ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(34):舟運(2)・阿江与助(1)

2008-06-04 09:25:59 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

898d15c1_2   慶長十一年(1606)、加古川筋の舟運は本郷から滝野・新町を経て高砂まで約50kmが貫通した。

 右図の●は、舟運の河岸(かし)で、河岸とは「川の港」のことである。

 河岸については、後日に取りあげたい。

 加古川の舟運は、容易に完成したのではない。

 加古川には、随所に川床に岩が立ちはだかっている。

 その最大の難所は闘竜灘であった。

 水量も、現代と異なり豊かで、筏でも通らぬほどのヶ所も多かった。

  阿江与助

F105933d  時代は中世から近世に移ろうとしていた。

 この時、加古川川筋に一人の人物が登場した。

 阿江与助である。

 阿江与助は、現在の加東市滝野町の郷志・大久保政忠の二男に生まれ、後に滝野村の阿江家をついだ。

 阿江家は、三木合戦に破れて帰農したらしい。

 与助が迎えられた頃には大庄屋をしていた。

 文禄三年(1594)、姫路城にいた、秀吉の一族・生駒玄蕃(いこまげんば)から舟運開発の命を受けた与助は、自費でまず滝野から下流の工事を完成させた。

 この大事業は、阿江家の財力、与助の人望と熱意、それに領主の要請が一致したためであろう。

 そして十年後の慶長九年(1604)、姫路藩主・池田輝正が再び西村伝入とともに、与助に滝野より上流の本郷までの舟運の開発を命じた。

 これにより、播州と丹波がつながり、加古川川筋は一大経済圏となった。

*絵は、「阿江与助画像(作者・年代不詳)」(阿江家所蔵)の一部

コメント
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