とゆうわけで、同日ですが、これが本題。
次回配本を推敲しててもはみ出るものがあるんですよね、こういうのは社会学ではなさそうな、 みたいな。
削るのももったいないからこっちへ書いておこうかというところ。
カネがあれば何でも買えると思いませんか?
昔、堀江だか堀井だか、そんな人も言ってましたね。
だいたい、昔の私のように貧乏な人間は、そりゃなんだって買えるだろう、とヒネて思いつつ、それも悔しいから堀某が監獄に入れられれば、ざまあみろ、国家権力は買えなかったか、なんて思う。思うだけで、そりゃカネが足りなかっただけだな、とは考える。愛だって買える。90歳までは命だって買える。
たとえばマルクスなんて見てみると、彼にとって、貨幣とは「人類の外化された能力」なんだそうです。
「私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがってわたしのあらゆる個人的な本質的諸力がなしえないこと、それを私は貨幣によってなしうる。」
マルクス「経済学・哲学草稿」城塚登・田中吉六訳、岩波書店、1964。
(悪口を言うのにわざわざ文献を表示するのは下品でいやですけどね。疑うやつもいるし。)
悪口? はいはい、インテリ的寄生収入と前近代的共同関係の中で育ったマルクスにとって、個人の行為など頭の先にもない、ってことです。。
「人間は類として何かを行う。」
「人間は、食事を作ることではなく、出された食事を食べられれば、生産者と同じに人間的に生きていることになる。」
この2点を疑ったことなどそれまでなかった、あるいは疑うこともないまま(人のカネをあてに暮らして)晩年も迎えた、ことでしょうね。
しかし、本当は違う。貨幣で得られるのは、夢だけです。他人と同じであるかのごとき夢。
カネでは、人間の行為は買えない。
行為がカネを媒介とすることには何の疎外もない。あるいは疎外の一部ではあっても全部ではない。そうではなくて、カネとはただの「選択」だ、ということです。選択は行為ではない。行為しなければならないときに、人はカネを媒介とすることで、選択すれば済む。
そんな行為は人間にはない。
あるのは、財布からゼニを出して、他者の前に置く、という行為だけだ。
実存主義者がプチブルだというのは、(って、そういう文言は知らないですかね、でしょうね) 彼らは選択しかしない生き方しかしていない、ということだ。(もう実存主義者なんてみんな死んじゃったか、社長をしてるか、だから、「していなかった」ですね)
本来は、人間は実現するために行為をするのだ。人間は金がなければオリンピックフィギュアスケートの舞台に立つことはできない。しかし、カネがあろうがなかろうが、スケートを滑る、この1点が人間なのだ。
当たり前ですな。当たり前のこともわからぬ、昔から今までの人々。
特に、マルクス。文学的影響力がありすぎ。ま、平凡な人間は面白くなきゃついていかないし。
それに、貧乏な人にとっては、カネがなきゃ買えないもんがありすぎるんですよね。
さて、私儀、本の推敲を3月末までに終わらせようと思っております。
理由はありませんけど、納期がないと何もできない私。かくて、更新も少なく。
次回配本を推敲しててもはみ出るものがあるんですよね、こういうのは社会学ではなさそうな、 みたいな。
削るのももったいないからこっちへ書いておこうかというところ。
カネがあれば何でも買えると思いませんか?
昔、堀江だか堀井だか、そんな人も言ってましたね。
だいたい、昔の私のように貧乏な人間は、そりゃなんだって買えるだろう、とヒネて思いつつ、それも悔しいから堀某が監獄に入れられれば、ざまあみろ、国家権力は買えなかったか、なんて思う。思うだけで、そりゃカネが足りなかっただけだな、とは考える。愛だって買える。90歳までは命だって買える。
たとえばマルクスなんて見てみると、彼にとって、貨幣とは「人類の外化された能力」なんだそうです。
「私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがってわたしのあらゆる個人的な本質的諸力がなしえないこと、それを私は貨幣によってなしうる。」
マルクス「経済学・哲学草稿」城塚登・田中吉六訳、岩波書店、1964。
(悪口を言うのにわざわざ文献を表示するのは下品でいやですけどね。疑うやつもいるし。)
悪口? はいはい、インテリ的寄生収入と前近代的共同関係の中で育ったマルクスにとって、個人の行為など頭の先にもない、ってことです。。
「人間は類として何かを行う。」
「人間は、食事を作ることではなく、出された食事を食べられれば、生産者と同じに人間的に生きていることになる。」
この2点を疑ったことなどそれまでなかった、あるいは疑うこともないまま(人のカネをあてに暮らして)晩年も迎えた、ことでしょうね。
しかし、本当は違う。貨幣で得られるのは、夢だけです。他人と同じであるかのごとき夢。
カネでは、人間の行為は買えない。
行為がカネを媒介とすることには何の疎外もない。あるいは疎外の一部ではあっても全部ではない。そうではなくて、カネとはただの「選択」だ、ということです。選択は行為ではない。行為しなければならないときに、人はカネを媒介とすることで、選択すれば済む。
そんな行為は人間にはない。
あるのは、財布からゼニを出して、他者の前に置く、という行為だけだ。
実存主義者がプチブルだというのは、(って、そういう文言は知らないですかね、でしょうね) 彼らは選択しかしない生き方しかしていない、ということだ。(もう実存主義者なんてみんな死んじゃったか、社長をしてるか、だから、「していなかった」ですね)
本来は、人間は実現するために行為をするのだ。人間は金がなければオリンピックフィギュアスケートの舞台に立つことはできない。しかし、カネがあろうがなかろうが、スケートを滑る、この1点が人間なのだ。
当たり前ですな。当たり前のこともわからぬ、昔から今までの人々。
特に、マルクス。文学的影響力がありすぎ。ま、平凡な人間は面白くなきゃついていかないし。
それに、貧乏な人にとっては、カネがなきゃ買えないもんがありすぎるんですよね。
さて、私儀、本の推敲を3月末までに終わらせようと思っております。
理由はありませんけど、納期がないと何もできない私。かくて、更新も少なく。