じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

教職大学院

2006-05-25 13:05:31 | 教育
★ 中教審の答申に基づき教員養成についても専門の大学院が設置される。「教職大学院」という。従来の教育系の大学院が研究者養成を主とするのか教員養成を主とするのかが曖昧であるとのことから、学校で中核的・指導的な役割を担う教員を養成・研修することを目的として設置されるそうだ。当初は2007年度からの設置予定であったが、教育基本法の改正が一区切りつくまでは先送りされるようで、当面1年間の先送りとなった。教育基本法の改正もまだまだ波乱含みだが。

★ この教職大学院、法科大学院や会計大学院など専門職養成の大学院が創設ラッシュの中でいささか遅ればせながら出てきたわけだが、意図はわかるがどうも胡散臭いものも残る。あるサイトで東京大学の佐藤学先生が、今の教職大学院の構想では実務家は養成できても専門家は養成できないと言っておられたが、その通りだと思う。従来の教育系の大学院が講義中心、知識中心であったことは否定できない。これは現職研修としては一定の効果はあった(休養という意味でも・・・)が、新人教員の養成や学校経営者の養成という点では不十分であった。その点は、教員は大学院で養成するといった大前提を置くなら大いに改善されるべき点であろう。しかし教育という活動は、日々のルーティンワークをこなすだけの作業ではなく極めて創造的な営みである。確かに実務能力を高めることは大切ではあるが、マニュアル教員を育てるだけでは教育の発展は望めないのではないか。

★ 団塊の世代が退職し新人教員が増える中、この最低限の実務さえ、あるいは一般の社会常識さえ不足した人々が教壇に立つことになるかも知れない。こうした不安が背景にあるのもわからなくもない。最低限、実務だけはなんとかしてくれ、という経営側からの要求もわかる。ただ教育という営みはマニュアルで対応するにはあまりに多くの変化に富んでいると言わざるをえない。まして最近は昔のように板書講義して終わりと言う訳にはいかない。ひとり一人に目を配ることが要求されるし、父母からの要求も非常に難しいものになってきている。こうした中、付け焼刃的な実務能力ではとうてい対応できない。

★ 文部科学省の教員不信は今に始まったことではないし、できる限り自分達のコントロール下に教員を置きたいというのも従来からのことである。そのためにマニュアル教員を増やそうとしていると考えるのはちょっと過激だろうか。

★ 中教審の「教職大学院」をめぐる答申でも確かな「授業力」とあわせて豊かな「人間力」の養成が求められている。その「人間力」というのは各人の経験や教養などから湧出するものであろう。その点、東京大学の実践に期待したいし、「教職大学院」でも「人間力」という観点をそして「専門家」としての能力(問題状況に直面したときその解決に向けて行動できる臨機応変な能力)を養成して欲しいものだ。


 
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