リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

上位体系と下位体系という2視点の接続法

2020-10-31 14:31:21 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方は秋晴れが続くといっていい今日この頃、青空だと気分がいいなあ。土日お休みの方はおでかけ?
 午前中出てふと「パパの子連れ多いねえ、、」と思いました。世話焼きパパ。共稼ぎのせいかねえ。私など父親とは夏と正月くらいしか会いませんでしたが。あと墓参りに大掃除、、案外会ってるか(p.s. 墓参りは幻覚)。ま、父親なんてそんなもんでいいでしょ。いらっしゃらない方のことはわかりませんが。
 
 さて、本日のニュース、はなくて、報道だね。面白そうな映画が。
『ウルフウォーカー』アイルランド・アニメ。
 あらすじ
「中世アイルランドの町キルケニー。イングランドからオオカミ退治のためにやって来たハンターを父に持つ少女ロビンが、森の中で友だちになったのは“ウルフウォーカー”のメーヴだった。人間とオオカミがひとつの体に共存し、魔法の力で傷を癒すヒーラーでもある彼女とロビンが交わした約束は、、」(公式)
 昨日から。YEBISU GARDEN CINEMA 他。1県で1か所もやってないね。地方の方は大変。わたしはテレビ落ち待ちだけど。

 昨日のyahoo1面写真で、
「落ち葉の中からこんにちは、愛嬌たっぷり「埋もれタヌキ」」(読売新聞)。
 おおっ、かわいい。もふもふ。動物園のせいか毛並みもきれい。
 帯広動物園のエゾダヌキだって。これはちょっとファンになるね。
 タヌキはいいけど、ここんとこ、私の大好きなクマの便りがみんな哀しい。あっちでもこっちでも「駆除しました」。
 クマがどうのって、被害を受けた方には申し訳ないが、ちょっと図体がでかい子供がわけわかんなくて現実と格闘してるだけじゃん。どうみたって里の人間も優しそうだし、実際優しいし、甘えてみたくもなるでしょ。人が死んではいけないが。
 今年はドングリが少ない、という理由はそれとして、そもそも住宅地と山が近くなってるというより、里の暮らしが優しくなったんだと思うんだけどね、知らないけど。人の良さそうな人たちの暮らしは、遠くから見ても怖くないからね、クマだってわかると思う。
 
 さて、お役立ち情報もないまま、本日はオタク記事。
 しかも千人の社会学徒のうちで問題意識がわかる人は1人以下であろうというオタクさ。しょうがないね、みんながわかるようなテーマは私は全部終わったし。あとは落穂拾い。
 「落穂拾いは貧しい者の特権」って、最近流布されちゃったと思っていいかな? あれ、拾ったら自分のものにしていいんだって。まあいいや。
 
 で、佐藤洋子「女の子はつくられる」、白石書店、1977.という本を読みまして、女の子は学校等でつくられるんだ、と朝日新聞が連載した昔の記事の本。
 新聞記者って、こういう偉大な業績がときどきあるんだよね。しかし偉大とはいえ、新聞記者。私などが読むと、これって結局、社会の圧力が教科書会社や教師その他に伝わって、子供が女になっていくって書かれてるじゃん、と解するしかない。
 女の子は教育を媒介として女になっていく、というまあ当たり前な。
 
 しかし、これを当たり前と言っては実はこの本の意義が失せる。この本はそうではなく、媒介過程の後半を具体的に明らかにして見せた、というわけです。
 そっか、じゃあこの前半と後半を足せばトータルに捉えられるんだね、めでたしめでたし
 とはいかない。そんなことでは何一つ科学にはならない。
 ところがそれで手打ちを重ねてきたのがこれまでの諸社会学です。だから社会学は科学になれない。
 
 そら言ったことか。ここで999人の社会学徒は脱落ですね。「いいじゃん、二つ合わせりゃ」。
 次元の違うものは一つになりはしない。ここでの次元とは何か。行為主体の存在次元です。これが違っても受け身で聞いている学生生徒諸君は気が付かないし。さらに講義している教授でさえ気にならない。
 社会学が科学である限り、現実を変えることができなければならない。社会が変わって、社会から媒介的教育要素に働きかけるのを待っているわけにはいかない。
 もちろん全体社会理論では、「全体社会を変えればよい」といえば済むし、せいぜい「そのために女性も階級闘争に決起せよ」とか自分に都合のいいアジテーションを飛ばしておけば済む。他方、学校理論では、「教師や親が気をつ男女平等に反する教育やしつけを排除していかなければならない」ということになる。そして両者悪口を言い合う。かたや、「なんだ社会がどうのって。現実の教育を変えずに能書きを垂れるな」。他方、「何言ってるんだ、無知はこれだから困る。両目を開けて社会をよく見ろ」。
 悪口ならまかせてちょうだい。
 ともかく一緒になどなりはしない。その願望には理論などありはしない。
 
 じゃあどうするって。
 つまり、仮に、社会vs教育(関係機構関係者)という関係と、教育(関係機構関係者)vs生徒という2通りの上下に並んだ平面が2セットがあるとしたら、この3つの構成素を縦に縦断する一つの関係平面が必要だ、というわけです。
 しかしまあ、それもとりあえず都合のいい形式論議で、じゃあ、全体社会と教育と生徒を通して生きる人間がいるのかよ、ということになる。まあ教師と生徒は別の人間だし。
 というわけで、この関係平面、抽象化した規定性に変換してからでないと作れない。

 もちろん抽象的な論議はいくらでも可能なので、「へえ」てなもんですが、考えもなしの言葉の羅列はただの説明に過ぎない。それこそ「社会学」ですな。そんなもの「操作」などできやしない。
 ではそれでも操作可能にするにはどうするか。そうした規定性を生きている人間たちとつなげる工程をプラスする。それが事実認知です。
 人の事実認知が各規定性につながり、その規定性が各体系に及ぼす事象を叙述することにより、人は各個人の具体的事実認知によって、具体的世界の将来を透視することができる。
 要は登場人物を生かしたまま、ある時点ある時点の人物の認知とその変更を叙述し、その認知に及ぼす規定性と規定性の変更が認知を変えるさまをあらわにする。
 こうして登場人物を見た理論認識主体は、その人物の動きを、今現在自分の問題となっている事象とその登場人物に当てはめることができる、というわけです。
 これは学校に限らない、家族、企業、労働組合、その他の下位体系にも適用されるべき
認識法なのです。

 まあ、抽象的だね。具体化しないといけない。
 でもとりあえず書いておけば誰かが引き継ぐことができる、可能性がある、というわけです。私のすべての著作と意味は同じ。
 
 とゆうようなことを言うと、中年の人は、「退職者はいいな、ヒマで」、と思うかもしれませんがそうでもない。上記のことなどはアイロンをかけたりトイレに行ったりする間に0.2秒考えればできる。その0.2秒への集約ために通勤時間や昼食時間を事前準備として使えばいいだけのことです。アイロンを熱したまま茫然としないようにしてください。



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良く言って理解を超えた人々

2020-10-24 10:50:21 | 断片
 こんにちは。東京地方、天気予報が当たりません。今日の予報は曇りが快晴になり、現実は足して2。
 それでも雨と曇りの毎日は終わったもよう。いよいよ秋かな。
 もっとも青果で安いのは柿だけ。梨は高いまんま終わりそう。わたしゃ記念に一つ食べただけ。 ブドウも高けりゃリンゴも高い。イチジクもクリも姿さえ出ない。
 世の中、町のスーパーだけがもうかってそう。そちらでも青果は、100円の次の値段は110円じゃなくて159円でしょ? その上は198円でそれを越すと299円さ。商品は適正に売ってほしいものだ。
 
 大坂都、またやってるね。今度は通りそうだって。
 前も言ったように、私は地方自治否定派なので結構なことです。
 とはいえ、住民投票ってなんだね。みんな嘘ばかりついてるのに。
 サービスなんか良くなるはずないじゃん。経済的だって嘘を言うやつの嘘がばれないためにサービスは縮小されるのさ。こんなの理屈だよ。仕事がダブってる奴なんか市長以外はそもそもいやしないんだから。とはいえ予算削減の第一歩は、水道事業の一括委託だろうね。それでサービス向上など聞いてあきれる。
 ところでもし賛成派の通りなら日本全国、市町村なんてなくすべきじゃないかい? 理屈でしょ? そんな理屈も隠し通して、隠し通せるところもバカじゃないかい?
 なのに、対象は大阪市だけ、って何? せめてほかの府内の市も全部やれよ。
 ダブってるのは権力だけ。市長の権力と府長の権力のダブりだけ。この前も言ったけど、違うのは(市区)長の権限だけなのだよ。
 賛成派も反対派もそんなこと言いやしないけどね。どちらもその権力が欲しいの。
 しかし、これも誰も言わないが、せっかく一つの市が4つに分かれたら、それこそ行政の分断だぜ (p.s.2日後、自民党議員が言っているのを発見。ま、だれでもわかるし。言うか言わないかだけ)。「区」ならなんとなく下っ端そうに聞こえるが、そりゃ大きな間違いだ。人間の権力欲たるやそんなもので収まりはしない。
 ほんと嘘つきばっかり。
 あるいは維新の奴らって、特別区を行政区だと思ってたりするんじゃないかい? あんまり頭よさそうもないしね。嘘つきかバカか、2択だね。
 もっとも、だから私も神奈川県川崎市民ながら賛成、田舎の市長なんざロクなやつがいるはずもない。そんなのに権力を渡すことはない。ま、これは経験則なだけで誰というわけではありません。川崎市もなくしちゃえよ。わたしゃ困るけどね、川崎市図書館の本が横浜市並みに減ったら泣いちゃうよ。
 というふうに、逆に言えばカネがあって文化的な長がいればそこの住民だけは安泰。
 東京といえども、区部と市部じゃあカネ回りが違いすぎるからねえ、公平のために23区もつぶして行政区にするしかないさ。そこで、さ、行政区の上の自治体って、「市」だろ? 東京市復活さ。わけわかんね。
 だからさ、焦点は「長の権力」だけなの。嘘はやめたまえ。

 今日はこんなニュースもあったよ。
「「東京23区外なんて山梨だよ」と言われた立川市民、区外の素晴らしさについて共感求める」(キャリコネニュース)。
 別に山梨でいいじゃんか。意味不明。
 とはいえ、オタク系が住むには23区イチオシ。文化充実度が違いすぎ、図書館とそこの本の数のことだけどね(注。なお、市部でも区部の本は取り寄せられはします。めんどうなだけで)。
 それも、地方の人には山手線周辺+大田区がいいよ。ほかは住宅街かビル街で、心が寂しいからね。高いから狭いのはとりあえず我慢して、東京に慣れたら安さを求めて遠くへ移ったらいい。
 
 さて、しこしこゲラ校正やってますが、ほんとあっちこっちイヤミ(悪口)が隠されていて、疲れちゃうよ。われながら天性のイヤミ作家のように思うぞ。さらに、こんな個別のイヤミ直したって、地が攻撃的な文章なんだからおんなじだぞ、という心の声にも抗さないといけないしね。めんどう。

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ぶつくさ

2020-10-17 13:34:17 | 断片
 こんにちは。寒いっすねえ。
 ころころ気温が変わるんで時候の挨拶もしづらいね。相変わらずは天気の悪さだけ。
 今日は午後出かけようかと思ったけれど、午前中、医院でインフルエンザワクチンしたら気も体も疲れちゃった。年寄り枠の無料接種したら、年寄りになっちゃったよ。

 というわけで、少しだけ気を取り直して、
 まずはご報告。シャツをネットで買おうとしてアマゾンや楽天、その他をみたら、そのシャツの広告がいつまでもしつこくついて回る。とうとう頭にきてネット履歴を消しました。対象はedge。履歴を消したらネットコマーシャルの世界が豊かになったことといったら。こんなに楽しい世界だったのか。ほんとしつこくて不愉快だったぜ、どことはいわないが。
 ちなみに、edgeの場合、消す範囲の期間が出るので、クーキー使ってる普通の人は「1ケ月以後」とかにしといたほうがいいです。そうでないとパスワード記憶とか消えちゃう(はずな)ので。

 ニュースです。
「契約社員の手当・休暇格差「不合理」と判断 最高裁」(日経)。
 まずはよかったことだけれど、結局よろこんでも正社員と契約社員等の階層化という現状の追認になってしまうというのも淋しい。
 しかも正社員と契約社員、実は仕事は同一ではないところがほとんどだと思うし。いや同じだ? そう見えるだけで、正社員は仕事の仕事たる美味しいところ、つまり「仕事の成果」(自分が企画をしたことの結果というそれ、また会社に対するそれ)、をみんな取ってしまっていると思うぞ。仕事なんてほかに面白いことなんかないだろうし。

 同じことの表れで、こんなのもあります。
 「テレ朝「スーパーJチャンネル」やらせで謝罪 スーパー密着取材も客5人がディレクターの知人」(スポーツ報知)。
 ディレクターといっても下請けの会社の人。テレビ局の要求がきびしすぎるから、なんでもやっつけてしまうしかないのだと。
 若い人だけでなく、自分の趣味の質問票で調査している産業社会学者も知らないころですが、これが全部自社制作の時代ならそんなことはありえなかったのですよ。みんな身内だからね。明日は我が身。今は、美味しいとこだけ取る、というよりも、嫌なことは全部下請けに押し付ける、というのが正しい。ふんぞりかえって怒っていれば仕事が済む。
 それはテレビ業界の話ではなく、すべての業種の話。やりたくなければ全部委託。おかげで「つまらない仕事」が競争のなかで「非人間的な」仕事に代わる。ま、調査はしてませんけどね。
 もちろん、どの現場でも「人にそういわれれば」誰でも知ってる当たり前の事実ですが、それは正社員的には「言いっこなし」だからね。
 誰が作ったんだ、こんな世界。
    時々の裏切り者だと思ってるけどね。

 別のニュース。
 「巣立ちして間もないカラスのひながこの夏、東京・江戸川区と葛飾区の区境にある畑に棲みついた。羽を失い、大空に羽ばたくことはできない。いじらしい姿に、近隣住民が餌を与え始めた。声をかけると「かー」と鳴く。いつの間にか名がついた「かーくん」は近所の人たちの共通の話題に。畑の前は井戸端会議に花が咲いた。都会のカラスは厄介者として扱われることも多いが、かーくんは違った。最期まで懸命に生き、住民たちに「命の尊さ」を教えた。」(産経新聞)
 近所の人が世話をして、大雨には耐えられたけど炎天で死んでしまったって。3か月の命。
 人間て、片方じゃカラスを巣ごと捨てたりするくせに、もう片方じゃこういうことをする。子供のころ変だと思ったけどね。学生さんにもウケない話でしょ。
 でも、人間はこれが正しい。人間も、大人は、文字通り、必死に生きているからね。命が問題なんじゃないんだね。どうせ、人間も明日は死ぬし。そうじゃない。頑張って生きているのは自分だからね、助けてほしい時は自分を、あるいは家族を、心を込めて助けるものなのです。
 「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」、ライオンだってトラだってクマだって、みんな同じ。
 そんな行為が偉いと言ってるわけではない。そんなものは哺乳類なら当たり前だ、といってるだけ。でも、当たり前で悪いというわけはない。そんなものに個性はいらない。当たり前でもいいことはある、ということです。
    みんな必死なのに、それを尻目に自分だけ「成功」してるやつもいるし、正々堂々と連帯的に「落ちぶれる」人もいる。。まあ、周りは見てるけど、自分だけ得意げで気づいてないのが不愉快だね。

 さて、今日はオタク話はなし。
 本日のお役立ち情報。
 マツタケの季節です、が、高すぎて何かの拍子でしか買えはしないところ、去年、エンリギご飯を作ったらそこそこおいしく、これにマツタケの匂いを付けたらそれで最強ではないかと思いました。
 ので、今年は「永谷園の松茸風のお吸い物」を買ってやってみましたぜ。
 小さめのエリンギはまつたけそっくりともいえます。これをマツタケじゃやれませんが贅沢に厚めに切って、吸い物の(具は外して)粉を1合あて1袋。追加でお酒とお醤油少々。
 さて、美味しいマツタケご飯が、、、できません。
 わたしゃ舌はチープですが、匂いにはエクスペンシブ。くっせえ。
 炊飯器の湯気の匂いがまず、なんじゃこりゃ。味は? って、どこがマツタケ。
 ぜんぜんおすすめしません。
 中国産でもカナダ産でも、マツタケは清水の舞台から飛び降りてくださいませ。

  さて、次回作、初回校正ができてきました。
  なんとか原稿に残っている悪口を消して、上品に加工する予定です。
  が、今日はまず一休み。
 
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行為理論と領域社会学(その2)

2020-10-10 11:11:22 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、突然寒くなってきました。台風後の暑い日も今回は期待できそうもなく、冬用の布団のお支度を、といっても関東地方、雨で干せませんが。
 
 日常の話題。ここんとこパソコンのコマーシャルがひどくて。ちょっとアマゾンでも楽天でも買い物を探すといつまでも画面に出てきやがる。スマホの方には関係ないことですが、誰が買ってやるか、って気がするのは私の性格だけのせいでしょうが。
 2か月前パソコン代えてから(windows10)、とみに一層ひどい。何万も出して買ったのに、これじゃ企業のレンタルパソコンです。
 昔はよかったんですよ、20年以上前。いつもパソコンに挨拶して使ってました。終わるときも挨拶して終わるの。画面に「おはよう、元気?」とか「さよなら、またね」とかまあ色々出るのね、windows起動時の「ようこそ」が昔の習わしの名残りだけどね。
 うそつけって、ほんと。みんな自分で作ったんだもんだよ、私の場合も自分で作ったからほんと。AUTOEXEC.BATっていってね。自分で書き入れるだけ。人間挨拶が大事だからね。自分で作るったって、それだけに仮もんじゃない、文字通り世界で一つのパソコン。
 ただ、もうこのバッチファイル使えないんだよね、10数年前で終わり、その時点で、米帝の世界支配が決まったのさ。うそだけど。

 ニュース。
 「南陽市川樋でクマを目撃し、クマよけの鈴で追い払うなどした同市中川小2年の土屋心聖(ことせ)さん(8)が7日、山形新聞の取材に応じ、「(一緒に下校していた1年生の)小さな2人を守らなきゃと頑張った」と当時の状況を振り返った。」(山形新聞)
 偉いぞ、お前。アメリカだかでも妹を猟犬から守ったガキのことがでてました。その子は代わりに噛まれて治療90針だと。子供はいつの日にも、未来の希望ですね。
 
 引用省略、例の学術会議の「学問の自由」問題。
 わたしゃネットウヨの感性はしみじみわかると自認しているのですが、この「問題だ」というタテマエも噴飯物ですね。なにが「学問の自由」さ。そんな冗句がスローガンになると思っている年寄りと共産党の気が知れない。学術会議など解散しちまえ。「中立の偉い学者集団」!!! 100年生まれる時代を間違ってるよ。
 もちろん、とりあえず政府が悪いのだけれど、それには「嘘つき」だと事実をいうしかない。
 しかしここで、問題とすべき比重はそんなことではない、そんな虚構の「正義の」「学問集団」は潰す。これはウヨではなく「フツウの」感性ですぜ。河野に好き勝手にやらせるなよ、お役所審議会に変えようとしてるんだから。そもそも初めから潰す。審議会は中立の仮面を剥いで自前で作らせる。見てる朝日新聞社員はわかってますか? なお、自称左翼はわからなくてよい。見放してるから。
 
 もうトランプが元気になったって?
 つまりだ、人はコロナに罹っても
 高熱を押して通院したり、4日も寝てからPCR検査に出かけたりせずに
 早期から酸素が足りなくなれば吸入させて肺の負担をとり
 抗体医薬を服薬し、レムデシビルとデキメタゾンを投与されていれば
 74歳でもすぐに治る
 というわけです。
 良かったじゃないか、人民。ケチなこといわせないで、GOTOのカネ回して病床作って、人は自由に往来すればいい。差別主義のアメリカじゃ無理だけどね。
 それにしてもテレビで「ウイルスには薬が効かないからほっておくしかない」とか宣伝しまくったやつらはなんなんだ?
 病院でほっとくしかなかった医者は胸が痛んだろうし可哀そうですが、だからって、政府のお先棒担いでデマ流してやる気を殺いだのは恥ずべき罪悪でしょう。馬鹿にされてもアメリカじゃ、がんばってなんとかしたってわけで、偉い。
 
 別な話、東京の感染者の話ばかりしてるけど、川崎市というのは 全部で7区あるのだけれど、圧倒的に川崎駅近辺の感染者が多い。上野並みなんでしょうね。こういうの扱いが一緒というのも変だと思う。

 というわけで、前回延期の「2通りのハイフン社会学」。
 つまんないし、今日はもう長いので、簡便に趣旨だけ。
 
 その1)
 ハイフン社会学には本来の領域社会学である「農村」「家族」「産業組織」の社会学がある。これは「どの社会を研究するか」による、きわめて健全な分析主義による。
 
 その2)
 が、一方、そうではない「領域」である、「法」「政治」「経済」「教育」といった名詞が頭につく社会学がある。これは「どの社会」の問題ではない。もちろん法律家のように白を黒と言いくるめて「領域」に関連付ける言い訳もなされているが、それは決して本来ではない。それはそもそも評論でしかなかった名詞分野で、社会科学的味付けをしなければならない、というささやかな良心の結果である。(ただし、「数理社会学」という分野だけは、いうまでもなく議論の範囲外です。)
 それは当該の本来学に、社会に通ぜられない規定性を感じ取ったからである、研究者個人の意向は別として。
 「あ、こんな議論には根拠がない。常識が間違っている。何かが足りない。ほかに我々行為者への媒介的規定性があるのだ。これは領域とは別に研究しなければならない。」という事情である。
 
 その3)
 ではその規定性とは何か。
 第1に「行為共同性」である。筆者隈は、「政治(権力)」領域については「歴史としての支配」で、「経済」領域については次回作「資本主義と支配システム」において、名詞領域と行為論的社会学との関連を示した。
 そして第2が「事実認知」である。
 事実認知とは、書物やニュースで得られるものではない。目で見、耳で聞いた単語同士の連携には意味はないのである。それらの認知には、現実の身体の生理的神経刺激がセットされなければならないし、それは個人行為者の現実の日常、すなわち下位体系の人間関係の中でセットされるのである。
 というわけで、次々回論究「下位体系論」において、ようやく「法」領域は事実認知と社会制度の関連の解明によってクリアされる。
 なお、残った「教育」領域は、脳神経の発達の問題が脳科学分野で未解明であるため、筆者隈はこれ以降も関知しない。
 
 という、なんのことはない、次々回論究「下位体系論(女性差別の廃絶に向けて)」の宣伝でありました。
 
 なお、本題の(その1)は、当ブログ、2020-02-08 になります。
 
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本のおすすめ1件

2020-10-03 15:40:31 | その他
 こんにちは、お元気? わたしなどこの2,3日だけ鼻炎薬なし。体が楽でありがたいことで。クズ箱はチリ紙でいっぱいだけど。
 買い物に出るとマスク越しにキンモクセイの匂いが漂って来ます。匂いの分子は小さいんだね。東京では異常気象で名月も珍しく見えたりして。湿気で赤かったけど。いよいよ秋ですね。
 なんか連休明けの全国コロナも爆発してなさそうで。これなら今年の紅葉巡りも期待持てるかな。 
 とまあお天気話。ついでに、今日なら「目の前をちっちゃいネコバスがとおり過ぎて行きました」でネット検索するとミニネコバスが見えますよ。うまく撮ったものです。
 
 世間話ではディズニーランド新しくなったって? いいねえ、行きたいなあ、、でも生意気だからいいや。ぼりまくるし。
 
 さて今日は、「2通りのハイフン社会学」というお題で書こうと思ってたところ、午前中、長そでシャツの品定め検索してたら時間が足りなくなってしまいました。近くのスーパーだと(痩せ用の)Sサイズがなくて。前はちょっとはあったんだけどねえ、もうリアルショップで買うものなんて何もなくなっちゃいました。それは消費者私のせいではありません。
 
 なので、今日もおタク用書物推薦でお茶を濁します。
 古東哲明「ハイデッガー=存在神秘の哲学」。『存在と時間』書いた哲学者ね。
 そんなわけのわかんないもんやだ?
 それがさあ、読んだらびっくり、わかんないのが正しいんだって。わからないように書いてあるというか何も書いてないんだってさ。考える道筋だけが書いてあるから読んだって意味は通じないのだと。
 そうだよなあ、なんてわけのわかった立派な著者(古東氏)だろうと感心。
 で、ハイデッガーが言いたいのは、わたしの想像通りこの世の楽しみ方の人生訓なんだって。
    (「古東のどこに書いてあるよう」と言われそう、、ま、趣旨です)
 彼が説くのは「この世この生それ自体の輝き」の味わい方だと。すっきり。
 
 結局さあ、世界があると思えばハイデッガーのようなブルジョワは何も悩むことなんかないんだよね。もう禅の世界と一緒。どう受け入れるか、という問題だから、いくらでも座禅を組むといい。
 世界がないと思えば、あるのが確かな自分と自分の状況を見て
 1 意味を汲み取り続ける(西田幾多郎)
 2 与えられた状況を捨て、確かな自分の状況を作り生きる(サルトル)
 の2通りしか選択肢はない。どっちでも主観的な趣味の違いだけどね。
 まあ、先達はあらまほしきかな。結論は出てるし。
 
 でさ、古東氏の幼児期は「濃密なイマという瞬間と、無尽蔵のココという場所」だけがあったんだって、よく覚えてるね。大人はいつも明日のことばかり見てるって。それじゃあ「存在」はわからない、とのこと。
 こういうのはもう大人になった読者諸氏にはわからないでしょう。ところが年寄るとわかるんだね、これが。濃密で分け隔てのない出来事の連続であるイマ。それが悟りというものでしょう。ってボケて子供に帰っただけさね。
 
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