慶長十一年(1606)、加古川筋の舟運は本郷から滝野・新町を経て高砂まで約50kmが貫通した。
右図の●は、舟運の河岸(かし)で、河岸とは「川の港」のことである。
河岸については、後日に取りあげたい。
加古川の舟運は、容易に完成したのではない。
加古川には、随所に川床に岩が立ちはだかっている。
その最大の難所は闘竜灘であった。
水量も、現代と異なり豊かで、筏でも通らぬほどのヶ所も多かった。
阿江与助
この時、加古川川筋に一人の人物が登場した。
阿江与助である。
阿江与助は、現在の加東市滝野町の郷志・大久保政忠の二男に生まれ、後に滝野村の阿江家をついだ。
阿江家は、三木合戦に破れて帰農したらしい。
与助が迎えられた頃には大庄屋をしていた。
文禄三年(1594)、姫路城にいた、秀吉の一族・生駒玄蕃(いこまげんば)から舟運開発の命を受けた与助は、自費でまず滝野から下流の工事を完成させた。
この大事業は、阿江家の財力、与助の人望と熱意、それに領主の要請が一致したためであろう。
そして十年後の慶長九年(1604)、姫路藩主・池田輝正が再び西村伝入とともに、与助に滝野より上流の本郷までの舟運の開発を命じた。
これにより、播州と丹波がつながり、加古川川筋は一大経済圏となった。
*絵は、「阿江与助画像(作者・年代不詳)」(阿江家所蔵)の一部