昭和28年、ほとんど進展のなかった山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)と加古川市との合併問題は、昭和29年に動き出した。
昭和28年に、国の政策による町村合併促進法が制定されたためでもあった。
まず、以前より合併を望んでいた八幡村が動き出した。
八幡村は、合併について住民投票を実施した。
第一案は、東部の加古郡加古村・母里村・天満村との合併。第二案は印南郡上荘村・平荘村との合併。
そして、第三案が加古川市と合併を希望するという項目であった。
結果は、第一案44、第二案14、第三案679、態度不明48と、圧倒的多数で八幡村の住民は加古川市との合併を選んだ。
しかし、さいさんの八幡村から加古川市への呼びかけに対して、当時加古川市は、海岸部の阿閇村(あえむら:現播磨町)・米田町との合併を目指しており、その課題が未解決で、さらに手を広げ、山手三村との合併問題を取り組む余裕がなかった。
それに、八幡村が加古川市と合併するとなると、川東の上荘町国包地区が一緒に加古川市との合併を望むことは予想された。
つまり、上荘村の分村問題という新たな問題がおこる可能性が大であった。
さらに、平荘村の加古川市との合併に対する態度がはっきりとしなかった。
東西神吉村の加古川市との合併とも絡まっていた。
*『加古川市議会史(記述編)』参照、写真は上荘村役場(『加古川市議会史(記述編)』より)
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