国包は、加古川の対岸・上荘村に属している。
明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで上荘地区として続いている。
八幡村が、加古川と合併するとなると国包は上荘村と分村問題に発展しかねなかった。
当時、加古川市は、海岸部の阿閇村(現:播磨町)、米田町との合併の問題を抱えており、山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)との合併には余裕がなかった。
ところが、昭和30年になると事情は一変した。というのは阿閇村の加古川市との合併についての住民投票の結果は次のようだった。
賛成 1050 反対 3187
阿閇村住民は加古川市との合併をはっきりと拒否をした。
米田町との合併は暗礁に乗り上げていたが、この時点から、加古川市長の発言もにも明らかに方針変更が認められた。
「・・・・上荘等その他いろいろ調査したところ川上に位地し、水源地の五ヶ井その他の灌漑用水等は上荘の範囲であり、関係ある両荘を除外することはできない・・・」(昭和30年1月18日市会協議会より)
昭和30年1月25日には、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村を訪問し、正式に合併を申し入れた。
その後は、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市・上荘村・平荘村・八幡村議会でいっせいに合併を決議した。
3月16日、調印式をへて、昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘荘町、八幡町は新しいスタートをきった。
*『加古川市議会史(記述編)』、『加古川市史に読む、わがふるさと国包(畑偕夫著)』参照
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