こんにちは。東京地方は秋晴れが続くといっていい今日この頃、青空だと気分がいいなあ。土日お休みの方はおでかけ?
午前中出てふと「パパの子連れ多いねえ、、」と思いました。世話焼きパパ。共稼ぎのせいかねえ。私など父親とは夏と正月くらいしか会いませんでしたが。あと墓参りに大掃除、、案外会ってるか(p.s. 墓参りは幻覚)。ま、父親なんてそんなもんでいいでしょ。いらっしゃらない方のことはわかりませんが。
さて、本日のニュース、はなくて、報道だね。面白そうな映画が。
『ウルフウォーカー』アイルランド・アニメ。
あらすじ
「中世アイルランドの町キルケニー。イングランドからオオカミ退治のためにやって来たハンターを父に持つ少女ロビンが、森の中で友だちになったのは“ウルフウォーカー”のメーヴだった。人間とオオカミがひとつの体に共存し、魔法の力で傷を癒すヒーラーでもある彼女とロビンが交わした約束は、、」(公式)
昨日から。YEBISU GARDEN CINEMA 他。1県で1か所もやってないね。地方の方は大変。わたしはテレビ落ち待ちだけど。
昨日のyahoo1面写真で、
「落ち葉の中からこんにちは、愛嬌たっぷり「埋もれタヌキ」」(読売新聞)。
おおっ、かわいい。もふもふ。動物園のせいか毛並みもきれい。
帯広動物園のエゾダヌキだって。これはちょっとファンになるね。
タヌキはいいけど、ここんとこ、私の大好きなクマの便りがみんな哀しい。あっちでもこっちでも「駆除しました」。
クマがどうのって、被害を受けた方には申し訳ないが、ちょっと図体がでかい子供がわけわかんなくて現実と格闘してるだけじゃん。どうみたって里の人間も優しそうだし、実際優しいし、甘えてみたくもなるでしょ。人が死んではいけないが。
今年はドングリが少ない、という理由はそれとして、そもそも住宅地と山が近くなってるというより、里の暮らしが優しくなったんだと思うんだけどね、知らないけど。人の良さそうな人たちの暮らしは、遠くから見ても怖くないからね、クマだってわかると思う。
さて、お役立ち情報もないまま、本日はオタク記事。
しかも千人の社会学徒のうちで問題意識がわかる人は1人以下であろうというオタクさ。しょうがないね、みんながわかるようなテーマは私は全部終わったし。あとは落穂拾い。
「落穂拾いは貧しい者の特権」って、最近流布されちゃったと思っていいかな? あれ、拾ったら自分のものにしていいんだって。まあいいや。
で、佐藤洋子「女の子はつくられる」、白石書店、1977.という本を読みまして、女の子は学校等でつくられるんだ、と朝日新聞が連載した昔の記事の本。
新聞記者って、こういう偉大な業績がときどきあるんだよね。しかし偉大とはいえ、新聞記者。私などが読むと、これって結局、社会の圧力が教科書会社や教師その他に伝わって、子供が女になっていくって書かれてるじゃん、と解するしかない。
女の子は教育を媒介として女になっていく、というまあ当たり前な。
しかし、これを当たり前と言っては実はこの本の意義が失せる。この本はそうではなく、媒介過程の後半を具体的に明らかにして見せた、というわけです。
そっか、じゃあこの前半と後半を足せばトータルに捉えられるんだね、めでたしめでたし
とはいかない。そんなことでは何一つ科学にはならない。
ところがそれで手打ちを重ねてきたのがこれまでの諸社会学です。だから社会学は科学になれない。
そら言ったことか。ここで999人の社会学徒は脱落ですね。「いいじゃん、二つ合わせりゃ」。
次元の違うものは一つになりはしない。ここでの次元とは何か。行為主体の存在次元です。これが違っても受け身で聞いている学生生徒諸君は気が付かないし。さらに講義している教授でさえ気にならない。
社会学が科学である限り、現実を変えることができなければならない。社会が変わって、社会から媒介的教育要素に働きかけるのを待っているわけにはいかない。
もちろん全体社会理論では、「全体社会を変えればよい」といえば済むし、せいぜい「そのために女性も階級闘争に決起せよ」とか自分に都合のいいアジテーションを飛ばしておけば済む。他方、学校理論では、「教師や親が気をつ男女平等に反する教育やしつけを排除していかなければならない」ということになる。そして両者悪口を言い合う。かたや、「なんだ社会がどうのって。現実の教育を変えずに能書きを垂れるな」。他方、「何言ってるんだ、無知はこれだから困る。両目を開けて社会をよく見ろ」。
悪口ならまかせてちょうだい。
ともかく一緒になどなりはしない。その願望には理論などありはしない。
じゃあどうするって。
つまり、仮に、社会vs教育(関係機構関係者)という関係と、教育(関係機構関係者)vs生徒という2通りの上下に並んだ平面が2セットがあるとしたら、この3つの構成素を縦に縦断する一つの関係平面が必要だ、というわけです。
しかしまあ、それもとりあえず都合のいい形式論議で、じゃあ、全体社会と教育と生徒を通して生きる人間がいるのかよ、ということになる。まあ教師と生徒は別の人間だし。
というわけで、この関係平面、抽象化した規定性に変換してからでないと作れない。
もちろん抽象的な論議はいくらでも可能なので、「へえ」てなもんですが、考えもなしの言葉の羅列はただの説明に過ぎない。それこそ「社会学」ですな。そんなもの「操作」などできやしない。
ではそれでも操作可能にするにはどうするか。そうした規定性を生きている人間たちとつなげる工程をプラスする。それが事実認知です。
人の事実認知が各規定性につながり、その規定性が各体系に及ぼす事象を叙述することにより、人は各個人の具体的事実認知によって、具体的世界の将来を透視することができる。
要は登場人物を生かしたまま、ある時点ある時点の人物の認知とその変更を叙述し、その認知に及ぼす規定性と規定性の変更が認知を変えるさまをあらわにする。
こうして登場人物を見た理論認識主体は、その人物の動きを、今現在自分の問題となっている事象とその登場人物に当てはめることができる、というわけです。
これは学校に限らない、家族、企業、労働組合、その他の下位体系にも適用されるべき
認識法なのです。
まあ、抽象的だね。具体化しないといけない。
でもとりあえず書いておけば誰かが引き継ぐことができる、可能性がある、というわけです。私のすべての著作と意味は同じ。
とゆうようなことを言うと、中年の人は、「退職者はいいな、ヒマで」、と思うかもしれませんがそうでもない。上記のことなどはアイロンをかけたりトイレに行ったりする間に0.2秒考えればできる。その0.2秒への集約ために通勤時間や昼食時間を事前準備として使えばいいだけのことです。アイロンを熱したまま茫然としないようにしてください。
午前中出てふと「パパの子連れ多いねえ、、」と思いました。世話焼きパパ。共稼ぎのせいかねえ。私など父親とは夏と正月くらいしか会いませんでしたが。あと墓参りに大掃除、、案外会ってるか(p.s. 墓参りは幻覚)。ま、父親なんてそんなもんでいいでしょ。いらっしゃらない方のことはわかりませんが。
さて、本日のニュース、はなくて、報道だね。面白そうな映画が。
『ウルフウォーカー』アイルランド・アニメ。
あらすじ
「中世アイルランドの町キルケニー。イングランドからオオカミ退治のためにやって来たハンターを父に持つ少女ロビンが、森の中で友だちになったのは“ウルフウォーカー”のメーヴだった。人間とオオカミがひとつの体に共存し、魔法の力で傷を癒すヒーラーでもある彼女とロビンが交わした約束は、、」(公式)
昨日から。YEBISU GARDEN CINEMA 他。1県で1か所もやってないね。地方の方は大変。わたしはテレビ落ち待ちだけど。
昨日のyahoo1面写真で、
「落ち葉の中からこんにちは、愛嬌たっぷり「埋もれタヌキ」」(読売新聞)。
おおっ、かわいい。もふもふ。動物園のせいか毛並みもきれい。
帯広動物園のエゾダヌキだって。これはちょっとファンになるね。
タヌキはいいけど、ここんとこ、私の大好きなクマの便りがみんな哀しい。あっちでもこっちでも「駆除しました」。
クマがどうのって、被害を受けた方には申し訳ないが、ちょっと図体がでかい子供がわけわかんなくて現実と格闘してるだけじゃん。どうみたって里の人間も優しそうだし、実際優しいし、甘えてみたくもなるでしょ。人が死んではいけないが。
今年はドングリが少ない、という理由はそれとして、そもそも住宅地と山が近くなってるというより、里の暮らしが優しくなったんだと思うんだけどね、知らないけど。人の良さそうな人たちの暮らしは、遠くから見ても怖くないからね、クマだってわかると思う。
さて、お役立ち情報もないまま、本日はオタク記事。
しかも千人の社会学徒のうちで問題意識がわかる人は1人以下であろうというオタクさ。しょうがないね、みんながわかるようなテーマは私は全部終わったし。あとは落穂拾い。
「落穂拾いは貧しい者の特権」って、最近流布されちゃったと思っていいかな? あれ、拾ったら自分のものにしていいんだって。まあいいや。
で、佐藤洋子「女の子はつくられる」、白石書店、1977.という本を読みまして、女の子は学校等でつくられるんだ、と朝日新聞が連載した昔の記事の本。
新聞記者って、こういう偉大な業績がときどきあるんだよね。しかし偉大とはいえ、新聞記者。私などが読むと、これって結局、社会の圧力が教科書会社や教師その他に伝わって、子供が女になっていくって書かれてるじゃん、と解するしかない。
女の子は教育を媒介として女になっていく、というまあ当たり前な。
しかし、これを当たり前と言っては実はこの本の意義が失せる。この本はそうではなく、媒介過程の後半を具体的に明らかにして見せた、というわけです。
そっか、じゃあこの前半と後半を足せばトータルに捉えられるんだね、めでたしめでたし
とはいかない。そんなことでは何一つ科学にはならない。
ところがそれで手打ちを重ねてきたのがこれまでの諸社会学です。だから社会学は科学になれない。
そら言ったことか。ここで999人の社会学徒は脱落ですね。「いいじゃん、二つ合わせりゃ」。
次元の違うものは一つになりはしない。ここでの次元とは何か。行為主体の存在次元です。これが違っても受け身で聞いている学生生徒諸君は気が付かないし。さらに講義している教授でさえ気にならない。
社会学が科学である限り、現実を変えることができなければならない。社会が変わって、社会から媒介的教育要素に働きかけるのを待っているわけにはいかない。
もちろん全体社会理論では、「全体社会を変えればよい」といえば済むし、せいぜい「そのために女性も階級闘争に決起せよ」とか自分に都合のいいアジテーションを飛ばしておけば済む。他方、学校理論では、「教師や親が気をつ男女平等に反する教育やしつけを排除していかなければならない」ということになる。そして両者悪口を言い合う。かたや、「なんだ社会がどうのって。現実の教育を変えずに能書きを垂れるな」。他方、「何言ってるんだ、無知はこれだから困る。両目を開けて社会をよく見ろ」。
悪口ならまかせてちょうだい。
ともかく一緒になどなりはしない。その願望には理論などありはしない。
じゃあどうするって。
つまり、仮に、社会vs教育(関係機構関係者)という関係と、教育(関係機構関係者)vs生徒という2通りの上下に並んだ平面が2セットがあるとしたら、この3つの構成素を縦に縦断する一つの関係平面が必要だ、というわけです。
しかしまあ、それもとりあえず都合のいい形式論議で、じゃあ、全体社会と教育と生徒を通して生きる人間がいるのかよ、ということになる。まあ教師と生徒は別の人間だし。
というわけで、この関係平面、抽象化した規定性に変換してからでないと作れない。
もちろん抽象的な論議はいくらでも可能なので、「へえ」てなもんですが、考えもなしの言葉の羅列はただの説明に過ぎない。それこそ「社会学」ですな。そんなもの「操作」などできやしない。
ではそれでも操作可能にするにはどうするか。そうした規定性を生きている人間たちとつなげる工程をプラスする。それが事実認知です。
人の事実認知が各規定性につながり、その規定性が各体系に及ぼす事象を叙述することにより、人は各個人の具体的事実認知によって、具体的世界の将来を透視することができる。
要は登場人物を生かしたまま、ある時点ある時点の人物の認知とその変更を叙述し、その認知に及ぼす規定性と規定性の変更が認知を変えるさまをあらわにする。
こうして登場人物を見た理論認識主体は、その人物の動きを、今現在自分の問題となっている事象とその登場人物に当てはめることができる、というわけです。
これは学校に限らない、家族、企業、労働組合、その他の下位体系にも適用されるべき
認識法なのです。
まあ、抽象的だね。具体化しないといけない。
でもとりあえず書いておけば誰かが引き継ぐことができる、可能性がある、というわけです。私のすべての著作と意味は同じ。
とゆうようなことを言うと、中年の人は、「退職者はいいな、ヒマで」、と思うかもしれませんがそうでもない。上記のことなどはアイロンをかけたりトイレに行ったりする間に0.2秒考えればできる。その0.2秒への集約ために通勤時間や昼食時間を事前準備として使えばいいだけのことです。アイロンを熱したまま茫然としないようにしてください。