リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会学が把握すべき「男性性」とは

2021-05-08 13:51:47 | 行為
 こんにちは。連休はいかが? わたしはどこにもいかない代わりに家でぜいたくな海鮮チラシを作ろう、と思ったら、この辺のスーパーではぜいたくな海鮮など売っていないことを発見。普段買わないので知らんかった。もちろん魚屋などないし。まあこんな田舎のおかげで安全なのだけど。
 潮干狩り行った? 行きたいなあ、春の海。中年以降は海岸遊びしなくとも、今どきは近くの港に必ず美味しい海鮮レストランがあるからねえ。身内の不幸その他でもう4,5年行ってないけど。
 
 今日のニュース、 
「尾木ママ アスリート個人へのオリンピック辞退要求は「筋違い」」
「池江璃花子、、、が新型コロナウイルス感染拡大の収束が見えない状況の中、自身のSNSに五輪出場辞退や五輪開催反対に賛同を求める声が寄せられていることを明かした、、、」(スポニチ)
 尾木氏、さすがに善人だねえ、筋違いとか。やつらにはそれが「本当」の狙いなのだよ。
 若人の方々も善人だろうけど、わたしにはウヨの類いのストレス亡者が舌なめずりしている姿がくっきりと見えるよ。
 わたしは碌な生活を送ってこなかった、というわけだ。まあ、それでこそ社会学徒を張れる、ともいえる。
 
 さて本日は久しぶりにテーマもの。
 まずとっかかりは借りてきた水間千恵「女になった海賊と大人にならない子どもたち」。
「宝島」や「ピーターパン」その他を取り上げて、そこでの男性性を発見しようとするそうで。で、男の主人公が出てくれば、彼が行為する諸道徳が「男性性」と見なされるわけです。
 わたしゃ、なにそれ、と思うのですが、いやいや女性にとってはそうなのだろうか。
 わたし(男)には賞賛される主人公の行為は「良き人間」と把握されるのですが、これを自分とは違う「良き男性」と思うのなら、女はたしかに人間社会から疎外されているが、おやおや、ほんとかい、とひとりごと。
 と思って、気晴らしに手に取ったのが借りてきたジョアナ・ストラットン「パイオニア・ウーマン」講談社学術文庫。アメリカ西部開拓史上の女性の回想録800人分というすぐれもの。
 余談だけど、これは良い本。こんなにアメリカのことがわからせてくれる本もない。社会科学徒にはぜひお薦め。
 元に戻って、いや、これは変だぞ。この書では女性はちゃんと自立しているではないか。
 と再度思えば、私が読んだ若草物語だって、少女パレアナ(ポリアンナ)だって、赤毛のアンだって、その主人公にいたく感心したけれど、別にそれは女性に限らず「良き人間」のことだと読み取っていたし。どこにも「女性性」と限定する要素はない。なら女に対する男主人公もおんなじなんじゃないの?
 だいたいそもそも、男が人間の生き方を男のものとして自認するとして、じゃあ論者は、女の何をもって「女性性」と自認するのでしょうか。残念ながら、他人たる男性の批判ばかりでなにもわからない。しかも「男性一般」とか、「当時の」男性一般レベルで論が立っているから、関係ない男性たる私としてはすこぶる愉快ではない。
 かくてこれは想像の域を出ない文学的評論でありましょう。
 
1 問題の所在
 皆様ご存じないでしょうが、昨今「男性性」の論というのがあちらこちらにあるのです、って学会誌も紀要もとってないので、この10年前くらいまでのはなし。世の中には「日本の男性の心理学」なる本もあって、余計なおしゃべりがえんえんとされているのですが意味が不明です。なんだよ、男性一般て。そんなのはすべて私の心理とは一致しない。隈は男じゃなくて悪かったな。正しい題を教えてあげよう。『現代日本の男性意識(2000年前後)』とすればだれも誤解しない。男性性じゃない。ただの意識調査の諸結果。 
 で、それなのに各論者はなぜ「ジェンダー(性別が社会的に持つ意味)」を問題にするのでしょうか? その事情が人間の十全な生を損ねているからではないのですか? であるならばそこに、なぜ損ねているのか、どう損ねているのか、それを明らかにしようとする主体的能動的理論見地がなければ、結果はただの論文棚の肥しにしかならない。

2 有益な視座下における男性性の根拠
 差別の源泉は「支配」です。もちろん男女の区別が差別となるのも同様。男は権力を歴史的に握っているのです。   
 ただし、権力者の後継であることはなんら特権ではありません。「特権」とはただの評者の価値判断の言に過ぎません。権力者の後継者は、その存在に当然「社会的事情」が「一般的に」付与される。それは当人には迷惑でもありうるわけで、単に「社会とはそういうものだ」ということだ、と認識するのが正しい。そしてその要請、正確には男への行為への指示は、思春期までの一年一年、365日続いていき、さらにそれが規範となっている社会の中で確認され続ける。そしてその後継形態がその当時、その地域での「男性性」となるわけです。なんら一時のイデオロギーが作るわけではない。
 他方、女性は長ずるに従い、その眼前に、男性権力者が構築した排除の壁が立ちふさがる。今まで自分も仲間だと思っていた社会に拒否されます。この時点において、男性性は男性性として女性に向かって発生するでしょう。これらはイデオロギーの問題でも、人の考え方の問題でもありません。
 では世間でいう「男らしさ」のイデオロギーは存在しないのか、といえばもちろん存在します。それはイデオロギーを発することが自己の行為の強化になる一群の人々において存在し、発せられます。武力(暴力)行使に連なるイデオローグとその行使者であり、これに乗っかる表現者、たとえば作詞家、あるいは体育会指導者です。

3 男性性の行為者が持つアドバンテージ
 めんどうなことに、先に述べた支配上・制度上の優越のほかに、男性性は、反支配上でもアドバンテージを有します。
 他者と賞賛と優越が同じであるという自信に揺るがない者は、「社会の価値」をバカにしえます。「社会」に胸を張って歯向かえる。一方、社会の価値なるものが、決して「自分が含まれる」社会のものではないと認知している者にとっては、社会の価値は、これを揺るがせないものとして、端的に言えば、絶対的です。かくて「おしとやかな女性」が発生します。
 この態度特性が作る対抗システムは、それぞれの陣営に各ジェンダーを押し込めることを促進するでしょう。
 もっとも、「父」の恩寵を受けた女については、自己の超自我的賞賛と優越は内在化しえることでしょう。ただのパーソナリティ次元の話ではありますが、ジェンダー性からはみ出る現象ではあります。

4 下位体系における男性性の分析特性
 さてしかし、これらは具体性のレベルの論理で引きずりだした結論ではありません。全体社会システムの論理です。具体性のレベルでは、各男性がいかにその行為対応を強いられ、各女性がいかにその手前で排除されているか、といった現象の把握しかできません。
 ではありますが、具体性のレベルでは、その行為対応のイデオロギー位置(づけ)の変換方途やその壁を崩す各戦線の同レベル性の眼前化を示すことができます。
 年寄りの「時代遅れ」の言への対応に、具体的にどんなメディアイデオロギーを結集させるか、そうしたことは全体的視座からは出てきません。あるいは、女性の戦線には右翼も左翼もない、はずの原則を、具体的に実現する社交で提起できます。 
 諸デマゴーグの思いとは異なり、(行為論的自由への渇望という)同じ原動力を持つ人間にとって、状況の把握は、変革のためのそれ以上の饒舌を必要とはしないのです。
 
   と書いて、さて、この文が所属するブログ・カテゴリーは何だろう?
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雑件少々 | トップ | 社会と具体的行為主体 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

行為」カテゴリの最新記事