赤松氏は、足利尊氏に忠誠を誓い、南北朝時代・北朝方として大きな役割を果たします。
建武三年(1336)、赤松氏の初代・円心(えんしん)は、播磨の守護につきます。
室町時代の守護所は、円心から四代・満祐まで姫路書写の坂本城におかれ、播磨だけでなく備前国・美作(みまさか)にも大きな支配下力を持っていました。
特に、印南郡は赤松の領地として強い結びつきがありました。
そんな赤松の領地に自分たちの影響を強める寺を建設するのは自然なことでした。
円福寺の創建は応永四年(1397)か
以下、「志方郷(第48号)」の富永真光氏の研究をお借りします。
・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう。・・・
以上の解説の後に、開山当時天台宗の寺院であったと書いておられます。
・・・・・
それにしても、寺院創建のため、満祐の名義による土地・財が高畑に与えられ、満祐名前を山号に、そして、戒名から寺の名を円福寺としたのは、満祐のこの寺に対して特別な思い入れが感じられます。
満祐にとっての高畑は?
それは、何だったのでしょうか。高畑は個人的な思い出があった場所であったのでしょうか。
富永氏は「・・嘉吉の乱は、想定外の事件であったに違いない。
政界引退後の余生、満祐は髪をそり性具相全として円福寺に帰郷して平穏に最後をはずであった・・・」と書いておられる。
想像するしかないが、とにかく、高畑は満祐にとって特別な場所であったようです。
(仏教では戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますから、満祐が生前に戒名を授かっていても不思議ではありません)
<蛇足>
満祐から土地と財をあてがわれ、高畑の氏寺を建造したことに対する高畑村の人々の感謝の印として、山号・寺名を付けたとも考えられなくはない。
そうであったとしてもやはり高畑は満祐にとって特別な地であったようです。
研究課題ができてしまいました。