熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その3)

2016年08月15日 | 生活随想・趣味
   ヨーロッパに初めて行ったのは、1973年12月。
   元旦を、ウィーンで迎えた。
   米国留学中、フィラデルフィアから、フランス留学生のチャーターしたクリスマス休暇便の格安空き席を確保してパリに飛び、ユーレイルパスを使っての2週間の旅で、それまでの貯金を全部はたいての貧乏旅行であった。

   今のユーレイル グローバルパス に近いパスだと思うのだが、21日間、ヨーロッパの国内の鉄道1等を自由に乗り降りできるパスで、2週間、これで、ヨーロッパを周遊した。
   妻と4歳の長女の3人連れで、フィラデルフィアでは予定が立たなかったので、パリに到着してから、ホテルから旅程の一切をぶっつけ本番で決めることにして、とりあえず、パリに飛んだ。
   英語の資料をかき集めても、40年前では、観光案内やガイドブックなど十分になく、初めての本格的な海外旅行を、自分一人の才覚で決行しようとするのだから、無謀だったが、若かったからできたのであろう。
   どう言うルートだったか、はっきりと記憶がないのだが、パリからスタートして、フランス、スイス、オーストリア、イタリア、ドイツ、オランダを回ったような気がする。
   (整理した写真アルバムだけでも200冊ほどあって、その写真を追えば分かるのだが、今回の移転で納戸と倉庫に山積みとなっていて、正確な紀行文でもないので、貧しい記憶だけで文章を進めたい。)

   この旅は、私自身で、事前に、見たいところ行きたいところなど、観光ルートを決めておいて、クック社や手に入る時刻表をチェックして、あらかたの旅程スケジュールを決めてスタートした。
   列車は、その都度、事前に予約を入れておくのだが、ホテルは、到着した時点で、駅のインフォメーションセンターや観光案内所などで決めた。
   当時は、EUではなかったので、列車も、国境越えではパスポート・チェックがあり、通貨の交換もその都度必要であったし、勿論、言葉も違う。
   イタリアなどで、客引きが寄ってきて困ったけれど、多少のトラブルくらいで、この旅行は無事に終わって、帰りの飛行機の窓から、フィラデルフィアの夜景を見下ろした時には、無性に嬉しかったのを覚えている。
   ヨーロッパに赴任してからは、夏季休暇とクリスマス休暇には、旅を続けたし、その後も何度かヨーロッパを訪れているのだが、最初のこの旅行で自主旅行の良さが分かって、旅行会社やエージェントを通さずに、自身で思い通りのスケジュールを組んで、その後の旅の手配は、一切、私自身で手作りでやることにした。

   最初の旅は、40年以上も前の旅であり、殆ど記憶から消えてしまったのだが、ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てしたのを覚えている。
   駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
   目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
   幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
   一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
   どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。

   もう一つ、記憶にあるのは、ジュネーブからウィーンに向かったのだが、美しくて綺麗なスイスの国境を越えて、オーストリアに入った途端、一気に車窓から見える風景が貧しくなってしまって、経済力の差を見せつけられた思いがしたことで、憧れのオーストリアであっただけにショックであった。
   ミラノからイタリア国境を越えてパリに向かう車窓から見るアルプスや、フランスの豊かな田園地帯の美しさなど、いくらか印象に残っているのだが、その後、20年ほど経ってから、再び眺め見る風景だと思う筈もなかった。

   もう一つの鉄道の旅の失敗は、21世紀に入ってからのイタリア旅の思い出で、アッシジからシエーナへ移動した時に、これも、乗り継ぎ列車が異常に遅れて、次の列車を待ってでは間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
   ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろバスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
   駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
   しかし、この列車が反対方向の列車で、仕方なく、対向する列車が来なかったので、次の駅で待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
   一人だけ、鄙にも稀れな可愛い女の子が降りたのだが、お母さんが迎えに来ていて、去って行くと、静まり返ってしまった。
   地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
   2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
   
   この日は、シエーナのパリオ(Palio di Siena)の当日であった。
   シエーナの中心部にあるカンポ広場の石畳に砂を捲いて作った300メートルの円周馬場を3周約1000mを、地区代表の裸ウマに乗った騎手が競馬で覇を競うのである。
   会場は、チケットを持っておれば別だが、立錐の余地もない人人人で入れず、古色蒼然とした古都の雑踏を散策して、パーリオの模様は、ホテルのテレビを見ていた。
   翌日、夢の跡の広場に出て、優勝した地区の凱旋パレードを眺めながら、歴史遺産の中にタイムスリップした。
   この時の旅は、ローマからスタートして、アッシジ、シエーナ、ピサ、フィレンツェ、ベローナ、ミラノ、ヴェニスと回った。
   勿論、私の手作りの旅であるから、ベローナの野外劇場やミラノスカラ座のオペラから、美術館・博物館、世界遺産の見学など文化鑑賞三昧の旅であった。
   ローマからヴェニスまで、すべて、イタリアのユーレイルパスを使ったので、イタリア内は、すべて、鉄道旅。
   飛行機と違って、ゆっくりと車窓を流れる美しいイタリアの田園風景を眺める楽しさはまた、格別であった。
   それに、この時も、映画「旅情」のキャサリン・ヘップバーンと同じルートで、列車で鉄橋を越えてヴェニス駅に入った。
   また、この時は、前とは違って、大運河を経由してサンマルコに向かわずに、反対側から港を経て、外洋の方から右手にヴェニスの街並みを眺めながら、ドゥカーレ宮殿にアプローチしたのだが、意外なヴェニスの一面を感じて感動した。

   もう一つ、今度は、列車が遅れたのではなかったが、昼前にホテルについて、ホテルで中食を取ってから、ポンペイに行こうと思ったのだが、日本なら5分で出てくる筈が、スパゲティの出てくるのが無茶苦茶遅くなって、ナポリ駅から四苦八苦して列車に乗って着いたが、既に閉館した後であった。
   ポンペイ遺跡に入れたのは、その後、随分経ってから再訪問した時で、理由は異なるのだが、フォロ・ロマーノへ入ったのは、やっと3回目で、とにかく、イタリアでは、観光には満満足なのだが、トラブルだらけで、苦い思い出が多い。

   ヨーロッパでは、結構、あっちこっち鉄道で旅をしたのだが、その後、イタリアでの鉄道旅だけは止めにした。

   ヨーロッパの風景を楽しむローカル列車の旅も捨てがたいが、ヨーロッパ國際特急TEE (Trans Europ Express)の素晴らしさは、やはり、ヨーロッパでの鉄道旅の醍醐味であろうし、アルプスの登山電車も楽しい。
   ヨーロッパの鉄道旅の思い出は、いくらでもあるので、後は、次稿に回したい。
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