リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

疎外のうち類的疎外と具体的人間

2022-04-30 14:40:44 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日はいい天気。明日はだめだって。どっか予定ある? 雨じゃ連休も連休になりませんね。ただ3,4,5は本州は期待できるようで、コロナに負けない若い人はまずはよかった。
 
 ところで先週のネットに、コロナの変異株がなんで前の原種を駆逐するのか、ようやく答えが書いてありました。変異株のほうが感染力が強いから、先に感染先の人間を取っちゃうんだって。ほんとかどうか知らないけど。
 まあ、変異株と原種がタイマンでやりあうというのもどうも想像ができないと思ってはいましたが、そこはクリアしてます。でも別の昔の本にはケンカするようなことを書いてあったけどね。
 ともかく、それじゃあ変異株は必ず感染力が強いことになります。この場合、強い≒早い≒肺でなく鼻、喉で増える、ということになりますから、死亡率は減る。発症が早ければ、感染の危険率も用心できるから減る、隔離も短くて済む、というわけです。まあ明るい。そんなことは書いてなかったけどね。それが論理というものです。物事を理解していれば、当然の帰結。
 
 さて、年寄りは連休を利用しないで済みますが、他人が楽しい時に何もしないのはさみしい。当家のGWはスシローの回転寿司です。
 回転寿司システムもコロナでガラッと変わったとかで、とくにスシローが変わったからと、わざわざ町田(という田舎の都会)まで行って(当家の近辺にはそもそもない)。
 結局、店員と話さずに会計まで終わってしまいましたよ。味気ないねえ、、
 前と違ってるって、鉄道の引き込み線のように皿を席まで届けてくれるのはまあ面白くはあったけど、回ってる鮨をよだれを垂らして選ぶというのも楽しいんだけどなあ、、
 ただ、ゆいいつ、皿の数を店員と確認するという工程がありました。これこそ電子化で消えたろうと思ったことですが、儀式でしょうかね。
 
 お味?
 いや、安くてよかった。大方110円。
 お味?
 だから安いし。
 
 東京には(高級)回転寿司の美登利寿司というのがあって、会社にいるとき買ってきてもらった(テイクアウトの)あぶり鯖が美味しくて、スシローでもあぶりを何種類か注文しましたが、美登利寿司えらい。
 大昔、梅林の小田急梅が丘の駅(北口の横にあった)売店にいつも列をなしていた安い美味いの美登利寿司。がんばってください。

 さて本日は、稲葉三千男「マスコミの総合理論」の一節、というか一章。
 稲葉氏というのは、昔、新聞研究所にいた親マルクス主義の教授。いい人のはずなんですけどね。冒頭、木下順二「夕鶴」を引き合いに、つうの愛の悲劇とおひょうのブルジョワ的喜劇を、生産過程論か交換過程論で説明しようと試みております。
 
 バツ。
 いくら理論は不得手といってもこりゃあだめ。 
 だいたい説明ができればいいという態度ではまるっきりの他人事です。どうやれば「おひょう」的事態を脱しうるか。それこそが学者に問われていることです。
 
 話が社会学で対象が具体的人間なので、ちょっと話を解放理論の原点に戻します。
 本来、具体的人間から具体的人間の解放には至らない。具体的人間は、彼の意志的な志向によってではなく、彼を取り巻く環境に寄って拘束されているからです。じゃあ具体的人間は解放されないではないか、と、もちろんそんな結論になる。
 この辺がむずかしいところで、社会システムの次元では社会システムの崩壊から具体的人間が解放される。「だから」具体的人間においても彼の解放の行為が存在し、その行為が遂行されなければならないのです。

 ここで、生理性、賞賛と優越は行為者の自覚的行為の目標ですから、学者が研究してわざわざ記すまでもない。行為者が登場人物として自分の好きになるように目指して行為すればよいのです。
 この場合、生産物の収奪という行為からの疎外は、いわば誰にでもわかる。人は自己の行為の成就を、経済的利害の獲得に向けた将来認知により、生産手段の再取得に向けて行為をするでしょう。
 ところで問題は類的疎外からの解放です。本題でつうとおひょうが突き当たった現実です。
 ここからの解放は行為者にとっては目標物がない行為であることにより、人間にとって最難度の行為であり、かつ最高度に高貴な行為となるのです。

 そもそも類的行為の完成は労働からは生まれない。行為から生まれるのです。およそ労働を美化して疎外からの脱却を唱える評論家ほど馬鹿な者はない。
 労働の対価は労働生産物です。
 「いやほかにもある、協働の喜びだ」とか言っているうちは何もわからない。協働は労働に共同行為が追加されたものであって、労働そのものではない。労働はその生産物を(誰かが)入手する行為です。その論理的帰結は生産物物神です。
 餃子を作るのは餃子を入手するためであって、「餃子を家じゅうで作る」ことは、「餃子を作る」事態と「家じゅうで何かをする」事態の合作です。

 すなわちこの、将来の共有あるいは「互いに同様である事態」の認知こそ、類的疎外からの脱却地点なのです。
 これを阻害するものは、普遍化すれば、主体的には(主観的には)、機械化でも官僚制でもない。道具的志向です。
 つまり、人であれ自然物であれ、モノとして自分の役に立てばそれでいいという志向とそれに基づく関係です。 
 行為主体における道具的志向は、外界物を自己と同体化しようという構えを疎外し、他者にとっては他者自身による「同様態」の認知を妨げ、この類的関係を否定するのです。
 
 もちろんこの事態の根拠はといえば、客観的には基底的に支配システムに基づき、媒介的には商品化による事態です。
 このとき商品化問題は媒介事項です。媒介事項に過ぎません。権力社会であれば商品化がなくとも類的感性は疎外されます。
 一方、商品社会であっても十分な行為共同性内にあっては、類的感性は疎外されない。商品関係内にあってはたしかに疎外されるが、商品関係から外れた関係にあっては疎外されないのです。それが資本主義の人間行為者へのメリットでもある。

 たとえば、写真機がステイタスであり、写真撮影が人民の賞賛を得ることが可能な時代と社会にあっては、趣味で行う写真撮影活動とそのコミュニケーション作業が、容易に行為の同体性を生む。ここで同体の対象は、撮影対象と批評者と撮影者のトライアングルです。
(参考:土門拳「写真作法」、ダヴィッド社、1876)
 同様に、俳句同人を含めることもできるかもしれない。写実対象と批評者と作者のトライアングルです。

 自然物をめぐって類的感性を行為するためには、その自然物と行為主体の過去の記憶にすでに密着構築された記憶を持っている場合を除き、自然物を仲間に引き込むための客体行為者が必要なのです。
 行為主体は客体行為者の賞賛あるいはその客体が持つ権力をを媒介とし、自然物との関係を満足的に実感するのです。

 従って、類的疎外は、この客体行為者の存在を前提とします。
 類的疎外は、他者の生理的、賞賛・優越的、そして自己権力の存在が確保された時に、行為者相互の間で回復する事態なのです。生産も交換も、他有化も我有化も、一切関係はありません。




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哲学者には科学的法則はわからない

2022-04-23 15:30:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、定期更新です。
 東京地方、今週は寒いなか買い物に行って半日気持ちが悪かったりしましたが、今日は26度。もうちょっと平穏に過ぎてほしいものです。
 
 とはいえ春は春、盛春です、なんて言葉はないのか、変換されなかった。
 頃は藤の花、近くの藤棚を見にいったら重たげな藤の房にモフモフの熊ン蜂が飛び付いて。
 クマはかわいくてよろしい。世界は平和。でもスズメバチには近づかないように。この前、家のベランダを飛んで、いい巣の場所を探してる風でしたので、そろそろ用心の季節です。

 今日のニュースは、不愉快なニュースの悪口は昨日済んだので、ほかの。
 今週は朝日新聞で小野善康(経済学者)が何か喋っていたよ、ざっと見ただけだけど。政府はまともな「需要」を作り出せ、という話でしょう、たぶん。立憲民主もどうせ資本主義党なんだから、このコロナを機に、小野とか呼んで、新しい需要政策とやらをどかんとぶち上げればいいんだ、小野先生、退職で暇だから乗るでしょ。と思って履歴みたら、民主党のとき口出ししてたみたい。こういうのは政治家に根性がないと無駄なのね。立憲に根性があるかって、ないやね。しかし私もサービス業が世界に要らないことがばれてしまったことを気に病んでるから。「正しい構造改革」を謳えば隠れた人材が現れるかも。

 さて、皆様せっかくいらしてくださったのに、午前中忙しくて用意なし。しかし、本題は純粋につまらないので役に立つブログ、お料理一口メモ。
 リゾットを作るときに炊飯器を使うやり方があります。
 始めに鍋等で具をいためて、洗わないコメをいれて油でくるんでコンソメ等で味付けして、それを少なめの水で炊飯、チーズ等を加える、という。これだとスープの量加減をついて見てないで済む。
 で、今週気持ちが忙しい時、コウケンテツのをみてやったはいいですが、「できた、よしよし」とチーズ入れてご飯をひっくり返して保温してたら、「美味しく炊けちゃった」よ。これは、リゾットでなく純粋に炊き込みご飯です。ひっくり返して蒸らしちゃだめだよ。
 後から検索したら注意のあるレシピもありましたが、このやり方の場合、炊飯が終わると同時に食べる必要がありますのでご注意ください。

 あとはねえ、館林のつつじが岡公園、見ごろのはず。といって今日はもう夕方だね。日曜出勤の方は月曜とかどうぞ。


 というわけで、本題は、「岩波講座哲学;科学の方法」にあった、宇野経済学者日高晋氏と哲学者黒崎宏(等と)の座談。「法則は適用対象が消えれば、法則自体も消えるか」といった話。

 日高晋:「(商品経済の)無政府的な行動が止揚されたら、それは、認識する意味がなくなるということではなくて、むしろ(価値)法則そのものがまったく廃棄される。」

 黒崎宏:「その場合、法則ということで、事実の記述が考えられているのではないでしょうか。そしてもしそうなら、、、法則というものは、本来、こうであればこうなるという条件文の形をしているものだと思うのですよ。したがって法則を廃棄するということは、考えられないことじゃないですかね。」
 
 つまり、黒崎氏の言はたとえてみれば、「リンゴ1個にリンゴ1個を追加すればリンゴは2個になる」と、この1+1=2という分は、リンゴがなくなっても残るはずだ、というわけ。これが「たとえ」なのは、数式は約束だから、法則じゃないという理由だけどね。

 さて、この論議はどっちが勝ち?
 これはまず読者諸氏が100人いれば100人黒崎氏に賛成するでしょう。宇野経済学者以外は。実際は、日高氏がえんえんと自説を曲げないのだけどね。
 で、真理はどちらに軍配を上げるだろうか?
 日高氏の結果勝ち。

 皆様は法則というものを知らない。法則は決して固定などしていないのです。そんな法則はない。
 「じゃあ。万有引力の法則は?」
 力学法則など、たまたま「動かないと認識されている地球」の上の人間にしか当てはまらない。人間がその環境に寄りかかっているから、哲学者もそこにふんぞり返っているだけ。
 何百億年か先、地球がなくなり、ブラックホールの中に入った時に、じゃあ万有引力の法則は存在するか? いやしない。万有引力の法則は地球と共に廃棄せられるのです。万有引力の法則は、地球があった時に「存在した」にすぎない。日本語であればそう語るしかない。

 おわかりでしょうか?

 そもそも、法則は探求するものという発想の有無が違うのです。法則は教科書に書いてあるのではない。日々追求するから物理学者は日々苦労するのです。昨日見つけた量子力学の法則は。量子段階が根底的に変わったら法則ではなくなった。それをもって哲学者が、「いやそれはもとから法則ではなかったんだ」といえば、勝手に言ってろ、と返されるだけでしょう。(これだと。全段階を条件文に居れれば、と言われるかね。ま、物質という対象は変わってないからね。しかし、意味の消えた法則は法則ではない、ということも教えてあげないといけないね。それはただの数式)社会科学にしてみれば、社会の法則は当該社会の構成素から離れることはできない。変化した社会の中で過去の社会のある法則は「過去あった」というしかない。社会科学徒は机上の空理を扱っているのではなく、日々生きて「法則の動きをつかもう」としているわけです。その日々動いている社会で、日々変わっていく条件の中では、過去の法則が「適用できない」のではなく、そもそも「発見できなくなる」のです。哲学者氏「だから君のは法則じゃなくて、、、」勝手に言ってろ、です。今日行為に適用できる因果立言は、法則以外の何物でもありません。

 もっとも法則を扱う社会科学者などもういないも同然だからね。こんなこと自称社会科学者が100人いても今は誰も知らんでしょう。だから書いておきました。
 日高先生もほんとにご存じだったかしら? 


 関係ないけど、黒崎氏というのは、よくウィトゲンシュタインと一緒に出てくる黒崎。わたしゃ黒崎政男と間違えて、カントはしょうがねえなあ、なんて無実の罪を着せちゃいましたよ。岩崎武雄と同じだなあ、なんて思って。.

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戦争推進者とインターナショナリズム

2022-04-22 20:43:27 | 戦争推進者たち
 こんばんは、いつもの私の好きなお客さんたち、来ちゃった? 今日は違うの。明日、またアップロードしますし。つまんないけどね。
 今日は「戦争推進者カテゴリー」。
 
 いつまで彼らの悪口言ってもためにならないから、悪口や正当な批判はやめるとして。でさ、彼らとの事実認知をちょっと一歩掘り下げて書きます。
 で、私と彼らと何が違うかって、彼ら権力追求者は権力さえ握ればこっちのもんだ、いくらだって好き勝手にやれるぞ、と思っている。だから、逆に、必死で「今の」権力を取りたいし、取らなきゃならないと思っている。ウクライナはマルクス主義じゃないからね。

 それに対してプロレタリアートは違う。プロレタリアートは、自分の解放が自分の生きている間に来るとは思っていない。来るのはマルキストたちの独裁政治だ、しかしそのあとには自由の世界が、きっとできる、その日が来る、と思っている。それは哀しい幻想かもしれないけれど、プロレタリアートの存在はそれを追求するしかないし、そうやって被支配者人民は何千年も生きてきた。
 このことを隈は過去の全著作で述べてきた。
 
 世界は世界プロレタリアートの、つまり、耐えているすべての労働者のためにある。「残念ながら」ある1国の、アメリカや日本の、あるいはウクライナの、先進国労働者のためにあるのではない。
 もちろんある1国のプロレタリアートは自国のために戦うであろう。しかし、それで自己の解放ができるわけではない。
 
 で、どうだ?
 世界はウクライナ政府指導者の、ザレンスキーの、ためにあるのではない。究極的にロシア労働者と共に解放されるためにあるのだ。
 別の例を挙げれば、もちろんこのブログでも述べたように、香港は民主主義「国家」なる者のためにあるのではない。中国人民と自己の解放を「共に」勝ち取るために、そのための自由を体の奥から知っている先進人民として、あるのだ。
 てめえだけいい目にあって、それで済むと思ったら、そこには何のインターナショナリズムもない。
 
 今は生きること。生きて何とか幸せをつかめるならばつかむこと、それが矛盾の中の人民にできることなのだ。仮につかめたとしたなら、その幸せは未来の(まずはウクライナと同等の先進国の)人民を幸せにする事実認知となるのだ。そして次に先進国人民から全世界人民の解放への努力が始まるのだ。
 
 ウクライナの人々は、まず、先進国人民の自分は痛くもかいくもない勝手な闘争奨励を無視して、生き延びてください。
 
 
 ところでさあ、K派はちょっとはしゃぎすぎじゃない? 小さくなって呟いているC派は無視するとして、70年言い続けた結果が出せる、という気持ちはわからないではありませんが。そちらの論ではぜんぜん(ちょっとしか)欧米の責任が出てきませんよ。国家の善悪とはいいも悪いもお互い様だからね。この認識はマルクス主義だと思うぞ。あ、これ大事ね。まさか忘れてはないと思うけど、ちょっと「覇権主義」呼ばわりが鼻につく。
 
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最近になく素直

2022-04-16 11:36:13 | 断片
 こんにちは。なんか寒い。東京地方、今日はあったかくなるというのだけれど、今、12度。パソコン開けたら、windows10提供の壁紙が雪山でした。そういえば今年の冬は雪山(の写真等)見なかったなあ、と。もうスキーしないし、温泉も特に好きじゃないし、だいたいめっきり寒さに弱くなって。
 その割に雪が気になるのは人間の本性でしょう。知らないけど。
 温泉はいいのですが、どっか雪国の(ひと様の)お宅にお呼ばれしたいな。もうおうちの雪囲いも外し始めるようで。大変だねえ、、
 
 コロナの新規者が下がるのをやめ低迷を続ける中、あきらめて今週は高尾(東京都)近辺にお墓参り兼新緑見物でいってきました。昼はJR高尾の玉川亭にいって驚いた、店内中隔離のビニールが垂れ下がって。手作り。いや、大変なものだ。この辺は、あきらめてないのか、統制がきついのか。お酒はだめでメニューもお蕎麦しかなくなってしまって。お客いないし。少なくとも休日は混み合う店だったけどねえ、、困ったものです。
 それでもコロナは川崎市内はまた低下に転じました。GWが来たら跳ね上がるでしょうが。遊ぶならあと2週間の選択かな。
 なお、高尾山、駅前のソメイヨシノはだめですが、山頂からの山桜はまだ大丈夫でしょう。ミツバツツジがピンクにきれいでした。
 
 さて本日はまだ不愉快なニュースが続いているので、本日の名言コーナー(ニセ。そんなものはありません)。 
「最近の人々は手は水で洗うものだということを忘れている」(趣旨)。

 いや、もとはといえば、ネットで見たコロナウイルスについてのカケラしか論理のない大学教授の発言なのですが、その本旨は本旨として、水洗浄の有効性は眼医者以外はどんな医者でも知ってる真理です。(ついでにいうと、若人は知らないでしょうが、一般病理の治療に関する限り、大学教授より町医者と呼ばれる早期引退組のほうが信頼できる。町医者や一般病院のスクリーニング後で、選択肢がすぼまってるから教授をしてられるのだ、と推測。ま、いいや)
 ともかく、昔はきれいな水さえなかったのだから、水道水で洗えるなんて第一級の治療。
 最近の人は消毒液やらなんやらと、なんでもないときに意識しすぎ。もうちょっと大らかにしたほうが精神によいのでは? 
 ただし、食中毒の家族がいる場合は、お医者さんの言う通り消毒してください。
 
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本田さん、人間がわかる人になったよ

2022-04-13 21:29:59 | 戦争推進者たち
 こんばんは。東京地方温かく、お風呂のあったかさもありがたみが薄れ、、って、今日は私の好きなお客様の日ではないのだけれど、カテゴリー分け(「戦争推進者たち」)っていうのは開いてみないとわからない、っていうのも困っちゃうね。
 しょうがない、今日発見したんだけど、ナスのはさみ揚げって50年前、友達のうちで食べさせてもらってから好きなところ、作ると全然うまくいかなくって。その頃は切れ目を入れて作るホットドッグ方式なのね、肉高かったから(この方式は大してはさめない。風味だけ)。これが油少ないとすぐ失敗。
 で、今日は、サンドイッチ方式で「焼いて」作ったら、これが小麦粉がよくついて、なんとかなりそう。(袋で振ってナスにつける方式。片栗粉は高くて)。ほんとは正式にパン粉で揚げてからご紹介するんだけど、事前報告で。

 というわけで、以下、ただの憂さ晴らし。といってもこの「憂さ」といったら、晴らさないと体が壊れるもので、失礼。

 コピーで、
「連日、ロシアのウクライナ侵攻問題についてツイートしている本田圭佑が2月27日、自身のツイッターを更新。次のように投稿した。
「戦争を回避するためのまともな議論ができる人がこれほど少ないとは。
自由と民主主義のために戦ってるという美談に踊らされるな。死にたくない人がどれだけいるか。各国政府も信用ならん。もし本当に助けたいなら武器を売ったり送ったりしんくていいから、軍隊を派遣して守ってあげてください」
 本田は前日、自身が運営に携わる音声アプリ『NowVoice』でも、次のように語っていた。
「どうやって戦争を回避するかの1点に焦点に絞って選択肢を並べた時に、ウクライナがNATOに参加しないと取り急ぎ言えば、攻められない。その方法しかなかったと冷静に思っている」
 この考えは同日のツイッターでも綴っており、賛否両論が寄せられた。反対意見については、こう反論している。
「その意見に対して、ああだこうだ言ってる人は感情的になっている。ロシアが正しいと思ってるんですか、とかよくわからんことを言っている。アホちゃうかと思いながら。ロシアが悪いに決まっている。それが大前提。戦争を肯定しているなんてありえない。そんなことを議論するなんて、次元が違う」
 そして、「どうやって戦争を回避するかを話さなくていけない」と強調していた。](サッカーダイジェストWeb編集部)

 以前にお友達が「本田なんて、、」と言ってられましたが、人間、成長するものです。本田圭佑35歳。
 でさ、本田君、残念ながらもう遅い。ここまで来たら国土領内に居る人々は「人間」ではない。どこのあんぽんたんが何を言おうと、もう遅い。こいつらのせいさ。

 それで、よお、ジャーナリスト。同様に評論家や新聞記者たち。どこにお前らの好きな「自分の国」「自分の文化」「自分の歴史」なるものが残るんだよ。文化を守る人民もいず、焼け野原となって、しかも他国の占領下となって、え? どこに残るっていうんだよお。教えてくれよ。言えるものならきっぱり言え。
 ざけやがって。「そんなこといっても戦争だから仕方がない」とか「プーチンがきちがいだから」とかいうんだろうが。ぬかせ。戦争だから仕方がないから、まず戦争を停止させろ、といったんだろうが。プーチンがどうだろうが、安部だろうが岸だろうが戦争はいったん起こったらこうなるんだよ。知らなかったなんて言わせねえぞ。なんて無責任。ジャーナリスト! 新聞記者! 国際政治学者! おお、なんて多くの無責任者の同義語!!!

 もう遅えや。子供であれ母親であれ、老人であれ、初めの命を救いそこなったとたん、それがただの日常になるんだ。(=殺人に耐性ができればミサイルも打ち放題。はやすのが生きがいの奴らも支配的思想の唱えるがままだ)。今更知っても遅いが、戦争というのはこういうものだ。ばかやろうが。てめえの子どもに良く教えろよ。父ちゃん母ちゃんのせいでこんなことが起きたが、お前は止めろよ、とな。




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オカルト(その15;生の意味と霊の統一)

2022-04-09 11:03:09 | オカルト(途中から)
 こんにちは。すっかり暖かくなって、東京地方、晴れも続いています。今年は花粉症が驚異的に鼻の前方から消えたので、パソコンも楽だし、薬も目薬だけなので体調がよくて。皆様にも齢と共に緩解(かんかい)が訪れることでしょう。まあいいことか悪いことか。 
 皆様の中には新しい春の方とか? 私など今どきは、不本意な外勤で街中を自転車していたころを思い出します。街路樹の八重桜が花盛りで、せめてもの慰めでした。ほんと、ただの思い出になってよかった。皆様にもいやな仕事もいつか思い出になることでしょう。
 
 一昨日は法事で2年ぶりの会食。食事はそんなもので、お酒もビールを飲んだだけですが、大人と一緒の会食はいいものです。みんなワクチン高齢者だからコロナも安全だしね。もちろん若人の方はお気をつけください。後悔先に立たず。
 
 で、そこの真宗の坊さんの説教で、「故人に思いをはせることで故人も二度生きるのです」とかいうのがあって、わたしは目は悪いけれど、その分、耳で生きているので、そうかしら、と本気で考慮。お盆はまだですが、奇(く)しくも昨日は「花まつり」(釈迦の誕生日)なので(法事先で花まつりしてた)、突然ですがオカルトです。
 なんせニュースなんか不愉快でまったく見ないのでネタがありません。(って聴いてるけど)
 
 さて、生の意味とはどういうものか。
 そもそも生きているとは、細胞が動いている一方、考えている主体があるということです。したがって、生きている意味は、この観念と体の動き、細胞の活動「の中に」あります。たとえ、「生きていることには意味がない」といおうと、生きている意味はその「意味はない」という観念と活動の中にあるのです。
 では「その中に」どんなかたちであるのか、その内容はひとそれぞれで、他人が決めつけてもしょうがありません。しかし、観念と細胞の動きとの中にあることにはまちがいありません。
  
 さてところで、生にはもう一つの意味がある。「生きた」という意味です。この生きたという意味を担うものは他者です。他者の思いの中で人は過去「生きた」のです。
 したがって人間の生の意味とはこの両者の統一の中にあるわけです。
 
 他人の思いの中で生きたなんてそれは文学的修辞にすぎない、ですか?
 いやいや。
 この生者と死者、本人と他人を統一するもの、それが「霊」です。
 既に「オカルトカテゴリー」で明らかにしたように、生命が宇宙において「一」である一方、「霊」も宇宙において「一」なのです。霊とは、他者のものも自己のものも統一されて、はじめて「霊」なのです。
 しかして人の生の意味とは、自己のその観念と肉体であるとともに、他者の中にも存する。人は他人を思えばそこに他人の生の意味も生まれる。霊は他人のそれと混合して、ある一個人の生と他人の生を作り続けているのです。

 預言者隈が、今回は仏教教祖になっちゃったよ。
 さすがに仏教は人生訓による支配思想という99%の外皮を除けば、哲学だね。釈迦の哲学があるから。
 100%人生訓のキリスト教は、あれはなんだい。全部神様の言う通り。原始人にもほどがある。しかもそれが自分で作った神様とあっては何をかいわんや。(イエスがいる? そこだね。どうもイエスの哲学というのがわからない)

 
 おまけ。最近の不思議。
 昔から仕事のパソコンいじりでひじに傷ができるほどだったのですが、アルバイトもやめて、ひじは左腕しかつかないのに、一貫して右ひじに傷ができる。左はきれい。これはなんでしょうか?
 肉体上の刺激も、眼で見えるその場所ではなく、いったん脳とかの神経組織で解釈されて「傷を治せ」と指令されるんじゃないかしら? で、私の脳は右と左を間違えている。
 心理学の学生さんは、頭にとめて答えを見つけてくださいな。
(p.s.つい心理学と書いてしまいましたが、精神分析者やカウンセラーのことではありません。昔は脳生理学と言ってましたが、最近は脳生理学も心理学の市民権を得たようなので頼もしいことです。と、注釈)


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ブチャ虐殺

2022-04-04 21:15:22 | 戦争推進者たち
お前らが殺したんだ。

「だからどうした。その代わりに、、」と言えるものなら言え。

 夕刊フジ、朝日新聞、C派、お前らのことだ。
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新規カテゴリー設定(怒り)

2022-04-02 12:46:58 | 戦争推進者たち
 朝日新聞藤原帰一までは我慢しましたが、夕刊フジの新たな記事を見るとどうにも我慢がならない。
 ご存じの通り私はお客様を大事にしていますので、この後数か月もこいつらと付き合う気はさらさらありません。私やあなたや彼や彼女や、そうしたかけがえのない一人の人間よりも、口先で国家(革命戦略)御大切、などという奴を許すものか。
 ので夕刊フジ記者、朝日新聞社関連記者、その他人殺しやその子孫に類する者は、別途カテゴリーでゴミ箱のように扱うように決めました。こちらのカテゴリーは私のお客様用ではなく、ただのゴミ箱、痰壺、田んぼのそばの肥溜に過ぎませんので、以後は当該記者、評論家、セクト員以外はそのカテゴリー記事には来ないようにお願いします。
 さいわいそんな奴らのためには頭脳も読書眼も要りませんので。さらにわたしの寿命はあと1年半の予定ですし。

 これでほっと一息。わたしはまともな人間とだけ、私の心を話します。
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「アサヒ」はアカくないな

2022-04-02 12:46:58 | 断片
 こんにちは。東京地方、今日明日と、まあそこそこの天気だそうで、しかし年寄りには気温が伴わない。昨日も今日も最高13度じゃあ、3月上旬。
 なんていってるうちに桜は盛りを過ぎてしまいました。でも若葉の桜もよいものです。
 そう、そろそろ新緑。伊豆の山道でもドライブして、青空に透けた新緑を見る季節が近づいてきます、だれかドライブに連れてってくれないかなあ。まじ、ドライバーはかわいそうですが。景色のいいとこ走ってよく事故起こさないよね。
 
 珍しく機嫌がいい? 花見のせいだね、平日花見は年寄りと子供の特権。夜桜見物と称する飲み会は大人の特権。
 基本は、ひとぎらいウツと目が見えないウツ。にんげん、交感神経の高まりが続くと、反動でウツになるのだよ。緊張しないひとはいいやね。
 ウツだと体を動かす気もなくなるので、声帯管理のyoutubeを歌うこともなくなりました。つまり、体を動かすホルモンも、声を出すホルモンもおんなじだ、という。ということは、そうであるならその効果もおんなじであろうと。やはりなんでもいいから体動かさなきゃね。

 そだ、一般人に一応お知らせ。
 赤旗によると、「大阪市議会本会議が29日開かれ、夢洲(ゆめしま)にカジノを中核とする統合型リゾート(IR)を誘致するための「区域整備計画」関連案件が、維新・公明などの賛成多数で可決しました。」そうです。
 ここで怒らないところが花見のおかげだね。いいよ。大阪なら。大阪人てそんなもんでしょ。あ、特殊な大阪の方には失礼。どこでも例外は1割はいます。でも事実起こったんだからしょうがないし。
 
 えーと、まともなニュースでは「ウィル・スミス、2022年アカデミー賞授賞式でクリス・ロックを平手打ち」というのがどこでも書いてあったね。あーだこーだと反応も。
 わたしゃ保守だから当然の行為と思うけど、なるほど、それが年寄りということかと思いましたね。今の連中は妻を保全するという根本姿勢がない。そういう価値観は年寄りの特徴なのだろうね。
 というと今の連中は「隈のやつ、珍しく反省してる」と思うのだろうけど、とんでもない。自分の価値観を否定してなんの倫理か。家族封建、保守反動で結構。どんどんひっぱたいたれ。それで干されて困る職業は避けたいものだ、って避け終わったけど。
 もっとも、アメリカの反応だってわかりゃあしない。スミス氏は黒人だしね、自称「単一」国民が上流アメリカの「世論」にナイーブに反応しちゃだめさ。

 と、自分の古い価値観はいいけど、驚いたのが安川寿之輔『女性差別はなぜ存続するのか』。ちょっとこれあんまりじゃないかね、古すぎて。フェミニスト価値観が古いというのも変わってることだけど、いやはやエリートというのか、頑迷のまま非差別主義者になったというのか、彼はエリートたる偉人が偉いと思っているの。明治の教科書だね。古いのはいいが、反差別主義ってそういうもんかよ。
 どうにも恥ずかしくて。読みながらひたすら「評論には評論するという賞賛-優越の回路があるのだな」、と考えていました。
 名誉教授の評論でもウヨのSNSでも、中身に軽重はないのだよ、社会学的には。わかってないねえ。まあ教育学者も、歴史感覚ゼロのうえハンガリーもチェコも知らない政治学者(藤原帰一)も、行動様式はおんなじだろうけどね。しかし、奥さん(悦子氏)との共著本はこんなじゃなかったと思うけど、、

 そんなエリートの話はおいて、一般の人の良い方々、
 「横浜のボーカルグループによるウクライナ国歌が結ぶ連帯の絆」(nippon.com)
 こういう感性は国防婦人会動員者の感性とどこも違わない。そうやって皆が自分たちで波をつくり、後で「押し流された」と言い訳する。
 世間の評判に惑わされないように。自分を忘れて国家国家と言っていれば、明日の朝には自分と自分の子にしっぺ返しが来ますよ、戦争という。それがアナーキストだけが論理上発言できる真実です。

 あ、朝日新聞の藤原のおかげで暗くなった。ちぇ。やめた。

コメント
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