河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1829- トリスタンとイゾルデ、シルヴァン・カンブルラン、読響、2015.9.6

2015-09-06 22:47:08 | コンサート・オペラ

2015年9月6日(日) 3:00-8:15pm サントリー

ワーグナー  トリスタンとイゾルデ (コンサートスタイル)

キャスト (in order of voice’s appearance)
与儀巧、テノール         若い水夫、舵手、牧童
レイチェル・ニコルズ、ソプラノ  イゾルデ
クラウディア・マーンケ、アルト  ブランゲーネ
石野繁生、バリトン        クルヴェナール
エリン・ケイヴス、テノール    トリスタン
アンドレ・モルシュ、バリトン   メロート
アッティラ・ユン、バス      マルケ王

合唱、新国立劇場合唱団男声合唱

シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団

(タイミング)
前奏曲  10′
第1幕  70′
Int 30′
第2幕  76′
Int 30′
第3幕  75′
拍手9′

(ポジション)
メインキャストはオーケストラの前で歌唱、都度出入り。
状況に応じて他キャスト含めオルガンの位置で歌う。
第1幕終結のファンファーレのバンダはLA席奥付近で、バンドマスター付きの吹奏。
第1幕のみの合唱はステージ奥、ティンパニを中央に挟んで横並び。
第2幕の角笛ファンファールはP席両扉開けて通路で吹奏。
第3幕のイングリッシュホルン、トランペットのソロはオルガン位置。

キャストに動きのあるオペラ風のものではなく、純粋なコンサートスタイル。歌の役目が終わればイゾルデの絶唱に関係なく最後は早めに退場のトリスタンといった出入りはあるが。椅子は無い。ブランゲーネのマーンケのみ譜面あり。


第3幕の最終シーンは舞台のオペラだと急に人の出入りが多くなりばたばたとして、ちょっと騒々しくて、また、愛の死への移動は少し性急で、ストーリー的にはマルケがはいってきた後もうひとひねり(10分ぐらい)あってから、愛の死が始まるのが劇の流れとしてはバランスするような気がしますが、このようなピュアなコンサートスタイルだとそこらへんのわだかまりが無く、これはこれでうまくバランスしていたと思います。
カンブルランの棒だと愛の死への移動が句読点をみせず、すーっとはいっていく、シームレスにつながっている感じの演奏でした。

全体的に、カンブルランの冷静緻密な棒により、ステージ上のオーケストラがピットとはひと味もふた味も違う明瞭な響きとなり、巨大室内楽サウンドを彷彿とさせ、既にそれだけで快感の音響空間となる。
メインキャストはオーケストラの前で歌うが、声がかき消されることは無い。昔あったような肉厚のパワー歌唱とは異なる精緻なあたりに力点を置いたもので、オーケストラの響きの中、明瞭に聴こえてくる声は、カンブルランの棒によるところが大きいのだろう。精緻なオケと歌、これ以上無く最良のかみ合わせを聴くことが出来ました。
ストーリーのドラマチックなところやターニングポイント的な箇所も思わせぶりな強調が無く、自然な流れの中、滑らかな過熱感が心地よい。しだいに、なんだか、ストーリーは横に置いて、みたいな感興となる。
キャストは粒ぞろいで歌い口としては指揮者の意図を明確に反映したもので、ずらし、やつし、の無いもの。かと言って角張っているわけでなくて喉の滑らかな動きを感じさせてくれる。キャスト変更によるレイチェルは、過激でドラマチックなものはほぼ皆無、均質で、ピッチのブレ無し、裏表の無いイゾルデ、ひ弱感はありません。いざとなれば押し倒しそうな気配。
相手のケイヴスは、几帳面で正確性で上回り、レイチェルと同じ方向感ながらより四角四面度がまさっている。存在感はレイチェルがあるが、別の魅力があるテノールと感じました。
ベクトルが揃っている二人の歌い手による斉唱、重唱はまとまりのある美しいものでした。
オーケストラも含め、乱れない愛です。

歌い手全般では、脇が素晴らしく良い。
コンサートスタイルにおけるコンディションの良さと言う利点が最大限に生きたもので、冒頭の与儀の歌、曇りの無いもので魅力的な声質でクリア、これまた正確性を強調した歌いぶりですが、最初の一声の安定感はこのオペラには欠かせないもの。
ブランゲーネのマーンケ、クルヴェナールの石野、この二役のはまり具合も良いもの、メロートのモルシュを引っ張っていくような、良さが良さを生む相乗効果でみなさんさらに良くなる。
日本勢の与儀、石野の安定感ある清唱は本当に気持ちの良いもので、過度なドラマチック性を意識的に排した様な歌い口で、それに替わる明瞭な響きはコンサートスタイルの良さもあるが、だましのきかない実力の高さをまじまじと垣間見ることとなりました。
一人譜面台の譜面を見ながらの歌唱となったマーンケは、余計な心配をさせることも無く、というのも先般、ノット東響のパルジファルのクンドリを歌った人のひどさを、一瞬脳裏をかすめる譜面台雰囲気にあらぬ危惧感を抱いたりしたのは良からぬ邪念ということで。
マーンケは柔らかく、こなれた歌で一人まろやかソフトな感じがありました。
一番拍手の多かったマルケのユン、彼はパワーなオペラ歌唱を思い出させてくれましたが、カンブルランの選択のなかではちょっとミスキャストとまではいかないが、場違い、彼の場はバイロイトかと思われます。テオ・アダムの気品が忘れられない。
いずれにしましても、みなさん良質で粒ぞろいの歌で(オペラの内容を上回るよさで)、満足。


トリスタンとイゾルデが第1幕でペットボトルの飲料水を飲みつつ歌うその姿は、惚れ薬かと思わせるような雰囲気があり苦笑を誘うところもある。振付が無いコンサートスタイルの為、目立つ行為ではある。
カンブルランの棒はワーグナーの息の長いシンコペーションそれに、スタッカートが雄弁、また歌の伴奏での抑えた、這うような響きがこれまた美しい。ティンパニの連続する弱音は既に1幕ファイナルシーンを感じながらの棒のように聴こえてくる。
この第1幕最終シーンは合唱が加わり、ブラスのファンファーレと、ワーグナー的カタルシスが頂点に達するところ。出番がここしかない男声合唱、張りのある声で動きに統一感があり高性能な歌でした。
また、P席寄りのLA席奥に配したバンダにはバンドマスター付きで想定外のシチュエーションでしたけれど、カンブルランとしては正確性を重視したのだろうとあとで思いました。
ここのファンファーレの刻み、日本人による演奏の場合、いくら速度を上げてもきっちり合わせてくるもので、練習のたまものと言うよりむしろ日本人のDNAを感じさせる。随分昔の日本ワーグナー協会創立10周年記念公演のトリスタンを思い出しました。
このようなカタルシスの中、第1幕がめでたくエンド。

第1音から魅惑的で忘れられないハーモニーとシーンにマッチした第2幕の出だし。すぐにぐっとひき込まれます。
滴る夜の歌は濡れずにドライな趣き、方針だからこうなります。無理に伸縮自在な流れとしないカンブルランはやっぱり、ワーグナーどっぷりというわけではなく、現音オペラ志向というかそちらの方針でワーグナー立ち向かっている。
最後のファイトのあたり、コンサートスタイルだと状況がみえず音だけ聴いていると割と静かだなぁなどと思ったりもしました。ドラマ性を横目に見ながらの棒ですしね。

終幕の心の荒涼感、寂寥感はオーケストラによって響きが完全に醸し出され、舞台は要らない。このオーケストラと指揮者の結びつきがよくわかる漆喰をワイプアウトしてなお一つになる見事なものでした。
オルガン位置でのイングリッシュホルンとトランペットは素晴らしいソロで、サウンドもよく通る。秀逸な演奏でコンサートスタイルの美演を最後まで楽しみ味わうことが出来ました。
バランスよく完成された作品として堪能できました。
ありがとうございました。
おわり


おまけ、
第1幕から最後までフライングブラボーをやり通したクレイジーなかたは、これはこれでエポックメイキングな立振舞いで、自覚症状皆無の自身の存在と恥の上塗りここに極まれりで、あすこまでして目立つフライングを繰り返す脳内回路は何なのかと思うに、精神病院を無くしてほしくないという主張を自らの行為で示している、その意味では自覚症状有りで、なるほど最初の一声だけであとは静かにしている病原体保有自覚症状有りの「意識された感動表現」であって、本当に始末におえないタチの悪いマリグナントチューマーそのものと言える。

おわり




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