統帥権(とうすいけん)
統帥権(とうすいけん)とは、大日本憲法下の日本におけるにおける軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことです。
司馬遼太郎さんが、「統帥権の干犯」について、『この国のかたち・四)』で次のように紹介されています。
・・・首相浜口雄幸(おさち)は財政家で、重厚かつ清廉な人格をもち、その容貌から“ライオン宰相”などといわれた。
かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和五年(1930)四月、(軍部の要求を)ロンドン海軍軍縮条約に調印した。
右翼や野党の政友会は、浜口を「統帥権干犯(天皇だけが持つ権限を犯した)」として糾弾した。
浜口は、このとしの十一月十四日、東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。
このころから、統帥権は、無限・無謬(むびゆう)・神聖という神韻を帯びはじめる。
他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。
日本国の胎内にべつの国家「統帥権日本」ができたともいえる。
しかも、統帥機能の長(たとえば参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼(ほひつ・助言する)の責任をもつ。
である以上、統帥機関は、なにをやろうと自由になった。
統帥権の憲法上の解釈については、大正末年ごろから、議会その他ですこしばかりは論議された。
が、十分に論議がおこなわれていないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十年(1935)の美濃部事件によるといっていい。
憲法学者美濃部達吉が“天皇機関説”の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。
美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。
それが、議会で否定されることによって、敗戦まで日本は”統帥権”国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない・・・(no3578)
*写真:浜口雄幸(1870~1931)