら当り散らすしかない。まあ、そういう吹き溜まりの傷をなめあうSNSもあるのか知らないが。
 って、多少なりとも同情しているわたし。わたしもあちこちでさんざんお付き合いをさせていただきましたが、もう勤めてないから微少な同情心も湧きます。一人ぼっちのあなた。

最後、これは短く。
 上野千鶴子、行岡良治「論争 アンペイドワークをめぐって」。フェミニスト支援用に読んでみるか、と借りた。ひどい。何が論争だ。ただのブントの仲間割れ。井戸端でやってろ。
 今まで人の商売を邪魔したことはない(つもりだ)けれど、これは言う。買うな。ムダ。愚劣にして、けがらわしい。消しゴムで読んだ記憶を消したいくらいだ。


 というわけで、本日は次回作価値論部分への注がらみで確認した、大野節夫「マルクス経済学のパラダイム」をきっかけに、オタク論議。
 これも素人の方には関係ないけど、物事には視点というものが、主体の自由選択で存在します。ただし、自由ではありますが、それによって見えるものも見えなくなる、という話で。
 こういうのはどこまで書くのがブログ的なのか難しい。でも本当に分かっている人間というのは、この筋道を分かりやすく書くことができる、のがほんとうです。やってみましょう。

 この大野氏はパラダイム変換をしたいそうで、どうしたいかというと、「他の商品との交換に至るまでにその商品に要する労働がすべて商品価値を形成することになる」説を通説にしたい。運輸、保管、販売、宣伝、記帳エトセトラの費用です。 
 こういう話は50年前からあって、たとえば、赤堀邦雄とか飯盛信男とかという人。そういう人たちは「第三次産業の労働も価値を作る」と主張しました。もちろん、大野氏の視点は単に経営企業の実際的視点ですが、こちらは労働者の視点。労働者は全員搾取されている、という、理屈は別な話ですが、でも、事情は同じ。
 事情を示す例を出しましょう。
 たとえば、ここに18歳の通り魔Aが同じ18歳の被害者B君を刺した、という事件があったとします。
 この事件は同じ思春期から青春期の若者についての諸学問で解ける、と思ったら、それは余りにも世間知らずです。B君については人類共通の理論が打ち立てられるかも知れない。しかし、その理論では通り魔を根絶することはできない。この同じ理論では、「被害者のB君だって同じ状況なら同じことをしたかもしれないから執行猶予にしてあげよう」という結論以外に出はしない。そんな「誰でもが起こすから」では理不尽な通り魔事件は絶対に根絶ができない。その「同じ状況」なるものを社会から打ち捨てない限り、また通り魔事件は起こる。それは通り魔Aに視点を定めて、その状況を分析し、その状況の規定性を排除するしかない。「人はみんな同じ」で済むことなどない、といってはいない。だがそんなものは、平和な時代の恋愛沙汰事件くらいだ。
 「そんなの別に当たり前のこと? そうかね、二人とも同じ19歳の若者だよ、同じ人間にそんな特別なことなんてないんじゃないの?」
 そう言うのが先の両氏の「全社会労働者価値論」(と、名づけてみました)です。(それぞれ「全」には商業などの例外がありますが)
 
1 旧来の?価値
 まずは価値概念を宇野経済学的に述べておきましょう。
 交換価値は、必需品労働者の自分が作った製品の買い戻し行為によって決まります。買い戻す(単位のない)価格が賃金になるわけです。それ以外に労働者賃金が、したがって価値が、決まる理由はありません。しかし、そこで決まることは避けられないのです。いったん決まった賃金は、他の労働者にも波及する。すなわち、各産業労働者の収奪構成、耳目に受け取りやすく言えば収奪度は、生産労働者の賃金によって決定されるのです。

2 全社会労働者が価値を作れば?
 もちろん収奪度といってもサービス業等の場合は、生産労働者のように、剰余と賃金の構成の度合い、というわけではありません。まず賃金があり、それに雇用者の取り分が恣意的に加わるのです。雇用者が「俺の取り分はただでもいいや」と思えばそれでも社会は成立する。あるいは奢侈品を法外な価格で売る商店があっても、それを買う者さえいれば社会は成立する。これを経済学が規定することはできない。従って、そもそも生産産業とは違う、原理論の範囲外の事項なのです。
 サービス業も流通費用も資本家の恣意下の事象なのです。恣意をいくら理論化しようが、それは資本家の観念の形象となるに過ぎない。それは経済学には混ぜられない。
 製品を今日売ろうが明日売ろうが(保管)、工場の前で売ろうが、貴族の家の前で売ろうが(流通)それは資本家の置かれた状況による、資本家に属する不分明な事情です。
 恣意は恣意一般として資本家に帰属し、資本家の競争上の制約として、労働者賃金一般の費用が必要経費となるだけのことです。
 もしも焦点が賃金労働者一般であれば、人はなぜ資本家一般が儲けられるのかを知ることはない。「それは労働者が自分のものを作っているのにそれを資本家が強奪するからだ」という答えには、「吉本興業の社員は人を笑わせている、同じではないか」と反論されるに終わる。そこにあるのは「効用一般」です。そもそも見物人が払う金は、もともとどこにあったのでしょうか? その金はどこからか忽然と現れるしかない。全ては闇の中です。

3 価値概念提出の本来的意義

 こうして、生産労働者の視点に立ったとき、資本が過剰となり生産が滞る事情が分かり、先進資本主義社会で製造業が一部を除き衰退してサービス業ばかりになることが分かり、後進国が資本主義となる事情が分かる。後追いで評論されるのではなしに、因果連関として明らかにされるので、「事前に」分かるのです。だから「科学」なのです。
 そして何よりも重要なのは、そもそも社会科学の成立は、人間が、自己の生産手段で生きていくことができなくなった、特異な社会を解明するために存在し始めたということです。
 人は誰でも親から受け継いだ、あるいは自分で見つけた、生産手段によって生きてきたし、生きていける、それが類人猿出現以来数百万年の歴史です。生産物は強奪されるかもしれないが、類人猿等はその占有する生産手段でまた生産を続けていく。この「生産手段」の個人にとっての重要さも闇の中へ落ちていく。
 科学は、決してPCで世界賭博をし続けて金を儲けたり、手慰みの絵を描いて人から消費物資を受け生きる理由を解くために存在するのではないのです。そうして生きてはいけないわけではありません。しかしそうして生きられる理由を解くには科学ではなく年寄りの人生訓で足りるのです。

 と、まあ批判したように見えますが、別に論理がアホだとか言っているのではなく、視点の問題だ、と言っています。
 こういう理屈はフェミニズム運動と絡み合うから一筋縄ではいかない。むげにアホとか言って切り捨てると、角を矯めて牛を殺す、というわけです。むげじゃなくてどうする、というのは別な話。今日は別な話には行かずに、直線的に前に進みます。項は改めますよ。オタクの方たちは次のページへ。
 では普通の方たちは、また来週。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後進国の緩衝的役割

2019-06-21 13:54:19 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。みなさまお元気? おや今日は金曜日? じつはもう暑さが迫っているので(=勉強がさらにできなくなるので)、この土・日の用を無くして空き日にして、次回作の制作過程を1ランク上げないと、とちょっと危機感を覚えたところ。
 
 このごろは梅雨の中休みだそうで、休むほど雲は働いたのかとも思いますが、関東山沿いではそこそこ降ってダム貯水量は不満なさそうです。香川が足りなそうですね。まあ雨が降らなければ暮らすには便利で、お勤めの方の土・日の洗濯も1日かければ乾きそうだし。今どきって、晴れさえすれば、東北地方や1千メートル級地域は景色が良いはずだし。ただ、毎日のことですが雷にご注意。
   
 さて、ニュース。
 大戸屋、値上げで危機だって。昼定食900円越えたら山手線内ならよくても郊外じゃ出さ(せ)ねえよ。なんか、勘違いだねえ。人気商売は一人親方じゃだめだよ。
 
 ついで、中嶋よしふみとかいうフィナンシャルプラナーが小池書記長を罵倒してました。「麻生は70歳以上だから年金を貰っている」といったのが間違いとか。というよりそもそも国会議員は年金制度を何も分かっていない、とまでいっている。本人のツイッターに残っているようです。しかし残念ながら、本人も分かっていないようです。支給停止要件に歳費が加わったのは平成27年からで、平成27年現在75歳の麻生は厚生年金を貰っていたのは間違いない。しかも中嶋氏が思っているような支給停止には「収入は何でも」入るわけではないのです。歳費とボーナスです。(被保険者であれば総報酬月額相当額。当該制度以外の収入、たとえば家賃収入がいくらあろうが問題はない)。その他にも自己申請制がどうのとかといっているが悪口にもならない。そんな話は前提過ぎて「注釈」というものだ。フィナンシャルプラナーとかって付き合いはありませんが、こんな知識でいいのね、と初めて知りました。
 この程度の知識で、麻生ならいざ知らず、専門家の小池を罵倒するなど、身の程知らずもいいところ。もっとも、制度改正を失念した小池氏もサルが木から落ちたわけで、一生勉強だね。「年金制度(も税制も社会保障制度も)をいじってはだめ。人民が分からない制度は支配者のごまかし」という私の主張が分かったことでしょう。

 というわけで普通の方にはまた来週。
 今日はとくに相手を選ぶ本題です。自分でも面白くないし、今日も長い。一度長くすると、テーマが派生しちゃうんでまずいですね。

 前回の『まだ世界には矛盾のしわ寄せができる後進国が控えているので「気をつければ済む」』という話。わかんないよね。で、面白くなくても追加しときます。
 もちろんこんなことは社会学ではありませんが、なにせ世間に労働価値論の評論がありませんので、マルキストのために枯れ木も山で書いといてあげようかというのもあります。

 なぜ国家が複数あると矛盾がしわ寄せできるか。
 第1に、もちろん過剰生産物資のハケ口です。(これにより企業は生産を続けられる)
 第2に、その分の自国生産労働者の賃金受領による国内大衆の購買力の保全です。(これにより大衆は自分は買わなくとも別の「もっと良いもの」を買える)
 第3に、もちろん、過剰な資本は他国へ振り向けられ、貸し付けられ、自国で爆発することを妨げる、というのもあります。(これにより企業は儲け仕事を続けられる)
 第4に、平均的な労働時間に縛られることがなくなります。生産工程の一部に他国が関われば、その工程部分の賃金に当たる費用は、ブラックボックスで結果だけの問題ですから。(これにより企業は儲け、国内労働者の賃金は下がらない)
 第5に、他国の傀儡企業は、その規模が小さいうちは、それをあえて存続させる必要はない。下請け、孫請けの尻尾きりと同じですね。(これにより国内企業は安全である)
 第6に、儲けだけの回収をするための企業では(資本投下の利益だけでよければ)、その儲けをあえて生産の高度化に振り向ける必要はない場合も多い。国内企業と同一の競争土俵にあるわけではないからです。イコール、カネは役員の私有財産化してもよい、ということです。(これにより役員報酬は取り放題である) 
 第7に、儲けは、実際には金融資産として、金融資産の処理をする業態に撒布されます。金融会社等の社員等の生活賃金となるわけです。(銀行、証券、保険、不動産へめぐりめぐっていき、当該関連労働者も潤う。ここが潤うと、労働市場の市場性により、本来の製造業賃金の平均的な労働時間単価に潤いの影響を与える。ふつうはその結果製造業商品の価格が上がるわけだが、後進国が控えていると、この買戻しメカニズムによる生産価格上昇が機能する必要が減少する。値段を上げれば後進国商品に流れるだけであり、そもそも第3次産業人口が多ければ、その他の要因のほうが大きい)。 
 第8に、その他のサービス産業は、これへの購買投入が生活の最低線として制度化され、労働者賃金の最低限を構成することにより、自国の産業の一角を確保することになります。(原理的には賃金は人民が総体として買う被生産物資の生産価格と同額である。) 
 第9に、こうして先進国製造業は高度技術産業以外はつぶれ、労働者の自由時間は、食物娯楽とIT娯楽、さらに物資の入手それ自体に伴う娯楽に限られていく。「面白ければいい」「すぐ手に入んなきゃいやだ」。こうして第3次産業へのみ向かう産業の進展は、運輸流通業への労働力の移転を生じ、さらにこの労働者構成を高める。
 
 というわけで先週の近経諸君との「賭け」問題が出てきます。買い戻し賃金で有効需要を喚起できますか? いいやできはしない。今の有効需要喚起は、帝国主義体制において、余った金をどう賃金に押し戻せるか、という虚しい試みです。もちろん基本、売れればいい、買えればいい、の話だから、買えてるうちは何とかなる、これが現在。もっとも買える先が安いユニクロ、コンビニスイーツでは心もとないけれど、まあそういうことです。ではそこから先に有効需要が、というよりは「購買のカネ」が作れるか。近経の方たちは資本家の払う先を当てにしてるんでしょうが、このとおり、資本家のカネの行く先はない。近経の方が寄付もしてくれないので圧倒的多数の人民は「相変わらず」、あるいは今まで運の良かった方は「思いもよらず」、「需要」なるものを実現するカネなどない。この賭けは私の勝ちです。
 
 さて、この先進国事情に対して、裏の後進国の事情を見てみましょう。先進国がおかげさまで「儲けて」いる一方、後進国はどうなっているか。 
 ここで本稿の意図は理屈の整序ですので、「後進国」とは、武力的強制や収奪を前提とした植民地のことではありません。経済学者のほとんど全部が口をそろえて言う「交換」により取引が成立していることになっている諸「後進国」のことです。
 
1 「経済的」側面
 人民の労働の賃金価格は、労働者人民が購入せざるを得ない必需・準必需品的消費物の総生産価値と同じです。したがって、後進国の労働者賃金は低く抑えることができ、かつ、企業競争の中でそこに決まらざるを得ません。後進国は先進国を儲けさせて、自分たちは貧困に喘いでいる、という評価も出ます。しかし、一方、「それは公平な貿易の結果だ」といえないことでもありません。「商品取引は適法な交換に過ぎない」というわけです。
 
2 支配・被支配の側面 
 しかし、それに対しては世界の前提があります。この「労働者人民」は、当該国民国家の「国民」である、という前提であり、その事実に対する先進国人民のシステム的無視が含まれている、ということです。
 「システム的無視」とは何か。マルキストは知らないというでしょうが、商品取引とはただの交換ではなく「商品」取引を貫徹する「支配と被支配」の事実だ、ということへのほっかむりです。
 人民の味方の顔をしたマルキストが知らない事実はこうです。
 1国内では、貧困な人民一般、だれもが生活に最低の消費物資分の賃金しかもらえない人民一般に対して、自由に労働者の剰余労働分を散財できる資本家と支配者がいる。
 と同様に、そんな一国民国家内の人民一般、平等な人民一般に対して、「自由に」人民の労働力を浪費する輩が、先進国の資本家であり支配者なのであり、さらに同時に、先進国人民なのである。これです。
 理屈はそうでしょ? 儲けを後進国からの儲けを自分らのために使っちゃうんだから。儲けとは、後進国賃金労働者の労働の、返してやらない結果です。
 そもそも資本主義社会とは経済システムのことではないのです。政治支配者が資本主義システムを支配に組み込んだ社会のことなのです。したがって、たとえ人民一般にとっての主要な経済システムが自給自足経済であろうと、後進国は資本主義社会なのです。
 
3 倫理的側面
 ただし、「それはまずい。先進国は後進国を搾取している」と言って、マルキストがいくら資本家を非難したところで、って今じゃ誰も非難などしませんが、それは論拠のない感傷に過ぎません。そんな論理は元からない、彼らにとって搾取は資本家だけがするものです。
 さらにまた、我々のような論拠を持ったところで、行為の動機は資本家と後進国支配者と後進国人民に止まることを、誤解がないように注意しておかなければなりません。我々先進国人民が責任を持つことではないのです。一部口先だけの「左翼」評論家は「搾取のお陰をこうむる我々の責任だ」といいたがるものですが、そんなやつがちょっとでも責任を負った姿など見たことがありません。せいざい自分のカネになる評論書きと、アリバイ的なデモ参加のみです。そんなアリバイデモで何が変わるでしょうか、何も変わりません。それより、「俺は責任を取るから後進国人民の被搾取生産物は消費しない」といって地べたに座り込んだらどうでしょうか。お望みどおりすぐ死ぬでしょう。
 われわれ人民は、「資本主義は優秀だから腐朽などしない」などとブルジョワのプロパガンダの真似をして評論を売るのでない限り、自己の場所において闘えばよいし、それしかできないのです。昔、黒寛がよく言ったとおりです。
 だいたい、そんな客観主義の「倫理」では、悪いのはそうした労働者になる後進国人民になってしまいます。村人が先進国商品を拒否し、彼らが共同体拘束を嫌がらずおとなしく村共同体に止まれば、困るのは資本家と後進国支配者だけで、他には誰も困りはしないのだから。いまどきのブルジョワ諸君なら、プチブル歴史家と一緒に、「彼らもメリットを享受したのだ」と合唱する、あるいは既にしているでしょう。まあそれは、歴史を要望どおりに意味づける歴史家の特権だともいえます。
 しかし、行為理論に基づく主体的な社会科学はそうではない。世界は行為者の自己の自由を求める行為の企てにより、進むべくして進む。そんなものを客観的に価値づける根拠などはありません。世界は客観的にではなく、主体的に、価値づけられるのです。後進国人民は、先進国の最下層の人民と同様に生きている。プチブル以上のカネ的自由を持つ人民個人には、どちらもほおっておけない存在です。しかして、この世界は変わらなければなりません。価値とはそういう主体的立場しか持たぬものであり、倫理とは、自己のその価値の下に行為することなのです。「そんなことに何の意味がある?」? そんなことは他人に聞いてもしょうがない。それが「自己の持つ価値」ということ、それ自体なのです。

 こうして日本はもう最終完成型であり、日本に残るのは、先進国と後進国の労働力価値の平準化に伴う不可視の労働力価値の減であり、それをまともに食らう人民と、あくまで労働力価値を懐に入れたい資本家層との貧富の2極化しかないのです。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労働価値論のメリット

2019-06-15 11:13:40 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。景色はもう夏ですね。違うのは気温が追いついてないことだけ。これはとても大事ですが。
 夏だと海水浴に行きたがる気になる子供がうらやましい。砂は暑いし水は冷たいし着替えは面倒だし。で海行ってもすることなしじゃねえ。
 
 さて前回はとっても長くなってしまったので反省して短く。って今日出かけるからもありますが。
 まずは、役に立つかなブログ。電話機の「シャープを押してください」って録音が言うやつのボタン、ハッシュタグのハッシュなんだって、知らなかった。常識? わたしそもそもハッシュタグって知らないから。
 両者は縦2本と横2本の斜め度が逆なんだって。後半、by朝日新聞。シャープもフラットも元々はBの変形なんだって。byウィキ。で、ハッシュは元々はlb(リブラ=重さのポンド)に横線を引いたものなんだって。byウィキ。でも読み方はシャープでいいんだって。byウィキ。わけわからん。ま、役には立たないか。
 あんまりウィキペディア使うとwikiの「カンパしろコール」が無視できなくなるね。
 
 で、ニュースは、例の「老後2000万円報告書」。まあ年金制度がどうのというのは代議士連中に任すとして、わからないのがこの2000万円を生むための資産形成だの運用だのという、報告書擁護論者の言う「報告書の本体」。ま、本体は「なくなった」そうなので、なくなったという言い訳もすごいが、ともかく、なんでそんな社会が不景気になる話をするのかねえ。「年金が足りないんじゃ今から貯金しなきゃ」って、庶民にそれ以外の対応ってある? そんなの消費税を2%上げる比じゃない景気減速だぜ。投資ったって、そもそも企業に使い途がありゃあこんな低金利のはずないんだから。使い途もない奴らに投資したって良くて株価が上がるだけじゃないか。それもネズミ講と一緒。投資が続かなければ会社が潰れてパー。結局、一時上昇で儲かる既存の株式富豪と証券会社の手先以外の何者でもない。こんな報告書など消えてよい。経済の麻生としても望むところだろう、こいつの他人のせいにする癖は軽蔑の対象だが。ついでに、擁護者がおためごかしに「報告書は投資者の認知症対策を訴えてもいる」とか書いてあるが、老いぼれに投資を訴えているのは同業者じゃねえか。こういうのは擁護じゃなくて自己弁護だね。
 本来の経済施策は、庶民には年齢を問わず貯金はさせない。使わせる。それには収入を回収して介護や失業の貯金を不要にさせる施策をして、絶対使ってくれる低所得者に回す以外にはない。ついでに使わない資本家たちから取ることも忘れないよう。
 
 これじゃ赤旗と同じか?
 ネット赤旗の見出しを見る限り、赤旗にこんな立派なことは書いていないはずだが、まあ明日書かれても違和感はないか。みんなが好きな北欧施策だし。
 じゃあ赤旗の書かないことを書いておきましょう。
 「そんなに資本を過剰にさせると、資本主義は一発で沈没するぞ、気をつけろよ」。
 というわけで本題。シンプルに経済の仕組みを見てみましょう。
 労働は商品を作り、商品の総価格は、それに費やした不変資本(機械・原料)と、賃金による購入額と、次の投資の原資額とで基礎づけられます。
 わかんない? マルキストはそうは言わないからね。
 ここで生産価格と市場価格は同じとして、商品1万個の総価格が1億円だとしますと、これは不変資本の労働提供者がもらうべき8千個の8千万円と、直接の労働者の賃金による取り返しが1千個で、額は1千万円と、次の投資のための(可変資本と不変資本の)1千万円です、資本家の消費額もあるけど。さてこの場合商品1個は1万円です。それ以上だと当該労働者は賃金で取り戻せません。理屈上は残ったこの1千個分は未来の労働者が購買によって払うのです、在庫を5年後に売り終わるとしてもいい。さてこのとき、投資額の1千万円が使われずにしぼんで消えたら、この事情はどうなるでしょうか? 売れる予定の1千万は客に買う財力がないので売れません。買えない将来の労働者1千人は生活に困り、さらに投資のない企業は競争によりつぶれます。
 ここで、実際には1千万の内300万は課長や部長の取り分で、これが貯金され銀行を通して投資に回るわけですが、使われないなら同じことです。
 
 さて、この1千万が幸か不幸か使われ、さらに生産力が上がったとしましょう。
 商品1万個の総価格が生産力増加で5000万円だとしますと、これは不変資本の労働提供者がもらうべき2千個の1千万円と、直接の労働者の賃金による取り返しが労働者は少なくて済むので500人で1人2個で、額は500万円と、次の投資のための(可変資本と不変資本の)3500万円です、資本家の消費額もあるけど。さてこのとき、投資額の3500万円が使われずにしぼんで消えたら、この事情はどうなるでしょうか? 売れる予定の7000個は売れません。この売れない7000個分の商品は、人が買えずに困るかというと、そもそもそんなに要りはしない。企業は商品を捨てるだけ。さらに投資もできない企業は競争によりつぶれます。そのうえ、もう商品は要らないとはいえ、3500万円は次の不変資本がもらえるはずの金額です。そこで働いてもらえるはずの賃金がもらえなければ不変資本の従事労働者は何も買うことができません。
 
 だんだん状況が悪化する。これを生産と消費の矛盾といいます。やっとマルキストと一致するコトバが出ました。
 
 とはいえずっと上に書いた言葉の最後の「気をつけろ」というのは資本主義に同情したわけではなく、まだ世界には矛盾のしわ寄せができる後進国が控えているので「気をつければ済む」というわけです。実際には生産と消費の矛盾を諸国民経済の分化が支えるので、恐慌は発現しないのです(P.S.翌週追加説明しました)。それでは、これが済まなくなったらどうすればいいでしょうか? 上に戻れば簡単。売ろうとするから矛盾が生ずる。そのまま労働者に渡せば丸く収まる。これ以上要らなければ作らなければいいし、作るなら投資すればよい、というバカバカしい話で。資本なんて人々が使う分だけあればよい。こういう人間の意思の経済を「社会主義経済」というわけですが、国家計画の放棄と一緒に、世間じゃあそんな経済運営技術の研鑽も忘れ果てているようで。
 
 さあて、で、何がいいたいかといえば、こんな簡単な理屈も、賃金と利潤と資本「金」しか語彙のない近経諸君にはわかりはしないだろうということで。資本の取り分が多いとなぜ資本主義が崩壊するか、そんなこと近経ないし若人の習う「現代経済学」では何も説明できやしない。情けないもんだね、と私は思うぞ。なんちゅうと、「いや有効需要を喚起すれば」とか、どうせまるっきりの机上の空論。みんな買わねえから現実に困ってんだろうが。「それでも買えば」って、ば~~か。どこのパラノイアが老後資金もなしに狭い1Kの部屋を洋服で埋めるのか。金がなきゃあそんな偏執もできゃあしないんだよ。あるいは別の奢侈品を生産すればいいとか、そんな奢侈品は金がなきゃ買えないんだよ。当該生産労働者は自分の相当賃金で誰も買わない奢侈品を買って飢えて死ねってか。空論は止めて「そういうことは起きません、賭けますか?」とか率直にいうならそれはそれ、どっちが現実か、だからね、審判は歴史に任せようじゃないか。
 話は戻って、労働価値論から言えば、私のようなアダム・スミス主義者(せいぜいリカード)的な認識があればこんなことは書けるので、マルクスが偉いわけではありません、不変資本・可変資本はマルクスの用語ですが。まずはみんなイデオロギーは越えて、アダム・スミスに戻るのがよろしいのでは?
 なんていうとそらみたことかと喜ぶだけの不勉強の輩もいるので、資本の動きを可視的に文字化したのはマルクスだけの功績だ、と付け加えておきましょう。それ以上の意義を期待してはいけない、と言っているだけで。さらにそれを広めて社会学徒にも読ませてくれたのは、マルキストの功績です。なんか今日の朝日新聞にも些細な事実を棒大に表現してマルクスを貶めている歴史屋がいたし。さらに、恐慌論を除く宇野弘蔵はなんといっても本質的で偉い。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代資本主義」と近代資本主義(その2)

2018-12-26 15:32:57 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。本日は前回の続き。本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ決定的差異の第2、「支配権力にとっての産業資本の威力」。これじゃ文学的ですか。ともかく続きなので全面的にそればっかです。

 「古代資本主義を支える商人資本には社会システムを変革する能力はない。彼らに出来るのは商業差益による自国での自己の剰余物資の豊富化だけだ。しかし、近代資本主義の本体である産業資本は、世界を変革する」ということです。まあ世界史でご存知のとおりなのでこれで終わってもいいのですが、「そんなものは偶然の出来事だ」とかいわれてもいやなので展開します。
  
 さて、「そもそも」論からします。
 まず、支配は地域的には点です。大きな点が近くの点を破り配下にする。そうして点と点のネットワークができる。しかし人民はその間にこぼれているに過ぎません。大和朝廷が日立の国を攻めて従属させた、といっても、大和朝廷は常陸国の人民の一人も知りません。では常陸の「国主」職なら人民のことを知っているか、というと、そんなはずもない。(現代の)石岡市のボスは兵隊を出してくれる近隣の村々の村長ならよく知っているでしょうが、国境の(現代の)大熊町内の村長を知っているかどうかも怪しいものです。ましてや貢納を取り立てるあてもない弱小のことなど、地図もないのに支配者が知れるはずもない。「常陸国府」はあっても「常陸国」など日本古代には実はないのです。しかし、それで充分なのです。各地区の「点」が周りを支配し、その「点」のネットワークが存在すれば、大和朝廷は日本のボスです。この、支配は武力だけでは「点」にしか作用しない、というのは社会への重要な認識なのでご記憶のほどを。

 というわけで、話を全歴史過程に戻します。
 支配者は「国」など「点」があればよい。同様に商人資本も「点」さえあれば良い。「市場」ですね。築地があれば、全国の網元にとって、川崎市内の魚屋の配置などどうでもよい。築地で全部売り払えればそれでOK。
 点でよいのが商人資本。彼らは差額利益を構成するための拠点があればよい。
 つまり、資本主義以前支配者体制と商人資本は、点を確保しさえすればよい、という意味で並行して存続しているのです。
  
 しかし、資本主義は、産業資本は、それではならない。面の確保が必要なのです。
 第1に、その面から労働力を醸出させ、第2に、その労働力から生ずる価値を実現してくれる商品を購入する人々を、面で賄(まかな)わなければならないのです。
 同様に、産業資本を飼っている国家支配者も、後付けでこの要因が入ると面が支配できなければ結局自分の地位が保てないのだから困る。こうして両者は、自己の生理的存在の存続のために搾取を実行する資本を力を合わせて確保せざるをえない。労働力と資源物資と、土地です。
 もう一度いえば商人資本はそんなものは興味がない。歴史的一時の現実には産業資本とダブる商人資本も一部には存在するでしょうが、実効性はない。そのときの支配者には不要だからです。
 こうして産業資本の自生国ではそれ自体で統一国家が生ずる。統一国家は「国民」レベルでの権力的実力と身分あるいは差別の崩壊のための重要な必要条件です。
 
 さて面的支配の拡充は、それにはとどまらない。この「面」は資本主義と国家権力によって引き伸ばすことができる。これが資本主義的帝国主義です。
 彼らは「外国」を自らのものにし、そこでの労働力と資源物資と土地を入手する。世界分割後の帝国主義は、このうち土地を入手しそこなっているように見えますが、常に拡大の期を狙っているのは、世界各地の入植・併合の事例の示すとおりです。 
 この意義は、
 第1に、当該侵略国家内の階級関係の変成ないし再構築です。すなわち労働者の労働貴族化です。国内産業において賃金を最低線まで下げられた一部労働者や、最低限より少し上で経済的キツさを語るべき次の層の一部労働者も、国内賃金は低賃金でも、(上部階層は買いはしないが)当該国内において低賃金生産輸入物資を購入することが出来ます。当該物資は質は悪くとも、「気の持ちよう」の範囲内には収まる。かくて最低層労働者だからといってわざわざこの世を変えるまでの動機は生じない。 
 第2に、それまでの共同体的生産関係を分裂させ、人民を巻き込んで、全ての地域を相互依存化する。この第2の点は、人間の自由の進展を加速化します。
 地域の構成員の相互扶助のためには、地域内の行為共同性が不可欠です。そのための前提は、地域内行為者の経済的(土台的)相互依存です、すなわち、さしあたり個人の自由について不満が残るにせよ、資本主義的統一国家か、あるいは、既に経済的相互依存のある地域としての国家化あるいはアソシエーション化の2択です。
 植民地後進国内の面の構成は、支配権力から行政組織の形成が行われます。この過程で、それまでの共同体支配の破壊が行われ、残った支配モザイクの破片によって、共同体組織の再編が行われる。それまでの「自治」組織の再構成です。この過程は旧来支配力の減少ですから、その結果被支配人民の自由が増えるわけですが、それ以上に産業資本の侵略過程が共同体支配に壊滅的打撃を与える。都市との交流、すなわち被支配人民を拘束する共同体の生理的幽閉からの解放です。
 
 他方、人民による新しい消費物資志向は、もちろん物質信仰でそれまでの共同体文化をもろくするわけですが、それに伴って、人々に「それらの交易に従事する職」が認知されます。この職につけば、同時に貨幣経済の担い手として消費物資の入手も容易になる。どうせ余計者として遇される成人男性にとって、なぜ、共同体支配の下で鬱屈している必要があるでしょうか。かくて都市は膨張し、人民の自由も増大します。
 都市は点としてしか掌握されませんが、個々に終結する人民の心的地域は「面」です。さらにその後、現実的にそれ以外の周辺村落の人民の、都市を介した具体的なネットワークが成立する。
  
 これらの植民国家と産業資本の侵略により、植民地には将来の国民国家の条件が与えられる。植民地支配の組織が堅く組んであればあるだけ、独立後の統一性を得ることが出来る。
 
 まるで褒めているようですが、研究学徒が褒めようが貶(けな)そうが、歴史過程は存在する。そしてもちろん、歴史過程で本当に重要なものは資本主義の進展度でも自由の進展度でもないのです。そんなものは豚にでも食わせればいい。本当に重要なものは、そこで生きた人間が何を意図し具体的な行為を為し、その個人の行為がいかに人間の歴史上の自由を進め、あるいは阻んだか(はばんだ)か、ということです。歴史はその客観的把握と「個人の意図と歴史の連関」とのどちらを欠いても不毛です。
 だから、こんな片方だけの記述自体は不毛なんだけどね。でもこの客観過程の把握なしに人間行為の歴史的意味がつかめる、と思うことも間違いなのですよ。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代資本主義」と近代資本主義(その1)

2018-12-22 10:54:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、ここ2、3日青空でよかったです。冬はせめて青い空にお日様が照ってて欲しいよね。東京育ちには雪国は大変。

 さて、本日はニュースなし。未発言はなんにもないし。
 そういえば、昔鳩山由紀夫が偉そうに「普天間は、最低でも県外」とかいったのはなんなんだろうと思ってたけれど、宮崎の自衛隊新田原基地とかちょっと分けてあげようと思ったんじゃないのかね、広いし。鳩山が自民党の真似してふんぞりかえって明言しないからつぶれちまったんだよね。どうせ実質野党なんだから、バーンといえばいいのに。共産党ならそうするな。どうせ実現しないし。で、普天間には航空自衛隊が行けばいいのさ。って言った瞬間に左右から轟々たる非難。売国奴のウヨクまで反対しそうじゃないか。結局、根性のない奴は負ける。
 ま、ただの感想。
 そういえば根性話でこんなのがあり。「ISの攻撃で論文未完は許せない 教授がイラクに傭兵派遣し学生救出」(テレグラフ)。文字通りの話。ハロッタ・トゥルネル(シャーロット・ターナーさんだね)教授が傭兵を雇って博士課程の教え子を救い出した、という。いい根性だね。世の主査教授諸君に伝えたいよ。わたしゃ関係ないけど。
 
 で、世間話。
 ネット遊びしてて、なんだかの施設の企画案でふと目に映った名称「プレック研究所」。あれ、プレックじゃん。ここは学生のときの2番目の通勤アルバイト先。1番目の通勤バイトが金融会社でなんか雰囲気がギスギスしてたのに比べて、とても優雅に仕事してて、こういうとこいいなあ、と。自治体広報やガイドブックなんか切り張りして、なんかパンフ作りのバイトでした。今wiki見たらその頃は出来たばっかでみんなが若かったみたいね。ただ問題は六本木の近くで昼ごはんをみんなで喫茶店で食べるのでバイト代が減って困ったこと。昔の食事は高かったから。
 いやそれだけ。懐かしかったので。

 風呂場の白熱電球が切れて、前買っておいた新しい電球をいれたけど、つかない。あれ切れてるのか、と台所で使ったら点く。おやおやソケットが壊れたか、面倒だな、とあれこれ入れ替えてみると、点く電球がある。え~~、、
 というわけで、本日のためになるブログ、YAZAWAの白熱電球はソケットと相性があるのでご注意。ASAHIの電球がお奨め。
 うちはLEDにする? 風呂場なんかの照明は覆いがついてるのでLEDは気をつけてね。密閉型のでないと危ないそうだよ。

 さて、本日は、前回言った田川建三の「古代だって資本主義はある。それがわかんない奴は馬鹿」認識の、どっちが馬鹿だ、論。ま、べつに本気じゃないす。彼はもともとそういう人間だから本気では相手しません。それと、以下はマルクスの説ではないので誤解されぬよう。誰の説だって、隈栄二郎先生。わたしです。アダム・スミス直系の道徳的労働価値説。スミスさんより道徳的だけどね。
  
1「商業」の一般規定
 さて、まず「商業」とは何でしょうか。
 先月のこのブログでいったように(「売買と交換と贈与(その1)」)、売買と交換は違います。さらに、売買行為と商業は違うのです。「なんで違うんだよう、売り買いが商業じゃねえか」といわれても困ります。同じなら売り買いといえばいいのであって、今の問題は「商業」です。売り買いは、歴史上、必要物資を手に入れる方策のひとつ、と言う以上のものではありません。商業はそれによって生きる商人のなすわざであり、その商人の存在規定こそが本質なのです。
 さて、まず一般論から端的にいいましょう。商業とは収奪階層と被収奪階層の間に起こる労働力の争奪交渉です。
 労働力の争奪とはすごいでしょう。カネがあれば米が買える、着物が買える。それが争奪? そうです。そもそもカネがあればものが入手できるなんてそんなことを誰が決めたのでしょうか。神様? いえ、余剰労働力の収奪者です。

2 資本主義に見える資本主義以前の商業発展社会の規定因子
 余剰労働力は、支配社会においてはこの大部は、支配権力に徴税され、あるいは徴発されます。この労働力は支配階級のものとして、交換過程で使用される、つまり支配階級は自分の好きなものを入手するときにこの労働力(ないし労働力の成果)を使用するわけです。たとえば家が欲しけりゃ建築労働者に米を渡し、舶来の衣装が欲しければ海外の絹の生産現場に米を渡す。この使用時に、交換労働手数料として交換労働者=商人に実入りが入る。この実入りは元を正せば被支配人民の労働であり、この交換過程が商業です。
 この交換の時間経過上、支配者の剰余物資が多量である場合には、これが高じて支配者の事務担当者や商人それ自身も珍奇物品で身辺を飾って支配者の真似をする。これが資本主義以前の商業です。
 ここでの確認事項は、全ての商品的富の根本は、(農産物等という農民等による)労働であり、その存在の歴史的必須要件は、支配権力だ、ということです。

3 これに対して資本主義社会での商品経済とはなにか
 さて、農業生産力の増大は、これによってぜいたく品の生産に従事する人間の食い扶持の増大=従事人員の増を引き起こします。経済史の本によると、穀物・酪農品・羊毛原料・羊毛製品、その他ビロード・ガラス・陶器・木材・ニシンその他、です。ところが時代の変遷は、農民に余剰購買力までつけてしまいます。それはそれで使ってしまうのですから農民の貧しさはさほど変わりません=徴税も思うように進まないのですが、ともかく農民の米は支配者を通じずに商人の手に渡りますので、ぜいたく品労働者は商人が自前で手に入れた剰余労働から養われるようになります。かたや支配者は儲けた商人から徴税できればよいのですが、儲けの高に合わせた徴税は技術的に無理だ、でもぜいたく品生産物は欲しい、かくて支配者は常に借金漬けとなる。というのが歴史過程です。この結果、商人のところに剰余労働力が溜まる。
 ここが転換点です。
 初期商人は、支配者から授かった私的所有権を武器にして、資本家として、必需品の生産を行った。これが資本家の存在的歴史の当初です。資本家は、珍奇なものを集めて支配者からカネを受け取る代わりに、自前でカネを作る算段をしたのです。必需品を手軽に生産して、これを全人民に売ることにより支配者の代わりに労働者から金を受け取る。もっとも受け取るのではなく、搾取ないし収奪するわけですが。
 と、これが原則。論理派生的に、いままでのぜいたく品が必需品になっても同じです。小麦や毛製品は、先進地域では遠からず必需品になりました。あるいは後進国の鉄道導入については、鉄が必需品です。ポイントは、必需品はそれだけで剰余価値生産の資格を持つ、というところです。山のように生産されたガラスのコップは、その代わりに得る労働成果がなければ埋立地に直行するしかないところ、代わりに綿のシャツが必需品的に存在していれば、カネの介在により、不等価交換できる、つまり資本家の利潤となるわけです。
 実は資本主義とは、支配権力者が、商業的枠組みのまま、労働者の処分権を商人に与えただけの姿なのです。

 商業的枠組み? 聞いたことがない? こんな規定が意味を持つのはなぜか。 資本主義においては労働の収奪は、剰余価値の収奪ではなく、利潤の獲得として現象します。これが直接の収奪方式と違う理由は、当然に、その方式、すなわちいったん意義のない労働をさせて、その生産物をカネに変えるという媒介方式の故です。
 ここで行為者である人間が持ちうる意義は、誰にとってもありません。労働は虚しく、生産計画は賭けです。売れなければそんなものはクズ同然、これは商品化というよりも「商業化」の必然というものです。
 そもそも「賃金」は生産過程では完結していないのです。商品が売れて初めて賃金は実体化する。それが労働価値なのです。労働価値は商品が売れない限り、空手形となる。労働が実現すればその所有者であるプチ支配者はそれを享受すればいい、しかし、より安く売らない限り、社会に飽和した必需品の労働価値は実現しないのです。そこに、天才エンゲルスが当然だが強調した、資本主義の動因の主要因としての「競争」が成立することになるのです。「競争」は決して本質の派生形態ではありません。それこそが資本主義という労働の収奪機構の原動力なのです。この1国内的資本主義の原動力の根幹が必然化すること、それが本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ第1の決定的差異なのです。

 ポイントの第1はこう。ポイントにしては長いけれどしょうがない。
 さて、第2は、って、長すぎだよね。次も初聞きな話なので混乱させそうで、また来週。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする