村方三役
現在、加古川市内の中学生が使っている歴史教科書(『中学社会歴史』・大阪書籍)の説明を読んでおきます。
・・・・村には土地をもつ本百姓と、土地を持たない水呑百姓との区別があり本百姓の中から庄屋(名主)・組頭・百姓代(ひゃくしょうだい)等の村役人を出し、寄合によって村を運営していました・・・
上記のような説明は、どの教科書にもみられます。
少し説明が必要のようです。というのは、庄屋(名主)は、江戸時代初期から置かれましたが、組頭は必ずしもそうではありません。
また、百姓代は江戸時代中ごろになって初めて姿をみせます。
百姓代について、もう少し説明しておきます。
村入用(むらいりよう)という村費などの負担は庄屋・組頭により村人に割り振られました。
しばしば、その負担をめぐって村役人と一般の百姓の間でトラブルが生ることもしばしばでした。
この傾向は、江戸時代も中期になるといっそう多くなり、激しくなりました。
そのため、一般の百姓を代表する百姓代が登場したのです。
頭 分(新野辺村の百姓代)
新野辺村の百姓代についての説明です。
新野辺住吉神社には神社を運営する組織である住吉頭が置かれました。
その頭を運営する人々は頭分と呼ばれました。
頭分は、氏子の中から選ばれました。
新野辺村の頭分は、教科書で言う百姓代の役割を果たしました。
しかし、新野辺村の頭分は、庄屋・組頭の仕事を監視するというだけではありません。
庄屋・組頭と共に村の運営にしっかりと組み込まれていました。
つまり、氏子の意見をまとめる頭分は村の運営に積極的な役割を果たしました。
頭分の意見を無視して庄屋・組頭は村の運営を決めることはできなかったばかりか、大庄屋の大歳家でさえ頭分の意見を無視することはできなかったのです。
新野辺の頭分は、むしろ村の運営の中心として役割をになっていました。(no3574)
*『武士の周縁に生きる』(吉川弘文館)より羽田真也氏論文参照