ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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日本の心18~聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方1

2021-10-18 10:16:06 | 日本精神
 日本の歴史には、立派な人物、優れた指導者が、数多く現れています。中でも聖徳太子(574-622)は、日本の国柄を明確にし、政治や外交や文化のあるべき姿を打ち立て、今日に至るまで大きな影響を与えています。 
 聖徳太子は、敏達3年(574)、用明天皇の皇子として生まれました。聖徳太子は死後につけられたおくり名で、本来は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といいます。20歳の時に、皇太子となり、推古天皇の摂政となりました。推古元年(593)のことです。
 推古天皇から政治を任された太子は、政治の改革に乗り出しました。その頃は天皇の跡継ぎのなどのことで、朝廷内部に争いごとが起こり、豪族同士がいがみ合っていたのです。また、太子が摂政となる4年前、西暦589年に、シナでは隋がシナを統一し、大帝国が誕生していました。隋は勢力を伸ばし、周辺の朝鮮などの国々を従えようとしていました。太子は、天皇を中心とした強い国家を作ろうと考えて内政の充実を図り、「和の精神」を理念として打ち立て、国家の骨組みを確立し、日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たしました。また、外交においては、隋に対して独立自尊の精神をもって毅然とした外交を行い、また外国文化を積極的に採り入れて自国の文化を豊かにしました。
 太子は、推古8年(600)、隋との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣したようです。国内には記録がありませんが、隋書には記載されています。
 内政において、太子は皇太子の立場で天皇を補佐し、政治の基本を作り上げました。古代日本においては、政治(まつりごと)と祭事(まつりごと)は同じでした。太子は、日本古来の「神ながらの道」を根本とし、天皇を中心とした政治を行おうとしました。そのために重要なものが、官位十二階と十七条憲法です。
 太子は推古11年(603)に冠位十二階を制定しました。徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳というように大小をつけて12種の位をつくり、それを冠の色によって区別し、個人の能力や功労に応じて位を与えました。これは、官位は、豪族の中から氏(うじ)や姓(かばね)にかかわりなく、能力や功績によって授けるとするもので、豪族の支配する世の中から、公の官僚が政治を行う国にしようとしました。これが中央集権国家建設の基礎となります。
 次に太子は、推古12年(604)に十七条憲法を制定します。十七条憲法は、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。もっとも憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものとなっています。しかし、その中に、わが国のあり方、国柄が表現されています。
まずその内容を簡約にて示すと、各条の大意は次のようなものです。(樋口清之著『逆・日本史』祥伝社より引用)

第1条 和を以って貴しとなし、忤(さから)うることなきを宗とせよ〔調和・協力の精神〕

第2条 篤く三宝を敬え〔仏教への尊崇〕

第3条 詔を承りては、かならず謹(つつし)め〔忠君の精神〕

第4条 群卿百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼をもって本とせよ〔礼節の精神〕

第5条 餐(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ〔贈収賄の禁止〕

第6条 (略)人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ〔勧善懲悪〕

第7条 人各(ひとおのおの)任(よさし)あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし〔職権濫用の禁止〕

第8条 群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ〔遅刻・早退の禁止〕

第9条 信(まこと)は是れ、義(こころ)の本なり、事毎(ことごと)に信あれ。〔誠実の精神〕

第10条 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。〔叱責の禁止〕

第11条 功過(いさみあやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまいものつみなえ)かならず当てよ〔信賞必罰〕

第12条 国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ〔地方官の私税禁止〕

第13条 諸(もろもろ)の任(よ)させる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ〔職務怠慢の禁止〕

第14条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ〔嫉妬の禁止〕

第15条 私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり〔滅私奉公〕

第16条 民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良典(よきのり)なり〔農繁期の労役の禁止〕

第17条 大事(おおきなること)を独り断(さだ)むべからず〔独断専行の禁止〕

 要点となるところを詳しく見ると、十七条に及ぶ憲法のキーワードは、「和」です。第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。
 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。
 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。
 また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説いています。そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。 
 太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」でした。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。 
 第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。聖徳太子は、仏教の興隆に力を入れました。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたのではありません。聖徳太子の父・用明天皇(第31代)について、『日本書紀』に「仏法を信じ、神道を尊ぶ」と書いています。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。太子もまた、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようと言っているのです。敬神崇祖は、口にするまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も憲法の中では、神道については特に触れていないわけです。
 太子伝の補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されています。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのです。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現したのです。
 太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教)を摂取して共存させるという形を可能にしました。これは、わが国が外来文明を受容する際の型となりました。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させる仕方です。
 こうして日本文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、自己の特徴を失うことなく、日本の独自性を維持していくことができました。それは聖徳太子に負っているのです。
 次に国内的に重要なことは、天皇と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」なのです。十七条憲法は、第1条の「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まることは、先に述べたとおりです。以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。
 「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公」が「私」より尊重されなければなりません。太子の憲法第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であることを明記しました。太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。
 第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、第15条には「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。ここに日本における「公と私」のあり方が示されました。
 太子は、天皇を中心として国民が統合された国のあり方を、理想として打ち出しています。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場となり、天皇を主と仰ぎます。一方、天皇は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おほみたから」(大御宝)とする伝統が確認されます。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。それは、天皇―公民制というわが国独自の国家原理の樹立でした。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者でした。日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違います。わが国では、天皇は公の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政を行いました。
 太子の理想は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けます。

 次回に続く。

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