リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

十大ニュース

2017-12-30 12:49:30 | 上部構造論
 こんにちは。もう小晦日ですね。「たった2日後」というのはいつでも来ますが、日が経つのと年が変わるというのはえらい違いですね。わたしには何かとけじめがつくのでとても良いことですが。
 
 さて、年末は社会的な事件も特にないので、わたくし的話題。
 けじめで大掃除してたら、雑巾にしたぼろきれに旅館田園と書いてありまして、全然記憶がないのでネットで調べたら、西若松駅徒歩云々とか書いてあって、知らない、いったことないはずだが、と思って検索し直し。どうも千葉御宿の廃業した民宿のもよう。ネットには火事で半焼、みたいな写真がありました。あれあれ。海水浴でしたがそのときは娘がおたふく風邪に罹りほっぺがぷくうっと膨れて早々に引き上げた記憶があります。宿の宣伝もできませんね。どうもご縁のない旅館様で。
 
 の2。セリが安くてたくさん買ってしまって、鍋用に正月明けまで保たせたいというんでネットを見たら、おんなじ記事(コピペの類)ばっか。ほんと不愉快。何も知らない奴らがコピペして、あたかも自分が調べたかのごとく、麗々しく御託並べて。それだって、みんなの役に立てようと思ってやってんならしょうがないですが、聞くところによると、自分のサイトに寄らせれば1見で何円か懐ろに入るとか。冗談じゃねえや。しかも「冷蔵庫に立てて保存する」ばかり。おまえほんとにやったことあんのかよお、と思います。あんなへろへろの物体を立てるって、1万人中一人でもやってるのか? そもそも、立つほどでかい冷蔵庫なのか?
 
 ま、ウサ晴らしはほどほどに。
 年末なので、2017年歴史の進展10大ニュース。歴史は常に人間の自由に向かって進みます。では、今年の進展は?

1 LGBT進展。「安倍晋三首相は、、、『パートナーが来日した場合、首相主催の夕食会にはお越しいただければと考えている』と述べ」た。パートナーって同性の結婚相手のことです。

2 女性進展。「セクハラ被害の声を上げる「#MeToo」運動が全米に」。日本でも真似っこしててよいですね。

3 帝国主義陣営の分裂。米国がエルサレムを首都と認定。どんどん勝手にやるのがよろしい。世界で計画経済国家が消えれば、資本主義諸国に残るのは分裂、崩壊のみ。騒動で亡くなった方には申し訳ないけど、それは毎日のことで。あまり正直に言うのはやめましょうか。

4 日本帝国主義の崩壊への歩み、その1。「日産で無資格社員が検査。スバルでも。検査データ改ざんの企業も続出」(読売の題)。資本家はすでになりもふりも構ってられない。しかして「それがバレる」(企業内の分裂)というところが崩壊です。

5 日帝崩壊の2。自民党圧勝。どんどん勝手にするのがいい。利潤追求への歯止めなしでは資本主義は本性を現わすのみ。未来に待つのは崩壊。

6 の3。リベラル崩壊。偽りのリベラルによる左翼戦線への欺瞞が消えた。

7 の4。テロ準備罪法が成立。もう口先の反体制は成立しない。ここでも偽りが消えてゆく。

8 の5。防衛省が長射程ミサイル導入を検討 。古典的「帝国主義」です。

9 の6。「いずも」型護衛艦の空母化を検討、F35Bを運用。陸(ミサイル)の次は空です。前も言いましたように、F35は攻撃機=爆撃機です。「B」は垂直・短距離の離着陸ができるタイプ。権力を持てば武器を欲しがる、武器を持てば使いたがる。権力者の性(さが)ですね。前にも言いましたが資源のない国の軍事産業化は、国の崩壊です。自動車一強の黒字国でしかないのに。それとも電子軍事機器輸出に賭けるか?

10 世界資本主義の崩壊。隈、次回配本原稿アガリ。左翼陣営は、また一歩前進した。

 おかげさまで次回原稿も合同フォレスト様の手に渡り、出版までのルートに乗ることになりました。この早期実現のために去年のバイト仕事の継続依頼を「もうやだから」って無理やり辞めたのは、お人好しのわたし的にはなかなかつらい。ごめんね、こういうことだったので、みたいなもんです。当初契約分労働は嫌でもやったことで許してくださいな。などと、お人好し、っちゅうか自意識過剰っていうか。ただ、若人の方へ。自分をマネッジするというのはそういうことですよ。
 というわけで、上部過程論、いわく『「上部構造」の社会学』とはもうお別れ。これはほんのちょびっとのお付き合いでしたが、お別れは淋しい。できてしまえば終わり。仕事とはそういうものだ、とはいえ。でも仕事なら打ち上げとかあるし、その後2、3年なら昔の仲間と飲んでサカナにするってのもあるし。なんか淋しい。2年かけたんだよね、たぶん。できたってえらいよね、たぶん。ただ自分的には時間が推移しただけでもあって。寝てる間に小人さんたちが書いといてくれたんだね。

 さて、常連様におかれましては、本年も何かとつまらないグチの類いにお付き合いくださいましてありがとうございました。どのくらいオタクっぽいのが良いのか悪いのか、よくわからないのでテーマをずうっと試行錯誤であれこれしておりますが。まあ、お客様も人それぞれ、であろう、というところで収めてくださいませ。
 
 では皆様良いお年を。考えてみれば、この挨拶句もちょっと哀しい言葉ですよね。今まで良い年ならわざわざ来年に期待しませんがな。
 まあそういうイヤミはやめて、実際、来年がいい年だったらそれは素晴らしいことです。
 改めまして、良いお年を。
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上部過程論、原稿状態にして、出来。

2017-11-01 20:50:00 | 上部構造論
 こんにちは。11月1日。お待たせしました、次回予告。隈行為論3部作の最終巻、 「行為の集成」「行為の反逆」に引き続いた3行為論、最終、「行為の戯れ」。……違うし。だいたい何だ、「行為の反逆」って、とかいわれたり。(「歴史としての支配」のことなんですが、、、)
 ともかく、上部過程論。題して
 「『上部構造』の社会学 ―主体の意思と歴史過程」
 誤字脱字を残し、原稿完成!
 昔ならそのまんま万能書店に送るところ。私には決断力があります。このいい加減さで暮らしてきた数十年。

”およそ社会の経過は唯物史観が示すとおり、人間の主観的意思の如何によるわけではない。下部構造たる経済過程に規定されたものである。
 しかし、それでは人間は歴史に流されるだけか、といえばそうではない。あるいは人間は歴史の必然を生きることが自由だ、などというマルクス主義者の言が真実であるわけでもない。
 逆である。人間は主体的に人間社会を変更することができるから、この移り変わる歴史が不可避的に存在するのである。
 本書は、人間が下部構造に規定されている、かのように見える規定性を明らかにしつつ、社会に現れた人間の主観的意思の観念性の秘密を暴き、他方、その下部構造の規定性を形成する行為者としての人間の行為論的自由の意志の歴史過程を明らかにするものである。”
 
 もう知ってる? ホームページそのままだろって? すんません。いつもお世話になりありがとうございます。
 もっと後にしようと思ったのですが、今までのカテゴリー「上部構造論」って、ファシズム体制しか書いてないことが分かり、この辺で「活」をいれてもいいんじゃないか、と。
 
 というわけで、ぐずぐず言い訳を言いながら、さすがにできました、上部過程論。
     まだホームページだな。
 ともかく、プリントして見直すと誤字脱字、あっちもこっちも修正、ということになりますので「まだ」といってはおきますが。ほんと、校正の人にあっちやこっちやと間違いを指摘すること(のため)で読まれるのもつらい。ちゃんとプリントして自分で1回は読まないと。なんていうと博論の人には怒られそうな。俺らは5度は書き直しているとか。
 ま、そういうことはよくて。ちゃんと内容だけはできた、ということでご報告をしておきます。次いで、早々に次々回論文の触りがここに載るでしょう、というのもご報告の理由ですが。「「国語に関する世論調査」では,「さわり」の意味を「話などの最初の部分のこと」と考える人が半数を超えているという結果が出ました。」。朝日にもきのうおととい載ってましたね。半数を超えたらこっちの勝ち。ざまあ。

 ま、そういうことで、本日は切りよくご報告まで。
 たとえば上に書いた「現れた」っていうのも考えると悩むのですよね、表れた、というのが一番本質的なのに、それではどうも校正の人に誤字だと指摘される。でも次に正しいのが顕れたで、これは現象的に過ぎる。しょうがない現れたか、とか、ヒマならいくらでも時間をかける悩みもある、がそれはヒマ人の悩み、とか、まあわたしゃ「いい加減」と呼ばれればそれでよいす。
   ん、書いたけどブランクが空かないのはなぜ?


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日本ファッショ体制

2017-04-01 16:42:29 | 上部構造論
 こんにちは。4月ですね、寒いですが。
 おかげさまで4ヶ月ぶりに今日からフリー、まだ頭はクリアされてませんが。
 この2ヶ月の働き先はいまいちでした、いじめられっこがいて。まあ仕事の発想が悪くて一緒に仕事すると尻拭きが回ってきそうでいじめるほうの気も分からないではないですが、言い方ってもんがあるよね、って感じで。感じ悪。職場は明るく仲が良いのがいちばん。
 
 さて、世間のニュースはやはり暗く、子どもが何人も死んで。しかも体育(クラブ)まで死んで。とんでもねえや。年寄りなら暗くないが。
 おまけに教育勅語授業やら柔剣道授業やら。子供はおもちゃじゃねえぞ。ただのペットと思ってやがる。
 そんな大人たちはどんどん死んでよい。
 
 主題に移る前の本日のお役立ち。明日の花見の評価。
 家人にいわれて気づきましたが、そもそも東京近辺ほど、花見がどこでもできる地域は全国にないのではないか、ということで、東京地方の話題ですが。まあソメイヨシノだしね。
 で、明日は雨上がりのうえ、寒い。つまり座れば冷たく立ってても寒い。今日買い物に行きましたが、空はどんより3分咲き。残念ですが、明日も地元の公園以外へ無理する必要はない。
 そんなこといっても俺らは平日は仕事だ、と。
 そこはだいじょぶ。桜は地面で見てもきれい。地面は花吹雪。来週の土日には若葉も彩りを添えて、良い花見日和となるでしょう、晴れてさえいれば。23区は晴れてなくても、どっか晴れてますよ。
 
 ということで、ここんとこ感想記事が多かったので、本日は、多少こだわりのファシズム論争のくだらなさについて。
 歴史学の本なんてくだらないので読まなかったのですが、アメリカンファシズムの流れでちょっと手を出してあまりのことに呆れ果て。そんなにバカだったんですね、って感じ。
 説明するのもくだらなくていやなのですが、伊藤隆という右翼がいて、彼の主張をマルクス主義デマゴーグが無意味に批難するのですが、あまりに無意味なので、あたかも結果両成敗で、じゃあ仕切り直しましょう、ってことで、現在は若人の没価値な論議が席巻している、という筋道です。没価値というのは何の意義もない行動のことです。
 
 この伊藤隆という人はべらべらごまかすのでしょうがない人間だと思いますが、ただ言ってることは当たり前のことで、右翼も自称左翼もみんなで(世間がファシズムという)総動員体制を主体的に作っていった、と主張したわけですな。そりゃそうだ。
 しかしそこで、自称左翼も手を貸したという(事実の)主張にデマゴーグが怒った、というわけです。ファシズム的状態は天皇の力を借りた軍部・資本家のせいだ、というわけですな。
 で、若人はそんなのどうでもいいから、現実の動きだけ研究しましょうや、今はそういう時代ですぜ、てなわけで幕が引かれたわけです。
 
 困ったやつらだ。誰が唯物史観の主張者なのだろう。
 唯物史観というのは、中学生の教科書的に言えば、個人のイデオロギーに束縛されず、経済的土台によって歴史が動く、というもんですぜ、細かいところは無視すれば。何が右翼だ、何が左翼だ。
 誰もがその方向に行動するから、実際歴史もそう動く。
 きまってんじゃん。
 その「誰も」のことを左翼が歴史学者のくせにほっておくから右翼なんかに指摘されちゃうんじゃん。
 それを「ありがとう」とも言わずに非難・否定するなど、ほんとにバカを暴露している。
 おかげで若人は、それが唯物史観だと思って白けている、というわけだ。
 
 3、4回くらい前、トランプのことで言ったとおり、ファシズムというのは、資本主義過剰生産の行き詰まりによる労働者反乱を抑圧し、過剰生産を国家主導で打開すべく支配権力者がしかけた経済(-社会)規制体制のことです。それは決して「ファシスト」が導き出すものではない。そんな唯物史観があってたまるか。自称左翼には今でもトランプ等のことをファシストだなどというやつがいるが、そんな言葉を口に出すこと自体、そもそも彼らはマルクス主義者ではないのだ。私はマルクス主義者ではないが。
 ファシズムで必要なのは、それまでの「自由な」資本家活動を国家的に規制できる制度を作り上げる巨大な運動体制であり、それは自己利害しか主張できない軍部・資本家の力でなどでは到達できない地点なのです。これには国家的ゲバルトが必要なのであり、その通りに共産主義者は壊滅された。この壊滅運動で見せつけた国家的暴力を基礎に、被支配者部門では、残ったイデオローグが、後進資本主義国たる共同体的価値を基礎に、被支配者の自由を主張し、国家部門では、同じ共同体的価値を基礎に、食うや食わずの自己の人民とこれからの延命的経済体制のバランスを苦慮し、軍事部門では、漁夫の利で国家軍備の増強と自分の栄華を手に入れようと勝手気ままな自己運動をして、自己破産した、という事態なのです。
 イデオローグは、右翼は国家本位体制を主張する。これに「天皇」の名が付こうがどうだろうが無意味です。左翼は革命なき社会主義を主張する。これに「国家」の名が付こうがどうだろうが何も変わりません。
 それぞれ言いたいことを言っているだけ。言うのはただだ、が、それを国家が許しているのは国家に都合がよいという理由だ、というわけです。なぜ? それで勝手し放題の独占資本主義が国家的コントロールの元にひれ伏せば、その過程はどうでもいいのです。
 この事態の先進国的状態が、経済学者がご存知の国家独占資本主義です。
 が、経済学者はご存じないように、戦前の後進国ではそれ以前の状態だったわけです。しかして、ファッショ体制。
 ま、流れですけどね。
 
 こんなの当たり前じゃねえの。こっちも、なんか書いてて二度書きの気がしてきた。
 まったく歴史学者たるや。
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理想家

2009-10-23 21:13:50 | 上部構造論
 こんばんは。勉強をしないと余裕がありますね、引き続き、本日の夕刊。なんだかという渡辺謙主演の映画の宣伝です。
 その評価の中の一行、なんでも石坂浩二が理想を貫く企業家を演じているそうです。
 いいですねえ、理想家。
 私も理想家的仕事をしたい、あるいはしたかった。このサラリーマン生活30年余、とてもじゃないけどできねえぜ。 
 なんじゃ、この評は。佐藤忠男と書いてあるが、旧名佐藤忠男のパロディーか。
 いずれにせよ、女子供に良く響く言葉なのは分かりますが、ほんとかよ、って思いますよね。

 モデルは日本航空の会長みたいですが、
 じゃあ、理想家の2009年の日本航空会長は、今、存亡の時、なにをするのか。
 悪いことしかせんじゃろ。

 あなたの会社の社長さんが理想家だったらなにをしますか。
 食品会社なら分析表示どおりの原料を使う。
 はい、そして社員のリストラをしますな。
 市長さんなら、住民福祉に邁進し、そして、職員のリストラをしますな。

 リストラが何だ、お前らが働かないのが悪いのだ。オレはオレの理想を貫く。
 はいはい、働かなくて悪うござんしたね。

 理想家などとは、そういうものです。

 要するに、権力を持って他人を強いることで、世間の賞賛に合わせる人間を理想家といいます。
 太平洋戦争前夜、理想家とは、女子供をたぶらかして、男たちを戦争へひきずりこんだやつらのことです。
 
 
 でもいいなあ、理想家。あと少しの労働人生、理想家で給料をもらいたいものです。
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原理の表現の仕方

2009-10-18 21:32:14 | 上部構造論
 こんばんは。今日は、勤務後、奥さんが出てるので、スーパーの490円の寿司で焼酎をそこそこ呑んでしまいましたので、ちょっと元気です。
 上記で大事なのは、「そこそこ呑んでしまいましたので」というところで、寿司は酒に良く合いまして。
 (なお、私は料理は得意です。)
 で、そこそこ飲んだので、今でも手元にグラスがあります。限度を越すと後を引くというか。

 本日は、例によって朝日夕刊(あ、朝刊)。投書提言は、星旦二ドクター。
 ずいぶん出ますね、yahoo。14500件あります。なんで、そんな有名なんだろ。
 旧名東京都立大学教授。
 いい人なんですけど、今日の趣旨は、
 「インフルエンザでワクチンがどうのといっているけど、本当に大切なのは免疫力だよ。それには食生活が大切だからみんなよく食べなさい」というものです。
 と翻訳するとバカみたいでしょ。
 でも、ほんと。言ってる内容もほんと。
 
 菌やウイルスが取り付いた人間が、発症するのは、取り付き量とその人間の処理量の問題です。
 1個の細菌等で発症する病気というのは、私も聞いたことがない。最強で2,3個。
 日本脳炎なんざ、千人が1匹の蚊にたくさんのウイルスを注入されたとして、1人発症するだけ。他の人たちは、免疫を得て何も知らずに生きていく、という、40過ぎのあなた、あなたもその一人です。
 
 ま、それはいいんだけど、わざわざ、それを今いったところでなによ、って話で。
 
 本人、一時期、世界中の感染症の撲滅を考え続けた医者だから、このインフルエンザのバカ騒ぎが我慢ならないんですよね。
 でも、じゃあなんて世間に言うんだ。いいや、そのまんま、ぶつけたれ(「たれ」じゃないか。会津人だそうです)。内容はオレの専門分野だから批判なんてさせないぞ。てなもんでしょう。
 
 で、こうゆうイデオロギーの闘いは(大げさか)、ほんとのことをいってもしょうがない。
 実際に病気にかかるのは個人であるわたしです、ってわたしゃかかる気なんかないから、若い派遣労働者Aくんです。
 そんなA君。てやんでえ、栄養がどうのなんていわれてどうしろと。飯のことなんかこれ以上考えてられるか、ということが、わかんねえよな、医者には。
 星先生は、それも頭ではわかっているのだけれど(もともと飯の食えない後進国医療も専門領域)、だから、留学生や労働移民のことも念頭に正論を言っているのでしょうが、でも、これじゃ言いっぱなしだあね。提言というのは誰を味方につけるか、選択しとかなきゃね。
 
1 ほんとに栄養問題なら、慈善的な人、社会福祉政策者に言わなきゃね。ストレスをなくせ、最低賃金を上げろ。留学生は、卵ご飯で生きてるぞ。
2 とにかくインフル対策が我慢できないのなら、もういいかげん嫌気がさした行政担当者、企業主あてに、免疫なんざほっといてもつく、ということを強調する。
3 ほんとは子供が心配なら、って、そりゃいっても無駄だぜ。

 とゆうふうに、提言というのは、相手を見出すことで意味を持つのです。
 相手のある提言は、その相手ではない人間にとっても、意味が見出せるのです。人間バカじゃないからね。他人の身になれるの。
 
 そうでないことは、結局、論文にすぎないんだよね。
 
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私的所有と私有財産

2009-10-03 21:53:06 | 上部構造論
こんばんは

 今日は十五夜、月が中空にまんまるく照っています。
 珍しいですね。いつも曇ってるのに。
 
 わたしなど、二度とあんな子供時代を送りたくありませんが、それでも、お月見の日、曇っていようがなんだろうが、縁側に白玉団子や里イモをお供えしたのは(数少ない)楽しい思い出です。
 
 というわけで、私的所有と私有財産。
 というわけで、というのは、あんな子供時代にした元凶の祖父というのが熊本生まれで、時の帝国大学にいくために、郷里の皆さんから学費を貰って旧制高校へ入り上京したという。
 今日は泉鏡花の本を読んでてそれを思い出したところで。鏡花先生、金もないのに18歳で上京して1年、他人の金を頼って暮らし続けたという。
 そのうえ、(本人みよりがなく)従姉が自分のかんざしを売って5円という大金の為替を送ってやったら、こんな端た金じゃあ積もった借金を返せないとかいって為替証書を破っちまったとか。呆れ果てたガキだ。

 で、本題。
 社会科学などやりだしますと、教授や教科書で「所有と財産は同じ言葉だ」などといわれます。propertyとかproprieteとかいう言葉で、西欧じゃ同じだそうでね。
 まあ、西洋かぶれの大学職業者がなに言おうと市井の人間には知ったことではないが、そりゃ違うだろう、ということです。
 日本語では「所有」は、その状態を指すものであり、「財産」はその持てる現物を指すでしょ。
 さて、じゃあ、その現物は、誰のものか、ということでして。
 西欧の中産以上個人孤立生活者は別として、資本主義以前の私的所有制度には、私的所有の確固たる規範=共同体法はあったが、財産権たる債権法は限定的にしかなかった、ということです。
 限定的といえば聞こえはいいが、はっきし言えばそんな法などなかった。あったのは「カネ」を巡る単なる借金制度であって、それさえも、チャンスがあればチャラに出来た、ということは中学校の歴史で「徳政令」として習ったとおりです。
 ついでにいうと。昭和天皇が死んだとき、徳政令が出たって知ってますか?
 なんでも破産者のごとき債務負担者の債務をチャラにしてやったそうです。わたしゃ知りませんでしたが。借金のある人も生きていれば、そのうちいいことがありますよ。
 
 ま、そんなこんなで、いいたいことは、よく世界的周辺国での、「来た者はもてなし、しかし、持てる者は全部吐き出せ」、という状況についてとやかく言われますが、そんなことは日本でも当たり前であったこと。共同性があるところでは、絶対的所有権はあれど、かといって、その財産の排外権は限定的だったのです。
 
 でさ、日本もカネカネ、返せだの戻せだの、高いの安いの、そいつはオレの金だ、触わんじゃねえだのは、ごく特殊な歴史的一瞬だということでね。実は、共同性の高いアジア人民としてはおかしな話なの。右翼民族主義者なら「カネがある奴は、偉そうにしないで人民にカネだせ」というはずのところでね。そんな右翼がいないこと自体、ウヨは掛け声ばかりのバカだ、ということでね。あ、バカじゃないかヤクザか。
 まあどうでもいいけど、そんなふうに私的所有は資本主義の基礎ではあるが、それは結果にしか過ぎない、ということでもあるのです。
 資本主義では、それ以前の社会と同じく(この同じくというところが、学問的には重要なところです)、私的所有権さえ絶対であればいい。それ以後の私的財産現象は、カネの亡者となった人間共の上部構造的現象だ、というのが歴史的事実です。
 
 なんてお話でした。 
 

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正義とは

2008-01-14 16:10:38 | 上部構造論
 昨日は、休みが続くので難しそうな本でも読めそうだと図書館の社会学コーナーへ。(いつもは気晴らしの本しか探さないのですが)
 ふとみると「希望格差社会」なんて本がある。「希望」という言葉に反応してぺラッと見てつまんなそうだったけど、隣の同じ著者の本へ。こちらにも中に「希望」という文字があり、さらに、「以前は機能していた学校制度のパイプラインから漏れが生じたのがフリーターだ」なんて趣旨が書いてある。
 『そんなことがあるもんか、そんなものを「漏れ」と呼ぶなら昔から漏れっぱなしさ。なんだね、昔は単純労働者はいなかったのかね、小零細企業は終身雇用だったのかね。この人はいったいどんな学校制度が好きだというんだい、帝大と高等小学校の2通りかね』 と思いながら週刊誌を借りる感じで借りてきました。

 彼によると、努力が報われる想定がつくということが希望があることなのだそうで。その反対語は努力が報われない、ということになります。端的に言えば、一生懸命働けば、高収入が得られるというのが希望のある形態なのだと。
 そうじゃないでしょ。
 そんなもん、一般論にするなよ。
 (だいたい、このおじさんによればある人の給料が高いのは「生産性が高い」仕事だからなんですって。東京学芸大学教授の仕事は、東京学芸大学非常勤講師より生産性が高いのですぞ。なんだね、センセは何を生産してるつもりなのだ。米1石でも作ったのかい? 社会学史でよりよく教えられるから、週にかけもち10コマ教えている非常勤講師の4倍も給料をもらえるのかな?
 要するに、「生産性が高い」というのは「そいつにカネを出すやつがいる」の翻訳語なんですけどね。似てるからっていうだけでくっつけちゃ、「理論」の名が泣くわね。)
 まずは、一般論でいうと、報われるのは努力じゃなくていい、人は行為の将来が手に入れば報われる。「行為も努力でしょ」と呼ぶならそれでもいいが、そこで言ってる努力は、何ヶ月も何年もかけてする行為じゃないからね。一般論では、「恥ずかしいのを我慢してデートを申し込んでオッケーが取れれば」報われるのですよ。明日のデートを申し込めば、相手は受けて「くれるかもしれない」、それが希望でしょ。
 なに、努力が報われるって。なに、一生懸命働けば「高収入」が得られるって。
 俺らそんな風に生きていない。
 給料を高くする努力と、希望とどういう関係があるんだ。給料が安いのは、飯以外に食えないし、携帯以外に遊べないから絶望なだけでしょ。なに、給料を高くする努力って。努力は毎日してるじゃないか。毎日の仕事そのものが努力なんだぞ。違うか。それ以上何をしろというんだ。今と同じに毎日一生懸命働くから普通に食わせろっていってるだけでしょ。 
 いったい「高収入があたしの希望」なんてやつは、勝手にしろというもんだ。普通の収入をくれ。それに「希望」だなんて尾ひれをつけんじゃないよ。希望は希望さ。いつか人並みに暮らしたい。家族なんてあるのもいいじゃん。ゴルフって面白いのかな。それと「一生懸命努力すれば、高収入が得られる」と結びつけんな。

 でですね。不愉快なのが、この努力の経済語換算テーゼ。苅谷剛彦については前に著書でいいました。なんでいちいち人間の行為をカネに換算するわけ? そんなんだから希望がなくなるっていうのがわかんないのかな。
 生産性がどうのって、いってることは「単純労働者にはカネを払わないよ」っていうことだけなの。
 なら、そのとき、ある人間、ある若年労働者は「単純労働に仕方がなくついている人間」ってだけじゃん。
 なのにこの先生に言わせると、彼は「生産性が低い人間」なのだ。
 あんだよ、それって人格の否定じゃん。わけわかんないよね。あなた、弱いもんの味方のつもりでしょ。
 「労働者の生産性が低い」んじゃない。「単純労働で代替の簡単な職種についている」だけなのだ。それは社会の問題なのだ。代替を困難にするのが国家権力の役目なのだが、誰もそれを指摘しないばかりか、「派遣業法」だ。
 お前も私も同じことを言っている? じゃあ、同じように言い換えればいい。でも言い換えやしない。そこが評論家というものです。
 
 というわけで、評論事業とは何か。
 端的に言うと、世の中の正義にのっとって、自分の言いたい言説を広めることです。
 「正義」というのは、発言者の中で「この内容は、権力に保障されているぞ」という確信のことです。
 国家の法であれ、神であれ、社会が承認しているはずの道徳であれ、この内容が権力に承認されていなければならない。発言者としては、その権力や強制力の存在を認知しているということです。
 まあ、人間の場合、こういうのは「認知」というより「感知」に近そうですね。
 言説は何でもよいのです。しかし、それを乗せるワクというものがある。ま、土俵ですね。同じ土俵であれば考慮してやるよ、というワクのうち、権力から提供されたものが「正義」です。

 権力の源泉は、自分たちの制約主体ということですね。これにはいくつかあります。
 
 まず国家的中央武力権力。「的」というのは国家とつるんでる経済権力も含む、ということで。
(隈の体系では、いわゆる国家権力が武力を条件としていることを際立たせるために「武力権力」と呼ぶことが多いです)
 これは政府権力を引き回す代議士やその取り巻き、あるいは経済組織高官や評論家、さらに経済権力を引き回す経済組織の配下たちとさらにその取り巻きの大企業予備軍、みたいなところですね。

 ついで、共同体内的権力。
 発達した資本主義では地縁的な共同体はありませんが、社会組織の内部にはたくさんの共同性がある。食品製造会社で、「これ店頭に並ぶ頃には消費期限切れ、、、あ、ラベル変えちゃうんですか、だめですよ」なんていえない。原子力研究所で、「この新発電所の建築設計図のいいかげんさはなんですか。これじゃいつかパイプ崩れちゃいますよ」とはいえない。それは昔、厚生省で、「3年で電算化なんて無理ですよ、どんだけデータがあると思ってんですか。閣議決定だ、って、、、そんな無茶な。大体でよけりゃやれますが」といったのと同じです。別に社会保険庁の肩を持つ気はありませんけどね。まあ日頃の行いが悪いと誰も助けてくれませんな。
 
 次に、昔でいう宗教組織というのがありますね。
 これは2つにわかれて、第1に、権力上の知の操作。
 つまり、権力の維持には知識を操作しなければならず、この操作人が少なければ少ないほど、この権力は強くなるわけで。
 たとえば帝国大学が日本で1つの時は、卒業生は「末は博士か大臣か」でした。まあ、そうなると帝国大学以外にも知識の源泉は必要で、知的操作に関わる人間、その他の学士や学生崩れや文筆業は、権力者モドキと認定されます。
 第2に、これら3つの権力の伝達。
 知は、権力の伝達に伴う賞賛≒「教養」として、大衆がこれを知り活用することに、賞賛を内在させます。
 
 最後に、宗教的認知そのもの。
 まあ、信仰というか倫理的確信というか。私のような裸一貫ではこれ以外にありませんな。私の観念が正義であることには何の根拠もない。どんな権力者もお前が正しいとはいわないし、ウチの社長もいうわけがない。根拠ゼロ。でも「これが正義だ、正義は勝つ」といえるのは、理論上、神がいるんだ、ってことになります。だからって、別に信仰であることに何の後ろめたさはありませんね。ひがみぐらいはあるかな。
 
 ともかくも、評論家というのは、これらのどれかに乗る必要がある。そうでなければ、論は売れない。売れない論を説くのは評論家ではない。格差の是正を主張するときに、二昔前までの評論家は必ず「労働組合の組織化」も挙げたものです。「単純労働でも労働者の代替が容易でなければ労働条件は低くしにくい」ことは教授ともなればだれでも知っている。ちょっとぐらい言ったら? 今日の現実には空語に近くても、やってる人は力づくんですよね。
 でも無理でしょうね。それは 『同じ生産性なのに、あら不思議、給料が上がる』 ってことだから。センセの論理が成り立たない。
 って、あーあ、私の正義は勝つかなあ、、、
 

(注)山田昌弘「新平等社会」文芸春秋、2006.
 それにしても山田の背景議論はひどい。「では、なぜ生活水準の格差が生じるか。ここでは、家族や国家、そして、資本所有などの影響を除いて、純粋に自由な経済活動の格差によって、生活水準の格差が生まれるメカニズムを示そう」(→イチローの所得が高いのは、イチローが多くの人を喜ばせるからだ)
 って、資本所有の影響を除いて何がいえるんだね? イチローの所得が高いのを明らかにしてどうするんだね?
 まあ、社会学者だから正直にちゃんと前提を書いているところが良いけれど。社会学者の8割は人がいい。それはいいが、読んだ若い人たちは、そんな前提など目に入らない。「ああ、大銀行のサラリーマンの給料がいいのは生産性が高いからなのね。あたしは信用組合の派遣社員だから生産性が低いのよね。しょうがないわ。」
 そうなんですか? 山田先生?
 まったく。マルクス系経済学者は、ジニ係数などを使う現代社会に少しでも知見がある人なら一目でバグが割れてしまう危うい議論(橘木(マル経ではないね)))などしていないで、基本的なところで議論の最低限を作って欲しいものだ。

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右や左の擬似思想

2007-12-31 18:37:33 | 上部構造論
 というわけで、こういう主義を長年やっていますと、左翼だのウヨクだのという話がちゃんちゃらおかしくなります。
 なあにが左翼だあね。たまたまの、「今だけ左翼」のくせに。
 あるいは、「ウヨク」とかって、要するに昔の新サヨクじゃんか。
 ま、長年生きると、若い人が思う以上に世間のことがわかるものです。

 だいたい、被支配者というのは、権力者が嫌いです。偉そうに行為を束縛されて楽しい人間はいやしない。
 反面、反権力が好きなはずで、そこで昔ならサヨクなわけですが、このおめでたい現代日本では、まず、お年寄りが脱落する。40過ぎれば大部分の人間はそこそこの権力者ですわな。おまけに、どっちに転んでも大部分の人間は食っていける。
 といって権力のない若者が喜び得る反権力の対象とは、自己の生理性に関わらないことを条件に、自己の自由を束縛しようとする試みですね。これは、つまり、空語な道徳のお題目だ。今、空語でも道徳を持っているのは、大昔サヨクの石原慎太郎(知らないだろうね)とか、同じくそのままサヨクの高齢者だけだからね。どんな勝手なことを言うのも、反権力さ。
 普通選挙制下の権力者というのは、基本的に大衆を取り込もうとするわけですが、どうすればよいかというと、反体制思想の価値を剥奪していけばいい。生理的な課題(貧乏で食えない)とかいうのは、どちらにせよ、騙し切ったほうが勝ちなので、それ以外のところで政府に歯向かわれると困る。それには、「反体制の思想なんか君たちの将来にはなんの関係もないよ、ウルサイだけじゃん」といっておけば足りる。実際、現状そうだし。なんの思想構築の努力もいらない。
 
 では「君たちに関係のある将来」がウヨク側にあるかといえばちゃんとある。
 人が他人の行為に思うのは、その他人の行為がもたらすはずの将来のことです。
 これがうまく成立すれば、自分の利害に関係がない限りにおいて、「あいつはうまくやったな」、「あいつはよくやったな」ということになります。
 うらやましい、とか自分もああだったらいい、とかいうことですね。

 つまり、人は自分の生理的な次の将来に関知しない他人の行為に関しては、別に彼の価値観にそぐうかそぐわないかに関わらず、想定される将来を体現するその人間の行為を、妥当なものとして追認します。
 ところで、そういう他人て、政治家の場合は、自分もなりうる同一の階梯上の行為者であれば、権力者でよいのですね。
 「同一の階梯(ハシゴのこと)」と呼んだのは、地位の差はあっても自分も夢の中ではそうなりうる、という社会的状況の中の人間のことです。
 たとえば、ヒトラーに生理的に関わらない「ゲルマン人」右翼Aは、どうせ彼の今晩のパンに関わらないヒトラーについては、ヒトラーが独裁者であればあるだけ、彼の右翼的心情を体現しうる他人として、ヒトラーを支持するでしょう。
 同様に、ヒトラーがどうだろうと生理的に生きていられる「ゲルマン人」左翼Bは、彼の組織上の人事にさえ手を出さない限り、自分がそうできたらいいなあと思う「彼が理解しうる右翼ヒトラー」の「思い通り」の施策をするヒトラーに好意を持ちます。

 簡単に言うと、
・やるだろうと思うことは本当にやる
  という好ましさ。
・やって欲しくないだろうがやる(あきらめてるさ)
  という「敵ながらあっぱれ」
  
 というわけで、ま、食うのに関係なければそんなもんですよ。支配権力に対抗する権力がない、ということはありますが、それは今日の趣旨ではないので。 
 若者ウヨクというのもこんなもんです。
 
 もひとつ言っておくと、逆に、同一の将来を作りうべき者の逡巡なり妥協は、裏切りでしかありません。昔はこれを「近親憎悪」といいました。ちょっと流行ったんですが、あんまり本質をつかんでないので好ましくないコトバです。
 簡単にいうと、
・やるんだろ、てめえ。なんだ? やらないだ? ふざけんな!
 ってことですね。
 
 てなわけで、ウヨクとか左翼とかということに対応しているヒマがあったら、まともな将来の青写真を提出し、妥協なく行動したらいいんです。曲りなりには青写真を持つ共産党が「自分だけが正しい」という立場を外したら怖いですよ、、、こわかねえか。そんときはつぶれるかね。すごくピントがずれてるなりに、(理論はダメでも)政策では正しいこともいうんだから、もっと正直になったらいいのにね。でも対抗権力にはなれそうもないけど。
 
 などなど。本年も終わり。
 例年、同じ会社の製品でゴマメを作るんですが、今年はカラ炒りしたらゴマメからクサヤの匂いが。
 ずっと炒ってもフニャフニャやわらかく、、、なんだ、腐ってんじゃん!
 いいかげんにせいよ、土佐食品。なさけねえなあ、今年はやっぱり「偽」でした。
 来年は「義」だといいなあ、、、正義は勝つ。以上、おじさんでした。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

(注)階梯が支配者層とは異なる被支配者の場合、具体的には「奴隷」のような場合、支配者がどうだろうが彼には何の関係もない。独裁者が大衆社会で生まれるというテーゼはこの同じ点に根拠がある。独裁者は、大衆社会、ないし奴隷制的民主主義社会で生まれるのだ。ただの弱肉強食の世界では、偉そうにしてもすぐに食われてしまうからね。
 では奴隷は? 奴隷にとって、頼れるのは神だけだ。 第三者が、宗教をアヘンだとかいってけなすのはよしたほうがいい。

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アナーキズムと思想

2007-12-24 10:34:44 | 上部構造論
 今日は昨日の続きです。
 テーマは、「道徳には諸権力以外の伝達根拠はない。では、なんの権力もなしに良い人間と悪い人間を言い分ける根拠は何か。」

 私の立場はアナーキズムです。
 アナーキズムは「無政府主義」と訳しますが、もとはといえば「無支配者主義」ということ(だそう)です。
 誰であれ、私を、そして私と同等なあなたを支配することを許さない。という主義です。
 人は個人として自由でなければならない。
 個人は、個人として自分で将来を決めて、しかも、どんな個人でも生きていかなければならない。
 この「しかも」があるかどうかが本物の絶対自由主義者か、ただの資本家の宣伝マンの自由主義者かの違いです。
 資本家の下僕達は自分だけが生きていけばいい。それもいいでしょう。ただ、そういう諸君は革命で殺されても文句をいわないことです。そういうのを「お互いさま」といいます。人が生きる原理はとてもシンプルなことなのです。

 さて、思想とは他者の行為変更の努力のことです。国家の思想、宗教の思想とは、国家や神の名のもとに、他者へ行為を強制することを意味します。他者とは個人のことですから、国家体制下の思想はアナーキズムの世界には存在しえません。
 ではアナーキズムでは、何をしてもいいか。

 この「いいか」、という問いが存在すること自体おかしい。
 すべては、自分の心以外にとっては許されている。自分がいいというならいい。
 しかし、自分に悪い行為は自分には許されていない。
 アナーキストの他者への思想は、何も難しいことではない。「私はこうするのがいいと思うからこうしたら」です。
 友達の間では当たり前ですね。
 この当たり前さがアナーキズムです。
 国家が存在するのではなく、友達が存在する。
 私は私の倫理の名において、良いと思うものには良いという。自分が良いと思うのにはとりあえず根拠があるから、友達にも奨める。
 「そんなんで社会が持つか?」
 社会は思想で持っているわけではない、ということを知っていただかなくてはならない。
 思想の前に、友達が存在しうる社会でなければならない、ということです。

 「そんなんで真理が伝わるのか?」
 行為には真理なんかない。であれば、他者へ伝える思想の存在形態なんて、推奨という以外あるわけはないのです。

 個人は絶対です。どんなやくざだって人殺しだって、彼らは彼なりに生きている。ぬくぬく生きている人間が偉そうに説教をいえる理論的根拠などない。彼らには、社会的に罰する権力という根拠があるのみです。
 絶対自由の個人の相互世界には、かえって絶対性はありません。
 個人が絶対であれば、思想は真理ではなく推奨にしか過ぎない。
 問題はそれを可能にする社会です。だから、アナーキズムは社会運動なのです。


(注)真理の根拠などない、といったが、神様が好きな人でもそれは同じことだ。どんな教義も、たかだか人間による翻訳だから。
 (もっとも、とりあえず世間の人が伝える神様は、みんな私の倫理観とは相容れない。それは私の倫理観に劣るということになるが、人間より劣る神など神ではない。まあ、それは伝える人間のせいだということにしておこう。)
 宗教を信じるのも選択だから、神がいる、といってもいいのだが、それは自分が真理だ、ということと同じだ。そこでだ、神ならぬ人間に、「私の中の神がほんものだといえるか」、いいやいえない。したがって、神がいる場合でも、それが人間が伝える不十分な神ではなく崇高な神がいるということであれば、やはり他人には行為を真理だとはいえない。教義の歴史上さんざん誤りを重ねてきたカソリックの神父たちは、当然納得してくれると思うが。歴史を持たない自分だけのプロテスタントの牧師には、唯我独尊でいいっぱなしの責任不在だから通じないのだろう。人間、自分だけが正しいと思ってはいけない。


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人間性という道徳

2007-12-23 15:38:26 | 上部構造論
 先週、新聞の投書欄に、「人間性喪失こそ戦争の本質である (から、してはいけない)」という話が載っていました。
 話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
 なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。

 別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
 そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。

 ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
 何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
 そら、ああた、宗教ですぜ。
 人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
 戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
 それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
 人間なんてそんなもんですぜ。 
 「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。

 で、ですね。これは前フリ。
 なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
 なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
 
 思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
 でも日本は関係ないもんね。
 
 さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人非人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
 これはなんだ?
 結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
 武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
 収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
 
 同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
 道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
 その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
 その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
 そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
 
 というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
 まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
 
 この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
 「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
 なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
 
 でしょ。
 そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
 
 これはブログ表題の関係で明日。


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文化と人間

2007-12-15 11:18:13 | 上部構造論
 先々週のことでブログっぽくないですが、書くのに時間がかかって。で、横浜市が野毛山動物園の名称を5千万で売りたい、という話。まったく小役人の点数稼ぎそのもの。
 野毛山動物園は横浜の上野動物園のようなところです。ひい爺さん婆さんの時代から神奈川県や東京城南地域の子供や若者に親しまれてきた、入場無料の動物園です。「今日は野毛山にいったの」「そうかい、野毛山は爺ちゃんも若い頃いったよ。こんどは爺ちゃんが連れてってやるぞ」。その名前が1企業に売られる。
 名前は文化です。横浜市の一般会計予算は1,3000億。5千万の2万6千倍です。そんなはした金で文化を売り渡していいのか。
 歳出削減策など山のようにあるのに。(議員も市長も削減すると困るものばかりなだけ)
 
 というわけで、文化とカネの話。
 
 隈の理論には文化がでてきません。「文化」が指す事象は、規制や価値意識や情報メディア以外は趣味の問題で、社会を変えようとする行為には関わらないから。せいぜい「貧窮」の説明くらいなだけ。
 でも、だからといって大事でないわけではない。人間が生きていくにはコーヒーブレイクも必要です。
 
 いわゆる「文化」とは、状況の共有のことです。
 人間が生きて行為する際に認識する外界の情報のうちで、他の関係する人間と共有していることに意味を持つもの。
 人間の創作物も風景も、これを共有し共に行為する将来の材料として、意味を持ちます。
 農村の文化とは、ある地域で、たとえば食事をする際の行動様式と、これを実現するために共通して使用する道具を指します。
 ふるさとの森は子供のとき生きたすべての人間との関わり合いのサインとして意義を持っています。これを『風景としての文化』と評されれば、「ああそうだな」と思うわけです。
 東京駅の赤レンガは、九州から出たことのない人間にとっても、雑誌で読み、自分と将来を同じくする「日本人」の歴史の共有物として、「そう感ずる者には」文化となります。
 しかし、共通性をもたない、表通りに昨日建ったコンクリートのビルは、評論家達が共有する状況外の人間には文化などではありません。(『建築の流れを評する生活』を共有する評論家達にとっては、『革新的な文化の変容があった』ことになるかもしれません)

 一方、金には『共有』という特性がありません。
 カネはカネを通じた将来の個人的の達成手段でしかないのです。今日もらったバイト代は、若者個人にとって、夕飯の牛丼大盛りという将来をもたらしてくれる以外のものではありません。(ただし、牛丼ではなく、彼女にあげるクリスマスプレゼントの一部にもできる、という個人にとっての選択的な楽しさがあります) 
 人はカネを欲しがる。作られた行為の将来が手に入るから。でも、その行為の将来自体には共有がない。カネが設定するものは、実は、文化が設定した個人の脳裏に住み込ませるただの幻想にすぎません。若者は別に炊飯器で米を買って、卵をかけて食べてもよい。しかし、それではみじめだ。でもみじめと思わない文化はある。カネと文化、どっちが人間にとって重要か。文化です。
 カネが設定できるものは、商品という幻想。人は手の中に残った金貨と失った人間関係を秤にかける。
 そして嘆く。

 これが人間の類的本質というやつです。
 隈の理論では、行為の原理は生物の原理ですが、行為の原則はかなり類的本質に近い。この文化という状況の共有は、それ以上に、人間が作り出していくという、ヒト固有の本質です。

 なお、類的といっても、じゃあ人類みな兄弟、国家のために命を差し出せ、ということではありません。
 「行為は存在するが社会は存在しない」、という基本を忘れると、常に人は支配者、すなわち相互行為の強制者のいうがままになってしまいます。そうではない。社会など存在しないのです。もちろん国家など支配者が作った幻想です。幻想であるくせに歯向かうと痛い目に会いますが。
 一方、行為は存在する。昨日も今日も存在し、次の一瞬も存在する。こうして人は行為の束になります。
 ところで、現在の世界では、人の行為はヒトとヒトとの行為、相互行為の束です。ヒトはまず親の存在をなくせない。ついで、どちらかといえば異性が傍にいたほうがいいように身体が構成されている。
 ヒトは、他人と生きてきた知識で、次の瞬間も他人と生きるように将来をセットする。だから、文化の共有がなくなったときに、人は自分の喪失、つまり、次に何かをしようとする自分を見失う。
 そこを間違ってはいけません。
 
 ここからは思考実験です。
 人は一人でも生きていけるでしょう。あるいはそれはつまらない生かもしれないが、経験が教えるところによると、人によっては面白くすごすこともできる。
 そして、こちらは誰でも理解できるように、気の合った数人が、生理的消費物に囲まれていれば、人間は王侯貴族よりも幸せに暮らすことができる。

 それを抑えておいて、さて、人は気の合っていない人たちといやいや暮らすこともある。
 しかし、共有する文化というものは、たとえばキャッツアイ・ギターというものは、あるいはニコンFというものは、人の生を楽しく、豊かにできるものなのです。
 誰もギターを知らない世界、誰も銀塩フィルムを知らない世界で、ギターと旧式カメラしか知らないおじさんは幸せで豊かに暮らせるか?? それはむりなことです。彼は新しい、他人も知っている文化を共有しようとしなければならない。
 もっとも私は他にも趣味がありますが。
 
 と、ゆうふうに、文化をカネで売りとばすんじゃねえよ。あほんだら。それは自分を売り渡して消滅させるのと同じことだよ。
 

(注1)横浜市の住民だったことはないが、私も子供も青春や児童期に楽しませてもらった。

(注2)などなど。このように怒ってはみたものの、実は野毛山動物園の動物たちの多くは有料動物園ズーラシアに、群れ・家族から生き別れにされ、野毛山は昔を知る身には廃墟寸前のありさまのようだ。
 だから小役人の点数稼ぎだというんだ。1兆の予算があって、やることは名前の付け替えだけかよ。
 どのくらい廃墟か行ってないから知らないが、商業幻想ではない港ヨコハマの伝統の保養地を作れよ。

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ナショナリズム

2007-12-02 18:42:26 | 上部構造論
 間を空けて改めて見ると、このブログも読みにくいですねえ。本とどっちがひどいかねえ。
 それでもせっかく読んでくれる人がいるとすると、何かためにならないといけません。
 今回は「ナショナリズム」という言葉をめぐる混乱について。

 世間のナショナリズム論議で議論にもならない理由が、まずコトバの混乱です。
 
 愛国心が好きな人は、「『ナショナリズム』は愛国心で、これが分からないのは共産主義者だからだ」、という。
 ナショナリズムが嫌いな人も、「『ナショナリズムは誰にでもある。これを政治的に利用するからいけない』」とか展開する。
 共産主義者でも、日本共産党は、「間違ったナショナリズム(間違ってないナショナリズムがある)」「真の愛国の心で」とかいうんじゃないですか。

 ちゃうちゃう。
 人が何を思っていようがどんな行動をしようが、そんなものはナショナリズムではない。思うのは勝手さ。日の丸の旗を部屋に飾って毎朝三拝するのも勝手。
 そうじゃない。
 ナショナリズムは「イズム」、思想なんだから悪いのですよ。「国のためにお前が死ね」と「言うから」悪いのですよ。
 これを全員が隠している。いえるのは私のような本物の個人主義者だけ。
 愛国主義者の爺さんも、よもや自分が中国と戦争するなどと思ってやしない。するのは他の誰か。
 日本共産党も「愛国のために革命をしろ(二段階戦略の第1段)」といいたいところを他人にはいわないだけ。
 
 「いやそんなことはない。どんな国民も愛国心を持っている。お前にはないのか非国民」って。
 うるせえなあ、なんだよ、国民て。俺が生まれた国を好きだろうがどうだろうが、お前に言われる筋合いはないや。
 と、いいたいところですが、それも単刀直入すぎる。
 
 もちろん、なんにでも根拠はあるんで、愛国心もナショナリズムも空中から生まれはしない。
 人が生活のために集まると次のように行為に道筋ができます。
 まずは、生理的な消費物資を共同して作る関係から生じた必要による、共同性を守る規制ができます。この時期、用水の水は順番に使うとか、食えなくなったら最低限助け合え、とか。そして、この規制を守ることへは、賞賛・優越が与えられます。
 ここにひとつのまとまりができる。そして、このまとまりができた後は、その共同体が持つその後の教育機能によって子供の頃から賞賛がまとまりを強化します。家の手伝いをしろよ。この時期、用水の掃除は村のために子供がしろよ。

 次に、長い歴史のうちに武力による支配が成立するきっかけが生じます。
 自分の村にはもう食い物がない。しかし、山向こうの村には食い物があるように思える。
 武力による支配が成立するまでには、本来、本末転倒な、生き残るために死んだりする戦いに勝利するという、いくつもの生理的必要をめぐる闘争が必要ではあります。例外では、支配に向かう者たちに圧倒的な武力の優位にあるという場合はありますが。
 長いといっても、アメリカでもこの2,3百年で終わってしまう短さです。
 ともかくも、消費上の交換の地域的範囲において、武力的にこれを掌握し、支配層の消費を確保することとなります。これが国家であり、支配層への階梯が、可能性としては承認されている範囲の人々が国民です。奴隷はアメリカ国民ではありません。奴隷は法律的に「モノ」です。インディアンはモノではないようですが、当初、アメリカ国民でもないですね。
 
 さて、ともかくも成立した武力的掌握において、支配権力は常に武力を行使し続けるわけではありません。
 武力的支配層は、消費を確保できれば、生理的安寧を確保したがります。そのための支配ですから。すなわち、食っちゃ寝で日々を暮らす方向を目指します。
 この折に発生するのが、まずは「取り決め」です。
 取り決めは、それによって複数以上の人間を巻き込むことにより、武力の中の肉体力をさらに強化することができることになります。これはある場合には法であり、ある場合には共同体的規制です。

 なかなかナショナリズムに行きつきませんね。まあ、ここからですね。

【第1の場合】
 ついで、武力をあるひとつの世代を超えて継続させる場合は、支配の中に賞賛の繰り入れが発生します。
 今の支配者はもちろん偉いが、支配者の前の支配者はもっと偉い、というわけですね。こうした支配者の崇拝体制は、支配者のが行為する人格であることから、原始時代のように自然環境への迷信的依頼がある場合には、常に交換可能です。
 すなわち、宗教の支配思想化が生じます。

【第2の場合】
 武力的支配は、支配者の行為を媒介として、行為の共同性を押し延ばすことができます。
 自分は小さな村に住んで自給自足で生活している村長なだけであっても、支配者になれるかもしれない、と思える人間、=支配階梯の中にいる人間にあっては、支配者が欲しいと思っている毛皮のコートを確保することも自分の次の行為の目標となりうる、と思います。
 
 ちょっと横道にそれますと、人は消費をめぐって特定の生産関係に陥らされるわけです。
 生理的資源をめぐる関係(経済的関係)のうち、消費が個人行為にとって決定的である一方、生産関係は行為の共同性にとって、決定的です。
 消費においては、行為は他者の行為を自己の行為とすることはありません。他人の行為が問題なのは、せいぜいが食卓マナーくらいなものです。
 一方、生産関係においては、他者の行為によって自己の消費物資の獲得が決定されることになりますから、他者の行為を自己の行為に組み込む必要があります。そして、支配国家では生産関係と支配者の武力がセットになっているのです。
 村長が、とぼけて支配者の毛皮のコートへの欲望を見ないフリをすると、年貢で身ぐるみ剥がされ、あるいは引っ立てられて殺されたりします。
 一方では、支配層は、村長以上のこれに連なる支配階梯について、毛皮のコートを生産する他国について、「われわれと同じではない」共同性を事実認知として、作り上げます。
 他方、「われわれは同じだ」という神話も創ることになります。
 まあ、この神話は、支配階梯を同じくしない被支配者については不要ですけどね。逆にいうと、支配階梯が一致してくる場合には、つまり曲りなりに教育制度が整い、これに被支配民族も乗っかれるような時代になると、この神話を拡大修正してくることになります。
 
 さて、このように確立した国家においては、国家対他国家(あるいは他民族)の行動への国民を動員する必要がでますので、国家と宗教に関する教育を必然化します。
 ここで、国家というものは、ただの単語でサインに過ぎません。そんなものはないんですから。ないのですが、国家をめぐる行為として学校や宗教組織が押し付けてくる行為のすべては、個人個人の行為者に備えられていく行為の道筋です。これはいやでもなんでも現実にある。自分というものは、こうした行為の道筋の塊ですから。
 さらに支配が宗教を媒介手段として選んだ場合は、神は、ただの単語やサインではなく「行為者」なので、神による支配を招来することになります。

 でも、まだこれはナショナル「イズム」ではない。ただの行為規範です。
 「愛国心」を持った爺さんや婆さんがそのままナショナリストなわけではない。
 
 ナショナリズムとは、こうした過程を社会で貫徹させようとする運動のことです。それが「イズム」としてのナショナリズムです。だから、それは支配者の運動なのです。だからそれは戦争の温床なのです。だからそれは被支配者をも含んで良い世の中を作ろうとする勢力であれば、否定するのが当然の思想なのです。



【注1】
 一つのポイントは、自称確立した国家であっても内部の共同体と支配の階梯ができていなければ、ナショナリズムをめぐる過程からは外れるということです。
 この場合、内部の共同体がクニとなります。共同体というのは、生産関係、つまり生理的利害を共有することで行為の将来と規制を共にする範囲ですね。
 ナショナリズム過程から外れればよいかというと、そんなことはなく、ナショナリストの口車に乗った支配階梯に連なる兵士たちに蹂躙される対象となるわけです。

【注2】
 なお、共同性としては、その他に、宗教教義(や革命思想)のような行為規制を伴う抽象性が形作る人的な集合、要するに宗教セクトではそれ自体に宗派的共同性が生じますし、思春期までの、生活上の行為よりも行為方針の確立が重要な時期においては、青少年は、伝記的人物その他と仮想的な共同性を結ぶことができます。

【注3】
 「自己を管理する倫理」と「他者を支配せんとする思想」との区分とパラレルに、外界においては、「自己環境を保持せんとする愛郷土心」と「支配環境を保持させようとするナショナリズム」とが存在するわけです。
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構造主義

2007-10-28 22:14:18 | 上部構造論
 HP派としては、毎日何が起こっているかというのは問題じゃない、っていうのが基本ですよね。昨日はふろしき残業で大変だった。明日は仕事ホンチャン、大変でないはずはない。
 なんてつまんないことを口に出したくたって、そんなこと書けないじゃん。つまんねし。
 なんつってるのはもっとさみしいね。
 
 というわけで「構造主義」
 
 1ヶ月前に紀伊国屋(書店)で本を買ってきて、ここのところの話題というのは、帰りがけの電車で読んだ本に挙がっているテーマなんですけどね、ってこれがその最後のテーマ。本題はアルチュセールというフランスの社会学者なんですけど。
 
 さて、あるシステムは、武力権力者の生理性と、それ以外の者の生理性の折り合いの中でシステムとなりますが、システムは武力権力者の趣味との折り合いの中で種々の色合いを持ちます。詳しくは隈の著作参照。 
 この色合いの下のシステムについて、構造機能主義と呼ばれるものの出番がきます。システムには構造という、とりあえず変えられないものがあって、それというのもその構造の構成素がそれぞれシステムを支える役割を果たしているからだ、というところですね。 
 そうした見方はある程度役に立つわけで、現日本資本主義体制では、仮に公明党が同数の国会議員を持つ民主党であっても、日本の政治の帰趨は変わらない。この状態を把握するのは、機能という言葉が簡便である、てなもんですわな。
 さてところで、しかし、ある一定の時期に、この下のシステムが空白になり、武力権力者たちの趣味が垣間見られることはある。こういう例外的な事象には構造機能主義は目を瞑ることになる。
 ここにフランス系の構造主義が妥当する事象が垣間見られることとなるわけです。
 社会科学的にはあまり重視されなく、これからも重視なんかされるはずもないハズレ科学。それもまあ、存在の意義はあるという。
 たとえば現代日本の場合、政府施策にバラマキ福祉が生ずるのは、かなりの程度公明党の存在のためで、それを見て、仏教の永年の隠された伝統が社会で構造をなしていてこれを生むのだ、ともっともらしく言うのも赤坂あたりの酒席の話題としては高尚な議論なわけです。たしかに、個人主義者たちの西欧キリスト教では出ない発想には違いはありません。構造機能主義では把握できない現象ではあります。
 
 なんて構造主義を褒めたかに見えるようでも(見えないか)、結局、構造機能主義にしても構造主義にしても、どちらも認識の簡便によい、というに過ぎません。
 本来の主体に即した行動環境を述べるには、トータルに行為の規制要因と行為による働きかけ作用とを述べていくしかない。
 今、構造機能主義等が簡便だといいましたが、行為論的な社会学は、哲学体系や神学体系のような構造機能主義やフランス流構造主義よりは何十倍も理解には簡単なはずです。それが他人の観念の制作物ではなく、私たち個人の行為の表現だからです。間違っていればそれは(私とかの)個別の社会学研究者の誤りに過ぎないことがはっきりしている。
 世の中は複雑ですが、社会科学は、同じ個人の人間の行為の反映を語ればよいだけのこと。なんら複雑なものではないはずです。
 もっとも、自分の趣味と生理性に生きる人間には、この交錯が理解できない。彼らには、趣味の日常のほうが重要だ。
 まあ、我々は、天皇や世襲資本家のことまで考える必要はないのですから問題のないことです。


(注釈1:フランス構造主義とは何か)

 およそ概念は、本来そのために出現した人間の行動から離れるのに従って、自由気まま、なんでもあり、の呈をさらす。
 ソフィストの「矛盾」なるものの半分はそうだ。矛盾でもなんでもないのだが、概念を規定するときに行動から離れるから、現実にはありえないイメージを創出することになる。
 たとえば「コトバとは何か」という問いかけについて、「私があなたにしゃべること」という現実を離れれば離れるほど不思議そのものとなる。いわく「言語が人間を作る」。
 ポスト構造主義なんて人々は、もうすでに「いっちゃってる」状態だ。
 こういう人々を説得する気はないので、若い人たちはこういうのに近づくなよ、という趣旨で話したい。
 これはなんでも同じなので、たとえば「時間」などというコトバがあって、そんなものがあるかといえば、「時間」なんてものは誰も見たことのないものだ。
 そんなものは行為が推移するさまを指すさけの言葉であって、この行為の推移から離れるほど摩訶不思議なものとなる。いわく「タイムマシン」だ。
 「昔に戻りたい」という気持ちまではまともだが、人間の行為のほかに「時間」なる世界があると観念するとその世界の「中で」行為できるかのごときイメージが沸く。
 が、本当は時間なんてありはしない。
 あるのは「原子」(なりのエネルギー形態)が、物質にとって同一の現在の中で、常時存在形式を変えているだけの過程なのだ。
 概念が自立するという、東アジアの言霊観念さえ越えた神がかり的な発想は、ヒマな貴族(=自由市民)のおしゃべりが文化であったイタリア起源のもののような気配はするが、私は西欧人でもクリスチャンでもないので本当のところはよく分からない。ただ、19世紀のフランス詩を思い出せば、フランス的構造主義は、近代フランスの歴史的伝統とは相当相関関係があるような気がする。(ちなみに、ローマ自由市民とは、アラブやドイツ、その他自立社会だと「王様」と表現されるべきかもしれない)。
 もっともソフィストの矛盾にはもう一つ、関係の間の矛盾、というものがある。ある関係を受け入れて表現すると、別の関係を受け入れて表現することについて、矛盾が発生するというわけだ。だが、これは社会の矛盾を正しく伝えるわけで、ある意味よいことだ。それには解決するテーゼを立てればよい。

(注釈2:世界は存在するか)
 
 西欧の300年の知識の伝統では、まずは物事が存在するかどうかを把握したがる。これがギリシア文化以降の貴族の暇つぶしの伝統だ。そんな貴族の伝統を捨てればもう少し賢いことがわかっただろうに、と思うこと久しい。
 存在するとは、本来、行為において考慮の対象になるという状況を指している。
 それが「本当に」存在するかどうか、などというのは神学の問題だ。
 神学がしたければ、野原の里イモでもかじりながら、『この里イモは本当にあるのか、本当はないのになぜ私の腹がいっぱいになるのか』とでも考え続けるがいい。
 しかし、生活者である我々は、他者と米を作らなければならない。他者と共に協働して自動車を作らなければならない。世迷言をいっていたら死んでしまうのだ。
 社会科学とは、そういうポカンとしていれば死んでしまう人間(=貴族ではなくブルジョワ以下個人)のためにあるのだ。しかして、西欧では産業革命以後、ブルジョワ階級の支配階級化に伴ってようやく出現したというわけだ。もちろん、日本はその後塵にあずかったわけで、偉そうに「大日本帝国」などと語れる筋合いのものではない。
 これは日本ナショナリズムを否定する論拠ではないけどね。
 私は是々非々。


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イデオロギーとユートピア

2007-10-07 13:23:37 | 上部構造論
 ミャンマーでは、僧侶らが主導する過去約20年間で最大規模の民主化要求デモが続いているようです。
 って、いつの話だ。今日はそんなものはありません。これは9月26日新聞記事の貼り付け。
 ブログらしく今日の出来事を載せようと思っていたら、注記の事情で時が過ぎていってしまいました。

 話は飛んで、カール・マンハイムという過去の社会学者の用語で、「イデオロギーとユートピア」なるものがあります。現体制維持のイデオロギーを「イデオロギー」と呼び、まだ見ぬ理想の国を志向する変革のイデオロギーを「ユートピア」と呼ぶ区分けです。
 そんなものに何の意味があるかというと、それまでのイデオロギー概念は、「イデオロギーは下部構造によって規定される」というものでしたが、この「下部構造」が経済的な利害関係としか捉えられていなかったということがあります。利害関係に沿ってイデオロギーは作られる。
 そこで彼のしたのが、それじゃあ「まだ見ぬ国はどうやって知るんですか?」という問いかけですね。変革のイデオロギーとは、経済的な利害をナマで出すものではなくまだ見ぬ国を思い描くものです。マンハイムの答えは、知識層によってこれを設定できる、というものでした。

 さて、彼に否定されたはずのマルクス主義者の諸君は、どうしたかといえば、実はマルクス主義者としては我が意を得たり、というところなのです。
 彼らは「主義者」ですから、運動が命です。ただの知識人なのに自分達が革命を実現するんだと思ってますから、おっしゃるとおり、理想の国は我々の示す革命後の社会。これを提示する我々前衛の役目は決定的だ。「ユートピア」という響きは都合が悪いので使いませんが、あとは密輸入です。「観念にも一定の役割がある。エンゲルスもいっている」てなもんです。
 エンゲルス? 70過ぎたご老人に新しいことを言わせるほうが悪いというものです。イデオロギー論の確立は、それから100年の時間が必要なのです。
 間違ってれば悪口をいっていいというものでもなく、若いときに観念の原則を世界史上初めて打ち立てた(フォイエルバッハテーゼ)のは、広松渉によるとマルクスではなくエンゲルスだということです。どっちでもいいけど。
 エンゲルスという人は、働きながら中高年までの人生を、友人の、読むだけでも大変な資本論草稿をあれだけのものにして出版する時間に充てた人です。ただの手紙に何を書こうとイデオロギー論がなってないなどといわれる筋合いではありません。

 まあ、それはそれ。
 イデオロギーについて真実はもうご存知ですよね?
 え? ご存じない。
 では拙著『光の国のダンサー』(イデオロギー)と『風とベイシティキャット』(知識)をご覧下さいませ。
 要するに、人は行為する時には自分の1秒後の将来をイメージする。
 生理的に生存できる将来。
 賞賛を確保できる将来
 自由を、つまり対外的優越を確保できる将来
 これらについて、事実として、ありうる現実として、外界を把握している必要があること。
 (中略)
 だから、下部構造が上部構造を規定するわけです。

 ところで、ユートピアです。
 ユートピアで必要なのは、この事実なのです。
 何かをしたい、でも何をしたいのかわからない。この「何」を提供する必要があるわけです。
 このことは頭脳作業だから観念の反作用がある、などといったら、マルクス主義者のように味噌もクソもになってしまうから止めてくださいね。
 「何」は、科学と事実です。
 科学はイデオロギーではない。事実もイデオロギーではない。
 もちろん科学と事実のセットを、行為の指針としてぶち上げることはイデオロギーです。これは思想ですから。(ブログ9月23日用語解説参照)なお、科学といっても、現実に妥当する迷信は一緒ですけどね。

 さてミャンマーです。
 残念ですが、ここには統一イデオロギーがない。これではまだまだ地道に闘っていく必要がある。
 でも暗いわけではない。日本と同じに。そんなことで暗かったら、人間生きてはいけない。闘いが一つ一つの事実となっていく。ただ、先が長い。

 統一イデオロギーがないのがそんなにダメなことなら、イデオロギーにも役割はあるんだろうって?
 おっしゃるとおり役割はあります。しかしそれは反作用などではない。
 イデオロギーは人間が生きていくときに使うものです。そして生きていく土台は下部構造です。デモをして下部構造が変わるわけではない。
(国家権力は下部構造ではないことは知っていますか?)

 ミャンマーは、私は知りませんが、デモのスローガンから逆算しますと植民支配的農村国家のようですね。武力権力に他国の経済支配が重なっていく国家で、ただ、農村国家というものは、農村のことだけうまくやっていれば、生きていくのに民主主義など必要のないものです。一般論ですが。
 ミャンマーの闘いは今のところインテリ各層間の争い、というところに見えます。もちろん個人の自由のためには、民主主義派の勝利が必要なのですが、それって、生産現場=圧倒的広域であるような農村での個人の勝利が見据えられるところでないと現実にならない。
 それが下部構造というものです。

 でもですね。世界資本主義は1国家の下部構造を超える。
 国家権力は、これを促進することが出来る。詳しくは拙著『パリの爆薬』をご覧下さい。
 あんま、詳しくないか。

 ではまた。明日は休日出勤。



【注記】

 マンハイムのそれに限らないが、社会科学上のイデオロギー概念への最も簡単な誤りは
 「(マンハイムは)バークの主張が『イギリスの支配階級であった門閥貴族のイデオロギー』であるとしている点であるが、完全な誤りである。」という主張だ。
 いや、他意はなく、ネットを開けたらすぐに飛び込んできたものだ。私も右翼の思想にまでは手を広げてないので、あわてて1週間費やしてバークというのを『中央公論・世界の名著』で確認してしまった。マンハイム原著(訳)も確認したが、適切な取り上げ方だった。ネットというのは役に立ちはするのだが、玉石混交なのは困る。もちろん本屋にだって玉はめったにないが、私の本棚には石は置かないようにしている。

 さてネットでは下記のごとく主張する。
 「バークは決して門閥貴族ではなかったし」
 「厳密にはイギリス人ではなくアイルランド人だ」
 「またカトリックなども、彼の幼少期にはごく身近なものであったし」
 「彼がウィッグであったことも忘れてはならない。」
 「今日では自由主義経済学者としてのバークも注目せられている。」
 「さらには保守主義という総体を取ってもバークはマンハイムの言うような身分重視がみられるが、カーライルにはそれがないといったように、」
 「イデオロギー或いは世界観の体系は存在しない。」
 
 残念でした。バーク一つとってみたが、マンハイムなり社会科学でいうイデオロギーとはそういうものではないのだ。
 
 それでは、資本家の息子も、ハワイ人も、牧師の息子も、社会主義者にはなれない。
 あるいは公明党員は資本主義を擁護できず、フリードマンが慈善寄付をしてはいけないし、カーライルは奴隷制度擁護も大衆蔑視もしなかったようだ。まあ、私はカーライルなんて知らないけどね。
 
 さて、誰がそんな単純な話をしているのだろうか。
 
 いったい、自民党員は全員が差別擁護者なわけはないが、しかし(ほとんど)全員が自由経済主義者だ。これをイデオロギー的には「一定の差別・容認主義者」という。文化のヘゲモニー(グラムシ談)を確保するためには、それだけで十分だからだ。イデオロギーというものはそういうものなのだ。
 まあ、マンハイムの時代にはグラムシはいなかったが、グラムシもそう難しいことをいったわけではない。(し、難しくするとアラが目立つので、あまり勉強しないほうがよさそうな気もする。)
 どんな底辺からの成り上がり者でも、権力階梯を上がるためには支配階級に利するイデオロギーを持たなければならない。
 井戸端評論はいざ知らず、少なくとも社会科学においては、私のイデオロギー論を待つまでもなく、昔からそのぐらいの初歩的な認識はもっていたのだ。
 
 もっともマンハイムの『イデオロギーとユートピア』は、社会科学というにはあまりにも概念がいいかげんだ。訳者には悪いが、本気になって読まないように。ウツると困る。これは社会学史か何かで概略知っていればよさそうだ。それよりも、同じ著者の『世代・競争』は秀逸だと思う。いまだに、越える著作の出ない世界の名著のはずだが(30年前読んだだけでかなり忘れている。こういう題材の解明は、科学的な手法では難しいのだ。ので私も手をつけていない。だからといって、そんなものを扱うのは社会科学ではない、とかいうのは本末転倒。なんのために社会科学をやっているのか忘れ果てた人間のセリフだ。)、若い人の目には触れないだろうなあ、、、
 
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虚偽意識

2007-09-23 21:19:58 | 上部構造論
 夜9時。首都圏ではあるが田舎の駅の近く。
 通勤帰りの中年男が親子3人ほどのグループを追い抜く。
「、、、きょう、、くりのはいった、ごはん、、たべたんだよ」
 やっとかっと、言葉にする3さいくらいの女の子の声が後ろでする。
(そうなの、栗ごはんね、、、) よかったね、と思う中年男。
「うそつけ」
 冷たく切り捨てる、これは小学生くらいの兄の声。
 
 なんてえやつだ。
 こんなやつとは付き合いたくないぜ。
 中年男は女の子の声を反芻しつつ足を速める、、、
 
 以上、中年男でした。

  ******************************
  
 
 言葉は社会との窓です。人はこれによって、社会での自分の自由を確保しようとします。
 
 およそ抑圧された者の自己回復の第1の工夫は、自分がさらに下位に置かれてしまう他者が現に位置するイメージを切り捨てるところにあります。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 兄ちゃんは、きょうの日能研の点数が悪かったのでしょう。
 そう、たぶん、もともと先の会話は、塾帰りの兄ちゃんを母妹で迎えにいった際の場面なんだと思います。
  
 抑圧された者の第2の工夫は、自分を抑圧者と同じ位置に持っていくイメージを作ることです。
 上に上がりたい人間は、上の人間の言葉を真似をすることで、上の人間になったような気がする、上の人間の言葉を使うことで、上の人間にとっての下位の人間が恐れ入る、かのごとき、気になります。ましてや、自分の仲間など、エラい人間の言葉に刃向かえるわけがありません、と思うんでしょう。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 なぜならそんな言葉は「自分とは関係がない」からです。本当は関係があることは、社会科学を教えてもらわなければどうして知り得るでしょうか。
 こうして、上層者を夢見る言葉は、上層者のウソを受け入れ、かつ、そのことによって、自分を裏切ることになります。
 「社会には競争がなければいけないんだ」
 とりあえず、この言葉によって、ライバルを蹴落とす自分、売り込みに負けてお得意先からすごすごと引き上げる他社の営業を見る自分が正当化されます。
 ”これが自分に返ってくるって? ばかをいえ。おれが首になるのはそんな言葉じゃない。人事部長の一言だ。”
 はい、おっしゃるとおり。
 資本主義は言葉では動かない。
 資本主義は人間の衣食を握っているからです。資本主義に刃向かっては、労働者は生きていけない。
 しかし、衣食の足りた人間は、資本主義に刃向かえる。政治権力者、その他の国家権力関係者には、資本主義は考慮の対象でしかない。

 実は、競争などなくても資本主義社会はやっていける。物など安く売ろうが高く売ろうが、買う人間さえいればよいのです。それでも、製造業で同期で部長になれるのは大卒でも7割しかいないだろうし、金融業なら2割かもしれない。お得意先への納品は1社しか選ばれない。それは結果です。
 競争など資本主義の運動の結果の表現にすぎない。
 じゃあ、なぜ「社会には競争がなければいけないんだ」なんてわざわざいわなければいけないんだ?
 資本主義の環境は国家権力が作成するからです。
 
 今の時代、資本主義経営者からの国家権力への要求は、自国民の生活水準の低下です。売れるものも作れない産業下では、買わないくせに物を買える賃金を得てもらっては困るのです。それでは会社が共倒れる。といって我々である権力者層の収入を削るなんてまっぴらです。そこで会社同士とは違ってもともと友なんかではない下級労働者諸君に犠牲になってもらう。
 とりあえず、今までは年功制なんてものがあったから若年層が犠牲になれ。なに、すぐ、実力制にして中高年をスムーズに貧乏にさせるさ。若い奴のほうが大切だからね。
 ここちょっと、複雑。資本主義は、やっていけるのだけれど、資本主義を管理する人間からすれば、そういう人間行為者をバカにしたことをするのは危険すぎる行為です。人をバカにすると国家権力が変更される。そうすると資本主義まで弾みで殺されるかもしれない。
 
 国家権力の行使によって、世界資本主義の進展を滑らかにさせる。資本主義を安定させつつ自国の労働力を安く売らせる。
 この国家権力の武器がコトバなのです。
 さてはて、課長にさえなれない人間が、正社員にさえなれない人間が、お人好しにも「社会の価値」を体現して「競争」を口にする。いったい、学校でなにを教えて来たのか、、、社会科学を教えろよ。
 
 これが二重に誤った意識、虚偽意識です。

「この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い。」
(戸坂潤)(戸坂潤全集NETさん、ありがとうございます)

 戸坂潤という人は戦前のマルクス主義者です。
 あなたがもしも本当のアナーキストなら、30年前までのマルクス主義者を勉強してください。
 どんな間違った立場であれ、自由を欲した人間の営為は、人民の財産です。



【用語解説】

※「思想」
 他者の行為をそれに準じさせることを意識して他者に発する一連の言葉のこと。
 自分の行為を準じさせるために呟く独り言は思想ではない。それは「倫理」と呼ぶ。
 
 タテマエ上はそれに自分の行為を準じさせているものだが、これを他者に表明し、『マトモな人間ならこうするんだよ、あえてお前にしろとはいわないけどね』と従順強制を潜在的に示しながら発せられる言葉は、「倫理」ではなく「倫理思想」という。

※「イデオロギー」
 思想の核として、共通の様相を呈しているもの。
 思想は人の数だけあっておかしくないが、よく見ると、いやよく見ないでも、生活している人間は、それらの思想をいくつかに分類することができる。
 自民党の人々が発する思想と、共産党の人々が発する思想とは、100万個対40万個ほどもあるが、これは多くの人にとって、1個対1個と把握することもできる。
 この1個と1個は、人によっては20個対4個という分類かもしれないが、いずれにせよ将来を考えながら行動する人間にとって、自分を取り巻く思想には共通の核があり、イデオロギーとは、こうした共通の核のことである。

※「イデオロギー=虚偽意識」
 虚偽意識概念は、マルクスではなくエンゲルスが示したことで、この命題にも訳知り顔で不信感を抱くやつもいる。が、エンゲルスは経済学以外ではアホではない。
 普通の人間にどうやってわかりやすく述べるかで、ペンがすべることがあるだけだ。
 およそ、実践を考えている人間には、人の動きはトータルに見えざるをえないのだ。
 毛沢東しかり。
 だいたい、大衆への普及の文章に、大学の哲学演習のような注釈をつけて、俗流マルクス主義だの何だのとけちをつけ米代を稼ごうとする奴の根性のほうが間違っている。

 あ、これは「理論と実践」のテーマではないね。

※「マルクス主義も虚偽意識だ」
 昔、マルクス主義が物珍しかった時代、マルクス主義政党も一つしかなく、この党派が自分の党派の実践の役に立つものは真理で、それ以外は虚偽意識だ、とぶち上げたものだから当然起こった反論の要旨。
 若い人たちは、オウムやサルのように使ってはいけない。いやオウムもサルも大変頭はよいのだが。 
 もちろんこの反論自体は、思想というものは、自己の行為の将来の自由を表現する以外にない、という一つの側面を表してはいる。マルクス主義政党の個々の思想は、個々の組織的将来を反映しているにすぎない。それはそうだ。
 しかし、元の【イデオロギー=虚偽意識】という立論は、そんなことではなくて、被支配者たる労働者人民が、支配者の言葉をオウムのように使わざるを得ない、という労働者階級が陥っている矛盾を表現したものなのだ。
 マルクス主義は社会で支配的な思想だったことはない。議論を混乱させないように。
 今ではいくつものマルクス主義党派が自分だけは真理だといっているから、どんな人民にも党派性はイデオロギーであることは分かっている。わざわざ本質を曲げる批判をするものではない。


   なお、下記コメントは、検索エンジン用に飼っているだけのものです。くだらないので開かないように。↓
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