駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『アルカディア』

2016年04月29日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターコクーン、2016年4月26日マチネ。

 19世紀初頭、英国の豪奢な貴族の屋敷シドリー・パークの令嬢トマシナ・カヴァリー(趣里)は13歳10か月。家庭教師セプティマス・ホッジ(井上芳雄)に付いて勉強中の彼女は早熟で、天才的な頭脳と旺盛な好奇心を持ち、耳慣れない言葉を聞いてはセプティマスを質問攻めにしている。一方200年後の現代、同じくカヴァリー家の屋敷で、ハンナ・ジャーヴィス(寺島しのぶ)は庭園の歴史を調べていた。そこにバイロン研究家のバーナード・ナイチンゲール(堤真一)なる男が現われる…
 作/トム・ストッパード、翻訳/小田島恒志、演出/栗山民也。1993年ロンドン初演、2009年リバイバル上演、2011年ブロードウェイ上演。全2幕。

 貴族の屋敷を舞台に19世紀と現代が行き来し、やがて交錯する構造の作品で、作家がカオス理論に魅せられて書いたものだそうです。作家は思想劇と笑劇をカップリングしたい、とも語っているそうです。
 好評のようで、縁あって出かけてきましたが、私は残念ながらピンときませんでした。もしかして絶賛しているみなさまとは違うものを観てきたのかしら…なのでこの作品にすごく感動した、という方には以下読んでいただかない方がいいのかもしれません。くさすつもりはないのだけれど、まったく的外れな感想なのかもしれなくて恥ずかしいので。
 やっていることがわからないとか言いたいことがわからない、ということはない、つもりなのですが…おもしろく思えなかったというか、そういうことを描いた作品なら例えば他にもっといい作品を知ってるけれどな私、と思ってしまった、というか…うーん。
 私はプログラムを必ず買いますし、開演前にざっと目を通しますが、いわゆるあらすじとかストーリーのページはネタバレが嫌で読みません。そして観劇後にゆっくり読んで、「え? そうだったの?」とか「え? あの舞台をこんなふうな言葉でまとめちゃうの?」と思うことがままあります…今回もそうでした。
 このブログの記事の冒頭のあらすじはたいていそのプログラムから書き写していますが、今回はちょっと編集しました。最初の一文から「えええ? そう始めちゃうんだ???」というものだったので…そういう点も含めて、私はもしかしたらこの作品を大きく見誤っているのかもしれません。
 私は大学で物理学を専攻しましたが、今は物理とはまったく関係のない仕事をしていますし、大学での勉強なんか全部忘れました。大学受験までしか勉強しなかったしなー。なんか難解な台詞が多い知的な作品だとも聞いていて、わかるのかいなプライドが傷つくかなーとかビクビクして出かけましたが、でも別にたいしたことは出てこなくて拍子抜けしました。義務教育とは言わないまでも、高校で勉強した程度のことじゃん、という気がしました。庭園デザインに関しても、幾何学的なのが流行ったり野生を模すのが流行ったりいろいろしたんだよね、程度の知識は、海外の映画を観たり小説を読んだりしていれば教養というほどのことはなくとも蓄えられると思うし、なんかいろいろ肩透かしだったんですよね…うーん。

 この作品は、ひとつには、200年前の事実が、記録や日記などが残っていたとしても現代に正確に伝わるとは限らないし、埋もれて忘れられてしまったり誤解されて伝わったり誤って解釈されたりすることがある…というそのせつなさやおかしみを描きたかったのでしょうか? でも私にはなんとなく、そういうことってままあるし、わりとあたりまえなんじゃないかな…としか思えなかったのですね。
 あるいは、数学の証明とか科学の発見とかも、今最初に成し遂げたとされている人より以前に成し遂げていた人がいて、でもそれが女性だったり若かったり無名だったりして認められることなく歴史に埋もれることがある…というせつなさ、悲しさを描きたかったのでしょうか。でもこれまた私はそらそういうこともあるやろ、としか思えなかったのです。何をあたりまえのことを、という…
 あるいは、熱は高い方から低い方に移るのみでその逆はなくて、宇宙はビッグバンからこっちどんどん消滅に向かっていっているんだけれど、それがわかっている天才少女でも恋をする、死に向かっていてなお人は恋するのだ、というようなことを描きたかったのでしょうか。でもそれもとてもあたりまえでことさらなことには思えなかった…
 またなあ、ワルツがなあ…別に正確なフィガーを踏まなくてもいいんだけれど、アレ全然ワルツじゃなかったじゃん。人が恋をして音楽に乗って踊る、ってああいうことじゃないんじゃないの?と私は思ってしまったのでした。
 死に至る宇宙と人間の色恋、あるいは時のあわいの愛、みたいなものは、例えば少女漫画SFでもっと傑作があってそこですでに十分に描かれていて、それを超えるものはなかなかないのではなかろうか、みたいな、私の狭い了見が邪魔をしたのかもしれませんが…例えば萩尾望都の『スター・レッド』、『マージナル』、『銀の三角』とかとか、ね。

 あと、登場人物が板の上で何かをしたまま暗転になっておしまい、というのはよくあると思うのですが、そのあとカーテンコールとかラインナップで舞台が再び明るくなるときに、私は暗いうちに役者は一度袖にハケていてもらいたい派なのですね。そこで役から降りて、役者に戻って、舞台に再度出てきてお辞儀とかしてもらいたいワケ。
 でもわりと、暗転から明るくなると役者はそのまま舞台に板付いていて、そこからふっと役を降りて見せて、笑顔になって正面に向き直って並んでお辞儀…とかが多いですよね。今回もソレでした。私はこれが苦手なんだよなあ、役者が役でなくなる瞬間を見たくないんだよなあ…でもこの瞬間を見せたいがためのこういう演出なんでしょうね。感覚的にサッパリわからん…

 というワケで、クラシカルなお衣装の芳雄くんを堪能し、神野三鈴のよくわからない色気にアテられて、浦井くんのパワーに感心しただけで終わった気がしました…こんなんですみません。ま、たまにはそういうこともありますよね…






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