熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場:九月文楽・・・「冥途の飛脚」

2012年09月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   近松門左衛門が好きなので、文楽でも歌舞伎でも、舞台にかかれば必ず見に行くことにしており、文楽の「冥途の飛脚」は、今回が3度目で、最初は、忠兵衛は玉男、梅川は簔助であったが、玉男の歳晩年の舞台で、道行相合かごの段では、忠兵衛が勘十郎に替わっていた。
   次は、忠兵衛が玉女、梅川は紋寿で、この時は、雰囲気が大分変っていたような気がしている。
   もう一度、この「冥途の飛脚」を底本にした別バージョンなのだが、近松の浄瑠璃の下之巻の、忠兵衛の実家のある大和の新口村への梅川との逃避行と実父孫右衛門との涙の別れを主題とした「傾城恋飛脚」を見ており、この時は、忠兵衛が清十郎で、梅川が紋寿であった。

   一方、歌舞伎にも、近松の原作に想を得た同じ主題に基づいた「恋飛脚大和往来」と言う素晴らしい作品があって、封印切や大和の新口村への逃避行など感動的な舞台が展開されるのであるが、かなり改作が加えられていて、一寸話が入り組んでしまっていて、近松門左衛門のシンプルで味のある原作から大分違ってきている。
   最も大きな違いは、近松の原作では、丹波屋八右衛門は善人として描かれているのだが、歌舞伎では、全くの悪人として登場し、憎く憎くしさを強調して忠兵衛を破局に追い込む。
   原作では、新町越後屋の場で、八右衛門が、忠兵衛のことを思って郭に寄せ付けないようにと諭す意味で善意で忠兵衛の金の不如意の話をしているのだが、その内容が、このままでは泥棒してさらし首と言った極端な話なので、門口で立ち聞きしていた忠兵衛が誤解して堪忍袋を抑えかね、八右衛門や梅川の説得にも耳を貸さずに激昂して公金の封印を切る。
   一方、歌舞伎では、八右衛門は、梅川を見受けしたさに悪意で忠兵衛のことを郭で暴露し、二階で立ち聞きしていた忠兵衛を煽りに煽って、切羽詰って封印を切らせ、去り際に、こっそり封印の紙を拾って、公金横領を訴えると言う悪役に仕立てあげて、話を面白くしている。
   仁左衛門の忠兵衛、玉三郎の梅川の舞台は文句なく詩情豊かで素晴らしかったが、仁左衛門は、八右衛門も、実父孫右衛門も演じていて、これがまた、言うに言えない程、滋味豊かで感動的に上手かったのだが、やはり、近松門左衛門は、藤十郎や秀太郎、仁左衛門の上方役者の独壇場の世界なのであろう。

   従って、文楽では、八右衛門も梅川も、忠兵衛の懐の金は公金であろうと思っているので、必死になって公金に手を付けるなと説得するのだが、短気で見栄っ張りの忠兵衛は、この金は大和から養子に来る時に持参した金で他所に預けていたのを見受けのために取り戻した金だと言って、激情を抑え切れずに男の意地を押し通して、とうとう封印を切ってしまう。
   八右衛門の語りに、二階で聞いていた梅川は、胸引き裂かれる思いで忍び泣き。切羽詰って階段から駆け下りて、忠兵衛の自分への思いは痛い程分かっているので、覚悟は決まっており、たとえ身を売ってでもこなさん一人は養うて辛い思いはさせぬと、忠兵衛に必死になって身体を摺り寄せて苦しい心のうちをかき口説く姿は、正に、断腸の悲痛で、梅川の辛さ悲しさ、優しさ情の深さ、覚悟を決めた女の強さを、勘十郎は慟哭する人形を遣って観客の魂に叩き込む。

   梅川の見受けの残金、借金、祝儀を支払って、今晩の内に梅川が郭を出るようにしてくれとセッツク忠兵衛に、封印切ではなく持参金だと信じた梅川は、「一生の晴れのこと。傍輩衆への別れもちゃんと済ませて」と言ってはしゃぐ顔。
   忠兵衛は、わっと泣き出して、「引くに引かれぬ男の面目で、封を切ったのは公金、今にも詮議が来るから高跳びしよう」と言って梅川に縋りつくと、梅川は驚天動地でわなわなと振るえ出す。
   こうなれば、可愛い梅川の方がはるかに腹が据わっていて、「なぜに命が惜しいぞ、二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑてくださんせなう」と応えて、生きられるだけ生き添われれるだけ添おうと、死出の旅に立つ。
   近松は、何故かがしんたれの大坂男と、健気で気風が良くて優しい大坂女ばかりを描いているようで、どこか、その後の「また負けたか八連隊」を髣髴とさせるようで面白い。

   ところで、この「封印切の段」の最初に、新町越後屋に集まった女郎たちが、浄瑠璃でも聞いて気を晴らそうと、「三世相」を語る。
   「傾城に誠なしと世の人の申せども、それは皆僻事訳知らずの詞ぞや、誠も嘘も本一つ、」と語り出すのだが、郭の恋は嘘ばかりと言うことで身を持ち崩す男の話は落語には多いのだが、近松門左衛門の世界は、その対極にあるのであろうか。
   以前に、京都島原の輪違屋の当主高橋利樹氏が「輪違屋」物語で、芸妓さんは好きな人を旦那さんにしてはいけない、どんどん貢がせてすぐ分かれたらモッタイない、元とらなあかん、と思わせるべしで、惚れたら負けだと書いていたのを思い出すのだが、私は、人間は、どんな世界でも、まして恋する思いは、同じだと思っている。

   さて、和生の遣った忠兵衛だが、実に、瑞々しいくらい品のある良い男で、優風でありながら、短気で激昂する瞬発力のようなエネルギーを秘めた不思議な雰囲気を持ったキャラクターで、非常に面白いと思った。
   文雀の一番弟子であるから女形の方で素晴らしい舞台を観ることの方が多いのだが、玉男の男男した忠兵衛とは違った品のある忠兵衛で楽しませ貰った。
   母妙閑の勘彌、丹波屋八右衛門の文司の人形も生きていて、舞台に奥行きを加えていた。

   しかし、何と言っても勘十郎の梅川の良さは、絶品で、これまで、簔助の相手役の立役が多くて、折角師匠から薫陶を受けて精進して来た本格的な女形を遣いたいと言っていたのだが、今回は、完全に簔助から独立して、本格的な近松門左衛門の極め付きの梅川で、大舞台を完遂した功績は大きく、期待が大きく膨らんで来て楽しみである。
   他の近松門左衛門の舞台を早く見たいと思っている。

   今回は、淡路町の段は、咲大夫と燕三、 封印切の段は、嶋大夫と富助、と言う最高峰の浄瑠璃語りと三味線で、非常に熱の籠った素晴らしい舞台を作り上げて、感動のボルテージを一気にあげて、感動を呼んでくれた。
   
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« WSJ・・・米国は食料配給... | トップ | 巨大都市の崩壊は古代ローマ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

観劇・文楽・歌舞伎」カテゴリの最新記事