アンソニー・ギデンズの「暴走する世界」を読んでいて、本の趣旨とは直接関係ないのだが、ねつ造された「伝統」と言うサブタイトルで、その発祥はさだかでないが、伝統と言われるものの多くは、実際には高々過去二世紀のうちにつくられたもので、もっと最近発祥のものも少なくないと、克明に例示して、伝統を論じているのに興味を持った。
スコットランド人の国民的アイデンティティとも言うべきキルト(民族衣装)を纏い、各クラン(氏族)に特有のタータンを羽織り、バグパイプを奏でるのだが、このキルトは、垢抜けしない高地人の衣装を低地人が軽蔑するので、高地人を産業革命に必要な工場労働者として連れてくるために、ランカシャーの産業資本家トーマス・ローリンソンが、18世紀初頭に考案し、ビクトリア時代の仕立て屋が、高地人向けの売れ筋と睨んでデザインし、売り出したものだと言う。
要するに、キルトの生みの親は、産業革命であって、あのバーバリーのデザインも、元は、スコットランド高地人労働者のキルトだったと言うことである。
そう言われれば、ジェイムズ・アベグレンが『日本の経営』で、日本的経営の特徴とした1.終身雇用2.年功序列3.企業別組合なども、戦後の所産であるし、エズラ・ヴォーゲルが、「Japan as No.1」で説いた日本政治経済社会の成長発展をプッシュした伝統的特徴も、あの怒涛のような戦後復興期のなせる業であったことは間違いなく、日本の伝統的(?)な日本人魂や気質とは、殆ど関係がなかったと言えようか。
伝統と呼ばれるものは、すべてねつ造されたもので、伝統的社会といわれるもので、字義通り伝統的なものは有り得ない。
何故、伝統はねつ造されるのか。意図的に伝統をねつ造するのは、伝統が必然的に権力と結びついているからで、国王、皇帝、司祭のような高い地位にある人が、自分にとって都合の良いように、自らの統治を正当化するために、伝統をねつ造し続けてきた歴史は長いと言う。
さすれば、伝統と言うものは、権力者たちがねつ造したものであるから、好い加減なものであって価値がないのかと言うと、ギデンズは、全く逆で、
伝統の存在は社会を存続させるための必要条件であって、この命題は、掛け値なしに正しい。何故、伝統は必要であり、なくならないのか、その答えは、人間生活に連続性を与え、その様式を定めるのが伝統だからであると言う。
学者の人生などは、その典型で、伝統の仕組みの中で仕事をしており、アイデアを体系化したり展開したりするためには、知的伝統に依拠せざるを得ないのだと言っている。
いずれにしろ、伝統が重きをなしておれば、良くも悪くも、共同体における個人の社会的地位は安定しており、安心だと言うことだろうが、伝統の定義にもよるのだが、果たして、そんなに単純な発想で良いのであろうか。
しかし、ギデンズの問題意識は、現在、グローバリゼーションのあおりを受けて、様々な意味で伝統は変容を迫られて、世界中いたるところで、伝統と慣習の影響が低下し、我々のアイデンティティが薄らいで行く。
今、西洋文明が直面している自然と伝統が終焉を迎えた社会では、自由を獲得した個人が、意思決定を求められるので、不安故に硬直化して凍結した自主性とも言うべき中毒や強制に陥って、人々を窮地に追い込みつつある。
したがって、伝統に培われた普遍的な価値の存在が、人々の寛容と話し合いを実らせて、日常茶飯事を超越する道徳律を確立することが必要だと言うのである。
グローバリゼーションが、人為の入り込まない正真正銘の自然を殺し、価値ある伝統を消滅させ、その根源的な変化の上に、グローバル・コスモポリタン社会が生まれると言うのが、ギデンズの考え方だが、伝統の崩壊と言うあたりから、ランナウエイ・ワールドを論じているのが興味深い。
スコットランド人の国民的アイデンティティとも言うべきキルト(民族衣装)を纏い、各クラン(氏族)に特有のタータンを羽織り、バグパイプを奏でるのだが、このキルトは、垢抜けしない高地人の衣装を低地人が軽蔑するので、高地人を産業革命に必要な工場労働者として連れてくるために、ランカシャーの産業資本家トーマス・ローリンソンが、18世紀初頭に考案し、ビクトリア時代の仕立て屋が、高地人向けの売れ筋と睨んでデザインし、売り出したものだと言う。
要するに、キルトの生みの親は、産業革命であって、あのバーバリーのデザインも、元は、スコットランド高地人労働者のキルトだったと言うことである。
そう言われれば、ジェイムズ・アベグレンが『日本の経営』で、日本的経営の特徴とした1.終身雇用2.年功序列3.企業別組合なども、戦後の所産であるし、エズラ・ヴォーゲルが、「Japan as No.1」で説いた日本政治経済社会の成長発展をプッシュした伝統的特徴も、あの怒涛のような戦後復興期のなせる業であったことは間違いなく、日本の伝統的(?)な日本人魂や気質とは、殆ど関係がなかったと言えようか。
伝統と呼ばれるものは、すべてねつ造されたもので、伝統的社会といわれるもので、字義通り伝統的なものは有り得ない。
何故、伝統はねつ造されるのか。意図的に伝統をねつ造するのは、伝統が必然的に権力と結びついているからで、国王、皇帝、司祭のような高い地位にある人が、自分にとって都合の良いように、自らの統治を正当化するために、伝統をねつ造し続けてきた歴史は長いと言う。
さすれば、伝統と言うものは、権力者たちがねつ造したものであるから、好い加減なものであって価値がないのかと言うと、ギデンズは、全く逆で、
伝統の存在は社会を存続させるための必要条件であって、この命題は、掛け値なしに正しい。何故、伝統は必要であり、なくならないのか、その答えは、人間生活に連続性を与え、その様式を定めるのが伝統だからであると言う。
学者の人生などは、その典型で、伝統の仕組みの中で仕事をしており、アイデアを体系化したり展開したりするためには、知的伝統に依拠せざるを得ないのだと言っている。
いずれにしろ、伝統が重きをなしておれば、良くも悪くも、共同体における個人の社会的地位は安定しており、安心だと言うことだろうが、伝統の定義にもよるのだが、果たして、そんなに単純な発想で良いのであろうか。
しかし、ギデンズの問題意識は、現在、グローバリゼーションのあおりを受けて、様々な意味で伝統は変容を迫られて、世界中いたるところで、伝統と慣習の影響が低下し、我々のアイデンティティが薄らいで行く。
今、西洋文明が直面している自然と伝統が終焉を迎えた社会では、自由を獲得した個人が、意思決定を求められるので、不安故に硬直化して凍結した自主性とも言うべき中毒や強制に陥って、人々を窮地に追い込みつつある。
したがって、伝統に培われた普遍的な価値の存在が、人々の寛容と話し合いを実らせて、日常茶飯事を超越する道徳律を確立することが必要だと言うのである。
グローバリゼーションが、人為の入り込まない正真正銘の自然を殺し、価値ある伝統を消滅させ、その根源的な変化の上に、グローバル・コスモポリタン社会が生まれると言うのが、ギデンズの考え方だが、伝統の崩壊と言うあたりから、ランナウエイ・ワールドを論じているのが興味深い。