大庄屋
江戸時代の村々には、現在の村長に当たる庄屋が置かれていたことは良く知られています。
しかし、多くの場合、庄屋は藩の役人から直接命令・伝達を受けたのではありません。
藩の命令・伝達等は、いったん大庄屋(おおじょうや)に伝えられ、それから庄屋そして一般の百姓に伝達されました。
もちろん、村人の願いを藩に伝える場合は、庄屋・大庄屋・藩という逆の手順でおこなわれました。
大庄屋は、一言でいえば「庄屋の中の庄屋」で、大庄屋は、普通20ヵ村程度の村々を支配・管理する庄屋のことです。
大庄屋の管理する村々の範囲を「組」とよんでいます。
「組」の名前は、大庄屋のいる村の名をつけ呼ばれました。
福居組から西牧組へ
天和4年(1684)~文化2年(1805)まで、志方地域の西中・助永・比室・西牧・志方・原・原新・成井・成井新・山中新の村々は、姫路の福居村の大庄屋の支配下にありました。
上記の志方の村々は福居組に属していました。
福居組の村々には、以上のほかに東阿弥陀・北山新・西阿弥陀・地徳新(以上、現:高砂市)、唐端新・北宿・小林・福居・福居新(以上、現姫路市)が福居組に属していました。
文化2年(1805)、福居組の大庄屋にかわり志方町西牧の内海氏が大庄屋に命じられ、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。
そのため、上記の志方・姫路・高砂の村々は西牧組に属しました。
*福居組から西牧組にかわった理由を調べてみたいのですが、ご存じの方はご教示ください。