ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

敗戦後、朝鮮で日本人1万7千人超が惨死した

2019-03-19 08:49:37 | 歴史
 敗戦後、朝鮮半島で抑留された日本人の一般市民17,690名が惨死したことを伝える記録があります。偽りの徴用工問題より、人道上はるかに重大な問題です。
 次のブログに詳細が掲載されています。
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-359.html#Q80eJjG.facebook_share_ninja_l
 記事は、『秘録 大東亜戦史』(富士書苑、昭和28年刊)所収の元京城日本人世話会・森田芳夫氏が書いた「朝鮮引揚史」に基づくものです。ブログの記事は 本書から引用しなから、この史実を伝えています。
 森田芳夫氏については、デジタル版 日本人名大辞典+Plusが次のように記しています。

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森田芳夫 もりた-よしお
 1910-1992 昭和時代の官吏。明治43年生まれ。京城帝大で朝鮮史をまなび,朝鮮総督府勤務のとき終戦をむかえる。戦後,外務省にはいり,14年にわたる日韓国交正常化交渉の記録にとりくむ。退職後ソウルの誠信女子大でおしえた。この間,日本人引き揚げ者からの聞き取り作業をつづけ,昭和39年「朝鮮終戦の記録」を刊行。平成4年8月3日死去。82歳。

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 ブログの記事の筆者の文章の部分から、以下抜粋して編集し、概略を紹介します。関心のある方は、ブログにて全文をお読み下さい。

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 戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名と言っても軍人ではありません。日本敗戦直後、朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数です。この中には赤ん坊や女性、子供も含まれています。
 在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は「米ソ協定締結後に送還する」という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。
その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。
 戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。(略)
 まず、米軍と朝鮮人は日本人の身ぐるみをはぐことから開始しました。朝鮮人は暴力で日本人の財産を接収し、接収後は日本人の立ち入りを禁止しました。また米軍も接収した日本人の資産を朝鮮人に管理させました。
 次に米軍は日本に引き揚げる際の手荷物を二個まで、と規定して家財や他の荷物は宅配で送る、と言って日本人から手数料を取りました。しかし日本に帰還した人の手元に荷物は届きませんでした。なぜなら、米軍と朝鮮人が荷をほどいて山分けしてしまったからです。その上、米軍は在鮮日本人がすみやかに帰国できるよう、在鮮日本人が組織した日本人世話会の資金も凍結しました。
 北朝鮮の咸興といえば、韓国ドラマにもよく登場する場所ですが、その咸興駅前で約4000人の日本人が乞食同然に寝起きしていました。ある避難民は、ワラで編んだ袋を頭にかぶって雨にふるえながら鮮人家屋からゆうげの煙がのぼるのを見た時、家族と抱き合って泣きくずれた、と言っています。そして咸興から移動させられた新中里(しんちゅうり)では、昭和21年1月までに日本人避難民6400名が死亡し、その後も一日50人平均で死んでいきました。
 咸興から富坪(ふうひょう)に移動させられた日本人避難民は零下15度という極寒にありながらムシロ一枚とわずかな配給しかなく、栄養失調、発疹チフスなどの伝染病で1431名が死亡しました。
 昭和21年1月なかば、日本人共産主義者の訴えで朝鮮側の検察が避難民の状態を視察しに来ました。しかし時すでに遅しで、富坪での日本人避難民死亡率は四割に達しました。
 咸興の近隣にある興南には日本チッソがありましたが、それも北朝鮮に接収されました。その後、日本人は工場への立ち入りを禁止され、社宅を追放されて約3000名が死亡しました。
 元山(げんざん)では日本人避難民に食糧の配給がありませんでした。ソ軍にかけあっても取り合ってくれないので、日本人は使役で働くからという条件を提示してわずかな配給を得ました。そして元山と高原では約1100名の日本人が、冬を越せずに死亡しました。
 平壌の日本人避難民は昭和20年12月から食糧の配給がなかったため、2371名が死亡しました。日本人はせまい収容所につめこまれ、仕事をすることも、持ち物を売ることも、商売も許されませんでした。
 同じ平壌に和歌山県の開拓団がいましたが、南鮮に南下する途中で娘さんが行方不明になったそうです。それに、南下途中で死んだ家族を山に埋めたりもしているで、朝鮮で死んだ日本人避難民の数は17690名よりも、もっと多いと思います。
 鎮南浦(ちんなんぽ)では約1700名の日本人避難民が死亡しました。そのうち200名は幼い子供たちで、死因は悪性のはしかでした。このはしかで、子供全員を失った母親もいたそうです。
新義州では発疹チフスが原因で日本人20名が死亡しました。
 日本が36年間統治しても、朝鮮の不衛生は改善できなかったのです。まるで伝染病の巣窟のような朝鮮に、日本人は丸裸で投げ出され、次々と死んでいったのです。
 これらの人々は朝鮮抑留がなければ、生きて日本に帰還できたはずでした。
 日本の朝鮮統治36年間の間に、朝鮮で暮らし死んだ日本人の遺骨もありました。
 これもふくめると、朝鮮半島には相当な数の日本人の遺骨があるはずです。
 日本人の資産を接収したものの自力で運営できなかった北朝鮮は、日本人に残留を強制しました。のち、ソ軍から日本人引揚が許可されますが、南鮮に進駐していた米軍が「日本人移動禁止令」を発したため、北朝鮮に残留せざるを得なくなりました。
 なぜ米軍がこんな禁止令を出したのかは不明です。
 この日本に帰りたくても帰れなかった日本人たちは北朝鮮でどうなったのでしょうか? 「なりすまし」に利用されたのでしょうか?
 「ヘイトだ!ヘイトだ!」とうるさい在日外国人は、日本人が朝鮮で受けたヘイトスピーチやヘイトクライム以上の暴力を日本で受けたことはないはずです。
 現に、共産主義思想でいまだに「侵略」呼ばわりする資本主義国日本にコッソリ上陸して、戦前と同じように日本の福祉に寄生してヌクヌクと暮らしている。生命が奪われることもない。残留を強制されたり、抑留されているわけでもない。なのに日本の都市には在日外国人の言うことを聞いて、「ヘイトスピーチ抑止条例」などというバカな条例を制定してしまう所もある。本当のヘイトというのは、日本人が朝鮮で受けたヘイトクライムのように完全無視されて存在を否定され、生存権を奪われることです。
 日本人は朝鮮を近代化し、米の増産にも成功した。その結果がこの対日ヘイトだったことを、日本人は決して忘れていません。

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ヘイトクライム (名無し)
2019-11-12 14:22:24
>日本人が朝鮮で受けたヘイトスピーチやヘイトクライム以上の暴力を日本で受けたことはないはずです。

関東大震災時の朝鮮人虐殺というのがありましたね。

>名無しさん (ほそかわ)
2019-11-12 15:49:27
その事件については、ノンフィクション作家の工藤美代子氏が徹底的に調査し、『『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)を書いています。工藤氏は朝鮮人2,600人~23,000人が虐殺されたという説は、「南京大虐殺」と同類の「謀略宣伝」だと結論付けています。私は、マイサイトに「関東大震災での「朝鮮人虐殺」は謀略宣伝」という文章を掲示していますので、ご参照ください。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12.htm
 目次からB06へ
Unknown (通りすがり)
2020-02-09 17:59:34
軍政を布いたソ連に責任が帰されるべき問題であり、朝鮮人に当たるのは筋違いでは?
いずれにしろロシアにはなんも言わないんですか?
>通りすがりさん (ほそかわ)
2020-02-09 19:05:05
紹介したブログの文章は、森田芳夫氏の記録に基づくもので、そこに書かれているように朝鮮人、米軍、ソ連軍の行為について述べています。あなたが言うようなすべてソ連の責任という問題ではありません。また、森田氏、ブログ著者ともすべてが朝鮮人の行為とは書いていません。私は、「敗戦後、朝鮮半島で抑留された日本人の一般市民17,690名が惨死した」と書いており、そのすべてが朝鮮人による虐殺だとは認識していません。
私は、旧ソ連に関して、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州・樺太等に侵攻したこと、多くの日本人をシベリアに連行・抑留したこと等を批判する文章をネット上に書いてきています。ソ連の行為を免罪する意思はありません。国際法上の後継国であるロシアに対しても同様です。
Unknown (Unknown)
2020-12-28 10:11:51
>日本人が朝鮮で受けたヘイトスピーチやヘイトクライム以上の暴力を日本で受けたことはないはずです。

関東大震災時の朝鮮人虐殺というのがありましたね。
  ↑
それは真っ赤な嘘。実態は朝鮮人の火付けにより日本人が10万人も死亡したのが真実だと証明されてる。
日本人はいつでも被害者側。
マニラ大虐殺も捏造で、実態はピィリピン人70万名からなる日本人狩りが横行したのに、あろうことかそんなピィリピンを親日だと思い込まされて歓迎してるなんて、日本人は愚か。
そりゃ、日人みたいなお人好しは欺すには最高の民族だろう。




【武士道が招いた日本人虐殺|マニラ虐殺】

マニラ虐殺とは日本軍がマニラ市街戦でフィリピン人10万人を虐殺したとされる事件。


しかし事実は、日本軍が武士道精神とジュネーブ条約遵守によりアメリカ人・イギリス人の非戦闘員捕虜二千数百名を米軍に引き渡したところ
米軍とその手先である親米親中の数多くのフィリピン市民らからなるゲリラが日本人居留民と孤立した日本軍人を虐殺したという事です。

【尼港・通州・マニラ虐殺犠牲者数】
・尼港(ニコライエフスク)事件…約700名
・通州事件…日本軍人約100名と日本人居留民約230名
・マニラ市民部隊(日本人居留民で組織)…約1800名

フィリピン人も親米反日で、米軍侵攻後のフィリピンでは軍のみならず70万名以上の一般市民らからなるゲリラ部隊に依り日本人狩りが横行しました。


マニラ虐殺の汚名を着せられた山下奉文大将、近藤大尉、小田少尉、斎藤中尉、長原少尉、野口大佐、林中佐、すべての犠牲者の御霊に捧ぐ

在留日本人の老幼婦女子が逃げ惑い、夫の名を、子を呼び、親をもとめ、巷から巷を走る。まったくの阿修羅、阿鼻叫喚──。
しかも戦線は日毎に縮少され、追いつめられた。

悲劇はこれにとどまらなかった。
米軍の鉄環がジリジリと縮められていくにしたがい、米軍に呼応して起った比島ゲリラが、勝手知った市街に潜入し、日本軍残存将兵の背後から襲い、老幼婦女子の惨殺をしはじめた。

ゲリラに掴まったが最後、たとえ幼児といえど、それが日本人である限り容赦しなかった。

「みろ! マニラを脱出できず、集団軍の後方に逃げられぬ日本人老幼婦女の無惨な最期を!  だから敵抑留市民をも全滅させておくべきだったのだ!  かつての尼港事件、通州虐殺事件の比どころか、この大量虐殺になにをもって報いたのだ。ひとりよがりの人道主義など糞くらえだぞ」

 と怒り、報いるに暴をもってした米軍を呪った近藤大尉も死んだ。おし黙ったまま、キリキリと痛む胸を押え、みなごろし、虐殺に耐え、比島ゲリラを押えられぬ米軍を憎悪しながら、小田少尉も、斎藤中尉、長原少尉も戦死し、私もまた重傷の身を、最後の総攻撃に参加して斃(たお)れた。野口大佐、林中佐以下も折重なって自決、ここにマニラ市街戦、大殺戮は終った。(後略)

【出典】
1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 第二巻第六号 われら学徒かく戦えり」
所収 元第四十一軍司令部附 陸軍軍曹 池田純宜 「マニラ戦で敵婦女子を救った八人の学徒将兵 敵陣に燦たり青年武士道」








知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・中~沖縄・東京二拠点日記(番外)

沖縄の「フィリピンスカウト」たち

「比島兵」とは米軍フィリピン人兵士のことである。ここで彼らについて説明を加えておきたい。

ぼくが沖縄県公文書館で見つけた、1948年に米軍あてに出された沖縄知事の「比島兵に因る沖縄住民に対する被害状況について」という文書には、フィリピン人兵士による犯罪を何とかやめさせてほしいという訴えと、沖縄住民が受けた被害状況が書かれていた。


この訴えには、フィリピン人兵士の襲撃におびえ睡眠も取れず、フィリピン人兵士の撤退県民運動を起こそうと思っている旨が続く。

そして1948年内に起きた(認知された)フィリピン人兵士が起こした、殺人・殺人未遂・強姦・強姦未遂・放火・暴行・傷害事件計68件が列挙されている。多くは強姦目的で家屋に侵入し、住民や民警察の抵抗にあい、凶器を使って相手を襲ったり、腹いせに放火をしたものだ。

法務局刑事課に勤務経験のある天願盛夫が記録した『沖縄占領米軍犯罪事件帳』には、昭和20年代に確認された、米兵が引き起こした目を覆いたくなるような凶悪犯罪が記録されているが、じつは加害者として黒人兵・白人兵と並んで、フィリピン人兵がかなりの数を占めている。とくに強姦事件が目立つ。

私が取材をした基地関係者は、沖縄にやってきた「フィリピンスカウト」のことを、やはり米軍基地に勤務していた親から聞いたことがあるという。

その親によれば、沖縄にやってきた「フィリピンスカウト」は、占領軍司令官マッカーサーがとくに気性の荒い者を選抜し編成、嘉手納基地に駐留させていたそうで、基地内部でもトラブルや事件を起こすため、その名を聞くと眉をひそめる者が多かったという。

しかし「フィリピンスカウト」の「正史」は、日本軍を追い払い勝利をおさめた勇敢な英雄たちだ。「フィリピンスカウト」に所属していた兵士の子孫が書いたウェブサイトなどを読んでも、そこには「英雄」の姿しかない。

だが、沖縄では蛮行を働らいたことは事実である。ベトナム戦争に参戦した韓国の特殊部隊白虎師団や青龍師団が韓国では長らく英雄扱いされていたが、真実はベトナムで強姦や虐殺などを犯していたことが、のちに韓国メディアによってスクープ告発された事実とだぶった。

「フィリピンスカウト」はじきにフィリピンに帰されたらしいと、私が取材した基地関係者は語っていた。たしかに、さきの天願が作成した記録などで米軍兵士の犯罪記録を年代を追って見ると、昭和20年代後半期にはフィリピン人兵士によるものは皆無に近くなり、白人兵と黒人兵だけになっている。


藤井誠二
ノンフィクションライター 1965年愛知県生まれ。『「少年A」被害者遺族の慟哭』、『殺された側の論理』、『体罰はなぜなくならないのか』、『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶従業員はなぜ死んだのか』など多数。近刊に『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』。




>Unknownさん (ほそかわ)
2020-12-31 10:17:12
貴重な史実の書き込みをしていただき、ありがとうございます。
Unknown (匿名)
2021-03-02 11:41:07
東北地震でも韓国人が窃盗事件をしました。強姦もあったようです。自警団っていう発想も出てくるかもしれません。自警団はただの民間人。民間人同士の暴走事件は、朝鮮排華事件にくらべるとかなり小規模です。警察は、民族に関係なく保護していて、大川常吉さんのように、在日社会から感謝状をもらった警察官もいます。
>匿名さん (ほそかわ)
2021-03-03 09:37:24
貴重な情報を書き込んでいただいて、有難うございました。

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